神殿
この世界には恐ろしい魔物が存在する。魔物はどこからか生まれた穢れを取り込んだ動物たちで、多くの穢れを受けると狂暴化する。魔物を産ませないためにも聖女は浄化を行い、魔物が生まれても襲われないように神殿が国ごと結界を張る。
聖女の主な役割は王都の結界を張ること、そして浄化をすることだ。国全体の結界はそれぞれの地区に配置されている神殿にいる神官たちが担っている。
結界を作る力を持つ者はそれなりにいるが、浄化を行えるのは聖女しかいない。この世界では、現在8人しか聖女はいない。8人でようやく穢れが増えるのを押えられるのだが、現在、その中の一人が高齢のために今までと同じような浄化はできなくなっていた。
毎日の浄化だけでは追いつかないのは単純にその能力の低下にあった。あと半年もすれば、新しい聖女が後を引き継ぐのでそれまで何とか現状を維持できたらいい。それでもやはり一人分の穴は大きくて、毎日疲労困憊だ。きっと他の国にいる聖女も同じだ。
エレノアは寝台から起き上がると、大きく伸びをした。今日も朝から祈りの時間だ。疲れるが、祈る時間は苦痛ではない。心の中心を覗き込むように祝詞を唱えれば、エレノアは時間を忘れて幾らでも祈ることができた。そこには雑念はなく、無に近い。そのまま自分の存在が溶けてしまうのではないかと思うことも多い。
窓の外を見て、エレノアは顔をしかめた。
空の色がいつもなら青いはずが、ピンクと青とオレンジが混ざった変な色が漂い始めている。これは穢れが増えて浄化が間に合っていない時に見られる現象だ。
一般の人はこの程度の色だと気がつかないが、神殿関係者や討伐に関わっている騎士団員だと見て取れる。神殿にとっては結界を強化する判断の一つでもある。同じように騎士団も何が起こってもいい様に、討伐の準備が進められていることだろう。
「昨日中途半端だったから影響が出たのかな」
すぐ帰る茶会であるなら、あのまま祈り続けていた方がよかったなと心から思う。じっと窓の外を見ていれば、扉が開く音がした。振り返れば、リーナが朝のお茶の支度をして入ってきたところだった。
「エレノア様、おはようございます」
「おはよう、リーナ。朝ごはん食べたら、祈りの間に行くわね」
リーナは驚いたように目を瞬いた。
「今日の午前中は久しぶりのお休みだったかと思いますが」
「そうだけど、昨日途中で切り上げてしまったから空が少し汚いわ」
「……わかりました。お仕度を手伝います」
リーナは心配そうにするが、浄化だけはエレノア以外にはできない。安心させるようにニコッと笑って見せた。
「祈りが終わったら、リーナのケーキが食べたい。用意してもらってもいい?」
「もちろんです」
少しだけ表情を明るくしたリーナを見て、エレノアは朝の支度を始めた。
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気分転換を兼ねて、ゆっくりと庭を歩きながら神殿の最奥にある祈りの間に向かう。神殿内にある廊下を使うのが一番早いのだが、時間がある時には庭を回ってから中に入ることにしていた。この少しの時間が煩わしい現実世界を忘れさせてくれる。
手入れの行き届いた庭を散策し、目的の祈りの間の扉を開いた。
「エレノア様!」
祈りの間へ入れば、どんとぶつかるようにして彼女は抱きついてきた。
「ジェイダ」
腰にしがみついた少女は顔を上げて嬉しそうだ。自分と同じ銀の髪を撫でてやる。ジェイダはエレノアの次の聖女候補だ。まだまだ祈りの質が安定しないが、彼女もいずれはエレノアと同じぐらいの力を持つと言われている。エレノアがよく面倒を見ているので、とても懐いていた。
綺麗な紫の瞳がじっとエレノアを見つめる。
「エレノア様、今日は午後からでしょう? どうしたの?」
「昨日中断してしまったから、空が汚くなってしまったの。少しでも元に戻そうかと思って」
「……昨日のお茶会、楽しくなかったの?」
エレノアの態度に何か気がついたのか、子供は遠慮なく聞いてくる。エレノアの表情が曇ったのを目ざとく見つけたジェイダは頬を膨らませた。
「顔だけの王子さまなんて振っちゃえばいいのに」
「そうできたら本当にいいのだけどね」
「エレノア様に悲しい顔をさせるなんてサイテークソ野郎だわ」
口の悪さに、エレノアは眩暈を感じた。
ジェイダはエレノアと同じく、孤児の中から見つかった聖女で、エレノア以上の劣悪な環境で暮らしていた。見つかったのは本当に運がいいとしか言いようがない。よく調べれば、彼女は貴族の生まれであったが、母が亡くなった後、父親の後妻に嵌められて、スラムに捨てられてしまったのだ。
