第31話 聖女は静かに天秤を差し示す
他国の大神殿にも劣らぬ荘厳な優美さを備えた聖堂の両壁には、色硝子を用いて緻密な文様を描いた高窓が並んでいる。その窓からは日中の暖かな陽光が色とりどりの光の柱となって、聖堂内に降り注いでいた。
けれど、そこには陽の温もりは届くことはなかった。
「ロンズベル侯爵の娘キャサリーン=ロンズベル。其の方は、ラール男爵家三男ヘラルドの手を借りて、無国籍の無法者数名を雇い、巡回治療師フェリシア殿とディオン大公爵家令嬢フェルミナ殿を害するよう依頼した。それに相違ないか?」
法務長官の抑揚のないよく通る太い声が、法廷の間に化けた聖堂内に響いた。
白髪を後ろで束ね、文官の制服と同じ類だけれど上品な黒に銀糸で縁飾られた高官服は、壮年でありながら鍛えられた長躯を威厳に満ちた裁きの役人へと変えている。手にした書類から罪人たちへと視線を移した。紫に近い紅の目が、厳めしい表情と相まって眼光鋭く被疑者を睨み据えていた。
しかし、名指しされたキャサリーン嬢は、歯を食いしばり口を噤んだまま、陛下を見つめていた。
一晩、城内にある高位貴族専用の牢獄に留め置かれ、着替えと食事は与えられたが、湯にも浸かれず拭うだけしかできなかったのか、髪は下ろされ、泣き喚いていたらしい顔は化粧も斑に落ちて、十代半ばの少女とは思えない疲れが浮かんでいた。すでに高位貴族の令嬢の面影はなく、ただくたびれ果てた哀れな少女がいるだけだった。
しかし、その姿を見た者達の目は、犯した罪の内容が内容だけに、誰もが冷ややかだった。
「…異議があるなら申してみよ!」
それなりに間をおいても返って来ない返答に、クライヴ国王陛下が重く低い声で一言添えた。
彼の態度は、聴衆以上に冷然としていた。公の席に座する国王として、その顔には何の感情ものせていない。だけど双眼だけは違う。底冷えのする昏く揺らめく紅が濃厚な魔力を滴らせて、裁きの場を冷たい殺気が満ちた無慈悲な場所に変えていた。
首謀者たちはその気配をまともに浴びせられ、顔色を失くして震え上がっていた。捕らえられている私兵など、上体を起こしているのもままならないのか、平伏した姿勢で痙攣している有様だった。
それでも、キャサリーン様は情けを求める様に両手を床に付いて身を乗り出し、涙を浮かべた目を見開いて哀れを誘うようなか細い声で王に訴えた。
「陛下はっ、その卑しい身分の女に、騙されておいでなのですっ!だから、だから私は追い払おうとし――――!」
「あの者を卑しい女だと、誰が…お前に告げた?」
猛毒を含んだ声が、彼女の訴えを無情にも遮った。
王とキャサリーン様以外の全員が、不意に増した恐ろしいまでの威圧感に体を竦ませた。いきなり心臓に冷たい刃を差し込まれた様な錯覚に襲われたのだ。
私の横で、隊長が「まだこの期に及んで…無様なっ」と苦々し気に呟き、私の耳目には嫌悪しか生まれなかった。
「あ…そ、それは、皆が……」
「ほう?皆がか――――それはあの者、いや、あの方を正しく皆に紹介しなかった私の不徳の致すところだ」
陛下は顔を上げると聴衆をぐるりと睥睨し、背筋が凍るような微笑みを浮かべ、そのまま横に立つ宰相に目をやった。
宰相は首肯すると、私へ近づいて来た。
「フェリシア様、王のお召しでございます。こちらへ…」
宰相は、恭しく手を差し出し、私を申し訳なさげに見た。
ああ、始まってしまった。苦く腹立たしい思いが胸に渦巻く。
この場でキャサリーン様が罪を認め、はっきりと自省の念を口にしたのなら、このまま国の審判で終えるつもりだったのに…。
昨夜、私はクライヴ陛下とグレンフォード様を相手に、彼女はもう観念し、罪を認めて罰を受け入れるだろうと言った。けれどお二人は、それだけはあり得ないと、私の意見を一蹴した。
そして陛下は、もし彼女が己の犯した罪を「自分なら許されること」だと思い込んでいる言動をする様なら、その時は私の正体を公にし、己が誰に対して何をしたのかを思い知ってもらうと告げて帰られた。
