09
09 モル=サルヴェイ
あれほど深かった騒めきが、先ほど迸った断末魔の呻き声と血の香りに気圧され、蒼白に静まった。ミルクのような霧が晴れていく。見えてくるのは血塗れの男女。男は地べたで亡骸を晒し、女は、血の滴を跳ね返すほどに瑞々しい肩をこちらへ晒している。最早障らぬほどに霧が晴れても、人々は皆固まっていた。男は死によって、女は恐らく黒い興奮によって、残りは圧倒によって。
拍手をしてみた。女の耳へ届くよう、強く打つ。一瞬追随してくる雰囲気を周囲から感じたが、極まった形相で振り返る彼女へ向かっても拍手を行う勇気を持っていたのは私だけだった。昔のトゥユリコを、しかも戦場におけるそれを想起させるような、眉間の深い皺に憤怒を潜めたその相好は、しかし、私の正体を認めると、一瞬で崩れてくれる。呆れ声、
「ああ、アンタね。他の誰かだったら承知しなかったわ。」
「実際、見事なものだよ。」
歩み寄る私を無視するかのように、彼女は、その無骨な杖の先に未だ生やしたままであった刃を解かし、その杖を掲げると、先端から今度は水を放出させることで、自らの全身へ水流を浴びせた。何となく心地良さそうではあるが、
「いいのかね、折角の召し物が台無しだが、」
トゥユリコは殆ど清浄となっていたが、それでも近寄ると、足許からの腥い香りが鼻を突いた。つまりは血の香りだが、何となく違和感が無くもない。
彼女はびしょ濡れの髪を見せつけ、つまりまだ向こうを向いたまま、
「他人の血を浴びたらすぐに洗えって忠告されたのよ、衛生部門の連中にね。それに、血だろうが水だろうが、塗れた時点でもう台無しだわ。」
「ふむ、」更にもう一歩近づいた。「私でよければその水塗れ、なんとかしてやろうかね。」
「うん?」
振り返ったトゥユリコの表情は、彼女が私の言うことの要領を得ていないことを示してはいたが、説明するよりも実演する方が早そうだった。いつも通り右手に魔力を籠める、ふわふわと朧に浮いている不可視の水の魔力を、雰囲気を、〝闇〟の魔導によって縛め、引き寄せるイメージ、
ずぶ濡れのトゥユリコの全身から水が迸る。まるでそこが巣であるかのように、水分が走り、私の右手を目指した。数瞬の後に現れたのは、カラリとしたトゥユリコとその服、そして、私の右の掌の上の、ちょっとした大きさの水球である。
ころころとそれを弄ぶ私へ向かい、
「へえ、器用ね。ありがと。」
少しだけ髪に残してやった水分を活かしつつ満足げに髪を直す彼女は、ここでようやく、周囲からの好奇の視線に気がついたのか、一瞬目や口を大きく開き、明らかに吠えようする。しかし、自身の英雄としての立場と、それに相応しい態度を辛うじて思い出したらしく、再び、しかし不満げに噤むのだった。
ふと、そんな彼女へ素直な疑問を投げつけてみたくなった。
「ふむ、ところで、」
「何よ、」
「いや、お前が血を洗い流したがった理由だがな、もしかすると、」
「モル、」
間髪容れずに返ってきた、昔の彼女を髣髴とさせる、冷たい声。背筋が震える。
私は、トゥユリコの顔を見ることが出来なかった。
「無礼だった、許してくれ。」
そう発してからようやく彼女を顔を見ると、愉快そうではないものの、それなりに日常的な表情を湛えてくれており、
「お願いだから、しょうもないことを思い出させないで。」
やはり、図星だったか、
「ああ、済まなかった。」
彼女は両肩を一旦竦めると、
「まあ、服の礼も有るし、お許しさせて頂くわ。それよりも、あいつが何処に行ったか知らない?」
「あいつ?」
「ほら、私の後ろに居なかった? 一応の愛弟子なのだけれども、」
ううん? ええっとだな、
「ああ、あそこに居る彼かな。」
私が指し示した物陰に、屈み、顫えている男を認めたトゥユリコは、また、喚き散らそうとするのを呑み込む仕草をみせた。彼の帯びている、深い恐怖に気がついたのだろう。
代わりに飽きれ顔を拵え、整えたばかりの髪を軽く搔き乱しつつ、
「あー、そうよね。アンタはこういうの慣れていないものね。しょうがない、コルチェフの所へ行って、今日の約束はやんごとなき馬鹿者のせいで駄目になったと伝えてきて頂戴、それくらいは出来る?」
男は、なんとかという体で頷くと、それが初めてすることでもあるかのように危なっかしく立ち上がり、へろへろと歩きはじめた。
「今日はそのまま帰りなさい。」
トゥユリコは彼の背へそう投げ掛けると、こちらを向き、
「さあ、モル、悪いけれども兵部まで付き合ってもらえるかしら。報告しないわけにもいかないし、私に非が無いことを一応証明してもらわないと、」
「構わんが、わざわざ私かね?」
「しょうがないじゃないの、本当はあいつに付き合わせようと思ったのだけれども、あんな状態じゃねえ。……あ、ちょっとそこのあなた、悪いけれどもこの馬鹿の死骸を見張っていてもらえるかしら?」
しかし、あの様な優男を弟子に取るとは、成る程、昔のトゥユリコとは確かに変わっているようだな。
「では、行こうか、サン。」
「ええ、助かるわ。」
歩き始めてから間もなく、彼女はクスクスしながら、
「しかし、確かに〝わざわざ〟な話ね。十三騎士様の二人が、自ら推参だなんて。きっと、何事かと思うわよ。」
「確かに先ほどそう言いはしたが、実際どうだろうかなあ。君にとっては大したことなかったのだろうが、一応は十三騎士への暗殺行為だ。大袈裟過ぎることなんて無いと思うがね。」
これを聞いたトゥユリコは、一転真面目な顔付きになり、右手の逞しい杖を、私でようやく辛うじて気がつける程度に軽く振るった。有るや無しやの、風の魔力の気配が我々二人を包む。
「そう、確かに最近十三騎士まわりの雰囲気がおかしいし、こうしておかしなことも起こっている。ちょっと、色々話しあっておきたいのだけれども、」
遮音の術か、成る程な。
「そうだな。では、まずそのコルチェフのことなのだが、」
私はそう言いながら、握ったままであった水球を路傍へ放り投げた。私の〝闇〟の魔力の影響下を逃れたそれは、当然の如くあっさり爆ぜ飛んだのだが、それを見たトゥユリコは、
「あ、そうだ。後でランベ・フラワを買い直さないと、」
「ランベ……、 何だって?」
「ああ、御免なさい、こっちの話。」
「で、そりゃなんなのだ。」
「香水。さっきの馬鹿のせいで割れちゃって、」
ああ、血の香りに妙なものが混じっていたが、それだったのか。
「襲われたせいで取り落としたのか?」
「と言うより、うん、私が樽へ投げつけたと言うか、」