空白の君
その声が耳に届いたのは、ミスマル市の旧市街を、左側に気をつけて歩いているときだった。雑然とした煉瓦と混凝土と人々でできた世界の中で、まるで風鈴のように僕の意識を引いた。
「ようやく見つけました」
ざわめきの中でこれだけはっきり聞こえるということは、間違いなく僕に直接呼びかけているのだろう。はたして振り向くと、一人の人造人間が僕をまっすぐ見つめていた。淡い空色の瞳も、白銀の長い髪も、偽物にしては綺麗だった。質感から作り物と分かるぐらいだから、少なくとも数世代前の旧式だということは見てとれる。僕は左側を通り過ぎる人々を気に掛けながら問いかけた。
「君は?」
とはいえ、そんな人造人間に知り合いはいない。人間だったら、僕の服の紋章を見て声を掛けた入信希望者の可能性があった。が、創造者の意志に従う人造人間にそれはありえなかった。彼らに創造者以外の神はいない。作り物は作り手に従う。それがこの世の摂理であり、全てに適用される法則だ。
「私は造命番号六拾壱の440。廃棄個体」
人造人間はそこで一度切り、瞬きすらすることなく続けた。
「またの名を、リオ・シドマと申します」
「……廃棄されたのに、名があるのか?」
「はい。捨てられた私を拾い、名を付けてくれた方がおりました」
「それは酔狂だな」
僕は呆れを隠さずに言った。有能な個体であれば名前を付けられることもあるが、廃棄されるほど無能な作り物に名前があることなんてあり得ないことだ。そもそもそんな出来損ない、わざわざ拾って何に使うというのだろう。廃棄されたとしても、人造人間の神はあくまで創造者であり、拾った自分の言うことをすべて聞くかどうかなんて分からないのに。
いや、と僕は思考を改める。自分だって落ちこぼれのくせに、目の前の人造人間の幸運を祝うこともできないのか。自分の左側を通り過ぎる人を避けながら、僕は息を吐く。どんな天才でも、完璧に想定通りの人造人間を創造することはできない。人間を生み出した神だって同じことだ。だから、たとえ役立たずの人造人間でも拾ってしまうような人間がこの世に生み出されていてもおかしくはない。だからこそ、我が主は解蛇教の祖となったのだから。
それで、と僕は人造人間――リオ・シドマに問うた。
「僕に何か?」
「――僕」
そこでなぜかリオは首を傾げた。
「あなたは自分のことを、僕と呼ぶのですね」
「そうだけど……なんで?」
「以前は違う呼称を使っていたので」
前。その言葉に腑に落ちる。
「もしかして、入信前の僕の知り合いかな。申し訳ないけど、話すことはないよ。入信の儀式で記憶を失っちゃったから」
僕は右耳に手を掛けた。ここに直接通信の変換装置が埋め込まれているから、もし変に絡まれるようならば切ってしまえばいい。それでリオからの通信を遮断設定にしてしまえば、もうリオはこの喧噪で声を張り上げるほか手立てはない。そして張り上げられる前に強化された身体機能で逃げてしまえば、土地勘のないだろうリオにはどうしようもないだろう。
こういうとき、解蛇教の教祖である主に恩義を感じる。もし普通の、何の改造もされていない人間だったなら、まず話をするためにこの喧噪から遠ざかり、人気のない場所へと向かっただろう。そしてそういう場所で話をするということは、誰の助けも得られないし、簡単に逃げられないということでもある。それはあまりに弱者に優しくない。だから我が主は解蛇教を立ち上げた。望む者に改造手術を施し、誰しも平等に、人造人間と同じくらいの機能を持てるようになった。なんて素晴らしい方なんだろう。もちろん、誤って記憶を失ってしまった僕のように、すべてうまくいくわけではない。それはたとえ我が主ほどの天才でも仕方のないことだ。けれど僕はバグだってあるし、きっと元々身体が弱かったのが原因だろう。だからこれは主のせいじゃないし、ここまで強靱な身体にしてもらえたことに感謝しかない。やはり我が主は素晴らしい人間だ。
