海月
誰かの涙が、どこかの海になる。
海は生命を育て、生命は言葉を持ち、言葉はまた誰かの涙になる。
泣くことを禁じられた人間が、泣かずにいられなくなる日がある。眠ることしかできない人間が、眠ったまま世界を動かしてしまう夜がある。
どちらも、意図していない。どちらも、止められない。
四月の第二週、桜がまだ散りきらない月曜日の朝に、日向咲は入社する。
正確には入社から一週間が経った月曜日だが、咲にとっては毎朝が「最初の朝」だ。起きるたびに胃が重く、鞄を持つたびに肩が縮こまり、エレベーターのボタンを押す指が毎回少しだけ震える。社会というものがこんなにも体力を使うものだとは、大学四年間のどの授業でも習わなかった。
「習うより慣れろ」と、採用面接のときに人事部長が言った。
慣れる前に死ぬかもしれない、と咲は毎朝思う。
配属されたのは第三営業部という、会社の中でも特に地味で特に忙しいと評判の部署だ。フロアは三階で、窓から見えるのは隣のビルの壁だ。その壁のちょうど正面、隣の会社のエントランスガラスに、小さなキャラクターのステッカーが貼ってある。白地に薄いグレーの、曖昧な輪郭を持つゆるいキャラクター。社名ロゴの横に並んでいるから、マスコットキャラクターなのだろうと咲は推測している。名前はわからない。輪郭が実家の壁の染みに似ているから、心の中で「しみちゃん」と呼んでいる。声に出して呼んだことは一度もない。しみちゃんは朝の光の角度と夕方の光の角度で表情が変わり、晴れの日は少し嬉しそうで、曇りの日は少し眠そうに見える。咲にとってしみちゃんは、この職場で最初に「なじんだ」存在だ。
第三営業部の部長は、桐島健二という五十代の男で、口癖は「で、結果は?」だ。挨拶をしても「で、結果は?」と言われたことが一度あり、咲は「え、朝の挨拶にも結果が必要なんですか」と思ったが、もちろん声には出さなかった。田中主任はその構造をよく理解しているので、心の中で「また始まった」と思いながら黙っている。
そしてもう一人。
坂本蓮、二十八歳、中途採用三年目。デスクが咲の斜め前にあり、いつもパソコンの画面を少し斜めにして作業している。入社初日に「コピー機の紙詰まりの直し方、今教えようか」と声をかけてきたのが蓮だ。
咲はそのとき、少し泣きそうになった。
理由はコピー機の紙詰まりとは全く関係がない。ただその日の朝からずっと誰にも話しかけられず、自分がここにいていいのかどうかもわからず、しみちゃんを見て一人で時間をやり過ごしていたところへ、突然普通に話しかけてきた人間がいたということ、ただそれだけが泣きそうな理由だ。
「はい、お願いします」と咲は答えた。声が少し掠れた。
蓮は特に気にした様子もなく、コピー機の前に立って、カバーの開け方から順番に教える。丁寧だが淡々としている。感情の温度が低い人だと思う。低いのではなく、外に出さないだけかもしれない、とも思う。
その日から咲は、蓮のことが少し気になる。
少し、という副詞に、今の段階ではとりあえず留めておくことにした。
会議があったのは、咲が入社して三週間目の木曜日だ。
議題は第二四半期の営業方針についてで、出席者は部長の桐島、主任の田中、それから蓮を含む正規メンバー四名と、議事録担当として咲が呼ばれる。
「新人に議事録を書かせることで成長を促す」というのが桐島部長の持論だ。桐島部長はしばしば、他者の成長を自分の手間を省く理由として使う。咲はその構造をまだ理解していないが、田中主任はよく理解しているので、「また始まった」と思いながら黙っている。
会議室Bは三階の奥にある六人掛けの部屋で、窓がなく、空気がいつも少し古い。プロジェクターが天井についているが、接触不良なのか五分に一度映像が乱れる。誰もそれを修理しようとしない。乱れることが前提になっている。
咲は入り口近くの席に座り、ノートパソコンを開く。
議事録用のテンプレートは、前日に田中主任がメールで送ってくれていた。「出席者、議題、発言要旨、決定事項、次回アクション、担当者と期日を書けばOK」というシンプルな説明付きで。咲はその夜、テンプレートを三回印刷して、書き方を練習する。
しかし会議は、思ったよりずっと速い。
桐島部長が喋るスピードが速く、専門用語が多く、発言と発言の間に空白がない。咲がある発言をタイプし終わる前に次の発言が始まり、次の発言を追おうとすると前の発言が消えている。頭の中で言葉が渋滞する。交差点に車が溢れて動けなくなるように、咲の指が止まる。
「で、サービスの件はどうなんだ坂本」
「先方との調整は来週中に終わります」
「田中、コスト試算は」
「月曜には出します」
「じゃあ第三週に確認会議入れよう。日向、会議室おさえといて」
「は、はい」
咲は答えながら、タイプしながら、会議室をおさえるとはどうやるのかを同時に考える。三つのことを同時にするのが苦手だった。二つなら何とかなる。三つになると、一つがこぼれる。
こぼれたのは、タイプだ。
会議が終わって、参加者が次々と退室していく中、咲は画面を見たまま固まっている。
タイプされた文章は断片的で、前後のつながりがなく、誰が何を言ったかが途中から不明瞭になっていた。「コスト試算は月曜→田中主任」という正確なメモの後に、「第三週確認→会議室→どうやって」という、完全に咲個人の混乱メモが続いていた。
議事録として提出できるものでは、なかった。
「できた?」
声をかけられて顔を上げると、蓮が立っている。他の人はもう出ていた。蓮だけが残って、資料をまとめていた。
「……あの」咲は言いかけて止める。「できてないです」
「どのくらい」
「半分も、たぶん」
蓮はちらりと画面を見る。咲は恥ずかしくてパソコンを傾けたくなったが、逃げるのは違う気がして、そのままにした。
「今日残れる?手伝う」
咲は驚く。驚いた顔を隠せない。
「……いいんですか」
「俺も会議出てたから内容は覚えてる。困るのは全員だし」
その夜、二人で会議室Bに残って議事録を作る。蓮が発言の内容を思い出して口頭で説明し、咲がそれをタイプした。窓のない部屋に蓮の声と咲のタイプ音だけがある。プロジェクターはもう使っていないのに、五分に一度、空転する音を立てた。
二時間かけて、議事録は完成した。
「ありがとうございました」と咲は言う。
「うん」と蓮は言う。
それだけだ。それだけだが、咲はその夜、家に帰ってから少し泣いた。理由は自分でも正確にはわからない。疲れと、安堵と、恥ずかしさと、あと何か、名前のないものが混じっている。
名前のないものは、涙になりやすい。
会社には、誰も公式には言わないが、全員が知っていることがある。
日向咲が、特異体質者だということだ。
一千人に一人、統計的に存在する。身体から生命を生み出す能力を持つ人間。その生命が何であるかは人によって違う。植物の種を皮膚から発芽させる人もいれば、息を吹くたびに微小な生物が空気中に生まれる人もいる。制御できる人とできない人がいて、意図的に発動させられる人は更に少ない。ほとんどは無意識の、感情の高まりと連動して起きる。近年では脳内インプラントによって特異体質の発動を人工的に制御する研究も進んでいるが、倫理的な問題から治験の段階に留まっている。
