42.必ずこの手に
地下の独房から出て夜道を歩きながら、ヴィクターはレベッカと初めて出会った時の事を思い出していた。
寒い、雨の日だった。
ヴィクターは、十四歳の高貴な子どもを攫って金に変えようとしたならず者たちに追われていた。
寒さと疲労で力の入らない足を、かじかんだ手で叩いては走る。
雨だからか人通りは少ない。それでも助けを求めて縋りついた子供を、大人たちは無情にふり払って去って行く。
ヴィクターは粗末なボロ服を着ていた。人攫いたちに高価な衣装は全て剥ぎ取られたのだ。その上、何度も転んで泥にまみれている。
皆、ヴィクターが尊ぶべき高貴な身の上とも知らず、面倒ごとはごめんだと突き飛ばす。たとえ名乗っても誰一人ボロを着たヴィクターを信じない。嘘を付くならもっとまともな嘘を付きなと怒鳴られるだけだ。
卑しい身分の者はその卑しさゆえに人を攫い、その卑しさゆえに貧しく、子ども一人すら助けないのだ。そのことに心底怒りがわいた。
「くそっ……!」
これまで使ったこともない汚い声が喉から漏れる。
雨が容赦なく降りかかる。冷たい。足音。自分のものなのか、平民たちのものなのか、それともならず者たちのものなのかわからない。ふり返っても視界が悪く、霞んでなにも見えない。
人攫いたちには従順にしていた。怯えてなにも考えられないふぬけを演じて見せた。
そうして一瞬の隙をついて逃げ出した。捕まったらただでは済まないだろう。
(足が……)
膝の力ががくんと抜け、あわや転びそうになりついに足が止まった。倒れる寸前で壁に手を付き、なんとか最悪の事態だけは回避する。
今倒れたら、きっともう立ち上がれないだろう。
壁に身体を押し付けるようにして数歩進んだ。すぐに壁はなくなり、路地が現れる。
膝が笑っている。壁から離れたら立っていられない。
壁伝いに路地へと入る。しかし、いくらも進まないうちに限界を迎えた。
ずるずると壁にもたれたままくず折れる。かろうじて壁に支えられた上半身すらもう動かせない。
冷たい雨がほおを打つ。
このまま捕まってしまうのか、それともここが墓場になるのか、どちらだろう。
(捕まるくらいならここで死ぬ方がましだ)
平民の、しかもならず者たちに尊厳を奪われるようなことは貴族として許せない。
雨音が遠のく。それと同時に、不思議と寒さも和らいだ。
(こんな終わりだなんて……)
たった十四年でこの世を去らねばならないなんて。家督を継いで、伯爵として栄華を極める夢すら叶わないまま。
なんと運命は残酷なのだろう。貴族にあるまじき、こんな路地で最期を迎えなければならないなんて。
ああ、でも、もうどうでもいい。なんだかとてもあたたかい。気持ちがいい。
眠い……。
「————きゃあッ‼︎ ど、どうしましたの⁉︎」
甲高い声がヴィクターの眠気を一瞬払った。視界に金色のおさげが入る。
緑色の瞳がヴィクターを覗き込んでいた。そばかすだらけの、ヴィクターよりいくらか年下に見える平凡な少女だ。目を引いたのは、少女がかけていた眼鏡。
少女が眼鏡をかけているのを見るのは初めてだった。貴族はたとえ視力が悪くても、人前では見た目の悪くなる眼鏡をかけない。だからただ単に珍しかったのだ。そこに気を引かれて——現実に戻ってしまった。
「……さ、むい」
あたたかいと感じていたはずなのに、急激に寒さを自覚する。
「そうですわ、こんなに雨に濡れたら寒いに決まっています。しっかりして!」
少女の手が肩を揺する。ヴィクターの両頬を包み、そして両手を強く握ってくれた。
「もうすぐそこの道をうちの馬車が通りますわ。わたくしはあなたが気になって見に行くって馬車を飛び出して来ちゃったの。馬車はじき戻って来ます。ほら、来たわ!」
少女がなにをもって馬車が来たと判断したのかがヴィクターにはわからなかった。視界には少女の顔しかなく、音もよく聞こえない。
「レベッカ、その子かい?」
「お兄様!」
今度は、レベッカの兄というには歳の離れた青年が顔を出した。金髪と緑の瞳は共通のようだ、顔立ちから考えても血縁者だろう。
二人とも雨に濡れている。
レベッカの眼鏡が白く曇り、その様子が滑稽で少しだけ愉快な気持ちになる。よく見ようとしたが、目が意に反して閉じた。ただただ、寒さだけがヴィクターがまだ生きていることを自覚させている。
「どうしましょう待って目を閉じちゃだめ!」
ほおに手のひらが触れる。ほんのわずかなあたたかさ。だがそれもすぐに雨で冷えて感じなくなった。
「とにかく馬車へ。温めなきゃまずい。レベッカ、君もだよ。急いで帰ろう」
ふわりと身体が浮いた感覚がかすかにした。その瞬間に自分は天に召されたのだと思った。
しかし、次に目を開いた時にヴィクターがいたのは、あたたかいベッドの中だった。ひどく身体が重だるく息苦しいが、生きているようだ。
そして、ベッドのそばにはレベッカと呼ばれた少女がいた。
「良かった、目が覚めましたのね。大丈夫かしら、どこか具合の悪いところはありますか?」