僕がそうして高速思考で主を讃えている間も、リオは慌てる素振りさえ見せなかった。けれど特に何かを言うことはなく、僕は左側を通る人を避けてから仕方なく口を開いた。
「じゃあ、もう用はないってことでいいかな?」
「――いえ。話はあります。記憶を失っていたとしても、それは変わりありません」
「なら、さっさと話せばよかったのに」
その言葉に、リオは目を伏せた。
「そうですね、申し訳ありません。あなたが記憶を失っていることは、可能性として一番高いものではあったのですが、やはり、悲しいと感じてしまって」
「悲しい?」
僕は怪訝に思い、眉間に皺をよせた。そしてはたと気付く。
「もしかして、それが君の欠陥?」
「そうです。不要な感情を抱いてしまう、それが私の欠陥です」
リオはまたまっすぐに僕を見た。無表情のその顔は、さっきから変わることがない。だからそんな欠陥があるなんて気が付かなかった。見ただけなら、普通の人造人間だ。
「だから、廃棄されても拾われたんだね。欠陥品なのに」
「――はい。しかし彼は欠陥を知っても嘆くことはありませんでした。むしろ、普通の人間のようで嬉しいと」
「へえ。やっぱりだいぶ変わった人間なんだね、その人」
「はい。変わり者でしたが、素晴らしい人でした。彼に出会えたことが、私の人生で最大の幸運です。だから」
リオはぐっと唇を結んだ。潤むことのない空色の瞳が、静かに揺らいだ。
「だから、私は悲しいです。もうこの世界に、昔の彼を覚えている人がいないことが」
僕は目を瞬いて、もしかして、と呟いた。
「僕は、君の拾い主の知り合いだったのかな」
「友人、いえ同志というべきでしょうか。ともかく私が知る中で、彼と最も親しかったのはあなたです。どちらかといえば、あなたの数少ない親しい存在が彼、と言う方が正しいかもしれません」
「いや、まあ、今も友人は特にいないけれど、入信する前からそうだったんだね。まあ、それはそうか。今だって落ちこぼれなんだし」
「落ちこぼれ? 改造を受けたのでは?」
「受けたよ。でも記憶を失ってるし、バグだってあるんだよ? 僕だって君と同じ、欠陥品だよ」
僕はちらと左側に目をやってため息をついた。しかしリオは首を振った。
「いいえ、それは欠陥ではありません」
「え? だって記憶を失うなんて――」
「それは意図的なものです。誘拐した人間の記憶をわざわざ残しておくとは思えません」
「――は?」
意図的。記憶。誘拐。誘拐?
「だって、主は望む者に改造を施して、世界中の人間を平等に救いたいと考えていて、え、え?」
「洗脳ですね。あなたが主と呼ぶ女性は狂的科学者です。宗教組織を隠れ蓑に、己の知的好奇心の赴くまま人間に違法な改造を行っています。あなたを攫ったのも、おそらくあなたが優れた戦士であったため、素体としてちょうどよいと考えたのでしょう」
「いやそんな、そんなわけないだろう。洗脳? それに僕は身体が弱くてだから欠陥品になって、」
「バグについては分かりませんが、記憶については先ほども申したとおり、彼女の意図した改造です。あわよくば使い勝手のいい手駒にでもしようとしたのでしょう。それに身体が弱かったとのことですが、記憶がないのですからあなたには分からないことでは? 彼女に言われたのではないですか?」
「それは……」
うーん、思ってたよりうまくいかなかったな。でもここまでできたんだからいいよね。ね、嬉しいよね? 君はあんなに弱かったのに、あたしがこんなに強くしたんだから。過去のことなんて気にしないで、生まれ変わったつもりでぱーっと過ごそうよ、ね?
