一方その頃――――フォルウィーク城内・紅華離宮
エリエンスク王国元第三王女のレデリカは、幼いながらも厳しい眼差しで夫であるフォルウィーク王国王太子レオンを睨んでいた。
レデリカがフォルウィーク王国へ密かに輿入れした翌日から続いている、言わば日常化した光景だった。
「嫌です!何度もお断りしたはずですわ!私は絶対に聖女様を騙るつもりはありません!」
「そんな訳にはいかないんだと、何度も言っているだろう!?このままでは婚礼の儀を催すことも遅れる!」
「晩餐会では、殿下のおっしゃる通りに笑顔で黙っていたではありませんか!それで足りぬとは…」
勇者一行の祝賀晩餐会は、王太子のレオンが「婚約者のレデリカです」と招待した各国の賓客相手に紹介して回った。すでに成婚の署名は終えていたが、公には婚礼の儀が終わるまでは王太子妃とは認められない。
そして、レデリカは黙って微笑むだけで、挨拶も紹介も全てレオンに任せていた。そこには「婚約者は聖女」だとの思い込みだけを残して話は進んでいた様だった。
「あの時はどうにかなったが、これからはそうは行かないんだ。王太子が聖女との婚約を破棄したなどと、それを公にすることはできない!」
「それなら、なぜ婚約破棄など……あまりにも身勝手ですわっ」
あの日、エリエンスク国王の父から呼び出されたレデリカは、フォルウィークより縁談が来ていると告げられた。属国扱いは解消されたが、相変わらず下に見る態度はあからさまで、だがそれを討ち返すほどの国力のないエリエンスクとしては黙って受けざるを得ない。
フォルウィークからの縁談と聞いて、王太子にはもう聖女様と言う婚約者がいることは公になっているから、十五になった自分が見合う他の王族の誰かしら?と父王に尋ねた。
すると父王は沈痛な表情で、王太子だと告げた。
レデリカにとって、それは側妃として嫁いで来いと言われている様なものだった。一瞬の内に血の気が引き、全身が震えだした。
「王相手ならまだしも、王太子相手に妾として嫁げと!?」
「そうではないっ。王太子妃としてだそうだ…」
「なにを言っておいでなのですか!?フォルウィークの王太子はすでに聖女様とご婚約していらっしゃるはずでしょう?…まさか、聖女様を蹴落として私に王太子妃の座を奪えとでも?」
父王の要領の得ない説明に、レデリカの屈辱に段々と怒りの火がついて燃え上がり、二人きりの父王の政務室に悲鳴にも似た彼女の声が響き渡った。
十五になったばかりの幼い王女とは言え、レデリカの気の強さと正義感の強さは家族の誰もが認める長所であり短所だった。
しかし、王は厳しい顔のままで娘を見据え、絞り出すように呟いた。
「……王太子が聖女と婚約してからすでに三年の月日が経っておるそうだ。が、いまだに魔王討伐が終わらぬ。このまま行けば後二・三年はかかるだろうと…その時、聖女様のお年を鑑みると王太子妃として迎えるのはどうも具合が悪いのだそうだ。だから、お前を先に娶っておこうと…」
「なんてことですか!命を賭して魔王と戦おうとしておられる聖女様をだまし討ちとは…。すでにご婚約が公になっているのですよ!?そんな所へ私がのこのこ嫁いで行っても、フォルウィークの民たちは認めてくれませんわ!それこそ、女神様を敵に回す大悪女として語り継がれることになるでしょう!!」
レデリカは座っていた椅子から勢いよく立ち上がり、王の向かいに立つと机の分厚い天板をバンッと叩いた。頭の中は、すでに混乱の極みで、王女の嗜みなど投げ捨てている。
「…今嫁いで行ってもお前は離宮に留め置かれ、他国の王侯貴族たちに顔見世するのは聖女様がご帰還した後になる。婚儀もその後になるそうだ…。儂だとて、こんな非道な企みに娘を使わせたくはない。だが、国のためになる条件を提示されては、無下にはできんのだ…」
「それは――――私に聖女様を騙って王太子妃になれと…?」
「そういうことだ…な」
あの全身から全ての力が抜けきった様な父王と、あの後に何を話したのか覚えていない。ただ、絞り出すように願われてしまっては、もう拒否はできずに頷いたことだけは覚えていた。それ以降は、まるで霧の中を漂っているような心地だ。目指す目的も分からず、誰に助けを求めればよいかも知れず。
しかし、迷いの中でもレデリカの心には絶対的に譲れない部分が残っていた。
「どうしても騙れとおっしゃるなら、私と離縁して国へ帰して下さい!神殿への成婚の署名は済ませましたが、まだ公には婚礼の儀は行ってはおりませんし、ご都合の良い別の方と再びご成婚なさればよろしいでしょう!」
「――――離縁をして帰せだと!?帰すくらいなら、お前を密かに幽閉でもするさっ!こんなことが外に漏れるのは困るからなっ」
「レオン様…私は貴方に嫁ぐのを嫌がった訳ではありませんのよ!?ただ、聖女様を騙るのは嫌なだけ。それは分かって下さいますか?」
大きな目に涙を一杯に浮かべ、レデリカは縋るようにレオンを見上げた。先ほどまで上げていた甲高い声も弱々しく落ち、震える唇が囁くような声音を漏らした。
「ああ…それは十分に理解している」
幼さの残る愛らしい妃が、悲し気に涙を浮かべて言い募る様を目にしたレオンは、そっと視線を逸らしながらも応えた。
それは二人の関係をよく物語っていた。レオンは政略とは言え、輿入れしてきた王女を一目見て気に入った。だが、レデリカは国のためだと何度も呟いて飲み込み、それでもレオンの優しい部分は嫌えずにいた。ただただ聖女を騙るのだけは嫌だと、ずっと拒否を繰り返していただけだ。
ところが、その日を境にレオンはレデリカに「聖女を騙れ」と全く口にしなくなった。あれほど顔を合わせる度に繰り返された台詞だったのに、いきなり消え去ると拍子抜けよりも不安が先に立った。しかし、どうしたのかと尋ねる気にはならなかった。下手に藪を突いてまた始まっては困るからと、レデリカはそのまま無視を決め込んだ。
そして、婚礼の儀の日取りが決定したと、レオンは満面の笑みをたたえながらレデリカに告げたのだった。
「私は、聖女様を騙らなくてよろしいのですよね?」
「ああ、お前はエリエンスク王国から輿入れしたレデリカ王女として嫁ぐ」
それを聞いてレデリカは安堵し、胸を撫でおろした。これで後顧の憂いはないと。