咲の特異体質は、涙に関係していた。
泣くと、涙に生命の種が混じる。種は着地した場所で発芽し、そのとき咲いたときの感情によって生まれるものが変わるらしい。悲しみからは植物が生まれ、怒りからは昆虫に似た何かが生まれ、恐怖からは菌類が生まれることが多い、と特異体質研究センターの資料には書いてある。しかし個人差が大きく、感情と生命の対応関係は一定ではない。
また、咲の場合、感情が激しいほど涙の量が増え、長く泣くほど塩分が上がり、海水に近い塩水になる。小学生のときに一度、大泣きして、部屋に膝まで海水が溜まったことがある。両親は特異体質研究センターに連れて行き、カウンセラーからは「なるべく泣かないようにしましょう」と言われた。
それ以来、咲は泣かないように生きてきた。感情が波打つたびに、胸の内側で何かをぎゅっと掴む感覚がある。それをやめないようにしていれば、涙は出ない。しかし掴み続けることは疲れる。蓄積する。ある日突然、掴んでいたものを放してしまう日が来る。
もう一つ、咲が知らないこと。
特異体質研究センターのカウンセラーが言わなかったことがある。咲が泣いて生まれる海水は、ただの塩水ではない。感情の記憶を溶かし込んだ水だ。そしてその水が十分な量になり、十分な深さになり、十分な時間が経つと、水はその記憶を元に生命を育む。
どんな生命かは、その海水を満たした感情による。
咲がその事実を知るのは、もう少し後のことになる。
会議の次の週の金曜日が、その日だ。
今度も桐島部長から議事録の作成を命じられた。今回は一人で書くように言われる。「もう一回手伝ってもらったら成長にならない」という桐島部長の哲学によって、蓮は今回の会議のフォローから外される。蓮は何か言いかけたが、桐島部長が「で、田中、昨日の件は」と話を変えたので、言えない。
咲は今度こそちゃんとやろうと思っていた。
前日の夜、速記の練習をした。重要な単語だけをメモする方法を調べた。会議前に十分早く来て、準備を整えた。水も持参した。集中できるように、お気に入りのペンも持ってきた。そのペンは大学の卒業式に母親にもらったもので、「頑張れ」と言いながら渡されたものだ。
「頑張れ」という言葉は、頑張っているときに言われると少し痛い。
会議は始まった。最初の十五分は、うまくいく。発言者の名前と要旨をメモし、決定事項に印をつけ、タイプのスピードも悪くない。咲は内心、今日はできる、と思い始めていた。
しかしその十五分後、桐島部長が言う。
「日向、ちゃんと取れてるか?後でしっかり出してもらうぞ、前回みたいなのは困る」
前回みたいなの、という言葉が、胸の中で跳ねた。
前回は、蓮さんが助けてくれた。それがなければ、何も出せていなかった。桐島部長はそれを知らない。知らないから言える。しかし言われた言葉は、知らないかどうかに関係なく、刺さる。
咲は「はい」と答えた。
指が、止まった。
止まったのは一瞬のことだが、その一瞬の間に次の発言が来る。発言を追おうとして、前の発言が消える。また渋滞が起きた。今度は解消されない。頭の中で言葉が積み重なり、どれが先かわからなくなり、タイプすべきことが見えなくなる。
胸の中で、何かを掴んでいた手が、離れた。
まずい、と思った瞬間に遅かった。
目の端に、水が浮いた。
涙が、出た。
最初は少しだった。咲は目を強く瞬きして、誤魔化そうとする。しかし特異体質の涙は、普通の涙と違って、一度出始めると連鎖する。感情と体が繋がっていて、涙が出ることで更に感情が揺れ、更に涙が出る。
会議室の床に、水が滲んだ。
最初は咲の足元だけだが、数秒で広がる。透明で、しかし海水の匂いがした。出席者が気づく。田中主任が「あっ」と言う。別の誰かが椅子を引く。
桐島部長が立ち上がった。「日向、大丈夫か」
大丈夫ではない。
「すみません」と咲は言う。声が震えている。「すみません、すみません」
謝ることで感情を押し込もうとするが、逆効果だ。謝るたびに、悔しさが増した。こんな場所で泣きたくなかった。泣いてはいけないと知っていた。泣くと、こうなると知っていた。それでも泣いてしまったことへの恥ずかしさと怒りが、更に涙を呼ぶ。
床の水が、膝の高さになった。
会議室の参加者が、椅子に立ち上がった。
蓮が、扉を開けた。扉の外に水が溢れ出す。廊下に海水が広がっていった。三階のフロア全体が、静かに水没し始める。
桐島部長が「おい、総務呼べ」と言う。
田中主任がスマートフォンを取り出す。
蓮は咲を見ていた。怒ってもいない。焦ってもいない。ただ、見ていた。
水が、腰の高さになった。
水は最終的に三階フロア全体を満たした。特異体質者の緊急対応マニュアルに従い、総務部が連絡を取り、特異体質対応専門業者が二時間後に到着する。排水作業は三時間かかった。フロアの机とパソコンは防水対応されていたので実害は最小限だが、会議室Bの資料が一部水を被った。
業者が帰った後、フロアには海水の薄い匂いが残る。その匂いは一週間消えない。
咲はその日、早退を許可された。桐島部長は何も言わない。田中主任は「気にしなくていい、こういうことは誰にでもある」と言ったが、特異体質によってフロアを水没させた経験がある人間がそのフロアに何人いるかは、言及しない。
蓮は、帰り際の咲のデスクに、一枚のメモを置いていた。
『明日、話せる?』
たったそれだけだ。
問題は、排水作業が終わった翌週に発覚する。
三階フロアの給湯室の奥にある少し広めのスペース、非公式に「奥の間」と呼ばれていて誰も管理していない場所に、水が残っていた。
正確には、水が残っていただけではない。
生命が、いた。
総務部の岡田係長(三十五歳、独身、趣味はベランダ菜園)が発見する。奥の間のドアを開けると、そこには三十センチほどの深さで海水が溜まっており、その中を何かが動いていた。
「……イルカ?」
岡田は思わず声に出す。
それは確かにイルカだ。全長四十センチほどの、子どものイルカ。灰色の滑らかな体を持ち、鼻先が少し上向きで、黒い目が丸くて、水の中でゆったりと回っている。
岡田はしばらくドアの前で立ち尽くした。
特異体質者が生み出した生命、という分類があることを岡田は知っている。しかし特異体質関連の生命体の多くは、植物や昆虫や微生物の類で、哺乳類が生まれることは非常に稀だった。特に海洋哺乳類が陸上の職場に生まれることは、文献上でも数例しかない。
岡田は総務部長に報告した。総務部長は特異体質対応専門業者に連絡する。業者の担当者は「イルカは初めてですね」と言う。
ここで、なぜ涙の海からイルカが生まれたのかについて、少し説明が必要になる。
咲の涙から生まれた海水は、ただの塩水ではない。感情の記憶を溶かし込んだ水だ。咲がその日会議室で流した涙は、悲しみだけでできていなかった。悔しさがあり、恥があり、怒りがあり、そして底の方に、誰かに助けてほしいという、声にならない祈りがあった。その祈りが水に溶け込んで、奥の間の床に溜まった残り水の中で、一週間かけて育った。