脳裏に再生した彼女の第一声。覚醒して最初に聞いた声。子供のようにはしゃいでいて、でも眼鏡越しの黒い瞳は、今思い返せばぞっとするほど冷徹だった。
「あなたは我々の反体制組織の一員でした。そしてある日、政府との戦いの中で行方不明となった。その戦いで我々も痛手を被っていたのですぐ探すことができませんでしたが、その後の調査であの女に誘拐され、改造されている可能性が高いと計算されたため、ここミスマル市を始めとした教団支部のある都市をしらみつぶしに探していたというわけです。無事に見つかって、本当に何よりでした」
静かに、けれど噛みしめるように告げるリオの声に、僕は何を言うべきかすら分からず、慎重に言葉を探した。
「……そっか。心配、かけてたんだね」
「はい。あなたが戻れば、みんな喜びます」
「戻る……」
僕は迷子のように呟いた。僕の帰る場所はここから十分もかからない支部の一室だ。そのはずだった。さっきまでは。けれど僕が認識していた世界は作られたもので、僕が信じていた世界は誰かにとって都合のいいものだった。揺らいでいる僕に、そこに帰るという選択肢は選べなかった。
そしてそれは、目の前のリオについても同じだった。
「……君の話が本当だという保証もないよね」
疑う僕に、リオは素直に頷いた。
「そうですね。記憶のないあなたにとって、すぐに信じられるものではないはずです」
「じゃあどうやって……ああ、僕がどんな人間だったか話すのかな。反体制組織とか言ってたけど、担当していた仕事とか、普段君とどんな話をしていたとか」
「申し訳ないですが、私はあなたとあまり話をしたことがありません。先ほど申したとおり、あなたは親しい存在が少ないほど、人を寄せ付けていなかったので」
「そうだったの? ならもしかして、君の拾い主に会わせるつもりなのかな。どうやら昔からの仲みたいだし」
「――いえ」
リオは声を震わせた。
「彼は亡くなりました。あなたが行方不明となった戦いで」
「え」
「彼だけではありません。あなた以外の、組織の初期メンバーはその戦いで全員亡くなりました」
「……そんな、でも、その組織以外……そうだ、家族とか」
「彼から亡くなっているとお聞きしています。――それに、彼をはじめとした初期メンバーが組織を立ち上げた理由は、政府に故郷を滅ぼされたためとのことでした。街を破壊され、家族も友人もみな殺されて、そのすべてが闇に葬られたそうです。だから、組織を作る前のあなたを知る人間はもういないのです」
「……じゃあ、僕は」
記憶を失う前の僕がどんな人間だったか、もう知る術はないんだ。
ふらりと身体が傾ぐ。目を見開くリオが見える。視界が暗い。揺らめく。息が吸えない。吸えない。足から力が抜けて、左に傾いて。僕の左隣、誰かがいる。嫌だ。力の限り突き飛ばす。左側に誰もいないことを気配察知機能で把握して、ようやく息を吸って、吐いて、冷静さを取り戻した僕は、自分がリオにしたことに気付いて血の気が引いた。
「ご、ごめん。本当にごめん。バグなんだ。その、怪我は、痛みとかは」
「――問題ありません。損傷は軽微です。自動修復機能で治ります。痛みも気にならない程度です」
道に倒れていたリオは立ち上がり、身体についた砂を払った。僕はそれを手伝うこともできず、おろおろと両手を揺らしていた。道行く人々の迷惑そうな視線が痛いほど刺さって、息が詰まる。
「あの、本当に、本当にごめん。君は何も悪くない。僕のバグで怪我させてしまって、本当に申し訳ないと思ってる」
「再度申し上げますが、問題ありません。あなたが過去同じような状況があり、そこでひどく叱られたのだとしても、今は全く関係ありません。安心してください」
「え、よく分かったね。でも本当に申し訳なくて……」
「落ち着いてください、思考が空転しています。そうですね、どこか――ああ、少し先にベンチがありますね。特に熱源反応もないので誰もいませんし、座りましょう」
そう言うなり、リオは僕の右手を引いて歩き出した。拒否する理由もないので黙って僕も続く。古びたベンチに辿り着き、リオは有無を言わさず僕を右端に座らせた。だから僕はリオが隣に座る前に慌てて口を開いた。
「僕のすぐ左側には座らないで。できれば一人分、空けてほしいんだ」
