第0話 退屈な世界
子供の頃の夢は、何だっただろう。
そんな事すら思い出せなくなって、何年経ったのだろう。
昔はもっとこう、自分の未来は無限大だと信じていたのだが。
歳をとるごとに、それが何の根拠にも基づいていないという事実に打ちのめされ、夢を見る事さえしなくなり、ただ流されるまま大学を卒業し、就職戦線を運よく勝ち抜いた末、手に入ったものは中小企業の凡庸なサラリーマンという現実だった。
とはいえ努力らしい努力もしてこなかった身で、自身が暮らしていくには不足のない給料を貰い、決して多いとは言えないけれど半期に1度のボーナスにわずかばかりの幸福を感じる事ができる日々に慣れてさえしまえば、これ以上の高望みは分不相応なのだろう。
ただ、それでも時々こう思うのだ。
「…退屈だなぁ」
変わり映えのしない毎日。
決まった時間に起床し、支度を整え出社。昼はコンビニの弁当をつつきながらネットのニュースサイトなどを眺め、仕事が終われば帰宅し、簡単な家事と食事を済ませ、少しテレビを見たりゲームをしたりして、眠る。その繰り返し。
飽きるとか飽きないとかではない。そういうものなのだ。慣れてさえしまえば、それは全て『日常』となる。
ただ、それでも時々こう思うのだ。
「退屈だ」
あの時ああしていれば、こうしていれば今の自分はもう少し違ったのかもしれない。誰しもふとした拍子にそんな考えが頭をよぎる事だってある。
今回のそれは眠る前にとシャワーを浴びている最中だった。
「ま、何か変わるわけでもないけどさ」
頭の中に浮かぶ『もしも』を濡れた髪と共に振り払いながら、風呂を出、着替えを済ませたところである事に気づく。
「しまった、明日のパンが切れてた」
どうしたものかと思い、時計を見る。普段の就寝時間にはまだ少し早い。
「よし、散歩がてら買いに行くかな」
季節は春。とはいえまだ少し肌寒い。財布を持ち、パーカーを羽織って外へ出る。
深夜というわけでもないのだが、平日の住宅地であるせいか、人影もなく辺りは静寂に包まれている。アパートの階段を降りていく音がやたらと響いて聞こえるのはこのアパートが安普請である事だけが原因ではあるまい。
「うーん、今日はえらく静かだな」
いくら住宅街とはいえ、まだこの時間なら多少は車なり残業帰りの会社員なり見かけるのだが、などと思いつつコンビニへの道を歩く。
空を見上げると、月が青白い光を煌々と放っていた。
「…さい…がもと…」
「…?」
急に声が聞こえた。それも、遠くから呼んでいるような途切れ途切れの声。
周囲を見回しても、誰もいない。静かすぎるだけの、いつもと変わらない住宅街だ。
「…なさい、わが…」
また聞こえた。さっきより少し近い気がする。背筋を冷たいものが伝った。
確かに退屈だとは言ったかもしれないが、こういう非日常はお断りだ。急いでアパートへ帰ろうと踵を返したその時―、
「来なさい、我がもとへ」
「へ?」
はっきりと聞こえた声に、思わず間抜けな返事をした瞬間。目の前の景色が歪み、意識が薄れていった。