第26話 聖女は女心の激しさを知る
ぱんっと頬が鳴った。その後に、じんわりとひりつく痛さが追いかけて来た。
誰かに後ろから声をかけられ、振り返った途端に頬を平手で打たれていた。何が起こったのか飲み込めない内に、金切り声での非難と罵倒が始まった。
怒りに紅潮した愛らしい顔の中で、紅い瞳がギラギラと燃え盛っている。どこの誰から分からないけれど、相手が名のある名家の令嬢なのは、投げつけられた台詞で知った。
「…平民の女が城内をうろついていると噂になって、やっと消えたと思ったらっ…性懲りもなくまた素知らぬ顔で姿を現してっ!一体、何を企んでいるのっ!?下賤な身分のくせに、恥を知りなさい!恥を!!私が王妃になっても、貴女のような愛妾なんて、絶対に認めませんからっ!」
それだけ言い捨てると、ご令嬢は足早に大広間へと戻って行った。
ディオン大公爵令嬢フェルミナ様とは違う、もう一人の王妃候補のご令嬢だろう。そこまでは気づいたが、私のことが思いのほか広範囲に知られていたことに驚いた。聖女として大々的に紹介するのは、以前に敵だったこともあってやめておこうと言われた。それでも、こっそりとクライヴ陛下に連れられて行った場所も多い。妙な女が陛下の側に…と噂もあったのだろう。
頬を押さえ、後姿を見送りながら、まだ幼さの残る細い肩を切なく思った。
私は、王妃どころか愛妾の立場すら求めてなんていない。傍に居たいと思う気持ちはあるけれど、それはただ想うだけで具体的な考えではないのに。
でも、先ほど漏らしてしまった本音を陛下に聞かれてしまった。あれは、ともすれば王妃の座が欲しいと望む女の愚痴にしか聞こえなかったかもしれない。
「フェリシア様!こんな所で―――どうしたんですか!?その頬は!」
いきなりいなくなった私を探していたのだろう、少しだけ息を荒げたウィリス様が近づいて来た。暗がりの中で頬を押さえたまま茫然となっていた私を訝しみ、頬の赤味に気づいた様だった。
はっと我に返って、急いで自ら頬に【治癒】をかけた。赤味も痛みの腫れもすぐに消えたはず。
「な、なんでもありません。少し夜風に当たろうと…」
「しかし……」
手をどけた私の頬を見つめ、何事もないことを確かめると、それでも何か気になるのか後ろをちらりと振り返っていた。大広間へ戻った彼女とすれ違いでもしたのか、ここに佇む私の様子がおかしかったことで、何か思い至ったようだった。
「探して頂いたようで、お手を煩わせて申し訳ございません。先代様のご様子が気になりますわ。もう戻りましょう?」
「ああ、祖父はもうなんともないんだが…大丈夫?」
「お見苦しい所をお見せしてしまって……」
「あれは、クライブ国王が悪いっ。いくら知り合いだとて、あの場でフェリシア様にダンスを申し込めば、どうしたって貴女は断れないのに……それで悪く言われては…」
そのせいで何があったのか、さすがに次代の伯爵位を継ぐだけあって鋭い洞察だった。
でも、彼が私の立場に立って慰めてくれただけで、私は少しだけ気を良くした。分かってくれる人が一人いるだけで…。まだぎこちないけれど、笑みを浮かべてウィリス様を見上げた。
「私は大丈夫です。誤解があれば、それを解けばよいのですし、そもそも誤解されるようなことをしなければよいのですから」
そう言い募ると、ウィリス様は困惑顔で大きな溜息を吐き、暫くしてから頷いた。
「では、そろそろ参りましょうか。祖父のこともあるし、そのまま退出させて頂きましょう」
「はい」
私を庇うように自分の陰に入れて大広間へ戻ると、人目を引かないように隅を通って先代様の休む一室へ向かった。
先代様は身体を起こして顔見知りと談笑していたが、私達が戻るとゆっくりと立ち上がった。そして、話していた相手に別れの挨拶をし、私には何も言わずに大広間へ戻らず廊下へ面した扉を開けた。
「あの、ウィリス様たちは陛下にご挨拶を…」