祈りから生まれた生命は、賢くて、社会性が高くて、声でコミュニケーションを取る。
だからイルカだった。
イルカの件は、当然ながら第三営業部にも伝わる。日向咲の涙から生まれたということも、すぐに知れ渡った。
「頭いいよな、イルカって」と田中主任は言う。
「日向さんが賢いってことですよね」と別の同僚が言う。
咲は顔を赤くして、自分のデスクで小さくなった。蓮は咲のデスクの方を一度見る。その視線に何が込められているかは、咲には見えない。
翌日、別の問題が起きた。
イルカが、議事録を食べた。
特異体質対応業者が奥の間に置いた水槽の中で、そのイルカが待機中に会議資料に接触し、食べた。資料は会議室Bの棚に保管されていたものが排水作業の際に奥の間に移動されており、その中に先週の会議の参考資料と、咲が作成途中だった議事録の印刷版が含まれていた。
イルカは印刷された議事録を、丁寧に選んで食べた。
差し出された書類は大抵かじられる。稟議書は食べず、議事録と会議メモは好んで食べ、営業報告書は少しかじって残した。業者のスタッフが「感情密度で選別しているのかもしれない」と不思議そうにレポートに書く。
議事録には感情が詰まっている。会議という場に生まれた感情が、中立的な文体で記録されている。それをイルカは感じ取り、食べる。感情の化石を食べるようなものだ、と咲は思った。感情から生まれた海から生まれた生き物が、感情の記録を食べる。生命のサイクルとしての完結がそこにある。
「日向」と蓮の声がする。「議事録、もう一回一緒に作り直そう。今度は俺がメモを取る。日向はそれを整理してまとめる形で」
咲は顔を上げた。「でも、蓮さんの仕事が」
「今日は余裕ある」
これも嘘だろうと、田中主任は思うが、口は挟まない。
ある夜、咲は残業していた。蓮も残っている。
フロアの他のメンバーが帰り、二人になった。
「奥の間、見てきてもいいですか」と咲は聞く。
「行ってこい」と蓮は言う。一拍おいて「俺も行く」と言った。
二人で奥の間に行く。
イルカは起きていた。暗い水の中で、淡いLEDライトに照らされて、ゆったりと泳いでいる。咲が近づくと、いつものように顔を向ける。今日は鼻先を水面に出して、咲の手に触れようとするように近づいてきた。
咲はそっと手を差し出す。イルカの鼻先が、指に触れた。冷たくて、滑らかで、生きていた。
「……私が泣いて生まれたんですよね」と咲は小さく言う。
「うん」と蓮は答える。
「責任あるのかな」
「どういう責任?」
「わからないけど」咲は指をゆっくり動かす。イルカは逃げない。「この子が生まれたのは、私が泣いたからで、私が泣いたのは、うまくできなかったからで」
「うまくできなかったのは、初めてだったからだろ」
「初めてじゃない言い訳はいつまで使えますか」
蓮はしばらく答えない。
「ずっとは使えない」と蓮は言う。「でも今はまだ使っていい」
咲はイルカを見たまま、少し黙る。「蓮さんは、初めての会議でうまくできましたか」
「全然」
「議事録は」
「書いたことがあると思い込んでたら、実は全部別の人が書いてたことに一年後に気づいた」
咲は少し笑う。思わず笑った。笑ったことに自分で驚く。
「それは」と咲は言いかける。
「最悪だろ」と蓮が先に言う。
二人で少し笑った。奥の間に笑い声がある。イルカが水を跳ねた。
「なんで笑わせようとしたんですか」と咲は聞く。
蓮はまた一拍置く。
「笑ってほしかったから」
それだけ言って、蓮は「そろそろ帰ろう」と言った。
帰り道、咲は夜の空気の中で、胸の中に何かが残る感覚がある。名前はない。まだ名前をつける段階ではない。でも確かにそこにあった。
しみちゃんは夜の顔をしていた。隣のビルのエントランスライトに照らされて、いつもより少しだけ輪郭がはっきりしている。
その夜のことを、蓮は後になって、あの夜がすべての始まりだったと思う。
奥の間のドアを閉めて、廊下を歩いて、エレベーターを待っていたとき、蓮の頭の中にイルカの鳴き声が残っていた。正確には鳴き声ではない。イルカが水の中で発していた何か、超音波めいた、しかし音というより感触に近い振動が、耳の奥にまだ残っていた。
気にしなかった。
残業の疲れか、それとも閉鎖空間にいたせいだろうと思った。
家に帰って、シャワーを浴びて、布団に入った。
その夜、蓮は夢を見た。
夢の始まりはいつも唐突だ。気がつくと、どこかにいる。
その夜、蓮がいたのは、海だった。
海と言っても広い外洋ではなく、どこかの室内に満たされた海水だ。天井があった。蛍光灯がついていた。水中なのに息ができた。足が底につかないくらい深い。
イルカがいた。
あの、奥の間のイルカだ。四十センチの子どものイルカ。しかし夢の中では、それが昼間見た姿より少し大きく感じる。あるいは蓮の方が小さくなっているのかもしれない。
イルカは蓮に近づいてきた。
そして何かを言った。
言った、と言っていいのかわからない。口が動いたわけではない。超音波のような、あの振動が、水を通して蓮の全身に伝わってきた。それは言語ではなかった。少なくとも、人間の言語ではなかった。しかし何かを意味していることはわかった。何かを伝えようとしていることはわかった。
蓮は、その意味を理解できなかった。
ただ、沈黙を続けるのは失礼な気がした。
だから蓮は言った。
「うん」
その瞬間、イルカの目が一度だけ細くなった。了解、というより、契約成立、というような、そういう細くなり方だった。
蓮はその目に違和感を覚えたが、夢の中での違和感はたいてい朝になれば消える。
翌朝、消えなかった。
最初の変化は、本当に小さかった。
夢から覚めた朝、蓮はコーヒーを入れようとして、キッチンに向かった。そのとき、窓際に置いていた枯れかけた観葉植物の根元に、白くて細い糸のようなものが一本、出ていた。
菌糸だ。
土から伸びている。長さは一センチほど。
蓮はそれをしばらく見た。
観葉植物は水をやり忘れがちで、前から枯れかけていた。菌糸が出てもおかしくはない。有用菌の一種かもしれない。あるいは単に土が古くなったせいかもしれない。
気にしなかった。
その日会社に行って、仕事をして、帰ってきた。
翌日も同じだった。
翌々日、菌糸は三本になっていた。
蓮は観葉植物を見て、少し気になったが、依然として気にしないことにした。
その夜また夢を見た。
今度は会議室だった。
普通の会議室Bではない。天井がない。天井があるべき場所に、夜空がある。星が見えた。テーブルは普通のテーブルだが、椅子の数が合わない。六脚あるべきところに、七脚ある。誰が座るかわからない七脚目が、ドアの近くにある。
桐島部長がいた。
いつもの席に座って、「で、結果は?」と言っている。しかし声の周波数が、少しおかしい。低すぎる。イルカの振動に似た何かが混じっていた。
咲がいた。
白紙のドキュメントの前に座って、ペンを握っている。卒業記念のペンだ。その手が、少し震えている。
蓮が「大丈夫か」と言おうとした瞬間、目が覚めた。
翌朝、観葉植物の菌糸は五本になっていた。
そして植物の葉が、一枚、新しく開いていた。枯れかけていた植物に、新しい葉が。
