第57話
俺は三人の教え子たちを連れて、百メートル走のスタート地点へと向かう。
するとさっきの兄貴と小男が、待ち合い場所に立っていた。
俺たちがそこまで行くと、兄貴のほうがどすどすとやってきて、俺──ではなくリオの前に立って、その小柄な姿を見下ろした。
「おい、クソガキ。さっきはよくも舐めた口をきいてくれたな。だが俺はお前と違って大人の勇者だからな、力づくでワカらせるっていうのは勘弁してやる」
「はぁ……」
何言ってんだこいつ、という顔でリオは相手を見上げていた。
だが兄貴さんは、そんなリオの様子にはお構いなしで話を続ける。
「だがお前が大人を侮辱したことは許されん。そこでだ──ここはお互い勇者らしく、正々堂々このステータス検定の結果で勝負をしようではないか。クソガキ、お前は俺に敗北したら、俺に土下座して謝るんだ。いいな?」
「はぁ……。ねぇ兄ちゃん、このおっさんさっきから何言ってんの?」
リオは兄貴さんをスルーして、呆れた様子で俺に聞いてくる。
いや、俺に聞かれても困るんだが。
まあ要するに兄貴さん、さっきのやり取りで俺には敵わないと悟ったから、喧嘩を売るターゲットをリオに変更したらしい。
それにしても、「正々堂々」とか言っているが、ベテランのプロ魔王ハンターが勇者学院の学院生にステータス検定の結果で勝負とか、あの兄貴さんのプライドの在りかが分からない。
一般に勇者学院生のステータス検定の結果は、学年その他の要件にもよるが、認定勇者レベルにして2~5レベル程度の枠内に収まることが多い。
それに対して多くの経験を積んだベテランの魔王ハンターは、7~8レベル程度の認定勇者レベルになるのが標準ラインだ。
だから普通に考えて、兄貴さんの言っている「正々堂々」は「大人げない」とほぼイコールである。
まあでも、そうだな……。
俺はちょっと考えてから、リオにこう答える。
「リオさえよければ、受けてやってもいいんじゃないか? 何かこっちも適当な条件つけてさ」
「えーっ? 適当な条件って言われてもなぁ。オレ別に、このおっさんに土下座なんかされても嬉しくねぇし……あっ」
リオは何かを思いついたようだ。
それからリオはにひっと笑い、兄貴さんにこう切り返した。
「じゃあさおっさん、オレが勝ったら、さっきの受付の人たちに謝れよ。『迷惑かけてごめんなさい。もうしません』って言ってさ」
リオがそう言うと、兄貴さんは顔をしかめた。
「なんだと……? ……ふんっ、まあいいだろう。だがお前が俺に、このステータス検定の結果で勝てたらの話だがな」
「いちいち念押ししなくても分かってるよ。オレが負けたら、土下座でも何でもしてやるよ」
「くくくっ……『土下座でも何でも』、か。その言葉、忘れるなよ」
「そっちこそ、自分が言ったこと覚えとけよ」
二人がそんなやり取りをしていると、百メートル走の係員の人が「二十八番、アーロンさん。三十一番、ジョニーさん。スタート地点についてください」とアナウンスしてきた。
それを聞いた小男のほうが「アーロンの兄貴、呼ばれてますぜ」などと兄貴さんを呼びにくると、兄貴さんは小男と一緒に百メートル走のスタート地点へと向かっていった。
それらの様子を見ていたイリスとメイファが、少し不安そうに俺のほうへと寄ってくる。
「あの、先生……リオ、大丈夫でしょうか……?」
「……リオ、余計なことを口走った。……『土下座でも何でも』はまずかった。……あいつ、絶対良からぬことを考えてる」
二人はそう言うのだが、俺はあまり心配してなかった。
俺は二人に向かって言う。
「なぁに、リオだって考えなしじゃないさ。それにイリスもメイファも、あのベテラン魔王ハンターを自称するおっさんの格がどのぐらいかは分かるだろ?」
俺がそう聞き返すと、二人は互いに顔を見合わせてから、俺に向かってこくんとうなずく。
「ま、そういうことだ」
俺はそう言って、右手と左手でそれぞれ、イリスとメイファの頭をなでる。
二人はなでられた猫のようになった。
あの兄貴さん、能力を隠すのもあまり得意じゃないみたいだしな。
まあいずれにせよ、お手並み拝見だ。
「位置について、よーい──スタート!」
係員の人が旗を振り下ろすと、第一コースと第二コースにクラウチングスタートの姿勢でついていた兄貴さんと小男が、それぞれ駆けだした。
さすがにプロの魔王ハンターだけあって、一般人と比べると二人ともあり得ないぐらい速い。
スタートからほとんど間を置かず、ゴール地点の係員がピッピッと魔導ウォッチを押した。
ゴール地点の係員が測定結果を台帳に記入しつつ、本人に結果を伝える。
「アーロンさん、五秒二六。ジョニーさん、五秒五六です。お疲れさまでした。次は──」
それを聞いた小男は、あからさまに兄貴さんをよいしょする。
「いやー、さすが兄貴、速いっすね! あっしは敏捷性が取りえなのに、それでも兄貴には勝てないっすわ。さすが兄貴っす」
「おう、まあな。──あー、しかし五秒二六かぁ! かーっ、去年より〇.〇二秒も遅くなっちまった! まぁ計測誤差もあるからしょうがねぇかぁ!」
こっちに聞こえよがしに結果を口にする兄貴さん。
そしてチラッと、リオのほうを見た。
しかし一方のリオはというと、まるで興味ないというように準備運動をしていた。
屈伸をしたり、体を捻ったり。
それを見た兄貴さんの額に、ビキビキッと青筋が浮かんだ。
無視されたのが気に入らないらしい。
あれは要するに、「う、嘘だろ……五秒二六なんて、速すぎる……オレなんかじゃとても勝てない、どうしよう……」みたいなリオの慌てふためくリアクションを期待していたんだろうと思うが……憐れなり。
ちなみにだが、ネコ科の動物最速と言われるチーターが百メートル走を行うと、だいたい五秒から六秒程度の結果になると言われている。
つまり平均的なベテラン魔王ハンターでも、初速、加速力、最高速度ともにチーター並みの動きができるわけだ。
「次、二十三番イリスさん、二十四番メイファさん。スタート地点についてください」
「「はーい」」
順番は、イリスとメイファが先に来た。
二人は元気よく返事をしてから、百メートル走のスタート地点につく。
この流れだと、リオは俺と一緒で次の順番だろうな。
「それでは位置について、よーい──スタート!」
スタートの係員の旗が振り下ろされると、イリスとメイファが駆けだした。
すると──
──バヒュンッ!
