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「ねぇ、文女ちゃん。こっちに来て」
あのふたりがいなくなった途端に元の呼び方かよ。少しからかってやるか。
「ずいぶん他人行儀な呼び方に変わっちまったなー」
「いや、あれはその……」
顔から白い煙が出るんじゃねえかってぐらい赤い。というかノーメイクが童顔過ぎてかわいすぎてヤバイ。まだギャップ萌えを隠していたとは、アイリ恐るべしだな。
「わかってるよ。アイリにも仲間内のメンツってのがあるもんな」
私の冷えたを自分の額に当てつつ、少し間を開けてアイリは探るように聞いてきた。
「……その、怒ってる?」
「ああ、昨日喫茶店に来れなかったことか。もう今は怒ってねーよ。こんなアッツアツのアイリを前にして『早く治ってまた喫茶店にいこうぜ』としか言えねえって」
高熱で顔に赤みが差して涙目で軽く喘いでいるせいか、いつにも増して色っぽく見える。この時点で私の理性は半分飛んだ。ベッドに上がって覆いかぶさるようにして、正面からアイリを穴が開くほど見つめた。アイリはただ微笑んでいるだけだった。
「文女ちゃん、顔赤いよ」
「だから」
「ごめん。アヤ、顔赤いよ」
「なあ、アイリ。これから昔聞いた話を試したいと思うんだけどいいか」
「なんだろー。いいよ?」
私は唇を重ね合わせた。あくまでも唇と唇だけの軽いキス。言うまでもなくファーストキスだ。柔らかい感触にいつまでも浸っていたかったが、そうなるとそれ以上のコトをしたくなってしまう。
「どうしたの? 今日はすごく積極的だね」
半分熱に浮かされているアイリは、動揺の素振りもなく平然としている。ふだんからキスをしているカップルの片割れのような言いっぷりだ。私は私でアイリを見ると、心臓が張り裂けそうになる。意味を説明する必要がある。早く指示を出せよ、マイ脳!
「健康な人間が風邪を引いてる人間の唇を吸うと、吸われた相手はたちまちよくなるって聞いたんだ」
「へえー、でもアヤが罹っちゃうんじゃない?」
「その点は大丈夫だ。私は生まれてこの方かかったことがない。今ごろ私の体内で菌は殲滅されてるぞ」
ベッドから降りる。これ以上何かと理由をつけてシラフじゃない人間に手を出したら、人としていろいろ終わってしまう。理性が吹っ飛ばないうちにチョコを渡して帰ろう。
「あと、これ……」
赤くラッピングされたチョコを枕元に置く。
「わあ~、ありがとう」
「一日遅れたけど本命はアイリだからな」
「ん? どういうこと?」
「聞いたことねぇのか。本命以外の人間はどうでもいいって理由で当日には渡さないって話」
「あ~、なるほどね。私もね、アヤのこと本命だと思ってるし、だーいすきだよ♡」
言ってる内容は超嬉しいんだけど、熱と眠気でフニャフニャになってるからイマイチ胸に来ない。
「ありがとな。んじゃ、私もそろそろ帰るわ」
「うん。帰りにリビングに寄ってね。用意したチョコはお母さんが預かってるから」
「わかった」
部屋を出るまでの間、アイリは半身を起こしたまま手を振っていた。とても健気で愛おしく、できることなら戻って看病してやりたかった。
そんな名残惜しさを心の奥底に押し込め、アイリのお母さんからチョコをもらって帰路についたのだった。