40
40 クリュー=マッザ
「引け! ……ああ、引き過ぎだ、 ……おい、落ち着け、お前への号令じゃない!」
前に座るギランドと、魔獣、その双方への指示を、左手首の激痛に耐えながら行うという大仕事は、案の定至難であり、次第に苛立ちを隠せなくなりつつあった。ああ、良くないんだこれは。俺とギランドを乗せる、翼を持った巨大な獅子、キメイラへ俺の苛立ちが伝播して飛行が不安定になっている。苛立ってはいけない、落ち着け。ああ、分かっちゃいるんだが、手の痛みと焦り、そして歯痒さが、どうしても俺の精神を責め苛むのだった。
右手で、キメイラの、人間で言う左肩の様な場所へ体重を軽くかけ、左へ曲がり過ぎた方向を修正させる。ようやく、火薬庫の上を空から捉えた。良し、
「おわ!」
っと、
「何だ、ギランド、喚くな。コイツが不安がるだろうが、」
「おい、見ろ、」
ギランドが指し示す方を見るやいなや、自身の、血の気が引く音が聞こえた気がした。太陽の様に完全な球体が、真っ黒で、宙に浮き、……こちらへ飛んできている!
畜生、〝屠殺〟か!
「ギランド、引け、引けー!」
そう言いながら、俺は残っている方の手で、手綱の余っている側を摑み、ギランドと共に思いきり引いた。すると、キメイラはぶるっと顫えてから翼を空へ叩きつけ、殆ど垂直上昇の軌道を取り始める。
「おわ、」
「おい、ギランド、ソイツを落とすなよ!」
「分かってるが、どうすんだここから!」
なんとか後ろを見やると、例の闇の球はまだしつこく俺達を追ってくる。ええっと、熱源を追尾するんだったか。すると、成る程、キメイラの高い体温に引き寄せられているわけか! さて、どうする、
「おい、クリュー、どこまで上り詰める気だ、」
……よし、思いついた。
「もう少し、もう少し、……今だギランド、思いきり引け!」
俺の上体とギランドの背がぴったり付いた体勢を再び取り、また、手綱を二人掛かりで引く。
「〝降下〟!」
この、キメイラの方への指示によって、魔獣は、一角獣の角のような急角度をなし、すなわち上昇から一転、高度を殆ど真っ直ぐ下げ始めた。前髪が風圧で逆立ち過ぎ、最早、頭皮へ撫で付けられているかのようだ。騎乗に慣れぬギランドの呻き声に邪魔されながらも、何とかタイミングを測ろうと地上へ目を見張る。その視界の端で、一旦は振り切った筈の闇の球が、再びこちらへ向かってきている様子が分かってしまった。くそ、急がんとな、
「おい、クリュー、どうすんだあの忌ま忌ましい球ころはよぉ、」
「落ち着けギランド、……もうすぐ、……引け!」
手綱を介しての命令に従い、キメイラはワイングラスの側壁を滑り落ちる様に軌道を曲げ、つまり、殆ど垂直から殆ど水平への飛行へ滑らかに移った。そのまま水平に少し飛び続けると、目の前に有るのは、……第四火薬庫!
「ギランド、しくじるなよ!」
「おう、」
ギランドめ、声が顫えていやがる。しかし、一本しかないの手をキメイラへの指示へ使わないといけない俺では叶わない。この、さっきがらんどうの商店からちょろまかしてきた火炎瓶は、どうしてもギランドが投げねばならんのだ。
前進を続ける俺達へ、二つの闇が近づいてくる。背後からの、屠殺の放った絶望の闇と、そして、目の前火薬庫の屋根に穿たれた、希望の暗がりだ!
ギランドが、顫える右腕を振りかぶった。あまりの戦慄に、握られた火炎瓶が釣り上げられたばかりの魚のようにばたついている。声に出すとより動揺を誘うかもしれない、そう思った俺は、ただ、祈った。頼んだぞ、ギランドよ。
ギランドの手が振り下ろされた、瓶が手放された、瓶が宙を舞った。そして、その火炎瓶は第四火薬庫屋根の大穴へ吸い込まれていき、俺に、えも言われぬ喜びを齎したのである。




