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15 モズノ=カナカ
甲板。帆船はすいすいと海洋を進んでいた。決して船賃の安くないこの客船は、素材である筈の木材の気配を感じることが難しい程度に、べったり叮嚀な塗装が施され、床材や壁、胴が瑕瑾の無いクリーム色に染められていた。しかしそれとは裏腹に、帆柱だけは木目がそのまま残されており、ついついそれを下から目で追っていくと、船乗り然としていない男を乗せた、頂点の見張り台が目に入る。あまり使われることの無いフード部分が生き生きと靡いている深紅のローブを纏うその男は、右手で、巨大な瘤のような先端部を持つ杖を掲げ、集中していた。甲板の、苔のように深い緑色のバンダナを頭に付けた船員からのがなり声を受け、男が杖を振るう、風向きが変わる、アトアトの魔物に引き寄せられるような感覚を体が覚え、船の向きがぐいぐいと変わっていくことが、鯨のような形をした雲が視界から消えていくことで知らされる。きっと舵取りと連携しているのであろう。もう一度見上げると、奇妙な形に膨らんだ帆が、風の魔術師が仕事をしていることを保証していた。
私の船室ではない船室へ向かう。丸い窓から入ってくる光にも敗けずに男二人がベッドの上でぐっすり眠っていたので、ついつい苛立ち、私も右手の杖を振るってしまった。二人を覆っていたそれぞれのシーツが巻き上げられ、それぞれの顔の上に落ちる、
情けない呻き声を出したクリューは、すぐに悪態を付きながらその白布を引き剥がし、愉快でなさそうな顔を露にしたが、ギランドの方は眠りがやや深かったのか、まだシーツの中に溺れている。
「何をしやがる、モズノ、」
「訊きたいのはこっちだわクリュー。今どんな時刻だと思っているの?」
「ん?」
窓の外の、全く赤みを持たない高い太陽を見つけた後、彼は言い訳を始めた。
「いや、まあ、うん、そうだよ。昨日はギランドの奴と色々作戦を練っていてだな、つい夜を更かして、」
「クリュー。正直に話すか、それとも、そこに転がっている空き酒瓶の由来を尤もらしく誤魔化して頂戴な。」
クリューは、一瞬固まった後、溜め息をつき、そうしてから、開き直るように再びベッドへ仰向けとなった。くしゃくしゃのシーツの中で、彼の黒い艶髪が乱れている。
「なんだなんだ、固いこと言うなよ。」
その動きの拍子に襟が踊り、彼の、鎖骨を抉り出そうとしたかのような大きな傷跡がちらりと見えるようになった。
「支障が出なければ固いことは言わないわ。でもね、言ったでしょ。洋上は、秘密を保つ上で最高の場所の一つ。折角だからここで出来る限り議論を煮詰めておきたいって。……ちょっとギランド! いつまで寝ているの!」
叩き起こされたギランドは、目を擦りながら、
「ええっと、うん。さて、確認するか。俺達三人は、ネルファンでこいつらを調達しようとしている、と。」
簡素な暗号で書き留められたメモを、ギランドの頑丈そうな指が指している。
「ええ、その通り。」と、クリューの体温が残ったベッドに腰掛ける私。
その主曰く、
「しかし、俺達が自ら調達することになるとはねえ。お陰で、あの日までまだまだあるのに、もうネルファン入りすることになってしまった。」
まだ寝惚け眼のギランドが、
「しかし、……ふあ。 ……まあ、理には適っている。ネルファンから俺達の国まで誰かしらが物品を運び、それを再びネルファンへ運び込もうとすれば、目を付けられたりするリスクが何倍にもなる。ならば、あの国の中で完結させるのは賢い話だ。」
「いやいや、ギランドよ、ちょっと待て。なら、俺達三人でなくとも良いだろう。他の誰かが前乗りして、買い揃えておきゃあ良いじゃないか。」
「ん、ああ、それはそうだな。人手が足りないんじゃないか。」