蓮はその葉を見て、初めて、何かが変だと思った。
しかし確信には至らなかった。
確信に至らないままに日々は続いて、菌糸は少しずつ増えて、夢は少しずつ変わっていった。
三日後の夢では、会議室の海の水位が上がっていた。床に海水が満ちていて、テーブルの脚が水の中にある。桐島部長は椅子の上に立って「で、結果は?」と言っている。咲はテーブルの上に乗って、それでも白紙のドキュメントにペンを当てようとしている。
蓮は水の中に立っていた。腰の高さまで水がある。
イルカが水の中を泳いでいた。今度は大きい。夢のたびに、少し大きくなっている気がした。
翌朝、観葉植物の菌糸は網状に広がり始めていた。土の表面を覆い始めている。植物の葉はさらに一枚増えていた。
蓮は菌糸と葉を交互に見た。
関係がある。
そう思い始めたのは、このときだ。
夢の中で何かが起きると、翌朝、現実に何かが起きる。
小さなことだ。菌糸が増える。葉が生える。どちらも害があるとは言えない。むしろ植物が生き返っているのは好ましいとも言える。
しかし、これはおかしい。
蓮は特異体質者ではない。少なくとも、これまでの人生でそんな徴候はなかった。どこにも申請していないし、研究センターで調べてもらったこともない。
それなのに、なぜ。
蓮は夢の中でイルカに言った「うん」を思い出した。
あの「うん」が、何かを変えたのか。
確かめる方法がない。
特異体質研究センターに相談することもできる。しかし蓮には、まだそれをしたくない理由があった。
自分が特異体質者になった原因が、咲のイルカにあるとしたら、その事実が咲を傷つけるかもしれない。
咲は自分の特異体質が原因でフロアを水没させ、まだ自分を責めているふしがある。そこへ「日向のイルカが俺を特異体質者にした」などと言える状況ではない。
だから蓮は、黙った。
黙って、観察した。
そうこうするうちに、イルカが専門施設に移送された日が来た。
木曜日の朝、第三営業部のほぼ全員が奥の間に集まる。桐島部長でさえ来る。「業者への対応確認だ」と言いながら。
咲は最後にもう一度、鼻先に指を触れさせた。
「ちゃんと、幸せにね」と咲は小さく言う。
イルカが運ばれていく。
奥の間に、空の水槽と、海水の匂いだけが残った。
その夜、蓮の夢に変化があった。
これまでの夢は、会議室に海水が満ちていたり、宇宙が見えたりする程度のものだった。スケールは非日常的だが、そこに存在する登場人物たちは、それほど危うくはなかった。
しかしイルカが施設に移送されたその夜から、夢の色が変わった。
蓮がいたのは、いつもの会議室だ。しかし今夜の海水の色が違う。黒みがかっている。そして水面に、白い泡が浮いている。泡は弾けるたびに、小さな白い糸を散らす。
菌糸だ。
海水の中から、菌糸が生えている。
一本、二本では終わらない。海水の表面が白く染まるほどの菌糸が、次々と水から顔を出していく。
そしてその菌糸が、動いていた。
漂っているのではなく、向かっている。何かに向かって、積極的に伸びていく。
会議室の壁に向かっている。
壁に触れると、菌糸は壁を食べ始めた。
音もなく、静かに、しかし確実に、壁の素材を分解していく。コンクリートが白くなり、石膏が溶け、配線が露出する。菌糸は建物の素材を食べながら、さらに広がっていく。
蓮は見ていた。止められなかった。
菌糸は天井に達した。天井を食べ始める。
天井が消えていく。
天井の向こうに、また宇宙が見えた。
しかし今夜の宇宙は、以前と違う。星の光が弱い。いくつかの星は、もう消えかけている。菌糸が宇宙にも伸び始めていて、星の光を少しずつ吸っている。
蓮は叫ぼうとした。
喉から声が出なかった。
菌糸は床に戻ってきた。床を食べ始める。白くなっていく床の表面。咲がいた椅子が、足元から白く染まっていく。
「やめろ」と蓮は言おうとした。やはり声が出ない。
咲は気づいていない。ドキュメントを見ている。ペンを握っている。椅子の足元が白く染まっていくのに、気づいていない。
蓮は足を動かそうとした。
動いた。
夢の中で、今夜初めて、足が動いた。
蓮は咲に向かって走った。菌糸を踏んだ。足元が白くなる感触がある。それでも走った。
咲の椅子に手が届いた瞬間、目が覚めた。
翌朝。
蓮は六時に起きた。
布団の中で、夢の後半をもう一度再生した。
菌糸が壁を食べた。天井を食べた。床を食べた。星の光を食べた。何でも食べた。
止まらなかった。
蓮はゆっくりと起き上がり、観葉植物を見た。
菌糸は増えていた。
これまでとは比べ物にならない量だ。鉢の土の表面が完全に白く覆われ、鉢の縁を越えて、床に向かって数本の糸が伸び始めている。長さは五センチほどだが、昨夜まではそこまで達していなかった。
蓮は床に膝をついて、菌糸を間近で見た。
動いていた。
目を凝らすと、わかる程度の速さで、ゆっくりと伸びている。
壁に向かって。
蓮は立ち上がった。鉢を持って、窓を開けて、ベランダに出した。
菌糸がベランダの床に触れた。
五分後、ベランダの床に白い細い糸が、放射状に広がり始めた。
蓮はそれを見て、すべてを理解した。
夢の中で菌糸が建物を食べた。現実でも、菌糸が広がっている。夢の規模と現実の規模は違う。しかし方向性は同じだ。このまま放置したら、どこまで広がるのかはわからない。
蓮は鉢をベランダに置いたまま、室内に戻った。
スマートフォンを取り上げた。
特異体質研究センターの番号を調べた。
かけなかった。
スマートフォンをテーブルに置いた。
しばらく座っていた。
頭の中を、あの夜の「うん」が通り過ぎた。
イルカが何かを言った。蓮はわからなかった。わからないまま「うん」と答えた。そしてその夜から、夢が変わり始めた。菌糸が現れ始めた。
これは、自分の体質ではない。
イルカが与えた何かだ。
あのイルカは、咲の涙から生まれた。咲の感情から生まれた。咲の祈りから生まれた。そのイルカが、蓮に何かを渡した。
渡した、というより、課した。
何を課したのかは、まだわからない。
蓮は窓の外のベランダを見た。白い菌糸が、朝の光の中でゆっくりと広がっている。
会社に行かなければならない、と蓮は思った。
シャワーを浴びた。コーヒーを飲んだ。鞄を持った。
ベランダの鉢には、目をやらないようにした。
出社すると、咲はもう来ていた。
「おはようございます」と咲は言う。
「おう、おはよう」と蓮は言う。いつもと変わらない声で、言えた。
モニターを斜めにして、仕事を始める。
数字と文字を処理しながら、蓮は自分の手元を見ていた。
今朝の菌糸が、頭から離れない。
問題はあのベランダだけではない。夢の中で菌糸は建物を食べた。現実の菌糸は今のところベランダで止まっているが、夢がまた更新されたら、次の朝には室内に達しているかもしれない。
そしてより深刻な問題がある。
夢の中で菌糸は、星を食べた。
咲の涙から生まれた星だ。あの夢の中で、咲の感情から生まれた光が宇宙の星になった。それを菌糸が食べていた。
現実に置き換えると、それは何を意味するのか。
蓮にはわからない。しかし想像はできる。あまり良くない想像しかできない。
