【vol.6】君は僕の太陽だ
「おや、珍しい顔だ」
気付いたらそこは、古ぼけた自家焙煎の珈琲店だった。
相変わらず客の一人もいない。現代には不釣り合いな柱時計の奏でる音だけが、静かに店内に響いている。
「随分と久し振りだね。もう、ここには来ないものかと思ったが」
長い間来ていなかったが、彼のことはすぐに分かった。
こざっぱりとしたスーツを来て、ダンディに口ひげなんて生やしている。
この店のマスターだ。
「僕もそう思ってた。……んだけどね。何だろう。何だかやけに眩しい光が差し込んできてね。……気が付いたら、ここにいた」
「よっぽど暗い所ででも、眠っていたのかい?」
「……どうやら、そうみたいだ」
店の中央よりやや奥の、カウンターの席へと腰掛ける。
固めの木でできた、大して座り心地の良くない椅子が懐かしい。
「前に来たのは確か……?」
「もう、十年も前ですよ」
「そうか、そんなになるのか……」
注文を聞くまでもなく、マスターは年季の入ったミルで豆を挽き始めた。僕がいつも、彼の特製ブレンドを気に入ってたことを覚えているらしい。ここには清澄白河のブルーボトルコーヒーのような目新しさはないが、それと代わりになりそうにもない、二十年以上もの歴史が積み重ねられている。
「それで、一体何が深い眠りについていた君を起こしたのかな?」
粉々になっていく珈琲豆から漂う香ばしい香りが、まだ半分寝ぼけている僕の鼻腔をくすぐっていく。
徐々に覚醒していく意識の中で、僕は背もたれに持たれながら答えた。
「何だろうなぁ……。それまでとは何も変わっていなかったはずなのに。……それが、僕にもよく分からないんだ。ただ、何だかとても眩しくて」
「確かに君は、薄暗いこの店の雰囲気が気に入っていたみたいだからね」
「そうなんだけどなぁ……?」
いつの間にか沸かしていたボトルのお湯が、シュンシュンと微かな音を立てながら、白い湯気を立ち上らせ始める。ああ、いつものこの感じだ。あまりにも変わらない風景と、五感に漂う全ての感覚があまりに懐かしすぎて、思わずにやけてしまいそうな口元を抑えるのに必死になってしまう。
「まあまあ。私は君のそういう所、嫌いではないよ。折角久々の再会なんだ。そう結論を急ぐことはない。まあゆっくりとまずは珈琲でも飲もうじゃないか」
「確かに。今更時間を気にするほどのものでもないしね」
出されたコーヒーカップは、マスターの知り合いの若い陶芸家が作った、渋い模様の特注品だ。こげ茶色のカップに注がれた真っ黒な飲み物は、艷やかなまでに光沢を放ちながら、僕の目の前で波紋を広げている。
僕はじっとカップを見つめると、ゆっくりと口元に運び、そして僅かにだけ喉元に流し込んだ。
じんわりと広がる苦味が、僕の体の隅々まで行き渡る。
奥底から広がってくるほんのりとした熱が、頭のてっぺんまで辿り着いた時、仄白くぼんやりと靄がかっていた僕の心が、唐突に晴れていくのが分かった。
「……ああ、分かった」
「おや、早かったね」
「……彼女はお姫様なんだ。武士道とか騎士道みたいなものを持った僕には、決して触れられない存在。だから……すごく眩しかった」
カップの中の波紋の中心をじっと見つめたまま、僕は独り言のように喋り続ける。
ミルの掃除をしていたマスターが、顔を上げて僕の方を振り向いて笑った。
「ははは。こんなに久々だというのに、君はまるで十代に逆戻りしたかのようだ」
「僕だって分かってるさ」
「別に茶化しているわけじゃない。とても良いことだと思うよ?」
少しだけ恨みがましい目でマスターを見つめると、僕は引き続きコーヒーを啜りながら、話の続きを始める。
「かつて一度だけ、同じタイプの女性に会ったことがあったなぁ。彼女もまるで、太陽のように眩しかったっけ」
「おや、その話は初耳だね」
「暗闇で過ごす僕には、満月の月夜ですら明るすぎるというのに、彼女たちはみんな真夏の太陽のように真っ直ぐな光で照りつけてくるんだ」
窓の外を見つめると、少し傾きかけた日の光が遠くの山々を照らし、夕暮れが近いことを知らせる。
眩しすぎた日中が過ぎていくのを感じて、僕は少しだけホッとした。
「その光があんまり強烈すぎて、こうしてまんまと起こされてしまった。僕はずっと静かに眠っていたというのに……」
「後悔してるのかい?」
「そんなわけないじゃないか。僕にとって彼女たちのような存在は、まるで希望そのものだ。光が届かない深海の奥底にまで、眩しいほどの光を与えてくれる。……僕にはとてもできない。僕は、彼女たちが大好きなんだ」
そう言って、僕は心の底から笑う。
……こんな風に笑ったのも、久し振りだ。
「ははは、本当に無邪気な子供に戻ったみたいだね」
「そうかもしれない。だって嬉しかったんだ。世界に彼女たちのような人々がいてくれるだけで、僕はまだ頑張れる。僕にはできないことをしてくれる、彼女たちは僕にとっては宝物なんだ」
久々に訪れたというのに、一人で興奮して話し続ける僕を、マスターは穏やかな目で見つめていた。
相変わらず時計の音だけが静かに時を刻んでいる。ずっと変わらないこの店の風景。
「僕は泣いてる子どもたちから、涙を拭うために頑張っている。でも彼女たちは、そうでないただつまらなそうなだけの人たちや、おそらく世界で最も多い、ただの普通の人たちを笑顔にすることができるんだ。……そう、ただ存在するだけで」
掃除を終えたマスターが、静かに息を吐く。
そしてどこか遠くを見るような目で、僕の方へと視線を投げかけてきた。
「珍しいね。君は来るお店を間違えたんじゃないか?ここのメニューには、たしか憂鬱しか置いてなかったはずなんだが……」
「はは、そんな気もするねぇ。でも、そんなに違ってない気もするんだ。僕はとても戸惑っている。あまりに戸惑いすぎて、どこに行ったらいいか分からずに。気が付いたらここに来てしまった。嬉しいけど……憂鬱でもある」
「まあ、私としても、久し振りに君と出会えて良かったよ。あんまり時間が空いたから、君はもしかしたらロボットか人工知能にでもなってしまったのかと思っていた所だよ」
「実は僕もそんな気がしていたんだけどねぇ……」
二人だけの静かな時間は過ぎていく。
……ああ、やっぱり違ってなかったよ。
いつ来ても、ここの珈琲の味は苦くて甘くて奥深い。……僕にとっては最高の味なんだ。