5.会員登録
シオリは、見つめられている間にアンドロイド店員のカメラ代わりの目で自分の画像を撮られたことが、隠し撮りみたいでちょっぴり不愉快だった。
彼女は、『撮影前に予告してくれれば、髪の毛の乱れとか表情とかを直してちゃんとした格好で画像を残せたのに』と悔しがり、プイッと店員からボタンへ視線を移動した。そして、赤らめた頬を彼には気づかれないくらいちょっと膨らませ、自分の携帯の電話番号を入力し、最後にシャープボタンを長押しした。
「はい、いいです。これで、生体認証が出来るようになりました。これからは、携帯電話番号を入力している最中に自動で指からご本人様であることを読み取ります。では、お名前を」
シオリは一瞬キョトンとしたが、また黙って指紋か何かを盗んだのかと、顔に不満の色を滲ませる。
でも、指先から何を読み取ったのだろうか。指の腹の全面でボタンを押していないのでバッチリ指紋を残したというよりかは、押すタイミングや指の圧力や皮膚の電気抵抗なのかもしれない。あるいは、部分的な指紋でも判断できるのか。
何はともあれ、それって個人情報ではないかと考えたシオリは、ちょっと躊躇う振りをして無言の抵抗を試みるも、店員はずっと待っている。彼女は、『後ろに誰がいるかわからないのに、ここで個人情報をダダ漏れで登録させないで欲しい』と思いながら背後を振り返ると、幸いなことに誰もいなかった。
それでも気が乗らなかったが、ミキから背中をトントン叩かれたので、やむなく自分のフルネームを伝えると、
「声紋を登録しました。これで、会員登録は完了です。どうぞ、中へお入りください」
そう言って店員はクルッとシオリに背を向け、きしむ音を長めに響かせて鉄扉を全開にしてから左手で押さえ、右手で二人へ中に入るよう手招きする。
店内から、仄暗い廊下の雰囲気とはまるで違う別世界のような目映い光が溢れてくるので、思わず目を細める。ちょうど、BGMが美しい和音を残して終わった。
耳に残る旋律と終わり方から、あれはモーツァルトのピアノ協奏曲第20番の第2楽章かしらと思いを巡らしていたシオリだが、音楽に持って行かれた不快感がふと戻ってきた。
彼女はミキの耳元で囁く。
「ねえ。なんで、ここで会員登録するの?」
「だって、店内だと客がいるから」
「ここだって――、ねえ、待って!」
シオリの言葉を無視したミキは、さっさと店内へ向かう。慌てたシオリは、ミキの背中に肉薄するほど近い共連で中に入ると、まるで二人の入室を待っていたかのようなタイミングで天井から流れてきたBGMに耳を奪われた。
これは、ヴィヴァルディ作曲『和声と創意の試み』から『春』の第1楽章の冒頭部分。彼女のお気に入りベスト5の1曲だ。足を止めて天井を見上げた彼女は、溢れ出る音に思わず聞き惚れてしまう。
弦楽器やチェンバロが奏でるホ長調の明るく躍動的な旋律と規則的に刻む通奏低音の和音が全身を包み込み、来客を歓迎する。続いて、ヴァイオリンソロが高音で鳥のさえずりを、遅れて別のヴァイオリンが鳥の声で合流し、掛け合いの場面を表現。鳥たちの感情の高まりが音となって辺りに広がっていく。
大好きな曲に迎えられて胸が躍る彼女は、ゆっくりと天井から壁へと目を向けた途端、たちまち目を丸くした。
そこには見慣れた本屋の雰囲気が欠片もなかったのだ。