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閏年の約束

作者: 久保ハル
掲載日:2026/02/19

僕が彼女と出会ったのは、大雨の日の駅前のカフェだった。傘を持っていなかった僕は、いつもより少しだけ長く居座るつもりで、カフェラテを注文した。泡の上にできた小さな渦を眺めていると、向かいの席に彼女が座った。

彼女は店員に「カフェオレをお願いします」と言ったあと、カップが運ばれてくるまでの間、何度も「ありがとうございます」と小さく頭を下げていた。その丁寧さが、なぜだか妙に胸に残った。

付き合い始めてから気づいたことがある。彼女は、世界のすべてに敬語を使う人だった。

「お味噌汁が冷めてしまいましたね。」「お魚さん、今日は脂がのっています。」

人に対してだけじゃない。物や食べ物、時間にさえも、彼女は丁寧に接していた。それは癖というより、彼女なりの世界との距離の取り方のように思えた。


彼女の24歳の誕生日は、2月29日だった。生まれて6回目の閏年。特別な日であることを、彼女はいつも少し照れくさそうに話していた。

その日、彼女は真面目な顔で言った。「北欧の国では、閏年の日に女性から男性にプロポーズをする習慣があるんですよ」

「それで?」と聞くと、彼女は少しだけ笑った。「男性は、断ってはいけないんです」

冗談だと思っていた。けれど彼女は、丁寧に、まっすぐに僕を見て言った。「次の閏年の日に、私からプロポーズします」

約束は、4年後の未来に預けられた。

そして次の閏年。彼女は本当に、指輪を差し出してきた。

「結婚してくださいませんか」

疑問形でありながら、どこにも迷いはなかった。僕は、その丁寧さに、またしても負けた。


さらに4年後。式の日、彼女はウェディングドレス姿で僕の隣に立っていた。誓いの言葉を述べる番が来て、僕は初めて気づいた。

あの日、駅前のカフェで、彼女が世界すべてに敬語を使っていた理由を。

彼女はきっと、人生そのものに、失礼のないように生きていたのだ。

「永遠の愛を誓います」

閏年という、少し余分な一日がくれた奇跡を、僕はこれからも丁寧に扱っていこうと思う。

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