第128話
じりじりと太陽が照りつける海辺の砂浜を、俺はリオに手を引かれて歩いていく。
午前中の早い時間なので、日射しのピークはまだまだ先だが、それでも日向にいれば何もしていなくても汗ばむほどの暑さだ。
「兄ちゃん、ほら早く早く!」
だがリオは、そんなことはお構いなしという様子で、俺のことを急かしてくる。
リオの勢いに引っ張られて、俺も少し駆け足になってしまう。
それにしてもリオ、まるでパパと一緒に遊びたい盛りの子供のようだ。
幼少期に本当の父親との触れ合いが少なかったのかもしれない。
そう思えば、今日ぐらいは俺が父親代わりになって思いっ切り甘えさせてやってもいいかもな、などと思ったのだが──すぐに方針転換。
リオがそのまま海に向かって駆け込んでいこうとするので、俺は慌てて引き止めた。
「いや、待てってリオ」
「うわっ……! おっとっとっ……!?」
だがリオを止めようとする際、少し強く引っ張り過ぎてしまったようだ。
勢いがあだとなったリオの体が、逆に俺のほうにつんのめってくる。
俺は慌ててそれを抱きとめた。
「っと、悪いリオ。力が入り過ぎたみたいだ」
「……な、なんだよ兄ちゃん。いきなり大胆だなぁ……」
リオは俺の腕の中で頬を真っ赤に染め、恥ずかしそうに視線を逸らす。
俺と手をつないだリオの手が、もぞっと指を動かし、俺の手に絡んできた。
……いや待て、どうしてこうなった。
俺は慌ててリオの肩をつかんで、教え子を引きはがす。
「すまん、今のは俺が悪かった、謝る。でもリオ、海に入る前に準備運動はしないとダメだ。自分が勇者だと思って油断をしていると思わぬ怪我をするぞ」
「あー……そういえば兄ちゃんって、先生だったね」
一転して、呆れたような顔で言うリオ。
そういえばって、今まで何だと思っていたんだ。
ともあれそんなわけで、俺とリオだけでなく、イリスとメイファ、それにアルマとセシリアも一緒になって、全員で準備体操を行った。
イチ、ニ、サン、シ……。
だが周囲の人々は、そんな俺たちの姿をどこか珍しいものでも見るように横目にしながら、準備運動をした様子もなく海へと入っていく。
それを見た俺は、体を捻りながら、ついボヤいてしまう。
「……まったく、どいつもこいつも。準備運動の大切さが、まるで分かっちゃいないんだよな。勇者でなくとも、初等教育でひと通りは教わるはずなんだが」
「あはは……ブレット先生のそういう空気を読まない真面目さ、あたしは嫌いじゃないけどね」
アルマが体を斜めに倒しつつ、そう言って苦笑する。
そして教え子たちも──
「ま、兄ちゃんがときどきダサいのは、今に始まったことでもねぇし」
「ちょっ、ちょっとリオ! そんな言い方……!」
「……イリス、ボクたちも反抗したい年頃だから、しょうがない」
などと言いながらも各々に、前屈や後屈などを行っていた。
まったく、言いたい放題だな。
なおセシリアは、自分も準備体操をするふりをしながら、子供たちが胸を逸らせたりするのをチラチラと盗み見していたので、俺は無造作に近付いていって鼻をつまむ折檻をした。
セシリアは涙目になって「痛ふぁい痛ふぁい! ごめんなひゃい、ごひゅ人様ぁっ……!」などと叫ぶので、周囲の目がまた無駄に俺たちに注目する羽目になった。
……セシリアを連れてきたのは、やはり失敗だったかもしれない。
しかし今さら帰れとも言うのも可哀想だしな。
ともあれ。
俺はセシリアを解放してから元の位置に戻り、体操を続けながら言う。
「ていうかリオ、人目を気にしてやるべきことをやらないなんて、そっちのほうがダサいと思うぞ俺は。誰がなんと言おうが、他人からどう見られようが、自分がそうするべきと思うことを貫く。それが勇者のあるべき姿だって、俺はそう思うけどな」
教師の立場からの押し付けにならないよう、言い回しに気を付けながらリオに伝える。
すると──
女性陣がみんな体操を止め、きょとんとした顔で俺のことを見てきた。
なんだ……?