現実は、お二人の言った通りだった。
胸が悪くなるような不快感と忸怩たる思いが、私が魔王国に対して持っていた理想を粉々にして消えて行った。
宰相に手をとられ、一歩一歩陛下のお傍へと近づきながら、覚悟を決めた。
クライヴ国王は立ち上がると、宰相から私の手を受け取って前へと出た。
「すでに知る者もあるが、この方は女神様の遣いである聖女フェリシア様だ。先のフォルウィーク王国にて女神様を謀り、私利私欲に溺れた愚王と愚物の罪を裁き、女神様から新たな神勅を賜った方だ」
王の発言に、集まった貴族や高官たちからざわざわと声が上がる。「偽物では?」や「信じられない」と言った声の中に、やはり「勇者の一味」との声も混じっていて、聖女への恨みを忘れていないことが知れた。
それは王の耳にも届いたのだろう。彼はふっと苦笑すると、目を細めてぐるりと見渡した。
「そなた達が聖女を、勇者と名乗った愚物の一味と恨むのも判る。だが、ここにいる者の中で、あれらと対峙した者は私と第一騎士団のみ。そして、その争いも誰一人命を落とした者はおらん!恨みと言うなら、すでに私と私の手の者で晴らし終えた。それ以外に、なんの不利益も被っておらんそなた達にどんな恨み言がある!?」
声を上げた者達へ陛下の冷めた視線が巡り、その「恨み言」を聞く時を取った。しかし、誰も訴えを上げず、王の目を真っすぐに見返すことさえ出来ない始末だった。
彼は嘆息すると、再び言葉を継いだ。
「我らが宣戦布告した先の戦いは、この方が真実に目を開いてこの世の罪に気づかれ、己が手でそれを晴らさんとしたからこそ成しえた勝ち戦だ。罪の代価をと聖女の力を使い、あの不落の砦に結界を敷いて下さった。それを…」
苦渋の滲む声が聴衆に注がれる中、私はまた一歩前に足をやり、陛下の後を継いだ。
「私は、あなた方の前に聖女の名で現れるつもりはありませんでした。自国の者達に騙され、それを自らの手で報復し終え、その時点で聖女のお役目は終わったと思ったからです。この世の数多の罪は、女神様御自らが天罰をお与えになり、断罪と粛清を済まされ平和になったから。しかし、女神様は私に裁きの天秤をお授け下さいました。いずれ、また人は天秤の皿に罪を乗せるだろう……そう、女神様はお考えになったようでした。ですが、私はこの魔王国に希望を―――差別や卑しめられる苦しみや悲しみを身を以って知り、同じ辛苦を味わう人々を助け、そして健全な国作りを目指すこの国を見て、平穏と幸福を叶えられると思いました。けれど―――現実は」
ゆっくりと足下に伏した罪人へと視線を落とした。
「あなた方は、王の裁きをお望みかしら?それとも聖女からの断罪を?」
私を見上げて愕然としている者達を一人一人見やり、そう問いかけた。
ことにキャサリーン様の、まだ憎しみのこもった両目を覗きこんだ。
「人は己の罪を、簡単には認められないものなのね……その眼で確かめますか?裁きの天秤があなた方をどう見定めたかを…」
彼らに告げながら私はまた一歩階段を下り、胸に置いた両手を前に静かに掲げた。金の光が私の胸から湧きだし、尾を引きながら静かに宙へと舞い上がった。
と、聖堂内に悲鳴にも似たどよめきが起こった。
現れたのは黄金の宝物を思わせる、眩しい輝きを放つ巨大な天秤だった。
これは幻。天秤は形ある物ではなく、私の心に定められた力。だから、女神様は私を「聖女とは女神が世に与えた天秤」と説いた。
以前の私は、これを授けて貰いながらも気づきもしなかった。愚者たちの言うまま、それが女神様のお告げなのだと思い込み、本当の聖女の役目を知ろうとしなかった。
「この皿に乗るは、この魔王国の罪。皿が地に付いた時、天罰が下ろう。それまでは聖女が裁きを行う」
私が「世の」と命ずれば、その皿に世の全ての罪が重なり、「国」と思えばその国の罪が現れる。
今、天秤の皿には黒々とした罪の泥が乗り、天秤の片方を僅かに傾げていた。