「――理由を聞いてもいいでしょうか」
「バグだよ。僕が落ちこぼれの欠陥品である原因」
目を瞬かせたリオに、僕は苦笑いを浮かべて続けた。
「すぐ左側に誰かがいると嫌悪感を抱くんだ。無意識に、左隣を空けようとしてしまう。我慢することはできるんだけど、さっきみたいに不安定なときとか、急に来たときはどうしても排除しようとしてしまって。だから改造後の動作確認でも主……いや教祖の助手を突き飛ばして怒らせて、それで最下級の落ちこぼれ信者になったってわけ。だから、今の僕はたぶん使い物には」
「バグではありません」
「……え」
呆然としているうちに、リオが一人分空けて座る。ぽっかりと、誰もいない空間がベンチの真ん中に生まれた。
「それは、バグではありません」
「……じゃあ、なんだって言うんだよ」
僕は唇を噛んだ。意味の分からない慰めの言葉など聞きたくなかった。
「また教祖の意図的なものだって言い張るわけ? 記憶ならまだ筋が通っていたけど、これはどういう意図だって言うつもり?」
「いいえ、違います。それはバグでも、誰かの意図したものでもありません」
リオは、一人分の空間越しに僕へ告げた。
「それは、あなたがあなたである証です」
「……は?」
僕が、僕である証。戸惑う僕を落ち着かせるように、リオは静かに、淡々と話し始めた。
「これは、私を拾ってくださった彼からお聞きした話ですが、まだ故郷が平穏な頃、あなたには大切な少女がいたそうです。名前は教えていただけませんでしたが、長い黒髪で、明るく穏やかな方だったと彼は言っていました。その少女はいつもあなたの左隣にいて、いつも一緒に笑っていたと。誰の目から見ても、互いに互いが一番大切だと分かるくらいだったと、お話ししていました」
僕は左隣の空間を見つめた。一人分の、誰もいない空白。
「その少女を故郷もろとも亡くして、あなたは一度自殺を図ったそうです。でも思いとどまり、以後彼とともに組織を立ち上げ、戦い続けた。組織の一員としてのあなたは、寡黙で、人を寄せ付けようとはしませんでしたが、真剣に世界と立ち向かおうとする、ごく普通の人間でした。だからその心の傷を知っていたのは、彼を始めとした初期メンバーだけだったと思います」
「心の、傷?」
「はい」
僕の呟きに、リオは頷いた。
「あなたは少女を亡くしてから、無意識に左隣を空けてしまうようになったそうです」
息を吸った。吐いた。どくどくと、鼓動がうるさいほどに音を立てる。
ずっと、バグだと思っていた。欠陥で、何の役にもたたない、一人分の空白。
記憶は違った。もしかしたら、誰か知っている人がいるかもしれないと思っていた。洗脳されていたこともあって、失ったことを惜しいとは今まで思っていなかった。改造され、生まれ変わった僕には特に必要ない空白だと。必要ないけれど、誰かが覚えているなら、いつかは埋まる空白なのだと。
でも、どちらも間違っていた。この左隣の空白は欠陥じゃない。記憶の空白はもう埋まることはない。僕がどんな人間だったか知ることはできないけれど、僕が記憶を失う前と同じ僕である証は、今、ここにある。
空白の、顔も名前も覚えていない『君』が証明してくれる。
「……リオ、ひとつ、聞いてもいいかな?」
「どうぞ。可能な限りお答えします」
「僕の名前、教えてくれる?」
リオはかすかに口角を上げて返した。
「クド。あなたの名前はクド・ロロタです。」
「クド……」
クド・ロロタ。僕の名前。ああ、笑ってしまいそうなくらい、何の感情も湧かなかった。この左隣の空白以外は本当に全部失ってしまったのだと、ようやく理解した。
だから、宣言する。
「分かった。僕は今日から、またクド・ロロタになるよ」
記憶もない。改造され、洗脳され、かつての自分とは変わってしまった。戦う動機だって、今の僕にはない。
けれど。
『君』がいたはずの空白を、以前の僕も抱えていたというのなら。その『君』のために、戦っていたというのなら。
それなら僕も戦おう。この空白を、バグでなく、欠陥でなく、僕と『君』がともに過ごした証と示すために。落ちこぼれの失敗作ではなく、大切な存在がいたクド・ロロタだと、自分を定義するために。
また、左隣に目を向ける。
誰もいない空白が、今は誰より僕を支えてくれていた。