午前中、仕事をしながら蓮は三度、咲の方を見た。
咲はいつも通り働いている。今日は議事録の練習用に、過去の会議録のフォーマットを確認している。昨日より少し落ち着いた顔をしている。
蓮は三度とも、目を逸らした。
昼休みに公園に行った。
咲も来た。偶然ではない。いつの間にか、二人で昼を食べることが増えていた。
鳩がいた。
咲が鳩にパンをあげた。鳩は食べて、飛んでいった。
「今日の蓮さん、なんかおかしくないですか」と咲は唐突に言う。
蓮は空を見たまま答えた。「そうか?」
「なんか、いつもより画面を見てる時間が長い気がします。考え事してるみたいな」
「仕事が立て込んでる」
「そうじゃない感じがします」
蓮は答えなかった。
咲も答えを押さなかった。二人でしばらく、鳩のいなくなった空を見た。
「蓮さん、昨日の夜、よく眠れましたか」と咲は聞く。
「眠れた」
「夢は見ましたか」
蓮は、そこで少し間を置いた。
「なんで夢のことを聞く」
「顔色が、夢見が悪かったときの顔に似てるかなって思って」
「夢見が悪かったときの顔なんてわかるのか」
「私が毎朝していた顔なので」と咲は言う。「わかります」
蓮はその答えを、少し意外に思った。
「夢は見た」と蓮は言う。「内容は言わない」
「それで大丈夫ですか」
「大丈夫」
咲は少し黙った。
「蓮さんが大丈夫じゃないときに大丈夫と言うかどうか、私にはまだわかりません」と咲は言う。「でも、もし話せるようになったら、聞きます」
蓮は咲の横顔を見た。
咲は空を見たままだ。しみちゃんのビルが、この公園からも少し見えた。晴れているから、今日のしみちゃんは嬉しそうな顔をしているはずだ。
「わかった」と蓮は言う。
それ以上は言えなかった。
その夜の夢は、さらに進行していた。
菌糸が、宇宙を覆い始めていた。
会議室の天井はもうなかった。宇宙が直接見えている。そしてその宇宙の中を、白い菌糸の網が広がっていく。星から星へ、銀河から銀河へ、菌糸は光を吸いながら伸びていく。
吸われた星は暗くなった。光を失った星は小さくなり、最終的に消えた。
菌糸は生命を食べている。
有機物を食べているのではなく、生命そのものを、あるいは生命の根源にある何かを、食べている。
夢の中の海は黒く濁っていた。菌糸の廃液が混じっているのかもしれない。イルカはいなかった。イルカが施設に移送されたから、夢の中からもいなくなった。イルカがいなくなってから、菌糸の速度が上がった気がする。
抑止する力が、なくなった。
蓮はその仮説を、夢の中でぼんやりと考えた。
イルカは菌糸の拡大を抑えていた。イルカがいる間は、菌糸は観葉植物の周囲に留まっていた。イルカがいなくなってから、菌糸は外に向かい始めた。
だとしたら。
イルカを呼び戻すことはできないか。
夢の中でそう思った瞬間、宇宙の遠くで、何かが光った。
消えかけていた星が、一瞬だけ強く輝いた。
そしてまた暗くなった。
翌朝、蓮は確認した。
ベランダの菌糸は、室内に戻っていた。
窓の隙間から、細い糸が数本、床に伸びている。
蓮は窓を閉めた。しかし菌糸はすでに室内にある。窓を閉めても意味がない。
スマートフォンを取った。
今度は、かけた。
特異体質研究センターではなく、特異体質対応専門業者に。イルカを運んでいった、あの担当者に。
しかし電話は繋がらなかった。営業時間外だった。
蓮は時計を見た。朝の六時十分だ。
窓の外で、菌糸がゆっくりと伸びている。
仕方なく、蓮は鞄を持った。
会社に行くしかない。
出社すると、フロアはまだ誰も来ていなかった。
蓮はデスクに座り、モニターを斜めにした。
いつもと同じ動作だ。しかし今朝は、モニターを斜めにしたことで前の職場の上司の記憶が蘇った。あの上司が「やる気がなくなる」と言ったとき、蓮は黙って画面を斜めにした。反論しなかった。ただ角度を変えた。
問題に正面から向かうよりも、少し角度を変えて対処する。それが蓮のやり方だった。
今回は、角度を変えるだけでは足りないかもしれない。
ドキュメントを開く。
カーソルが点滅している。
蓮はタイプし始めた。
夢の内容を。
会議室が宇宙になった夢を。咲が泣いていた夢を。イルカが議事録を食べた夢を。菌糸が生まれた夢を。菌糸が宇宙を食べ始めた夢を。
書きながら、何かが落ち着いていく感覚がある。
夢を言語化することで、夢の密度が薄れるような感覚だ。しかし確信はない。試しているだけだ。
書き続けた。
田中主任が来た。岡田係長が来た。他のメンバーが来た。
咲が来た。
「おはようございます」と咲は言う。
「おう、おはよう」と蓮は言う。
咲はデスクに荷物を置きながら、蓮の方を見た。昨日と同じように、少し気にしている目をしている。しみちゃんのビルを確認して、今日も曇りだから眠そうな顔だなと咲は思った。
午前中が過ぎた。
蓮はひたすらタイプし続けた。夢の内容は長くなった。詳細を思い出すたびに追記した。菌糸が壁を食べていく様子を書いた。星が消えていく様子を書いた。
書くことで、現実の菌糸が止まるかどうかはまだわからない。
しかし今朝のベランダの菌糸は、部屋に数本入ってきてから、それ以上は伸びていないようだった。
偶然かもしれない。
昼になった。
「今日も公園行くか」と蓮は言う。
「行きます」と咲は言う。
二人で公園に向かいながら、咲は蓮の横顔を見た。昨日よりさらに、考え事をしている顔だ。
「昨日より顔色悪いです」と咲は言う。
「そうか」
「夢、また見ましたか」
蓮は少し間を置いた。「見た」
「昨日より悪い夢でしたか」
「……悪い、とも言いきれない。ただ進んでいる感じがした」
「進んでいる」と咲は繰り返す。「夢が、連続してるんですか」
「うん」
「最初はいつから」と咲は聞く。
「……奥の間に、日向のイルカを見に行った夜から」
咲は少し立ち止まった。蓮も止まった。
「奥の間の夜」と咲は言う。「イルカが何かしましたか」
「何かをされた、というより」蓮は少し考えた。「何かを言われた。イルカに」
「イルカの言葉は」
「わからなかった」
咲は蓮の顔を見た。蓮は前を向いている。
「わからなかったのに、どうしたんですか」と咲は聞く。
蓮は一瞬だけ、目を細くした。
「『うん』って言った」
咲は少し間を置いた。
「それは」と咲は言いかける。
「わかってる」と蓮は言う。「おかしかったと思う。でもあの瞬間、沈黙が失礼な気がして」
「イルカに対して失礼かどうかを気にしたんですか」
「……気にした」
咲は少しだけ笑った。笑ってから、表情を戻した。
「それから現実にも変化が出てますか」と咲は聞く。
蓮は答えなかった。
答えなかったことが、答えだった。
公園のベンチに座って、二人は黙った。鳩がいた。今日は咲がパンを持ってきていない。鳩は少し待ってから、別の方向に歩いていった。
「話してください」と咲は言う。命令ではなく、ただ、落ち着いた声で言う。
蓮は空を見た。
「家の観葉植物に、菌糸が出た」と蓮は言い始める。「最初は一本だった。夢を見るたびに増えた。今朝は室内に入ってきた」
咲は黙って聞いている。
