ヤラセです :約7000文字 :電車 :汚
五月の夜の電車内。大型連休の真っただ中とあって、車内は平日の帰宅ラッシュとほとんど変わらないほど混雑していた。
座席に腰掛けている者、吊り革に掴まっている者。その多くは目を閉じ、顔に一日の疲れが滲んでいた。ただ、いずれも遊び倒したのだろう、手元の土産の紙袋や日に焼けた腕、少しずれたキャップにはどこか行楽の名残があり、車内には満足げな空気が漂っていた。
だが――。
バブビブブボボウ――。
突如、車内に濁音が響き渡った。何人かが一斉に顔を上げ、音のした方向へ目を向ける。ほぼ同時に、鼻をつく異臭が漂い始めた。腐った卵に湿った土を混ぜたような、喉の奥にまでまとわりつく臭いである。
聞き間違い。気のせいだろう。いや、違う――乗客たちの疑念を帯びたざわめきは徐々に広がり、やがて一つの確信へと固まっていった。
――漏らした。
「くせえ」
誰かが呟いた一言が、乗客たちの推測を裏付けた。答え合わせが済んだときのような妙な満足感が生まれ、安堵さえ漂った。が、それもほんの一瞬のこと。川の流れにさらわれていく花弁のように、あっけなく消え去った。
プピッブビビビビビブブブブブブブ――。
再び車内に響き渡る不穏な音。泡が弾けるような水気を含んだ放屁である。直後、凄まじい臭気が押し寄せ、密閉された車内の空気を塗り潰していった。
ある者は短い悲鳴を上げ、ある者は口元を押さえて咳き込み、またある者は怒号を飛ばした。乗客たちは一斉に悪臭の発生源から距離を取り、その結果、一人の男を中心に、車内の一角にぽっかりと不自然な空白が生まれた。
次の瞬間、その空白を埋めるように車内中の視線が男に押し寄せた。
冷ややかな、あるいは怒りを含んだ眼差し、そして無機質な機械の目が男を捉える。四十歳前後だろうか。男はややうつむき加減で直立していた。その足元にはしっとりとした茶色い人糞が盛り上がっている。
嵐の夜の葉擦れにも似たざわめきが車内を満たし、無数の視線とスマートフォンのレンズが突き刺さる中、男はゆっくりと顔を上げ、口を開いた。
「狙いどおりです」
――は?
「あのー、これってヤラセなんですよ」
――ヤラセ……?
車内は静まり返った。ざわめきは消え、残ったのは鼻をすする音や咳き込む声といった生理的な反応だけだった。
男は乗客たちをゆっくりと見渡し、穏やかな声で話を続ける。
「事情を説明しますので、大丈夫。皆さん、落ち着いてください。まず、なぜ僕がこのウンコピラミッド騒動を起こしたのかと言いますと――」
――ウンコピラミッド……?
「今の時代、『悪名は無名に勝る』を地で行くような人が大勢いますよね。たとえば、奇抜なことや過激なことをして注目を集め、SNSのフォロワーを増やして収益を得る。まあ、そういう行為自体はまだいいんですよ。問題なのは、自分の利益のために他人を騙したり、情報商材を売りつけたりする人がいることです。しかも、同じように過激な行為で知名度を上げた人、つまりその界隈の先輩にお金を払って宣伝や拡散をしてもらい、さらに被害者を増やす仕組みまで当たり前のように出来上がっている。それに対して、『これってどうなんだろう』と思ったから、今回こういうことをやりました」
――何を言っているんだ。
「実際にこうして過激なことをやった結果、今この状況になっているわけです。まあ、普通にやったところで、影響力の差を考えれば何の波紋は起きない。僕に勝ち目はないわけです。だから四月頃からこつこつ準備を重ねて、ようやくここまで引っ張り、こういう形に持ち込めたというわけですね。はい」
――ただの便秘だろうが。
男は視線を足元に落とし、指をさした。そこにはとぐろを巻いた糞が蛍光灯の光を受けて生々しい艶を放っていた。
「ネタばらし動画は、これから撮影する予定です。実は事前に撮ってあったのですが、諸事情で使えなくなってしまいまして。本当はここで公開する予定でしたが、仕方ありません。ヤラセだと明かすには少し早いかなと思ったんですが、まあ、皆さんの反応があまりにも良すぎたのでね。不本意ではありますけど、いったんここは棚上げしようかなと」