そして次には全員で寄り集まって、ごにょごにょと内緒話を始めた。
「ブレット先生のああいうところ、本当に根っからの勇者だよね」
「むぅ……悔しいけど、兄ちゃんの言ってる方が正しい気がする……」
「先生、カッコイイ……」
「……ああいうところが、お兄さんの、お兄さんたるゆえん」
「ふふっ……若い頃とはだいぶ変わったようでいて、やはりブレットくんはブレットくんだな」
各々の発言の細かい部分はうまく聞き取れなかったが、断片的に聞こえてくる内容から察するに、どうやら俺の発言に対する品評会が行われているようだった。
まあ俺も全員の水着姿の品評を心の中でしていたわけだし、多少悪いことを言われていようが、こっちが評価されることをどうこうは言えないよな。
で、そんなこんなありながら準備体操を終えると、いよいよ海水浴を楽しむときだ。
俺は子供たちにあっちこっちと連れまわされて大忙しになった。
例えばリオ。
「なぁ兄ちゃん、泳ぎでどっちが速いか競争しようぜ♪」
と言うので、沖まで競争をすることになったのはいいのだが、二人でざばざばと沖の方まで泳いでいったところで──
「うわぁ、あ、足が吊ったぁ。兄ちゃん、助けてぇ~」
などと言ってリオが溺れそうになった。
これはまずいと、俺はリオに向かって魔法をかける。
「大丈夫か、リオ! ──【水中呼吸】!」
「へっ……?」
溺れそうになっていたリオは、水の中でも呼吸ができるようになる魔法をかけられて首をかしげる。
「い、いや、兄ちゃん、そうじゃなくて……。オレ泳げなくなっちゃったから、兄ちゃんにおんぶしてもらいたかったんだけど……」
「それにしたって水を飲むかもしれないからな。ほら、俺につかまれ」
「あ、そ、そっか。……えへへっ」
俺がリオに近付いて背を見せてやると、リオは俺にぎゅっと抱きついてきた。
ふにょん、と俺の背中にリオの弾力のある双丘が当たったり、抱きついてくる腕や脚などの妙に艶めかしい感触についドキッとしてしまったりしたが、そんな教師にあるまじき感想は頭を振って消し去った。
なお岸についてリオを安全な場所に寝かせてやると、それまでずっと吊っていたらしいリオの足は、そのタイミングですぐに治った。
俺は少し首を傾げたが、元気になるに越したことはないので、それで良しとした。
次にイリス。
こちらは異なことに、俺に向かってこんなことを言ってきた。
「あ、あの、先生……私、実は泳げないので、先生に泳ぎを教えてほしいんです……その、手取り足取り……」
白のスクール水着を着た三姉妹の次女は、俺の前で頬を赤らめ、もじもじとしながらそう訴えかけてくる。
だが俺は、その発言に違和感を覚えた。
「ん……? いや、泳ぎを教えるのはいいんだが、確か三人とも泳げるって話じゃなかったか? 村の近所の川でよく遊んでいたって」
「へっ……? あ、あれー? そんなこと、先生に話しましたっけ……?」
「確かリオがそんなことを言ってたと思うぞ。全員泳ぎは得意なんだって」
「(ちっ……リオってば、余計なことを……)──あ、えっと、その……わ、忘れちゃったんです、泳ぎ方! 先生が手取り足取り指導をしてくれれば、きっと思い出せると思うんですけどっ……!」
「……? そうか。まあ構わんけど」
一瞬舌打ちらしきものが聞こえた気もしたが、きっと気のせいだろう。
そんなわけで、俺はイリスと二人で海の中に入って、泳ぎの指導をした。
俺が前で手を取って、バタ足の練習を見てやったり。
背泳ぎの練習のために、頭と腰を背中側から支えてやったりといった補助もした。
さらには、そのうちにイリスが「先生……私、疲れました……」などと言って、海の中でぐったりとした仕草で俺に抱きついてきたりもした。
イリスが疲れてくると甘えん坊になるのは、今に始まった話でもないのでそこはいいのだが……。
今のイリスの魅惑的な体つきで水着一枚の姿で抱きつかれて、その肌の柔らかさや彼女の心臓の鼓動などを感じてしまうと、俺としてもつい意識してしまって、煩悩を振り払うのにかなり精神力が必要となった。
あるいは、メイファ。
メイファに誘われて二人で沖のほうまで泳ぎにいくと、ゴスロリ水着の三女は海の上で突然ぷかぁっと仰向けになって、そのまま動かなくなった。
そのまましばらく待ってみても、波に揺られてぷかぷか浮いているだけで、本人では微動だにしない。
「……おい、メイファ。それは何だ」
「……水難事故に遭って、動けなくなった人の真似。……こうしていると、一番体力を使わない」
「そ、そうか。……で、俺はどうしたらいいんだ」
「……お兄さんは、救助隊の真似をしてくれればいい。……ボクが力なく抱きつくから、そのまま岸までおんぶで連れていって、マウストゥマウスの人工呼吸までセットでやってくれると百点満点」
「俺、帰っていいかな」
「……ダメ。……お兄さんがいてくれないと、この水難者ごっこは成立しない。……ほらお兄さん、早く。……急がないと、水難者のボクは溺れてしまう」
「ああもう、分かったよ」
俺は本人の要望どおり、水難者の真似(?)をしたメイファを背負って岸まで泳いだ。
なお、マウストゥマウスの人工呼吸は断固として拒否した。
人前で意識のある小さな女の子を相手にそんな「ごっこ」をしていたら、俺が犯罪者として通報されることは目に見えている。
メイファは「……お兄さんの、意気地なし」などと恨みがましそうにしていたが、意気地があるとかないとかいう問題ではないと思った。
一方で、そんな俺たちの様子を砂浜で見ていた、アルマとセシリアの二人はというと──
「ううっ……あたしの付け入る隙がない……。毎年あたしの貸し切りだったのになぁ……ぐすん。ていうかあの子たちのあれ、絶対わざとやってますよね……?」
「ああ、そうだろうね。ブレットくんは気付いていないようだが、あの子たちは相当したたかだよ。メイファちゃんは分かりやすいけど、実際のところはリオちゃんと、イリスちゃんもね。おかげで私は完全に手懐けられてしまったワン。私はブレット先生の奴隷であるだけでなく、あの三人の忠実なペットでもあるワン」
「セシリアさん……」
そう、なんだか抽象的でよく分からない会話をしていたが、最後にアルマがどこか憐れみのこもった目でセシリアを見た部分に関しては、俺にも分かった。
まったくもって適切な反応だと思う。
アルマには是非ともそのように、常識人の立場からのツッコミポジションを今後ともキープしてもらいたいところだ。
ボケが多すぎてツッコミが間に合わないのが、我が家の目下の問題点の一つである。
とまあ、そんなこんなをしながら俺たちは、海水浴を楽しんでいたのだが──
そのときだ。
「──きゃあああああっ!」
海水浴場の端にある岩場のほうから、突如、絹を裂くような悲鳴が聞こえてきたのだ。