「馬鹿言えギランド。人手が割けないわけないだろう、しかも二三人も居れば済む話だぜ――実際俺達は三人でこなそうとしているのだし。なんで、国が傾くかどうかって話に、たったそれっぽっち割けないんだよ。」
ギランドは目が醒めてきたようだった。
「んん、ああ、それもそうだ。確かにおかしい。急な話だったんで船へ大人しく乗っちまったが、なんだろうなこりゃ。」
「そういえば、なんでしょうね。」
「おう、モズノ、俺には心当たりがあるぜ。」
「あら、何かしらクリュー、」
「『何』、というかなあ、」
ここで妙な間があったので、私はそれを訝しんでクリューの顔をまともに見ようとそちらへ顔を向けたのだ。結果としては、目を瞑ってしまい、叶わなかった。バチン! という音と、星が見えるような突然の衝撃に、思わず目を搾ってしまったのである。さっきのギランドの醜態を笑えないようなぎこちない動作で目を開き、なんとか前を見据えると、クリューの手の形によって、自分の額が爪弾かれたことをようやく認識出来た。
「どうせお前の仕業だろ、モズノ。随分と御執心だったものなあ、ウボス法否決の可能性によ。」
「何を、」
「具体的に何をしたのか知らんが、とにかく俺達三人が直々に物資を調達する羽目になるよう、つまり、こんな早い時期から乗り込むことになるように動いたんだろ。そうすれば、俺達がネルファンで十三騎士の票をどうにかしようとする時間が稼げるし、そして、ここで話も出来るものなあ。……ネルファンのそれも、そして、チェルノ隊長の地獄耳も全く及ばないこの船の上でよお!」
「ああ、成る程なあ、」ギランドの声。「そりゃ必死になるわけだ。ネルファンに辿り着く前にこの海上の密室で俺達二人を説き伏せて、しかもそれで残った時間で、作戦を練らんといけないわけだものな。なら、俺達が昼前まで寝ころんでいたらさぞ苛付くだろう。」
深いため息が漏れた。
「御名答よ、お二人とも。全く、流石は工作部隊の一員ねえ。」
「ああ、お前とは違うさ。」
「はあ? 何言っているの、クリュー、」
「お見通した俺達とは異なり、お前は今一蒙かった。つまり、俺達二人を説き伏せる時間なんて要らなかった、ということだ。なあ、どうせそうだろ、ギランド。」
「ああ、」ギランドが、窓を背負うように立ち上がった。その精悍な体つきが、逆光が服や腰に佩いたナイフの握りに刻んだ影によってますます映え、彼の瑕である顔貌が暗く隠れることと相俟って、美しいといっても差し支えない。
「面白そうじゃないか、どうせ暇に決まっているんだ。その話乗るぜ、少なくとも、策謀を練る所まではな。」
私は、ふふ、と笑ってしまった。
「ああ、感謝するわ、二人とも。でも実はちょっと違うのよ。」
私は、意外そうにする二人の顔を代わる代わる見た。
「私は、直接ウボス法の否決を狙おうとしているわけじゃないわ。だって、モーレも言っていたけれども、肝腎の火薬庫爆破、それに必須であろう水の十三騎士の撃滅と反するもの。
だから、私は寧ろこうするつもりなの。ウボス法に賛同する、つまり〝濃霧〟達とは逆の趣向をもつ十三騎士を煽り立てて、我々の仇敵、水の十三騎士へぶつけてしまうのよ!」
二人は、吟味するように押し黙った。
そして渋い顔のクリューが口を開く。
「魅力的ではあるが、出来るのか、いくら政敵な存在であろうと身内、しかも英雄様同士だぜ。」
「分からない。出来ないかもしれない、でも、もしかしたら出来るかもしれないじゃない。だから、二人の頭を借りたいのよ。お願い出来る?」
手を合わせ、片目を瞑る私へ対し、二人はちょっとの間顔を見合わせてから、
「しょうがないな、」
「付き合ってやろうじゃないか、」
私は、きちんと座り直した。
「有り難う二人とも。では、まず、」