「もう終わらせた。儂が休みを取っていると聞いたのか、あの部屋までいらして下さったのでな」
先代様はそう言うと、私に意味ありげに笑んで見せた。
何か私について話でもなさったのかと戸惑いながら見やると、構わず前を向いてすたすたと歩いて行ってしまわれた。
外へ出ると夜も更けて、気持ちの良い夜風が吹いていた。
無意識に詰めていた息をほうっと漏らし、緊張の解けた首筋を伸ばして、天中にある細い月を見上げた。進む先には伯爵家の馬車が私たちを待っていて、そこまでウィリス様の腕が私を導いてくれる。
どうにか終えた。これでまた王城へは、なるべく近づかないように気をつければいい。そう心に言い聞かせた。
従者が馬車の扉を開き、先代様が最初に乗り込んで次に――――と、従者の手に自分の手を移しかけた時だった。
少し離れた場所に停まっていた馬車の辺りから、いきなり女性の悲鳴が響き、どさりと何かが地に倒れ伏す重い音が聞こえた。突然のことに私達は動きを止め、そちらを振り返った。
「お父様!しっかりしてっ、お父様!!だ、だれかーーーーっ!!早く、治療士を!」
小さく灯された馬車の灯りの下から、従者らしき男の人が城内へと駆け込んで行くのが見え、私はすぐに足台に乗せた足を下ろすと、ドレスを掴み上げて走った。
そこでは、馬車の入り口前に豪華な服装の男性が胸を押さえて気を失ったまま倒れており、娘らしい優雅なドレス姿のご令嬢が男性にしがみ付いて泣き出していた。
「私は治療士です!お加減を見させていただきますっ!」
ご令嬢のことは頭の隅に押しやり、緊急の患者さんを診る時の台詞を投げつけると、手早く男性の衣装の前を開いた。
倒れながらも胸に手をやっていたと言うことは、急激な胸の痛みに耐えかねて気を失ったのだろう。呼吸を手を口元に翳して確かめ、中着越しに耳を当てて胸の鼓動を聞いた。
それにしても、上着のボタンの多さになんて面倒な服を着ているのっ、と苛立っていると、すぐに私を追って来たウィリス様が素早くボタンを外してくれた。
「あ、貴女は―――」
「申し訳ありません。そこを開けて下さいませ!――――ああ、お酒が過ぎたご様子ね。【浄化】【回復】」
「や、やめて!触らないで!!貴女なんかにお父様を!!」
どんと横から突き飛ばされ、構えていなかったせいで私はそのまま横倒しに倒れた。驚いて見あげると、そこには涙で美しいお顔を汚したディオン大公爵のご息女フェルミナ様が立ちはだかっていた。
だけど、私は怯まなかった。無言で体を起こすと、彼女を押しのけてディオン大公爵様に手を伸ばした。
「ぶ、無礼な!!私の言うことが―――きゃっ!」
「無礼もなにも、今、貴女の御父上の一大事なのですよ!一刻を争うこの時に、何を言っているんですか!」
私を再び追い返そうとした所、側に控えていたウィリス様が、フェルミナ様と私の間に無理やり自分の体をねじ込んで妨害してくれた。
その声を聞きながら、とにかくディオン大公爵様の治療をと急いだ。
「【癒やしの手】胸の…血道が…ここね。【治癒】」
薄衣の中着の上に両手を当てて、そっと唱えた。弱々しくもう止まりかけていた鼓動が、徐々に戻って来たのが掌に伝わり、それを害していた血の路を塞いでいた障害物を消して治した。
その頃には、従者が呼びに行った城に常駐している治療師が何人かの侍従?を連れて走り寄って来た。
「これで大丈夫ですわ」
「う、ううっ…」
意識を戻されたディオン大公爵様が、薄っすらと瞼を上げた所だった。
「お気分は?」
「私は……助かったのか?胸の痛みがないのだが…」
「はい。危ない所でしたが、間に合いましたわ」
私は、患者様を安心させるためににっこりと微笑んで見せた。
加筆・言い回し訂正 1/17
前話最後から登場の平手打ちお嬢様は、フェルミナ様ではなく別の候補嬢です。
混乱を招いたようなので、台詞を少し変更しました。