彼との対話1
『それほど、依存していく事が怖いのかい?』
「久し振りだな、主よ。」
いつも彼はそう答える。
俺がずっと相談相手になってもらっているのが彼だ。
沈着冷静で落ち着いていて、頼りになる。
俺が道に迷いそうになるたびに、この店で待ってくれている、とても信頼できる彼だ。
時にはバーテンとなり、時にはディーラーであり、マスターであり、ある時にはグラスであったりその中の液体であったりする事もある。
ともかく、迷った時には彼に語りかけるのが、俺なりの解決策だった。
・・・そして今日も。
「彼女は、責任感や義務感で結婚して欲しくないんだってさ。」
今日の彼は、普通に隣で飲んでいるビジネスマンだった。
但し、酔っ払ってもいなければ、よれよれのスーツも着ていない。固そうな眼鏡なんかをかけて、全身からエリートっぽさを漂わせている青年だった。
彼は足を組み、ジンバックに軽く口をつけると、たっぷり間を置いてから相槌を打つ。
「ふむ。ではその彼女はどうして欲しいのかな?」
俺は決して彼のほうは見ず、アルコールの入ったグラスと目の前のボトルの並んだ棚を見るともなしに見ながらその問いに答えた。
「私の事が好きで、ずっと一緒にいたいって思って結婚して欲しいんだって。」
「君はそうは思っていないのかい?」
彼との会話はいつもそんな調子だ。
彼とは会話していても向き合ったりはせず、お互い一人で飲んでいるようにして、ただ語り合う。
・・・いや実は、俺の独り言に彼が勝手に相槌を打ってくれているだけなのかもしれない。
「そんなんだったら、もうとっくに結婚してるよ。」
「ほう、中々言うじゃないか。」
「そんな風に結婚するんだったら、誓いの言葉なんて要らないだろ?そもそも、式なんて必要ない。わざわざ親戚一同招いてお披露目をする事もないじゃないか。」
「ではそうする意味を、君はどういう風に考えているんだい?」
「・・・形式かな。愛情の証としての形を取り結ぶ儀式。」
ここで彼はしばらくの熟考時間を要した。
俺は大人しくそれを待ち、その間にグラスを一杯、空にする。
空になったグラスの氷が音を立てた時、彼は再び口を開いた。
「君にとっての結婚というのは一種の契約のようだね。」
「・・・そうかもしれない。『俺はお前以外の女には手を出さない』言ってみればそんな契約かな。」
「君は愛情に責任感と義務感が伴った物が結婚になると思ってるみたいだ。でも彼女は、結婚を愛情の上位種だと思ってる。」
俺はその言葉には何も返さず、新しいグラスに注がれた液体に広がる波紋をじっと見ていた。
辛うじて、二人の会話に小さな呟きを注いだ。
「感情的な女ってのは怖いよ。どれだけ積み重ねたものも、その感情一つで全部ひっくり返されそうだから。」
「その感情が他を向いただけで、きっと君は簡単に捨てられる。・・・それを恐れているのかい?」
「・・・彼女に多少は責任感や義務感ってものがあればいいけど。俺がゴミ屑だった方が、まだ環境問題を考えるだけマシだったと思うな。」
「君がここへくる時は、決まって酷く悲観的だな。・・・たまには私にも前向きな姿を見せてもらいたいものだ。」
「そう、・・・それほど依存するのが怖いんだよ。」
「ふむ。今日の話はそれだけかい?・・・なら、私からの言葉はただ一つ。」
『主よ。どうやら君はもう手遅れのようだ。』
「幸いか不幸か、君はまたあの感情の迷路の中へ迷い込んでしまった。出口があるかどうかも分からない、それごと崩壊してしまうかもしれない、そんな迷路へ。・・・もう入り口は見えない。引き返しているのか進んでいるのか、それすらも分からない。それでも君は立ち止まるわけには行かない。例え、君自身がその幕を引く事になっても。」
「・・・・・・。」
「精々、君の健闘を祈るよ。」
「・・・さて、私は君がまた分岐点に立つ時まで眠るとしよう。さらば、愛しき憂鬱よ。」
そう言って彼は席を立つ。
元々一人だった俺だけが一人残った。
・・・グラスは空いたが、まだしばらく席を立つ気にはなれなかった。
また、氷が音を立てて揺れる。