「夢の中で、菌糸がすべてを食べていく。壁を食べ、天井を食べ、宇宙を食べる。星も食べる」
「宇宙の星を」
「日向の涙から生まれた星を食べてる」
咲は少しだけ息を飲んだ。
「それが現実にも影響してるということですか」と咲は言う。
「そう思ってる。確認はしていない。でも、夢で菌糸が進むたびに、現実の菌糸も進む。今朝、部屋の菌糸を書き出した。夢の内容を言語化したら、少し止まった気がした。だから今も書き続けてる」
「それで今朝から一人でずっとタイプしてたんですね」と咲は言う。
「うん」
「なんで言わなかったんですか」
蓮は少し間を置いた。
「日向のイルカが原因かもしれなくて」と蓮は言う。「責める気はないし、責任を感じる必要もない。でも言ったら、また自分のせいだと思うだろうと思って」
咲は少しの間、前を向いていた。
「私のせいだとは思わないです」と咲は言う。「イルカがしたことは、イルカがしたことです。でも」
「でも?」
「私が産んだイルカがしたことなら、私も一緒に向き合います」
蓮はその言葉を、少し時間をかけて受け取った。
「ありがとう」と蓮は言う。
「それより」と咲は立ち上がる。「今から蓮さんの部屋に行ってもいいですか。菌糸の現状を確認したいです」
「昼休み中に戻れないぞ」
「田中主任に連絡します」
「それはちょっと」
「じゃあ今夜」と咲は言う。「仕事終わったら、一緒に行きます」
蓮は咲を見た。
真剣な顔をしている。泣いていない。怖がってもいない。ただ、正面から向かおうとしている。
「わかった」と蓮は言う。
二人でベンチから立ち上がった。
会社に戻る道の途中、咲は一度だけしみちゃんのビルを見上げた。曇りの日のしみちゃんは眠そうな顔をしている。でも今日の咲には、しみちゃんがただ眠そうにしているのではなく、何かを待っているように見えた。
その夜、仕事が終わると同時に、二人はビルを出た。
電車に乗って、蓮のアパートに向かった。
道中、咲は「夢の内容を全部教えてください」と言う。蓮は電車の中で、最初の夢から順番に説明した。海に満ちた会議室、天井のない宇宙、イルカが議事録を食べる光景、そして菌糸が宇宙を食べ始めた最近の夢。
咲は黙って聞いた。時々、「その菌糸はどの方向に向かっていましたか」「星が消えた順番は」「イルカが消える前と後で、菌糸の速度は変わりましたか」と聞いた。
質問が具体的だった。
「こ、こういうの詳しいのか」と蓮は言う。
「特異体質の研究文献を、中学生のころから読んでました」と咲は言う。「自分の体質を理解したくて」
「そ、そうか」
「特異体質由来の生命体が別の人間に影響を与えた事例は、過去に十七件記録があります」と咲は言う。「そのうち、夢を介したケースは三件だけです」
「詳しすぎる」
「三件とも」と咲は続ける。「解決しています」
「どうやって」
「一件は、影響を与えた生命体と再接触することで解決しました。もう一件は、影響を受けた体質者が自分の体質を記録することで解決しました。三件目は」
「三件目は?」
咲は少し間を置いた。
「二人で協力して解決しました。手法は文献に詳しく書かれていなかったんですが」
「二人で」と蓮は繰り返す。
「はい」と咲は言う。「私と、蓮さんで」
電車が駅に着いた。二人は降りた。
蓮のアパートのドアを開けた瞬間、咲は息を飲んだ。
床に、菌糸が広がっていた。
朝よりずっと増えている。玄関から見える範囲だけで、床の三分の一が白く覆われている。観葉植物の鉢はまだベランダにあるが、窓の隙間から伸びた菌糸がすでに室内の壁に沿って進んでいた。
「昼間よりだいぶ増えましたね」と咲は冷静に言う。
「朝より多い」と蓮は言う。「昼に書いた分で少し止まったと思ったが、また動き出したか」
「今日の夢は何時ごろ見ましたか」と咲は聞く。
「だいたい明け方に集中する。三時から五時ごろ」
「じゃあ今夜も見ますね」
「見ると思う」
咲は菌糸をしゃがんで見た。白くて細い。土や床の素材を分解しているのか、菌糸が通った跡は少し白くなっている。有機物を食べているというより、何か別のものを食べているように見えた。
「蓮さん、今朝書いた夢の文章、見せてもらえますか」と咲は言う。
蓮はスマートフォンを出して、ドキュメントを咲に見せた。
咲はスクロールしながら読んだ。
「これを書いた後、菌糸の動きが一時的に止まったんですね」
「止まったように見えた。確証はない」
「菌糸が食べているのは、夢の密度だと思います」と咲は言う。
「夢の密度」
「特異体質由来の体質で、夢が現実化するケースがあります。そのとき、夢のエネルギーが現実に滲み出て、周囲の物質や空間を変質させる。菌糸は、その滲み出たエネルギーを媒介として生まれていると思います」
「だから夢を書き出すと少し止まったのか」
「夢のエネルギーを言語に変換すると、現実への滲み出しが減る。一種のガス抜きみたいなものだと思います」
蓮は菌糸を見た。
「でも完全には止まらない。書いてる間は遅くなるが、書き終わると再開する」
「そうです。それは、夢の根本的な原因が解決していないからです」と咲は言う。「私のイルカが蓮さんに何かを課した。その課題が完了するか、あるいはイルカとの契約を解除しない限り、夢は続きます」
「契約を解除する方法は」
咲はしばらく黙った。
「文献には載っていませんでした」と咲は言う。「でも、仮説があります」
「聞かせてくれ」
「イルカが蓮さんに課したのは、私の議事録を食べたことと関係があると思います」と咲は言う。
蓮は少し考えた。
「議事録を食べた。だから」
「だから、議事録を書くことを課した」と咲は言う。「イルカは感情の記録を食べます。でも議事録を食べるだけでは、感情は消化されない。感情は循環する必要がある。消費されて、記録されて、また新しい感情に変わる。その循環を完成させるために、イルカは蓮さんに議事録を書かせようとしたんだと思います」
「俺に、日向の議事録を書かせようとした」
「それだけじゃないと思います」と咲は言う。「この夢の内容も含めて、全部書くことを課していると思います。夢の中の宇宙も、菌糸も、星が消えていくことも。全部が一つの記録として完成したとき、イルカの課題が解除されるんじゃないかと」
蓮はしばらく菌糸を見た。
白い糸が、壁に向かってゆっくりと伸びている。
「つまり」と蓮は言う。「夢の内容を書き切れば、これが止まる」
「止まると思います。確証はないですが」
「賭けになる」
「はい」と咲は言う。「でも私は、この仮説を信じています。蓮さんの夢の中で、菌糸は感情の記録を食べていた。議事録を食べた。星を食べた。星は私の涙から生まれた感情だから、私の感情の記録も食べていた。記録が食べられると、感情の循環が止まる。そしてイルカはそれを止めたかった。だから蓮さんに課したのは、破壊ではなく修復の役割だと思います」
「イルカは、なかなか大きなことを課してくれたな」
「そう思います」と咲は言う。「でも、一人でやらなくていいです。私も書きます」
蓮は咲を見た。
「キミが書くのか」
「私の感情から生まれたイルカが課した問題です。私が一緒に解決します」
蓮は少し間を置いた。
