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41 モル=サルヴェイ
えも言われぬ絶望が私を襲った。神の怒りが滴っている。そんな印象を、正確無比に火薬庫へ落下しつつある火薬瓶から覚えたのだ。
どうかあの瓶詰めの悪意を喰らってくれ、と、モイズリーの球へ祈るが、大仕事を終えて逃げ延びようとしている魔獣の尻を追い掛けるので忙しいらしく、まるで相手にしてくれていない。それもそうだ。火炎瓶が熱を持つのは、それが炸裂してからのことなのだから。
何も、出来ず、火炎瓶は目的地へ到着し、そして炎上した。
火薬庫の高い外壁の麓であるこの地点からでも何とか先端の見えてしまうほどの、大きな大きな炎が立ち上がり、それがばたばたとはためいている。空を飛んでいたモイズリーの闇が取って返し、まるで命を顧みない英雄であるかのように、そこへ飛び込んでいった。……いや、もしかすると、本当に彼は英雄ではないのか?
「モイズリー、」
「いえ、どうかしら。」彼女は察していた。「凍土の冷却も有るし、また、燃えやすいものも有れば燃えにくいものも有るから、相当複雑な熱分布が火薬庫には存在している筈。まだ大爆発が起こらないあたりからすると、時間を稼いでくれてはいるみたいだけれども、上手いこと、火種を根刮ぎしてくれるかどうかは怪しいわ。ほら、だってさっきも見たでしょうよ、私の杖の先端を喰らうことも出来ないくらい、不器用な子なのよ?」
モイズリーが踵を返す。
「というわけで、卿、悪いけれども私は逃げるわよ、もう、私には何も出来ること無いし、」
「ああ、ああ。お前はさっさと消えるのだ。私は残る。」
躊躇わずに、モイズリーは私を置き去りにしようとした。彼女の言葉通り、今や彼女に出来ることは何も有るまい。ならば、一人でも多くの騎士が生き残った方が望ましいに違いなかった。我々は、そういう無機質な計算を実行出来る程度には歳を経ているのだ。
小さくない爆発と、小さい地震が起こる。それに背を押されたかのようにモイズリーがとうとう駈け出した、様に見えたが、しかし、どうやら様子がおかしかった。逃げ延びるというよりも、何か、大切なものへ駈け寄るような雰囲気だったのだ。そして彼女が叫ぶ。
「トゥユリコ卿!」
……何だと? 私も、そちら、山毛欅通り通じる方へ駆け寄った。
何年振りかだろうか、化けの皮がはがれたサンの姿を見るのは。日頃の水を弾くような肌が夥しい皺を刻み、特に顔の上のそれは、余りの細やかさにまるで暗い地図のようになっている。見た目でも悍ましいものを感じてしまったが、それどころではない。杖を支えに蹌踉めきながらここへ来、肩で息をする彼女は、今にも倒れてしまいそうであった。ぜえぜえという息の音が痛ましい。
それらのせいで躊躇ってしまったモイズリーを差し置き、私が声を掛ける。
「おい、大丈夫か、」
大丈夫なわけもないし、明らかに魔力の涸渇を起こしている。逃げ延びさせねばならない。
しかし、虚ろなサンの瞳は、立ち昇る炎を捉えている。その、この位置からだと大分見やすくなった、きらびやかな絶望は、黒き煙をヴェイルのように所々纏いて姿を刻々と変えつつ、少しずつ大きくなっていくのであった。
膝を着いたサンが杖を握る。祈るように念じ始める。この体勢、見たことが有る。確か以前、サンがコルチェフの奴と一緒に、天候を操ろうとした時の、
そうか、雨か! 僅かな魔力をきっかけに大きな天候変化を齎すのが目的である天候魔導がもしも完成しているのであれば、今、サンに有るや無しやで残っている魔力で、雨を呼び、自然の力であの暴力的な炎を消し去ることが出来るかもしれない。
祈りのような体勢を作るサンの横で、私は天を仰いだ。そしてつい、舌を打つ。目を眇めさせられる。雲ひとつ無い晴天に、グロテスクな太陽が浮かんでいるのだ。ただでさえ研究途上の天候魔導、ここから雨を降らせることなど果たして可能なのか?
