07
07 モズノ=カナカ
美しい。
私は打ちのめされていた。今私はヒューイン国軍人用の書庫で、殆ど忘れかけた魔導理学と、そもそも全く学んで来なかった建築魔導学の知識を頭へ叩き込む為に朝から格闘しているわけだが、七冊目のとある挿し絵を目に入れたことで、荘厳な壁画、それこそ大教会の天井に刻まれているようなそれの迫力を感じたのである。重複の弊を厭わない表現を使うなら、線と線との幾何的な排列が、完全をそこに造り上げていた。美しい。これほど無駄の無く、これほど力強い魔導障壁の配置を行うには、魔導学だけでなく数学、芸術の才覚もなければなしえまい。まさに、うっとり見惚れるほどの代物であった。
私の生涯でこれをたまたま目にすることが出来たことは、この上ない幸福だった。この上の無い不幸は、これがネルファン国の第二火薬庫に施された魔導障壁や魔力場の見取り図であるということだ。成る程、クリューの「窒息」という幼稚な表現、案外的を射ていたかもしれぬ。この中へ火の魔力、あるいは火の魔力と関連し得るもの――炎や高熱――を投じれば、それは速やかに滅されるに違い有るまい。我々の攻撃目標は第二ではなく第四の火薬庫であるが、多少の年月を経てネルファン国の技術が洗煉されることは有っても、逆は有るまい、どうせ第四火薬庫はこれと同じかこれよりも厄介なのだ。つまり、攻略不可能。
国防の要である筈の大火薬庫の魔導系が、目が飛び出るほどの高級品とは言え学習用の書物に堂々と載っているのは少々呆れる所だが、まあ、分からなくもない。どうせ絶対に攻略されないし、寧ろこれを見せびらかすことで火薬庫爆破への中途半端な企図をへし折ることの出来る分、手間が減るというものだ。桶に底板が無いことを明かされて、敢えて水を注ぐ者は居ないだろう。
つまり、やっぱり水牛の日しかない、か。
私は書を閉じ、架へ戻すと、次の予定の為に書庫を出た。
約束の場所、小高い丘へ向かうと、既にギランドはすっかり待ち兼ねている様子で、一人で勝手に訓練を始めていた。この、私の大好きな場所、つまり殆どいつも強烈な風が吹いているこの丘では、その風上に豊かな林を被った山が聳えており、そこから零れてくる青葉が、適当な頻度で通過していくのだ。
こちらへ背を向けているギランドが、小声でぶつぶつと詠唱しながら右手を振り上げた。その手では、親指以外の四指が複雑に絡みあっており、その指々の自然な湾曲が、一つの焦点を結ぶかのようになっている。その焦点の延長線上へ、ひらひらひらりと、正体が分かるかどうかくらいの遠くを飛んでいる木葉が重なった瞬間に、一条の光線が四指の間から発射された。一瞬、葉に風穴の空いた気がする。しかしとにかく、その青葉は速やかに炎上し、燃えつき、跡形を無くした。そんなわけが無いのに、きな臭い香りが鼻へ届いた気さえする。
彼が振り返った。
「おい、遅いじゃねえか。」
「御免なさいね、ちょっと熱を上げちゃって、早速始める?」
「あ、いや、実は勝手にやっていただけでちょっと疲れちまった。休憩させてくれ。」
ギランドがそう言いながら座り込んでしまったので、私も仕方なしに、ふふ、と笑いながら、丘を隈無く覆う短い草の上へ腰を下ろす。
「なあ、モズノ、水有るか。」
「はいはい、」
水筒から一杯汲んで、ギランドへ渡してやった。彼が気兼ねなく呷るので、剃り残しの有る顎下や首が露となる。クリューと違い、特に傷などはない。ごくり、ごくり。音が聞こえてきそうな威勢だ。
「はあ、旨いな全く。」
「ええ、美味しいわよね。この街の水は。そもそも、煮沸も魔導処理もしないで飲めるだなんて、なんとも贅沢だわ。」
地平線の方へ視線をやった。ふふ。なるほどギランドが文句を言うわけだ、既に太陽が地面にそこそこ近い。その思いきり近づいた太陽の陽を浴びた、茫漠たるグラス野は、絹のような艶を見せて私を魅了する。近くの牧場から逃げてきたのか、遠くで羊が一頭ぽつりと草を食んでおり、まるで、この上等な絹を食い荒らしている芋虫のように見えた。あ、今駆け寄って来たのが畜主だろうか。
「長閑だなあ、」ギランドが呟いた。
「ええ、長閑だわ。」
あれほど圧倒された筈の、書庫で眺めた人工の美しさのことなど、既に私の心から消え失せていた。この美しい国を、この美しい景色を、この美しい自然を護りたい。私は改めてそう思った。
そう。そう思ったので、私は腰を上げてギランドを発奮するのである。さあ、訓練を始めよう。