08
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得物の具合を手の中で確かめた。はち切れんばかりに魔力を充塡しておいたヒートナイフが、これから起こる惨劇を待ち兼ねているかのように唸っている様な気さえする。魔術師一人を殺すのに全てを凌駕する必要は無い、一点、一瞬、越えれば良いのだ。
物陰で武者震いを起こしながら待っていると、大通りで交じり合う無数の話し声を辛うじて劈く声が聞こえてきた。小鳥の様な、小娘の様な、軽い音色。奴だ。
「つまり、光というものは、通過中の物質によって『進む力』というものが変わるわけね。すると、物質が切り替わる時に波の単要素による前進の具合が変わって、屈折が起こる、と。分かる?」
「えーっと。済みません、師匠、」
困ったような間、
「まあ、そうねえ、図で説明しないと難しいわね。後で纏めてでも、」
声と跫音の具合から、この物陰よりそこそこに離れた地点を奴らが通り過ぎようとしていることが分かる。近くはないが、遠すぎはしない。
ヒートナイフを腹の辺りに据える。息を整える。トゥユリコへの距離が最短と成った瞬間に、飛び出る、
通行人共の奇異の目――俺の暴力性にまだ気がついていない目――を浴びるが、意に介さない。問題はあの女だけだ。一歩。一歩。踏み割らんばかりの勢いで甃を叩く。その度に、〝濃霧〟の、左肩の肌をこちらへ晒している姿が大きくなる。後数歩というところ。肩がくるりと回り、奴の体正面がこちらを向いた。気付かれたか。臨戦。濃霧はこんな時どんな表情をするのだろう。どちらかの最期であるのだから拝んでおきたかったのだが、叶わなかった。間もなく世界が白くなったのだ。
見えぬ。動揺した通行人が喚いたり、何かを取り落としたかで割ったりしている声や音は聞こえてくるが、何も見えない。トゥユリコが一瞬で展開した、自分の腕も定かでなくなるほどの強烈な濃霧が視界を完全に奪う。だが、それは奴も同じこと。そして奴は、愚かしいことに香水を日常的に付けている筈なのだ。その香りを、辿れば。
雑魚共がどよどよしているので少々手間取る。
どこだ、
どこだ、
……そこだ! 俺は身体ごと飛び込み、白い闇の中、香り立つ目標へナイフを突き刺した。
刺した、刺さった、炎上が始まる。如何な魔術師であろうと、水の魔導をもってしては決して助命し得ぬ悪魔的な威力の筈だ。しかし、俺の裡に勝利の感覚は湧いてこない。代わりに起こるのは疑懼の念。なんだこれは。俺は、何を刺した。人の肉の感覚とは思えぬ、空疎な何か、すり抜け、
炎で少しだけ霧が晴れ、視界が得られる。今俺の目の前で燃えているのは、……樽!
胸が燃える。突然そんな感覚が得られた。視線を下ろす。血塗れの氷の刃が見える。何処から生えている? ……胸だ。俺の、胸。刃がぐるりと半回転し、傷を激しく深め、抜かれる。血が、湧き出る。
「愚か者め。」誰かの、声。体が倒れる。「私はネルファンの要。ならば私を失わせるということは、この国の命を削ることに等しい。その試みを貴様は犯した。」うつ伏せる俺の上で、刃が持ち上げられる気配。「ならば死ね、ネルファンの敵よ。」