8.求婚って、本気ですの⁉︎
「まあ! 懐かしいですわね!」
「せっかくベッキーと久しぶりに話せるんだから、ここに来たいと思って。覚えててくれているんだね」
「もちろんです!」
ひょんな事から知り合ったヴィックと名乗る、少し歳上の少年。彼とレベッカは、よくこの川辺で遊んでいたのだ。
大人びた少年だった。だけど少年らしく走り回ったり、木に登ったりもしていた。だから貴族だなんて考えた事もなかった。
「あの頃はヴィクター様ももっとやんちゃで一緒に走り回りましたわね! わたくし絶対にヴィクター様には追いつけないのに、本気で逃げ回るから泣き出しちゃったこともありましたわ。懐かしいですわね」
「あはは、あったね。私もまだまだ子供だったから手加減出来なくてね。恥ずかしいよ」
少し照れたような顔をしたヴィクターは、ふいにその表情を引き締めた。
視線が交わる。
「さっきはちょっと強引だったよね、悪かった」
「え? いえ、あの……」
強引というのはどこを指すのだろう。馬車を停めたことか、手に口付けたことか、馬車に乗るよう促したことか。
それとも全部だろうか。
「ベッキーがちょっと、元気がないように見えて……放っておけなかった。気のせいかもしれないけど」
「ヴィクター様……」
「私で良ければ話を聞くよ」
ヴィクターを、少し歳上の友達として慕っていた。お喋りなレベッカの話を聞いてくれて、一緒に笑ってくれた。
走り回って、川に落ちたこともある。幸い浅く緩やかな川だから大事には至らなかった。その時に、自分もびしょ濡れになりながら助け出してくれたのもヴィクターだ。
父がくれたお菓子を、ここで二人で食べるのも楽しみだった。
その日々は一年で終わった。ヴィクターの士官学校への入学とともに。
「わたくし、なんだか取り残されている心地なんですの」
レオンにだけではない。ヴィクターとてレベッカを置いて別世界へと旅立って行った。友達だと思っていたのに、その人は本来なら喋ることすら出来ないような雲の上の人だった。
ご婦人方にはお茶会を断られ、取り引きを開始しようとしていたマディソンは行方不明。
まるで世界がレベッカを残してどこか遠くへ行くみたいだ。
「レオン様との婚約ですけれど、考え直してもらうどころか一方的な通知で婚約破棄されましたわ」
「それは酷いな。彼はそんなことをするような人物ではないと思っていたけど」
「そうですわよね。なにか様子がおかしいんです」
そう、そしてレオン。レベッカを置いてどこかへ行くなんて考えてもいなかった人。
レベッカの知らなかったレオンがいる。その事が思いの外ショックだった。
「なんだろうね。私もそれとなく様子を伺ってみるよ。君みたいな愛らしい人を悲しませるような事情があるのかもしれないしね」
「事情……」
事情と言えば、全くらしくないレオンの規律違反だ。
「でもそうか、婚約破棄か……。大丈夫、君なら相応しい相手とちゃんと結婚できると思うよ」
「そうでしょうか」
「君の目には、今話している男は映っていないの? うちは伯爵家だよ?」
「えっ⁉︎」
伯爵家。そうだヴィクターは伯爵家の跡取りだ。いやそんなことはこの際置いておこう。
今、ヴィクターはさらっと重大なことを言わなかっただろうか。
いや、きっと気のせいに違いない。
(レオン様に婚約破棄されたからって、わたくしに都合のいい解釈をしてはいけませんわ)
相手は伯爵家だ。ただの平民のレベッカなど、本来なら話すら出来ない身分。住む世界が違いすぎる。
「ベッキーとなら、良い関係を築けると思うんだけどな」
「良い関係……って……」
レベッカの正面に回ったヴィクターが、そっと手を取る。指先に口付けた。
途端に、胸の鼓動が走った。先ほどは気にならなかった口付けに、今は過剰に反応してしまっている。
「私たちはいい友達だ。きっと、夫婦になっても上手く行くよ。そう思わない?」
「……だ、だめですわ! わたくし平民なのです!」
都合のいい解釈でなかった事に驚き、思わず声を荒げる。
「親戚筋の養女を経れば問題ないよ。王妃様だってそうでしょ? 元々は子爵令嬢だったけど、侯爵家の養女を経て王の元へ嫁いだわけだし」
「そ、そうなんですけれど」
あまりにも突然だ。先日の夜会で再会したばかりだというのに。
「実は、ずっと君を忘れられないでいたんだよ。私を、伯爵家の子息ではなく私自身として見てくれたのは君だけだったから」
「わ、わたくしはなんにも知らなくて……っ」
「うん、そうなんだけどね。でも君はずっと私をいい友達だと思ってくれてただろ? 素性もわからないのに」
「それは、そう、ですけど……ヴィクター様が良い方だったからですわ」
「ね? 私自身を見てくれてる。それが本当に嬉しかったんだよ」
ヴィクターの瞳が、優しげな笑みを浮かべた。
「だけど伯爵家で良かったとも思っている。レオンとは成績を競ったライバルだったけど、どんなに優秀でも彼は大尉スタートだ。私には特別任官制度が適応されるからもう少佐だし、昇進だって早いよ。君のためにこの地位を使えるなら、こんなに嬉しいことはないな」