二人ともあっという間に、ゴール地点を通過していた。
戻ってきた二人に、係員が額に汗を浮かべながら、結果を伝える。
「い、イリスさん、三秒七〇……メイファさん、三秒八五……です」
それを聞いたイリスがドヤ顔で、メイファが不服そうな顔で俺のほうに戻ってきた。
「ふふーん♪ ま、これがメイファと私の、普段の頑張りの違いってやつ?」
「……ぶぅ。……今日は少し、調子が悪かった。……次は、こうはいかない」
イリスとメイファとは、足の速さでは僅差だ。
お互いが良いライバル関係になっている。
ちなみに我が天使イリスさん、姉妹相手には結構遠慮がないというか、言うことがえげつない。
まあそれはリオもメイファも同じで、この三人ならではの距離感なのだが。
一方、その光景を見て口をあんぐりと開けていたのは、兄貴さんと小男の二人だった。
「なっ……う、嘘だろ……三秒台、だと……!?」
「あ、兄貴……今の、何すか……? その……あっしには、あのガキどもが兄貴よりはるかに速かったように見えたんすけど……やっぱ気のせいっすよね……?」
「お、お、おう。今のは──あれだ、ズルだよズル。そうだ、敏捷性を上げる風属性の魔法、なんかあったろ? あれ使ってたんだよ」
「うわっ、マジっすか! きったねぇ! ていうかステータス検定でそういうのありなんすか!? ……あれ? でも敏捷性を上げる【疾風加速】の魔法がかかってるときって、緑色の風みたいな魔力をまとうんじゃありやせんでしたっけ?」
「むっ……それはまあ、そうだな。お前もなかなかちゃんと勉強しているじゃないか」
「へへっ、でしょでしょ?」
二人の間では、なかなか面白い解釈が繰り広げられていた。
ステータス検定でのドーピングチェックの甘さは一部で問題視されているとはいえ、少なくとも魔法によるドーピングは、体がまとっている魔力の色で一目瞭然なんだよなぁ。
なお百メートルを三秒で走る速さというのは、あらかじめ最高速度に達しているチーターがそのままの速度で百メートルを駆け抜けたときの速度に等しい。
止まった状態からスタートしてそれに追いつきかねないのが、今のイリスとメイファの走力ということになる。
「次、二十一番ブレットさん、二十二番リオさん、スタート地点についてください」
そんなことをやっているうちに、俺とリオの出番が来た。
俺はリオに声をかけて、スタート地点へと向かう。
「よしリオ、行くか」
「オーライ、兄ちゃん。へへっ、今日こそは兄ちゃんに勝ってやるからな」
リオはそう言って、強気の笑顔を見せてくる。
そうなんだよなぁ……。
敏捷性はリオの一番の得意分野で、すでに俺のそれに食らいつけるレベルなのだ。
と思っていると、リオがこんなことを言ってきた。
「あ、そうだ。何なら兄ちゃんも、オレと勝負する?」
「勝負? それは俺が負けたらどうなるんだ?」
「オレは兄ちゃんに三分間抱きつく権利を得る」
「俺が勝ったら?」
「兄ちゃんはオレを三分間抱きしめる権利を得る」
「……却下だ。断る」
「えーっ、なんでだよー!」
「何でだよー、じゃねぇ。お前それ分かってて誘惑してるよな? 俺をからかって遊んでるよな?」
「えへへへーっ♪」
リオがペロッと舌を出して、人懐っこい笑顔を見せてくる。
俺がリオの頭に手を置いてその髪をわしわしとしてやると、リオは嬉しそうに頬を染めながら、きゃいんきゃいんと仔犬のようになっていた。
ちくしょう、可愛すぎる、犯罪だ。