第71話
食堂の床に仰向けに倒れたリオ。
俺はそんなリオの両手首を、バンザイをさせるような体勢にして両手で取り押さえつつ、少女の身動きを拘束していた。
「に、兄ちゃん……な、何を、いきなり……」
俺の下のリオは、顔を真っ赤にしつつあわあわした様子で俺を見つめていた。
「先生!? 何を──」
イリスが慌てて椅子から立ち上がり駆け寄ってこようとするが、それを同じく立ち上がったメイファが手で制する。
「……大丈夫、イリス。……お兄さんはまとも。……まともじゃないのは多分、リオのほう」
「えっ……?」
そうか。
リオの隠し事を問い詰めたときイリスは眠っていたから、事情を知らないのか。
俺はリオから注意をそらさないようにしつつ、イリスに向かって声をかける。
「イリス、魔力を回復しきってないところ悪いんだが、リオに【平静】の魔法をかけてもらえるか?」
「えっ……? えっと、いったい何が……」
「……それは、ボクが説明する」
困惑するイリスに、メイファが事情を説明していく。
こういうとき、俺の考えを察して阿吽の呼吸で動いてくれるメイファの存在は、本当に助かるな。
一方、俺が取り押さえているリオはというと、「そういうことか……」と言ってため息をつき、どこか安心したような、残念なような顔をしていた。
リオは俺をまっすぐに見つめて言ってくる。
「なぁ兄ちゃん……オレやっぱり、変になってたの?」
「リオが気に病むことじゃないさ。むしろリオが無事でよかったよ」
「なんかそのセリフ、この姿勢で言われると変だよ。オレ今、兄ちゃんに襲われそうになってるんだよ?」
「あのな……変なこと言うなよ。『魅了』された状態のリオがどう動くか分からなかったから、取り押さえさせてもらっただけだ」
「それは分かってるけどさ。……あーあ、どうせなら、ベッドの上でこうされたかったな」
「……おいこらリオ。メイファじゃあるまいし、あんまり大人をからかうな」
「からかってるわけでもないんだけどなぁ……」
リオとそんなやり取りをしている間に、メイファによるイリスへの説明も終わったようだ。
イリスは俺たちの前に立ち、リオに向かって魔法を行使する。
「──【平静】!」
イリスが放った魔法の光が、リオを包み込む。
少しすると、リオの中に光が吸い込まれ、消えていった。
「……リオ、どうだ?」
「あー……うん。やっぱりオレ、やられてたみたい──その【魅了の魔眼】ってやつに。引っ張られてた心が、元に戻った感じ。……兄ちゃん、もうオレのこと放していいよ」
本人にそう言われて放すというのもおかしな話だが、俺はリオの上から退き、彼女を拘束状態から解放した。
リオは「はー、ドキドキしたぁ」などと言いつつ、服のほこりを落として立ち上がる。
「リオ、何があったかを話してくれるな?」
俺がそう聞くと、リオはこくりとうなずく。
そしてリオは、少し前に自分の身に起こった出来事の一部始終を話してくれた。
***
兄ちゃんがヴァンパイアスポーンのいた家に踏み込んだ、あのとき。
イリスと手分けして村の人たちを避難させてたオレは、ある家の前で立ち止まったんだ。
その家は、入り口のドアが開いてた。
だから危ないなと思って、オレ、その家の人に入り口のドアを閉めるように言いに行ったんだ。
そしたら、その家の中に──いたんだ。
姉ちゃんが。
セシリア姉ちゃんがいたんだ。
その家、入り口のドア以外は窓も全部閉め切られていて。
日の当たらない薄暗い家の中に、姉ちゃんは一人で立ってた。
でも、確かにセシリア姉ちゃんだったけど、少し違った。
雰囲気……かな?
あの通りの金髪と青い瞳で、オレより少し背が高くて。
そういうところはオレの知ってるセシリア姉ちゃんだったんだけど。
服装は姉ちゃんっぽくなかったな。
鎧は着てなくて、白のワンピースドレスみたいなの着てて、いつものあのカッコイイ感じじゃなくて、どこか百合の花みたいな雰囲気だった。
で、その雰囲気がね……。
なんか、真面目なときの姉ちゃんと、情けないときの姉ちゃんの、どっちでもなくて。
なんていうか……妖艶、かな?