そっと伸ばされた指先が、レベッカのほおをなでる。その感触にびくりと背筋が反応した。
そのことか恥ずかしくなり、顔が熱くなってしまう。
「こういう初々しい反応をするところも愛らしいしね」
「ま、まあ! ヴィクター様ったらからかったのね!」
「いやそんなつもりはないよ。本当に、考えて欲しいな。急がないから」
ヴィクターは本当に本気なのだろうか。養女を経れば確かに問題はなくなるだろうが、伯爵家ともなるとそれにも反対する人は出るだろう。
もっと相応しい令嬢だってたくさんいる。ヴィクターの隣に並べるなら並びたいはずだ。
「この話はここで終わろう。靴を取りに行くんだよね?」
「あ、はい、そうなんですの」
話題が切り替わったことに内心ほっと息をつく。
「わたくし貴族の方々相手に商売をしたいと思いまして、手始めに靴が良いかしらと思ったのです」
「こないだの夜会でご婦人方に話していたやつだね。君はとても楽しそうにしていた」
「はい、楽しかったんですわ。でも、蓋を開けたら誰も相手にしてくれてなくて」
だから今から取りに行く靴は、日の目を見る事がなくなってしまった。そう言うと、ヴィクターの表情も曇った。
本当に心配そうな顔で、レベッカの肩を叩く。
「それは残念だったね。私の名を使えば来てくれるかもしれないよ。君だったら使ってくれていい」
「そんなのご迷惑になりますわ」
「大丈夫だよ。それにしても靴かあ。靴は大切なものだからね。軍でも、軍靴に不満を持つ者がたくさんいてね」
「そうなんですの?」
「うん。我々士官は良い靴を貰えるし、中には自分で仕立てたりする者もいる。だけど、一般兵の支給品となると、コストカットが大前提だろ? 質もそれなりになる」
なるほど言われてみればそうだ。レオンはおそらく自分で仕立てたブーツを履いている。ヴィクターも見る限りそうだろう。
対して街中で見かけるような警備兵を思い浮かべると、たしかに皆同じような靴だ。
「靴擦れするらしくてね。靴擦れも馬鹿には出来ない、痛みは士気を下げるからね」
靴擦れするのなら、サイズが合わないか木型の形があまり良くないのかもしれない。
とはいえ、全員のサイズに合わせて軍靴を作るなんてコスト面で到底無理だろう。
「国を守って下さっているのにお気の毒ですわ」
「だけどお金は無尽蔵にあるわけじゃない。支給品を賄うのは、君たちの納める税だからね」
税を使った支給品である以上、限りがある。当然のことだ。
商売だってそうで、良い品物はいくらでもある。しかし、そういうものばかり仕入れていたら資金が足りない。売ればいいが、需要を見誤ると大量の在庫を抱えて破産してしまう。
例えば美しい宝石は貴族には需要があるだろうが、平民には手が出ないものだ。宝石を持っていてもご飯は食べられない。
良い品だからと宝石を仕入れても、その商人が平民相手の商売をしているのなら全く売れないだろう。
国だって同じで、いい靴はいくらでもある。しかし、それらを大勢の兵に支給するとなると話は別だ。
「あ、ごめん愚痴を。私は物資を調達する調達庁にいるからね。そういう不満の声と現実的な制限に頭を悩ませることが多くて」
「立派なお仕事ですわ」
レオンの話だと、ヴィクターは調達庁の特別補佐官だという。士官学校を出てすぐの新米としては高待遇だが、アルマール伯爵家の令息となれば話は別だ。国御用達のクラウス商団の実質的経営者というのも考慮すれば、妥当なところではある。
特別補佐官として、クラウス商団の担う軍需品の取り引きや運搬はヴィクターに一任されているらしい。
アヴァロ商団も軍需品の取り扱いをする国御用達商団ではある。規模もクラウス商団よりずっと大きい。とはいえ、軍内部から働きかけが出来るわけではない。やはり伯爵家は違う。
「ありがとう。さ、行こうかベッキー。君のデザインした靴を私にも見せてくれ」
「はい!」
頷き、馬車へと引き返す。馬車へとエスコートするためにヴィクターがそっと手を差し出してくれた。その手を取り、その瞬間に先ほどの彼の台詞が脳裏に浮かふ。
ヴィクターと夫婦になる。レオン相手にそればかり考えていたはずなのに、なんだかまるで知らない言葉のようだ。
触れた合った指先が、ヴィクターの手の大きさを伝えてくる。彼はもう、走り回って遊んでいた少年ではないのだ。
馬車に乗り込み、隣に座ったヴィクターを横目で伺う。レベッカよりずいぶん大きな背。それは大人の男だ。
(もし、ヴィクター様と結婚したら)
走り出した馬車の振動を感じながら、その未来を思い描こうとする。
レベッカは貴族になれる。貴族相手に商売をする事だって叶うだろう。なにしろアルマール伯爵家にはクラウス商団があるのだ。
レベッカの夢は叶う。これまでずっと考えていた、スタンフィールド子爵家の役に立ちたいというもの以外は。
(ヴィクター様は本当に素敵な方ですけれど……)
なにかが胸の奥でつかえている。レベッカの夢を叶えるには申し分ないのに、即答出来ない。
結婚は、感情でするものではないはずなのに————。