感情が揮発しなかった。
「わかった。今夜やるか」
「今夜、やりましょう」
蓮のアパートのテーブルに、二人で向かい合って座った。
蓮はノートパソコンを開いた。咲はスマートフォンのメモアプリを開いた。
「蓮さんは夢の内容を書いてください」と咲は言う。「私は、その夢の背景にある話を書きます。私がなぜ泣いたか、イルカがなぜ生まれたか、議事録に何が詰まっていたか」
「二人の記録を、合わせるのか」
「合わせて、一つの文章にします」
「それが議事録の代わりになる」
「議事録も、別途ちゃんと書きます」と咲は言う。「桐島部長にも怒られないように」
蓮は少し笑った。
「順番は?」と蓮は聞く。
「始まりから順番に。最初に会議があって、私が泣いて、イルカが生まれて、蓮さんが夢を見て、菌糸が現れた。その順番で」
「わかった」
二人は書き始めた。
蓮はドキュメントに、夢の最初から書いていった。海になった会議室、天井のない宇宙、イルカの振動、「うん」と言ってしまった瞬間。書くたびに、あの夜の感触が戻ってきた。水の中の冷たさ、イルカの目が細くなった瞬間の奇妙な感覚、振動が全身に伝わったときの不思議な感触。
咲は咲で、自分の側から書いていった。入社した日のこと、コピー機の前で泣きそうになったこと、会議室で指が止まったこと、涙が出て止まらなかったこと、そして奥の間でイルカに触れたこと。
書きながら、時々二人は確認し合った。
「奥の間に行った夜、私が指を差し出したとき、イルカはすぐに触れてきましたか」
「うん、すぐに来た。逃げなかった」
「その後、私が帰ってから、蓮さんも帰りましたね」
「帰った。家に着いたら、なんか頭の中に振動が残ってた」
「それがイルカの言葉だったんですね」
「今から考えると、そうだと思う」
「私、知らなかった」と咲は言う。「イルカが蓮さんに話しかけるつもりだったなんて」
「キミが教えなきゃわからないだろ、そんなこと」
「そうですね」と咲は言う。「でも、もしイルカが蓮さんに話しかけたとしたら、何を言ったんだろうって考えたんです」
「何を言ったと思う」
咲はしばらく考えた。
「議事録を、一緒に書いてほしい、って言ったんじゃないかなって」
蓮は手を止めた。
「一緒に、か」
「イルカは私の感情から生まれて、私が書けなかった議事録を食べた。でも食べただけでは記録は完結しない。感情を吸収した誰かが、それを言葉にして外に出す必要がある。イルカはその役割を、蓮さんに頼んだんだと思います」
「頼み方が無茶だろ」
「イルカなので」と咲は言う。「言語は使えない」
蓮は少し笑った。
菌糸が壁を静かに進んでいる。しかし書き始めてから、速度が落ちているように見える。
二人はまた書き続けた。
夜が深くなった。
咲が「少し疲れたので、お茶を入れていいですか」と聞く。「戸棚の右にある」と蓮が答える。咲はキッチンに立って、お湯を沸かした。菌糸がキッチンの床の端まで来ていた。咲はそれを一度見て、また作業に戻った。
怖がっていないわけではない。しかし今は書く方が先だ、と思っている。
茶を二杯入れて、テーブルに戻った。
蓮は画面を見ながら受け取った。「ありがとう」と言う。
咲はまた書き始めた。
深夜一時になった。
蓮のドキュメントは、夢の最後まで書き切っていた。菌糸が宇宙を食べる夢の、最も暗い部分まで。消えていく星の一つひとつを、できるだけ丁寧に書いた。星が消えるたびに、何かが失われる感覚があった。夢の中で覚えていた感覚を、言葉に変えた。
咲のメモは、咲の側の物語を書き切っていた。入社から今夜までを、咲の視点で書いた。泣きたくなかった会議室のこと、奥の間でイルカに指を触れさせたときの感触、蓮が「笑ってほしかった」と言ったこと、公園のベンチで「よかった」と言ったこと。
「どちらが先に書き始めるか」と蓮は言う。
「合わせましょう」と咲は言う。
二人は互いの文章を読み合った。蓮が咲の文章を読み、咲が蓮の文章を読んだ。
蓮は咲の文章を読んで、初めて知ることがあった。
咲が会議室で泣いたのは、単に追いつけなかったからではない。「前回みたいなの」という桐島部長の一言が、咲の持っていた「ちゃんとやれば大丈夫」という最後の頼りを壊したからだ。咲は前の会議で蓮に助けてもらったことを知っている。だから「前回みたいなの」という言葉は、蓮の助けを前提に言われた言葉だと受け取った。自分だけの力では最初から足りないのだ、という解釈に落ちた。
そこから涙が始まった。
咲は蓮の文章を読んで、初めて知ることがあった。
蓮がイルカに「うん」と言ったのは、沈黙が失礼な気がしたからだ。イルカは咲の感情から生まれた存在だ。その存在に失礼なことはしたくない、という感覚が蓮の中にあった。意識していなかったかもしれないが、そこに咲がいた。
「読んだ」と蓮は言う。
「読みました」と咲は言う。
少し、沈黙した。
「俺、日向の議事録を、最初から書き直したいと思ってた」と蓮は言う。「手伝いたかったというより、書き直したかった。自分が書き直せば正確な記録になる、という発想じゃなくて」
「どういう発想でしたか」
「日向が書こうとして書けなかったものを、日向のために完成させたかった」
咲は少し間を置いた。
「それは」と咲は言う。「優しいですね」
「そうでもない。自己満足かもしれない」
「それでも」と咲は言う。「私は、嬉しいです」
蓮は画面を見た。
「合わせるか」と蓮は言う。
「合わせましょう」と咲は言う。
二人は一つのドキュメントに集まって、文章を編んでいった。蓮の夢の記録と咲の現実の記録を、時系列に沿って一つの物語にしていく。どちらが書いた文章かがわかるように、視点を分けながら、しかし一本の流れとして繋げた。
菌糸の動きが、また遅くなっていた。
二時間かけて、文章は完成した。
蓮が最後の一行を書き終えたとき、咲は「できましたね」と言う。
「できた」と蓮は言う。
二人でドキュメント全体をスクロールした。長い。最初の会議から今夜まで、全部入っている。涙があって、海があって、イルカがいて、議事録が食べられて、夢が始まって、宇宙が広がって、菌糸が現れて、星が消えて、また光が生まれた。
蓮は床を見た。
菌糸が、止まっていた。
完全に止まっていた。
壁の方向に向かっていた糸が、止まっている。そしてゆっくりと、ほんとうにゆっくりと、縮んでいた。
咲も気づいた。
「止まりましたね」と咲は言う。
「止まった」と蓮は言う。
二人はしばらく、菌糸が縮んでいくのを見ていた。
音もなく、静かに、白い糸が土に戻っていく。壁に貼り付いていた糸が剥がれていく。床の白い網が薄くなっていく。
ベランダの鉢の中で、観葉植物が一枚、また葉を開いた。
菌糸が与えていた何かが、植物に残っているのかもしれない。菌糸が消えても、植物は育っていく。
全部が消えるのに、三十分ほどかかった。
床は元通りになっていた。
蓮は椅子に深く座った。
長い一日だった。というより、長い数週間だった。
「ありがとう」と蓮は言う。
「私も、ちゃんと向き合えてよかったです」と咲は言う。
「日向が来てくれなかったら、一人でどうしてたかわからない」
