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36 モズノ=カナカ
この世界はいつから色相を失ったのだろう。私が塗れているこの黒っぽい液体は、もしかすると赤いのだろうか。嗅覚も失われているが、しかし、全身に走る痛みが、熱が、それが私の血であることを結局説明していた。甃の上に転がり、何も出来ない。動けない。何とか、目を動かし、灰色の世界を見回すと、見つけることが出来た。私の、一番見たかったもの。
トゥユリコの体が静かに転がっていた。うつ伏せたまま、ぴくりともしない。その絶命を確かめるように、蠅が、露出している肩へ留まった。飛び発たない。そして奇妙で巨大な角のように、トゥユリコの背中から戟か何かが二三本生えている。
ああ、でかしたなモズノ、私は、私の仕事を、成し遂げたのだ。ああ、何と言うことだろう。ああ、私は何と幸せなんだろう。ぽかぽかしてくる。ものを考えるのが難しくなってくる。でも、良いんだ。だって、私はもう、なすべきことを、充分に、
私の法悦は、しかし、残忍に拭い去られた。蠅が飛び発ったのだ。
え? 何故、何故、飛び発った? ああ、そうか、たまたま、そんな気分になったのか、……なあ、そうだろう? その、肩が、動いてなんか、いないだろう?
私は、その蠅が留まっていた地点を、懸命に睨みつけようとした。水を弾きそうに輝かしかったその肌は、いつの間にか干した葡萄のように萎びている。……ああ、そうだろう? 生気を失ったのだろう? 頼む、そのまま、死んでいてくれ!
しかし、ああ、今度は間違いなく、その肩が顫えた。そして、奇妙なぜんまい細工のように、そこから生える腕が折り畳まれていき、それを支えとして、上体が、起き上がった。起き上がってしまった。
何故だ、何故、生きている、何故動けてしまう。その、私の絶望的な疑問に、答えたのは、立ち上がったトゥユリコの背中から脱落した、透明な、甲羅のような何かであった。ああ、そうか。危険を察知したトゥユリコは、単に振り向くのではなく、咄嗟に、背中にも氷塊を作って、身を護り、
蹌踉めきながら立ち上がったトゥユリコ、と思しき老婆は、何かを探すように、呆然とした様子で首を回し始めた。そして、止まる、こちらへ顔を向けた状態で。肩で息をする彼女は、しばらくそのまま私を眺めた後、踵を返した。きっと、生きているように見えなかったのだろう。
ふふ。あはは。どういう状態なのかしらね、私の躰。
そんな、末期の可笑しみによって気が弛んだ私は、突然、全身の痛み、特に腰を刺すような――もしかすると「ような」でないかもしれないが――激烈な痛みに襲われ、つい、
「ああ、」
この呻き声を聞き留めて、トゥユリコが振り返った。こっちへ歩いてくる。醜い、つまり、大きな先端を持つ杖がゆらゆら揺れている。ああ、簡単だろうな、あの大きさなら、私を殴殺するくらい。
これ以上もなく老いてもまだ気位の高そうな美しさの名残を残している、トゥユリコの顔が動く。
「もう、口も利けなかろう。名を、聞いていなかったのが少し残念だ。」
杖が振り上がる。
「敬意を表する。」
杖が振り下ろされた。
何かが割れ、私が潰れ、私は終わった。




