サクラサク
・・・・・・。
公園に、少し強い風が吹いた。
物語売りが一冊の本を読んでいると、今年最初の桜の花びらが舞い落ちてくる。
その花びらはひらひらと、本の間に挟まってしおりとなった。
丁度それを期に、物語売りは本を閉じる。
花びらが落ちてきた桜の方を見ると、その木のふもとに一人の男が立っていた。
彼は何かを待っているように、ただ桜の花を見上げている。
そしてまた、ひときわ強い風が通り過ぎ、桜吹雪と共に男は消えた。
――彼が持ってきた物語は、
【桜咲く】
またこの季節がきた。
・・・僕は、やや不機嫌になる。
蕾はそのはにかんだ笑顔を広げる季節だというのに。
ひどい花粉症である僕は、この季節が好きではなかった。
3月も終盤に差し掛かり、ずっと冬だと思っていた暦がそろそろ新しくなる頃だ。
・・・桜はまだ五分咲きだが、春は確実にもうそこまで来ていた。
そんな、越してきて何度目かの春先、不思議な少女と出会った。
最初に彼女を見たのは、TVのキャスターが桜の開花を知らせた日の朝だった。
会社に行くために川沿いを歩いていると、ぽつんと一人、ひときわ大きな木にもたれかかっている女の子を見つけたのだ。
年は僕よりも随分と若そうだったが、その佇まいはとても落ち着いて見えた。
誰かと待ち合わせでもしてるのかと思って、その朝は黙って前を通り過ぎるだけだった。
しかし、日が暮れる頃に帰ってきても、彼女はまだ木の下にいた。
まさか、一日中ここにいたのだろうか?
少し訝しげに思いながらも、僕は声をかけることはできなかった。
・・・もう、女の子に気軽に声をかけられるような年ではないし。
その夜、窓からは咲いたばかりの瑞々しい桃色の花達を見ることができた。
もうすぐ、満開の桜のトンネルを通って会社に行くことになるだろう。
きっと今日の夢には、あの女の子が出てくるような気がした。
・・・でも結局、その日に見た夢は覚えていなかった。
次の日、いつものように家を出ると、既に頭の上では桜のプラネタリウムが広がっていた。
満天の桜の花の間から、微かに星のような青い空が見える。
休日のせいで、家の周辺は花見に来た地元の人たちで賑わっていた。
・・・今日は彼女はいないのだろうか。そう思って昨日彼女がいた辺りを探してみたが、それらしい姿はどこにも無かった。
僕は、普段慣れていない人の多さに気分が悪くなり、夕方まで部屋で寝ている事にした。
夕方。
むせ返るような桜の花の匂いで目が醒めた僕は、少し静けさを取り戻してきた桜並木の見物をしようと、外に出た。
桜自体は、そんなに嫌いではない。
やや寝惚け眼で赤とピンクの空を眺めていたが、ゆっくりと視線を落とした先で、僕は目を疑った。
・・・そこに、彼女がいたのだ。
さっきまで、眠っていたからかもしれない。
桜と彼女のコントラストが、僕にはまるで夢の世界にいるように思わせた。
気が付くと僕は、彼女の前に立っていた。
吸い込まれるように、話し掛ける。
「・・・誰かを、待っているの?」
随分と長い時間が過ぎたように思えた。
一枚の花びらが地面に落ちるのを見てから、彼女はやっとその桜色の唇を開いた。
「・・・妹を、待っているんです。」
そよ風よりも微かなその言葉は、男の理性を麻痺させる。
耐え切れずに、僕は彼女を掻き抱いた。
彼女は抵抗もせず、ずっとどこかを見ている。
・・・その視線は、永遠に失ってしまった何かを儚んでいるようだった。
夢見心地の中、僕は花の蜜を吸いに来た蝶になったような気分だった。
彼女の体が赤く染まるにつれ、花の色もより一層、鮮やかさを増してきたように感じる。
目が眩むほどの桜吹雪の中、僕は気を失った。
・・・最後に見えた彼女は、少し悲しそうな顔をしながら、桜を見ていた。
「おい、アンタ。」
・・・あれ?
気が付くと既に朝。僕は桜の木の下で眠っていたようだった。
「アンタ一体、何やったんだ?」
彼の視線の先を辿り、目を上に向ける。
満開だったはずの桜の木から、その仄かな花びらは全て散っていた。
その日から、二度と彼女の姿を見る事はできず。
僕は激しく後悔し、思う。
(・・・彼女はきっと、桜の精だったんだ。)
そう。確かに、彼女を表すとすればその言葉はたった一つ。
『桜のように美しく。』
そして幾つかの季節が巡り。
もうすぐ彼女と出会った季節がやってくる。
まだ肌寒いが、きっとこれからは暖かくなるばかりだ。
僕はまた川沿いを家に向かって歩きながら、雪が解け始めた桜の木々に見とれていた。
そして、過ぎ去った季節を惜しむように、彼女と出会ったあの頃を思い出す。
あ。
あの木の蔭に彼女が見えたような気がして振り返った。
・・・・・・いない。気のせいか。
まだ地面にうっすらと降り積もっている雪を見ると、桜の花びらのように白かった彼女の肌を鮮明に思い出す。
桜の間から見える、空を眺めながらぼんやりと歩いた。
丁度仲良さそうに歩いていく、二人のよく似た姉妹とすれ違う。
(・・・妹を、待っているんです。)
そういえば、彼女は出会えただろうか?
白い雪と共に現れる、彼女とよく似た妹に。