男はそう言うと身を屈めて糞の一部を掴み取り、網棚の上にそっと置いた。乗客たちは声も出せず、ただ顔を引きつらせて後ずさるばかりだった。
――何してんだ。頭おかしいのか。
「僕はね、自分が正しいと思ったことは、どうしてもやらずにいられない性分なんですよ。間違っていると感じることがまかり通っている世界を見ると、やっぱりおかしいと思ってしまう。正しいと思える世の中であってほしいんです。もちろん、すべてを自分の力で変えようだなんて、わがままで傲慢な考えなのかもしれません。ただ、僕にはそこまでの力がないこともわかっていますから、何もできないくせに『これは正しくない』と声高に叫ぶだけの人間ではないんですよねえ。そこだけは勘違いしないでください」
――結局、何が言いたいんだ。
「つまりはですね、これは全部ヤラセなんですよ。今、この場にいる方のうち、一割くらいは僕が本当に漏らしたと思っているんじゃないでしょうか。八割は何かちゃごちゃ言い訳しているな、と呆れている。そして残りの一割は、このうんこが演出だと気づいている。さすがです。物事をちゃんと見られる人には、やっぱりわかるんですよ」
――実際に糞してるのにヤラセも何もあるか。
「まあ、ただうんこを漏らしたようにしか見えないんですから、気づけなくても無理はないと思います。今回は少し急いでネタばらしまで持っていってしまいましたからね。本来なら、ここからいくつかの段階を踏む予定だったんです。まずは漏らしたあとにスマートフォンで奥さんに涙ながらに報告する号泣編。それから、AIのせいにして責任逃れをしようとするAI生成編ですね。愛想を尽かした奥さんから『家に帰ってこなくていい』と言われるくだりも用意していました。皆さんに『ざまあみろ』と思ってもらえたら、こちらの狙いどおりですから。ただ、『いやいや、どうせヤラセじゃん』と簡単に見抜かれてしまうと、こちらとしても作品を作る意欲が削がれてくる。そういう問題もあるんですよ。まあ、正直なところ、ちょっと集中力が切れてきたのも事実です。そこは反省点ですね、認めます」
――奥さんいるって言っちゃったよ。
「えー、もう一度説明しますけど、これは完全にヤラセです。はい。ということで、今回のウンコピラミッドは、世間を騒がせるために仕組んだ演出であり、すべて計画的に行ったものなんですよ。社会問題に注目を集めるため、あえて過激な手段を選んだということです。もともとは年末年始に実行するつもりだったんですが、準備が間に合わなくて。それなら次の大型連休であるゴールデンウィークなら、人出も多くて都合がいいだろうということで、今日になりました。五月病という言葉があるように、四月に新しい環境に移ったり、生活が変わったりして知らず知らずのうちに溜まったストレスが、ちょうど今くらいの時期に表面化しやすいんですよね。つまり、ちょっとしたきっかけで怒りに火がつき、炎上に発展する可能性も高くなるわけです。そこを利用できないかと考えて、僕のSNSの投稿もあえて人を煽るような内容にしていました。お金を持っていることを自慢したり、妻と子供がいて、こんなに贅沢な暮らしをしていますと見せつけたり、三十を過ぎて未婚の人って……なんて、わざと癪に障る言い方をしたりとか」
――子供もいるって言っちゃったよ。
「もちろん、僕もね、こういうときにどう対応するのが正しいのかくらい、わかっているんですよ。『そのような事実はありません。法的措置を検討します』と突っぱねるか、『やったけど何が悪いの』と開き直るか、もしくは何も言わずに黙っているか。普通ならそうするでしょう。でも僕は、あえて皆さんがツッコミたくなるような部分を残しているんですよね。『いや、ヤラセってなんだよ! そこにうんこあるだろ!』『何をぐだぐだ言い訳しているんだ』って、誰もが気持ちよく叩けるように、わざと隙を作っているわけです。ただ、今回の計画を実行するにあたって、守らなければならないことが二つありました。まあ、これは僕が普段から大切にしていることでもあるんですが、まず一つ目は誰かを攻撃しないこと。二つ目は他人に迷惑をかけないこと。バイトテロのように、店や無関係な人を巻き込む犯罪行為なんて論外です。そこを踏み外したら、ただの迷惑行為になってしまいますからね。この二つの条件を満たしながら騒ぎを起こすのはなかなか難しかったんですが、結果的には綺麗な形に仕上がったと思います」