ぞくっとするような冷たい感じで、姉ちゃんはオレに笑いかけてきた。
でもオレ、違和感はあったんだけど、それよりも姉ちゃんが無事だったのが嬉しくて、姉ちゃんに言ったんだ。
──よかった、心配してたんだ。
兄ちゃんも向こうにいるから、一緒に行こうぜ──って。
そしたら姉ちゃん、こう言ったんだ。
──ううん、リオちゃん。
私はもう、昼間にはあまり外に出たくないんだよ。
で、そうやって姉ちゃんが口を開いたときに、オレ、見ちゃったんだ。
姉ちゃんの歯──奥歯のほうが右も左も長く鋭く尖ってた。
まるで吸血鬼──ヴァンパイアみたいに。
ううん、「まるで」でも「みたい」でもない。
セシリア姉ちゃんが、ヴァンパイアだったんだ。
そんな姉ちゃんが、一歩一歩オレに向かって近づいてきた。
オレ、怖くなって、剣を抜いたんだ。
わけが分からなかった。
だってこの間まで一緒に住んでて、いろいろ教わって、夜には一緒に寝てたんだよ。
あのときは絶対ヴァンパイアなんかじゃなくて、普通の人間だった……と思う。
だって雰囲気が全然違うもん。
でも姉ちゃんは、やっぱり姉ちゃんで。
オレ、もうどうしていいか分からなくなって、姉ちゃんに「来るな!」って言ったんだよ。
そしたら姉ちゃん、ニコッて笑ってこう言った。
──私ね、もうリオちゃんたちの言うことを聞くのはやめたの。
私は私の欲望に素直になるよ。
そんな私を、リオちゃんは嫌いになる?
で、そのとき姉ちゃんの目が、妖しく赤く光ったんだ。
オレはその目を見て──こう言ってた。
──ううん、オレ、姉ちゃんのこと大好きだよ。
ほかの誰よりも好き。
オレの全部、姉ちゃんにあげてもいい。
いや、違うんだって!
あのときは、なんか……心が全部こう、姉ちゃんに持っていかれた感じになってて……とにかく、普通の感じじゃなかったんだよ!
……話戻すよ?
で、そしたら姉ちゃんが、またにっこり笑ってこう言ったんだ。
──そう、嬉しいな。
でも、本当は今すぐリオちゃんのことを食べてしまいたいけど、今はまだ我慢するよ。
その代わりリオちゃんには、お願いしたいことがあるんだ。
オレ、その姉ちゃんの笑顔を見てぞくぞくっとして。
姉ちゃんのためだったら何でもするって思って。
それで姉ちゃんに頼まれたのが、今日の夜中、この宿を姉ちゃんが訪れるから、宿の入り口の扉を開けて姉ちゃんを招き入れてほしいってこと。
あと兄ちゃんには、そのことは黙っているようにって。
なんでそんなことって思ったんだけど、もう一度姉ちゃんに「お願いね」って言われたら、もう何も言えなくなった。
姉ちゃんのために、何が何でもやらなきゃって、そう思って。
でもそれで姉ちゃんと別れて兄ちゃんたちと合流したら、少しだけ冷静になってきて。
本当に姉ちゃんの言うとおりにして大丈夫なのかなって、心配になってきて……。
***
「だから──兄ちゃん、ごめんなさい! オレ、とんでもないことをするところだった!」
食堂で話をしていたリオは、俺に向かって思いきり頭を下げてきた。
俺はそのリオの頭に手を置いて、優しくなでてやる。
「だからリオが気に病むことはないって。【魅了の魔眼】の能力にやられてただけだろ」
「……うん。それはそうだけど、でも……」
「大丈夫だ。もう安心だからな」
俺はリオをそっと抱いて、その背中をぽんぽんと叩いてやる。
するとリオは、俺の胸に顔を押し付けて嗚咽したかと思うと、やがて泣き出してしまった。
まあ、しょうがないか。
自分のせいじゃないと割り切るのは、ちょっと難しいかもしれないな。
イリスに使ってもらった【平静】は、興奮した心を落ち着けたり、精神に干渉する魔法や特殊能力の効果を解除して正常な状態に戻す効果のある魔法だ。
リオにかけられた【魅了の魔眼】は、もともとリオがセシリアに対して好感を持っていたことも手伝ってかなり強めにかかったようにも思えるが、【平静】の魔法によってその効果も解除された。
これで直近の危機は去ったと言える。
だが──
「セシリアが、ヴァンパイアか……」
今のリオの話が本当だとするなら、確かにそうとしか思えない。
しかも【魅了の魔眼】を持ち、眼球が真っ赤でもなくおおむね普通の人間の姿に見えるというのは、スポーンなどではなく真なるヴァンパイアそのものの特徴だ。
セシリアの身に何かが起こっている可能性に関しては、覚悟はしていた。
覚悟はしていたのだが、いざこうして確定事項として突きつけられると、やはりキツイものがある。
俺たちと一緒に暮らしていたときのセシリアは、ヴァンパイアなどではなく、確かに人間の勇者だった。
だからセシリアが「何らかの原因でヴァンパイアになった」として、それはここ一週間以内ぐらいに起こった出来事のはずだ。
ならば今ならまだ、セシリアはイリスの【究極治癒】で人間に戻れる可能性は十分にある。
だがそもそもの話、セシリアをヴァンパイアにした「何らかの原因」とは何か──
それを考えると、冷や汗が出てくる。
実は俺たちは今、この世界そのものの危機とも言えるぐらいの、とてつもない事態に直面しているのではないか。
何にせよ、ひとまずは勇者ギルドに連絡するのが先決だ。
俺は魔導通話具を取り出し、リンドバーグの街の勇者ギルドの番号へとアクセスした。