「私が産んだイルカが原因なので」
「原因はイルカで、日向は関係ない」
「イルカは私の感情から生まれているので」と咲は言う。「無関係ではないです」
「日向の感情は、日向自身のものだ」と蓮は言う。「それを誰かのせいにする必要はない」
咲は少し黙った。
「蓮さんが、奥の間でイルカに笑いかけてくれたこと」と咲は言う。「私はそのとき、蓮さんがイルカを怖がったり、気持ち悪がったりしないことが、すごく嬉しかったです」
「怖くはなかった」
「なんでですか」
「日向の感情から生まれた生き物だから」と蓮は言う。「怖がる理由がない」
咲は、その言葉をゆっくり受け取った。
「それは」と咲は言う。「すごく、嬉しいです」
蓮は画面から顔を上げた。
咲を見た。
咲も蓮を見ていた。
時刻は深夜二時を過ぎていた。外は静かで、隣の建物の灯りが消えていた。しみちゃんのビルは、この方向からは見えない。しかし咲は、もし今しみちゃんを見たら、今夜はどんな顔をしているだろうと思った。
深夜の顔。見たことのない顔。
きっと、一番正直な顔をしているのではないかと思った。
「議事録」と蓮は言う。「明日、ちゃんと書こう。本物の議事録を」
「はい」と咲は言う。「一緒に書きましょう」
「日向が書いて、俺が確認する形で」
「それでもいいですが」と咲は言う。「今日みたいに、二人で一緒に書いてもいいと思います」
「効率が悪い」
「効率より、いいものができると思います」
蓮は少し笑った。
「そうだな」と蓮は言う。
咲は立ち上がって、帰り支度を始める。コートを羽織って、鞄を持った。
ドアのところで「おやすみなさい」と言う。
「おやすみ」と蓮は言う。
咲がドアを開けた。
「あ、そうだ」と蓮は言う。
咲が振り返る。
「その、なんだ」と蓮は言う。言いかけて、少し止まった。「議事録が完成したら、飯でも行くか」
咲は少し間を置いた。
「議事録が完成したら、ですか」
「うん」
「じゃあ」と咲は言う。「明日、必ず完成させましょう」
蓮は「ああ」と言う。
咲はドアを閉めた。
廊下を歩きながら、咲は少しだけ笑った。
胸の中にある、名前のなかったものが、今夜は少しだけ輪郭を持ち始めている。輪郭を持ったものは、いつか名前がつく。名前がついたものは、言葉になれる。
言語があるから議事録が書ける。議事録が書けるからイルカに食べられる。イルカに食べられるから夢が始まる。夢が始まるから現実が動く。現実が動くから二人は向き合う。向き合うから、また何かが生まれる。
全ては繋がっていた。
繋がっているということは、終わらないということだ。
翌朝、坂本蓮は六時五十三分に目が覚めた。
枕は乾いていた。
夢を見なかった。
起き上がって、床を見た。菌糸はない。ベランダの鉢を見た。土の表面は普通の土の色をしていた。観葉植物の葉は、昨夜増えた分も含めて、以前より緑が濃い。
コーヒーを飲んだ。
スマートフォンを取って、昨夜作ったドキュメントを開く。
長い文章がある。蓮の夢の記録と、咲の現実の記録が、一本の物語として編まれている。
その下に、別のドキュメントがある。
議事録のテンプレート。出席者、議題、発言要旨、決定事項、次回アクション、担当者と期日。まだ空白だ。
今日、咲と一緒に埋める。
鞄を持った。家を出た。
エレベーターを待ちながら、ボタンを見た。「B1」「1」「2」「3」と書いてある。宇宙のボタンはない。あの夢の中にはあったが、現実にはない。しかし夢の中の宇宙は現実に影響を与えた。現実にも宇宙はある、ただ見えていないだけかもしれない。
3階で降りた。
フロアに入ると、咲はもう来ていた。
「おはようございます」と咲は言う。
「おう、おはよう」と蓮は言う。
「夢は見ましたか」と咲は聞く。
「見なかった」
「よかったです」と咲は言う。
しみちゃんのビルを確認した。今日は晴れている。しみちゃんは嬉しそうな顔をしていた。咲は心の中で「おはよう」と言う。
「今日の昼休みに、議事録の草案を作りましょう」と咲は言う。
「そうだな」と蓮は言う。デスクに座りながら、モニターを斜めにする。いつもの角度だ。
「蓮さん」と咲は言う。
「なに」
「昨日のご飯の話、覚えてますか」
蓮は少し間を置いた。
「覚えてる」
「今日の夜、議事録が完成したら」と咲は言う。「どこ行きますか」
蓮はモニターを見たまま言う。「ん。決めてくれ」
「私が決めていいんですか」
「うん」
咲は少し考えた。「じゃあ、公園の近くの蕎麦屋にしましょう。あそこ、鳩がよく来るので」
「鳩を見ながら飯を食うのか」
「鳩は平和の象徴なので」
「その理屈はよくわからない」と蓮は言う。しかし断らなかった。
田中主任が来た。桐島部長が来た。
「議事録できてるか」と桐島部長は言う。
「今日中に出します」と蓮は言う。
「今日中というのは」
「十七時までに」
「わかった」桐島部長はデスクに向かう。「日向」
「はい」と咲は言う。
「体調はどうだ」
「大丈夫です」と咲は言う。
「そうか。無理するな。ただし仕事はやれ」
それが桐島部長なりの気遣いだと、咲は今日もわかった。今日はなぜか、それが少し愛おしかった。
フロアが動き始める。
しみちゃんが窓の向こうで晴れの顔をしている。
菌糸はもうない。イルカはどこかの海に近い施設にいる。夢は昨夜を最後に止まった。議事録はまだ書かれていないが、今日書かれる。
そして今夜、二人は蕎麦を食べに行く。
鳩が来るかもしれない。来なくてもいい。
カーソルがどこかの白紙のドキュメントで点滅している。何もない空間に可能性だけが点滅している。ビッグバンもきっとこんな感じだったのではないか。誰かが泣いて、その涙が白紙に落ちて、カーソルが点滅して、何かが始まった。
その何かはまだ、名前を持っていない。
しかし今日、二人はそれに、少しずつ名前をつけていく。
泣いたことがあるだろうか。
場所を選ばず、理由を選ばず、止められなくなったことが。
あるいは、誰かの前で泣くまいと、胸の内側で何かをぎゅっと掴み続けた夜が。
掴んでいたものを放してしまったとき、人は弱くなるのではないと思う。掴んでいたものが、ようやく外に出られるのだと思う。外に出たものは、形を変える。涙になる。言葉になる。あるいはこの物語のように、海になり、イルカになり、誰かの夢の中に入り込む。
感情は消えない。ただ、姿を変えて循環する。
議事録を書けなかった日のことを、恥だと思う人がいるかもしれない。しかし書けなかった日があったからこそ、誰かが隣に残った。隣に残った人がいたからこそ、笑えた夜があった。笑えた夜があったからこそ、一番暗い夜に「私も一緒に向き合う」と言える人がいた。
失敗は、伏線だったのかもしれない。
それから、もう一つ。
誰かのことが気になったとき、その感情にまだ名前をつけなくていい。名前のないまま、ただそこに置いておいていい。名前のないものは、涙になりやすいが、それと同じくらい、言葉になりやすい。
いつか言葉になったとき、その言葉を、ちゃんと声に出せるといい。
くらげは、流されながら光る。
方向は選べなくても、光ることは、できる。