「ジェイダ。下品な言葉は使ってはダメよ。貴女はわたしの次の聖女なのだから」
「……サイテークソ野郎でございますわ?」
「その言葉自体を使用禁止よ」
にっこりとほほ笑めば、ジェイダはむううっと頬を膨らませる。そんな仕草も本当に可愛い。くるくるとした髪を指で梳きながら、宥めた。
「わたし、エレノア様を虐める王子さまなんて大嫌いよ」
「虐めているつもりではないと思うけど……」
「だったら何故、エレノア様を蔑ろにするの?」
答えられない質問に困ってしまう。エレノアの身分が孤児だったからと伝えてもいいのだが、それを伝えるとジェイダの王族に対する信用が地に落ちそうだ。
「王族はバカばかりだから仕方がない」
返答に困って頭を悩ませていると、笑いを含んだ声が割り込んだ。二人で声のする方を向いた。
「大神官様!」
ジェイダは嬉しそうにエレノアから離れて、大神官であるオースティンに勢いよく抱きついた。中性的な顔立ちをしているオースティンであったが、力いっぱい体当たりをしたジェイダを難なく受け止める。オースティンはジェイダの頭を優しく撫でてから、エレノアの方へと視線を向けた。
何かを言いたげな眼差しを受けて、エレノアは視線をそっと逸らした。
「ジェイダ、今日のお務めは?」
「今からします!」
元気にそう答えるとにっこりと笑う。そして小言をもらう前に、さっと逃げるように走り出した。だが、2、3歩行ったところで立ち止まり振り返る。
「エレノア様、王子さまなんて振って大神官様と結婚したらいいのよ! その方がとても幸せよ」
「ジェイダ!」
エレノアはぎょっとして咎めるように彼女の名を呼んだ。ジェイダは悲鳴のような声を上げて逃げて行ってしまった。残されたエレノアは赤くなった頬を誤魔化すように彼女の後ろ姿を見送った。
「やれやれ。あの子ももう少し聖女としての自覚が欲しいところだ」
「申し訳ありません。ジェイダはわたしを心配して……。大神官様は結婚しないと知っているはずなのに、後で言い聞かせておきます」
申し訳なさそうに頭を下げた。
「頭を上げてほしい。昨日のことも含めて、少し話がしたい。わたしの執務室に来てもらえないだろうか」
断る選択肢はなかった。エレノアが頭を上げて頷くと、オースティンの手が差し出された。エレノアは聖女として常にオースティンの後ろを歩くようにしていたため、手を差し出されて戸惑う。
「え、と」
「昔のようにお兄さまと慕ってはくれないのかい?」
それを言われると、弱い。エレノアは悩んだ挙句、そっと自分の手を乗せた。満足そうにオースティンは微笑んだ。
「エレノア、もっと頼っていいんだ。私も今は大神官という地位にいるが、その前にいつだって君の味方でありたいと思っている」
「でも迷惑を掛けたくありません」
「その気持ちが私にとって悲しいことだと知ってほしい」
そう言われても、とエレノアは唇を噛みしめた。エレノアにとってオースティンは一番大切な人だ。孤児から聖女として認められたものの、貴族ではない、平民でも最下位層の出身であるエレノアには敵しかいなかった。
聖女としての力を示し神殿の後ろ盾があっても、王太子であるトリスタンの婚約者になっても、エレノアへの風当たりはきつい。そんなエレノアを支えてきたのはオースティンだった。
だからこそトリスタンからの心無い態度程度で、心配させたくはない。
エレノアの気持ちを知っているのか、オースティンが手を強めに握りしめた。
「王家に文句を言う程度で揺らぐような神殿ではない。聖女がいるからこそ、この国は守られている。貴族たちは自分たちの利益が誰によってもたらされているのか、はき違えている」
「わたしはまだ大丈夫です」
「エレノア」
咎めるように名前を呼ばれたが、エレノアの気持ちもわかってほしかった。政略結婚をしている夫婦が仲がいいのはごく一部だと聞いていた。何かを飲み込んでいる夫婦が多いのだから、エレノアにだってできないわけがない。
オースティンは彼女の意志の強さに息をついた。
「わかった。今回は何も言わない。ただし、王太子とは少し距離を置くといい」
納得してもらえてほっとするも、距離と聞いて首をかしげる。
「どういう意味ですか?」
「説明は執務室でするよ」
いつに間にか、オースティンの執務室の前まで来ていた。中に入れば、神官長がにこやかに待ち構えていた。