ある始まりの話
彼女と出会ったのは、打ち合わせで訪れた取引先のオフィスの一室だった。
派遣社員か何かだろうか。
滅多に見ない女性職員と思って視線を奪われていると、ふと目が合う。
「……」
「……」
軽く会釈をして、小さく口角を上げる彼女。
少し遅れて、会釈を返す俺。
……まずい。タイプだ。
若いというわけではないが、それほど年を取っているようにも見えない。
だが、底を感じさせない雰囲気が、経験の豊富さを思わせる。
後は視線は合わせず、横を通り過ぎた。
……意識だけが彼女に向かっている。
会議室へと通された。
横で必死に説明している課長は、何とかこの商談を自分の手柄にしたいらしい。
俺の出番は回ってこないようだった。
……まあ、それならそれでいい。
大してやる気もない仕事だ。
やりたい人にやらせてあげればいいさ。
暇つぶしに、彼女の姿を探す。
静かに扉が開き、お茶が運ばれてきた。……彼女だ。
不自然にならない程度に長い間、彼女の方を見つめる。
……また、目が合った。
「失礼します」
雪の滑らかさを思わせる声に、意識は完全に惹き付けられる。
俺のお茶を机に置く間、向こうの意識もこっちに向いているのを感じた。
……まずいな。
歯止めが効きそうにない。
*
話が長引き、机のお茶は空になる。
再び彼女が部屋に訪れた時、相手先の部長は席を立った。
「もう少し、ここをこうしてくれればねぇ……」なんて言いながら、トイレに出て行く。
それを見計らって、うちの課長も部屋を出た。
きっと本社に電話をして、仕様変更の許可でももらうのだろう。
……そして、部屋には俺と彼女の二人だけになった。
互いに意識し合う沈黙の中、彼女は黙々とお茶を片付けている。
彼女が俺のお茶に手を伸ばした時。
「……どこ住んでんの?」
俺の理性が効かなくなった。
*
彼女は、少しだけ沈黙した後、困ったように微笑む。
……俺が思った通りの、俺好みの表情だった。
それはきっと、「仕方ないなぁ……」という微笑みだったろう。
彼女は片付けの手を止めると、甘ったるく髪をかき上げた。
「……子供、いるよ?」
流し目を向けて、俺に言う。
「いくつ?」
「7歳。……あと、たまに何人か」
「ふ~ん……」
あまり興味がないような返事をしながら、俺はソファの背もたれに手を伸ばす。
言ってる事が良く分からなかったが、俺にはどうでもいいことだった。
その雰囲気が伝わったのか、彼女は急に甘えた仕草を見せるように、俺の手の側にもたれてきた。
……そっと腰に手を回す俺。
冷たい制服の下に感じられる細い腰の感触が、俺の左手を痺れさせる。
そうして俺の手に添えられる、彼女の右手。
……全てが何だか、夢の中のように感じる。
左手に重ねられた彼女の手の温度だけが、俺に現実感を与えていた。