出征した息子の無事を願う老婆のように、目を閉じ膝まづき、最早敬虔に念じているトゥユリコであったが、その成果は捗々しくなかった。雲の一つも現れず、雨垂れの一滴も落ちてこない。日頃の美しさの中から、辛うじて優雅だけは残していたその表情が、それすらも失い、顔の構成要素を懸命に中央へ寄せようとしているかのごとき、深い渋面へと次第に変わっていった。
ついには、半ば、両手で握った杖を振り上げるかのようにして、
「降れ!」
痛ましい叫び声が虚しく響くも、巨大な炎が身を捩る音に呑まれ、焼かれ、それが天へ届くことは無い。また、小さな爆発音が起こる。見兼ねたモイズリーがサンの肩を摑み上げて、少しでも安全な場所へ連れ去ろうとする。老婆とは思えない力強さで、サンがそれを振り払おうとする。そして先ほどとはあべこべに、今や私が固まっていた。この国を、この都市を護る為に、か細い可能性へ縋るサンの高潔さへ、誇りへ、少しでも傷を付けることが私にはとても出来なかったのだ。そして、そんな彼女を一人死に逝かせることも、私にはとても堪らなかった。
私とサンはここで死ぬ。だから、お前は逃げろ。そして、後生だ、せめて静かに我々二人を死なせてくれ。そう、揉みあうモイズリーへ言おうとした気勢は、突然鼻先に感じた冷たさで折られてしまった。一瞬呆けた後、信じられぬ気持ちで鼻を触る。水滴だ。
再び天を仰ぐ。未だ太陽が見えるが、細かい網がかかっているように見えづらい。そしてその網の正体は、すぐに明らかになったのである。
晴れ渡る空から、沛然たる豪雨が降り注いできた。火薬庫から立ち昇る炎が、光を奪われた草花のように、萎れ、凋んでいく。最後にひとつ、小さな小さな爆発が起こり、それを断末魔として、炎は、姿を消した。火薬庫の向こう辺りなのだろうか、どこからか、歓喜の声が湧き上がっている。鎮火の証左として、モイズリーの闇の球が火薬庫に穴を空けつつこちらへ現れ、彼女はそれを急いで搔き消した。
信じられない奇跡が起こった。未だ止まぬ強雨にずぶ濡れにされている我々の中で、モイズリーは未だにサンの体を摑んでいたが、先ほどとは全く趣を別にし、恐怖や義務ではなく、歓喜によってひたすらサンの身を揺さぶっていたのだ。彼女の身がバラバラにならないか心配になるほど、強いくらいに。
「なによ、やったわ、やったわね、ああ、流石の流石のだわ、トゥユリコ卿、ああ、なによ、ああ、」
私は、そうやって雨の中で顔を紅潮させてわけの分からぬことを口走るモイズリーを制した。息も絶え絶えなサンが、何かを言おうとしていたからだ。
「モイズリー、耳を、貸して、」
きょとんとした闇の騎士であったが、大人しく従った。雨の音がその潜め声を覆ってしまい、全くこちらへは聞こえない。聞き終えたモイズリーは、怪訝な表情ではあったが、
「ええっと、うん、諒解。何とかさせて頂きますわ。」
そう言い残し、山毛欅通りへ駈けて行く。その最中で彼女は、空を見上げる仕草を見せた。この豪雨が、まるで鋏でそれを切り取って地図の上へ排置したように、火薬庫の広場のみへ降り注いでいることを知ったのだろう。素晴らしい精密さであった。ここまで、天候魔導が完成されていたとは、
間もなく雨が止み始めた頃、びっしょりに濡れたサンは、意識を失いぐったりしていた。さあ、疲労困憊の我が身に鞭を打ってのもう一仕事だ。この英雄様を、助けて差し上げねばならない。