――いや、汚いだろ。
「ただ、ヤラセだと気づいた人の中にはこう考える人もいるでしょう。仮にヤラセだったとして、それが何になるんだ。妻や子供に迷惑をかけてまで、いったい何がしたいんだ、と。おっしゃることはわかります。ただ、僕に言わせれば、ヤラセだと見抜いた上でわざわざそれを指摘してくる人が一番性格が悪い。僕が何かを狙っていると気づいたなら、黙って見ていればいいじゃないですか。『これはヤラセだから釣られちゃ駄目だよ』なんて周りに言いふらすのは、明らかな営業妨害ですよ。ほんと最悪です」
――注意喚起だろ。
「そういう人たちにも、ついでに何か仕掛けてやろうかと思ったんですけど、もうどうでもよくなりました。他人のことなんて、もうどうでもいいんですよ。これからは自分のやりたいことをやる。それだけです。今回の件のようにね。では、なぜこんなことをしたのか。具体的に何を目的としているのか、皆さんが知りたいのはそこですよね。……心境の変化、とでも言えばいいんでしょうか。これまで自分がやってきたことが、だんだん馬鹿らしく思えてきたんです。それでそろそろ生き方を変えたいと思うようになりました。まあ、わかりやすく言えば、おれはおれのやりたいことをやる、おれが正しいと思うことをやる、誰にも文句は言わせない、ということです。もう頭の中は、次にやりたいことへ向けて切り替わっているんですよ。そのためにも、まずは知名度を上げなければならない。何をした人間なのかを世間に覚えてもらう必要があったんです。あ、そういえば、僕の名前は『アナイサイト』っていうんですけど」
――名乗っちゃったよ……!
「たとえば、僕のいないところで、『そういえば、アナイサイトって人、知ってる?』という話になったとしますよね。そこで『知らない』と答えた人に、『ゴールデンウィークに電車でクソを漏らした人だよ』って教えてあげれば、『ああ、あの人か』ってなるじゃないですか。つまり、何をした人なのかという情報と名前や顔が結びつくことが重要なんですよ。今、皆さんが撮影している動画も、いずれSNSにアップロードされるわけじゃないですか。『くせえ』だの『汚ねえ』だの『うるせえ』なんてコメントと一緒にね。でも、それもまた狙いどおりなんですよ。動画を見た人は、映っている顔や声を覚える。この人が実際にやった人なんだと、名前と顔をはっきり認識してもらえるように、すべて計算した上での行動だったというわけです」
――汚名だよ。
「家族がかわいそうだと思った人もいるでしょう。それについては、僕もそのとおりだと思います。ただ、妻には事前に許可を取っています。これはかなり難しかったんですけどね。まあ、妻はどこかの誰かがうんこを漏らしたところで別に気にしないんですけど、それが自分の夫となればやっぱり話は違いますよね。だから説得に説得を重ねた結果、説得には失敗したんですけど、最終的には妻も、もうその話は聞きたくないという感じになったので、そのまま実行に移してしまおうと。そういう流れです」
――失敗してんのかよ。
「僕はね、四十歳を機に、何かに挑戦する側、つまりプレーヤーになりたいと思うようになったんです。誰かと協力しながら、今までにないような大きなことをやってみたい。社会の役に立つことや、人を楽しませたり驚かせたりすること、世の中にある何らかの問題を提起するような活動がしたいんですよ。もちろん、中には『どうせ承認欲求を満たしたいだけだろう』と言う人もいるでしょう。でも、僕が見ているのは承認欲求のさらに先なんです。その先に何があるのか、皆さんも見てみたいと思いませんか?」
――今見ているのはうんこだけどな。
「周りから、『すごいことをしたね』『社会的に立派なことをしたね』と言われるような人間になりたいんです。いつか自分の子供にも、父親が何をしてきたのか知ってもらいたいんですよ。『僕のお父さんはこんな立派なことしてきたんだ。自分も見習いたい』と思ってもらえたら、それ以上にうれしいことはありませんからね」
――なったら悲劇だ。
「僕はね、そっち側に行きたいんですよ……! 自分のやりたいことへの熱意が強すぎて、体が熱くて熱くて、もうどうしても我慢できなかったんです! この気持ちを理解してくれる人は、きっと理解してくれると思うんですよ。なるほど、こういう狙いがあってここまで戦略的に動ける人間なのか。一度会ってみたい、面白そうなやつだな。そう考えられる人たちと、これからは仕事をしていきたいですね。できれば、葬式で一緒に脱糞してくれるような人たちがいいですね。臭いだの汚いだの、そういう表面的なことに囚われず、物事を多角的に見られる仲間たちと一緒に次のフェーズに進みたいんですよ。だから、僕に会ってみたいと思った方は、どうか遠慮なく声をかけてください。そして、たくさんの方に協力していただいて、社会的に意義のある組織を作りたい。僕自身も、そこにプレイヤーとして加わりたいんです。具体的に何をするのかは、まだ決まっていません。ただ、誰かが作ったものを外から眺めているだけの人生はもう嫌なんです。それだけははっきりしています……!」
――計画してたのに決まってねえのかよ。
「以上です」
男は話し終えると、すんと鼻をすすった。その拍子に、臭気が改めて鼻腔に入り込み、思わず喉の奥がひくりと鳴った。
その瞬間だった――パチパチ。パチパチパチ……。
乾いた音が響いた。そして、それは途切れることなく増え続け、やがて豪雨のように車内を埋め尽くした。
――すごい! 演出だったのか!
――すっかり騙されちゃいましたね。
――やられたかー!
――頑張ってください! 応援しています!
歓声が車内のあちこちで上がり、座席の乗客までもが次々と立ち上がって、満場のスタンディングオベーション。拍手喝采の中、誰もが感動に打ち震え、競うようにうんこを撮影し、涙ぐみながら男と固く握手を交わし――。
――な、わけないか。
電車が逃げ込むように駅のホームへ滑り込んだ。ドアが開いた瞬間、それまで息を詰めていた乗客たちが我先にとホームへ飛び出していった。
彼もまた、その人波に紛れ込むようにしてホームへ降り立った。
そのまま階段を駆け上がり、改札を抜けて駅舎の外へ飛び出すと、人目を避けるように繁華街の裏路地まで逃げ込んだ。室外機が唸る薄暗い路地は生ごみの臭いが淀んでいたが、先ほどの車内に比べればずっとましだった。
――いや、おれはべらべらといったい何を言っていたんだ……。
ようやく足を止めた彼は壁に手をつき、肩で息をしながらえずいた。頭の中では、先ほどまで口走っていた支離滅裂な言葉が途切れ途切れに蘇っていた。
妻と子供がいること。SNSをやっていること。挙句の果てには、自分の名前まで口にしてしまった。もともと言い訳がましいところはあったが、糞を漏らした動揺から完全にパニックに陥り、口が勝手に回り続けていたのだ。
ああ、おれはもう、おしまいだ……。
鼻腔の奥には、自分の体から出たものでありながら、どこか他人のもののように感じられる臭気がこびりついていた。どれだけ壁に指先を擦りつけても、糞を掴んだときの生々しい感触が消えなかった。
込み上げる吐き気をこらえきれず、彼は激しく咳き込んだ。
と、そのときだった。
背後でコツリと靴音がした。
続いて、拍手が響いた――。
――えっ。
彼は思わず振り返った。薄暗い路地の入り口に、数人の人影が並んで立っていた。街灯の光を背に受けて長く伸びた影が、男の足元に届いていた。
仕立てのよいジャケットを着た初老の男。フードを目深に被った若者。作業着姿の中年男。会社員風の男――年齢も服装もばらばらだったが、全員が口元に薄い笑みを浮かべ、彼をじっと見つめていた。
やがて、その中の一人がずいと前に出て、口を開いた。
「先ほどの演説……感動したよ」
――は……?
「どうだろう、君も『便師』にならないか?」
――便師……?
「便師とは、公共の場で大便を放つことを生業とする、大便のプロフェッショナルさ」
「アーティストであり、エンタテイナー」
「ときに社会の亀裂にでかい一発をぶち込むアナキスト」
口々に語り始めた男たち。その圧力に、彼の腹がぐるると鳴った。