ほっとしたように笑ったレベッカが、ヴィクターの額にそっと手のひらを乗せる。
「熱も下がったみたい……!」
額からは、たしかにあたたかいぬくもりを感じる。雨に打たれた時のように消えたりはしていない。
良かったと笑いかけてくれるレベッカを無言で見つめる。
貴族とは違いなんの装飾もない凡庸な服を着ているが、その布地の品質は良さそうだ。相変わらず眼鏡をかけている。眼鏡などという高級品を幼いうちから使えるのは、それなりの財力あってこそだろう。
自分の寝かされているベッドは広く大きい。シーツもいい生地なのは触れている肌が教えてくれている。力の入らない腕をなんとか上げると、清潔なシャツを着せられているのがわかった。
平民だろうが、彼女はかなり恵まれた家庭の子だろう。やはり、富があり余裕のある者だけが手を差し伸べられる。卑しく貧しい者は人の形をしていても人ではないのだ。
「君は……?」
にっこり笑ったレベッカは額から手を離し、スカートのすそを摘んだ。小さく礼を取る。
肩の上で癖のある金髪が跳ねた。
「わたくしは、レベッカ・アヴァロですわ」
「アヴァロ……」
知っている名だ。
「アヴァロ男爵の……息女か……」
「ご存知でしたの? ええ、そうです」
アヴァロ男爵と言えば、簒奪された王座を取り戻す際に尽力したとされる救国の英雄の一人だ。平民だった彼は、その功績により一代男爵位を国王直々に賜ったのだ。
そして、平民の時から今まで、フランセス王国随一の大商団を率いる男だ。伯爵である父の率いるクラウス商団を持ってしても、アヴァロ商団にはまだ到底敵わない。
アヴァロ男爵の一人娘は今年十二歳のはずだ。
「助けてくれてありがとう」
アヴァロ男爵なら、身元がはっきりしている上に、一代限りとはいえ今は貴族の端くれだ。子供たちは平民とはいえ、やはり卑しい平民風情とは格が違うらしい。
そう思うと、助けられたことに感謝する気持ちになる。
「ご無事で良かったわ。お兄様が診て下さったんですの。わたくしの二番目の兄はお医者様なんですのよ。お兄様はとても衰弱していたとおっしゃっていました。だから本当に心配でしたの。丸三日熱にうなされていたんですもの」
「……覚えていない」
レベッカの話によると、ここへ運び込まれた当初は低体温で生死の境をさまよっていたらしい。
それでも懸命な看護により、徐々に身体はあたたまった。なんとか持ち堪えたと思ったのも束の間、今度は三日間高熱に苦しんでいたのだという。
そう聞いてもまるで他人事のようになにも覚えていない。身体の重さがかろうじて、それが事実であろうことを告げているだけだ。
「お兄様は肺炎だっておっしゃっていました。きっとまだ完全には治っていませんわよね。良くなるまでゆっくり養生してくださいまし。あっでもきっとお父様やお母様が心配していらっしゃいますわ何日も行方知れずだったのですもの! あなたはどこからいらしたんですの? おっしゃっていただけたら遣いの者を送りますわ。そう言えばまだ名前もお聞きしていませんでしたわね!」
早口でそうまくしたてるレベッカに、なぜか笑いが込み上げた。平民だからだろう、これまでに出会ったことのない類の人物だ。
知らず口角が上がる。もの珍しい動物を見ている気分だ。
「僕は……ヴィック」
偽名を名乗ったのは、ただの戯れだった。平民の娘に合わせてやるという、貴族としては最大限の優しさ。そして、本来なら平民がおいそれとは話すことも出来ない伯爵家の長男としての矜持を守るため。
「ヴィック。あなたはどちらからいらしたの?」
「両親は今、出稼ぎに行っていて僕がいなくなった事も知らないよ」
実際のところ、人攫いに攫われてからの日数も合わせると、ヴィクターは一週間以上は行方不明になっているはずだ。両親はさぞ心配していることだろう。
「だから、君や、君の家族が許してくれるなら……肺炎が治るまでいても良いかな?」
「もちろんですわ!」
「良かった、ありがとう」
顔の筋肉を必死に動かして笑みを作る。
アヴァロ男爵は、四十を過ぎてから産まれた娘をいたく可愛がっていると聞く。
もしその愛娘を取り込むことが出来れば、様々なアヴァロ商団の情報を入手出来るかもしれない。情報を上手く引き出せれば、将来的にアヴァロ商団を掌握することも不可能ではないはずだ。
両親には悪いが、ここでレベッカの関心をつかんでおいて損はない。
敵を侵略するなら親切な顔をして内側から、それが常套手段だ。レベッカは明朗快活ではあるが、見たところ思慮深くはない。自分のこともなに一つ警戒していない様子だ。このまま信用を積み重ねればおそらく容易い。
「君は命の恩人だ」
「良いんですの、困った時はお互い様ですわ」
にこにこと笑い、レベッカがヴィクターの手を両手でにぎった。
すぐ良くなりますと力強く言う声と手の温もりに、知らずその手をにぎり返す。
とにかく生き延びたのだ。理不尽極まりないならず者から逃げ切り、死を覚悟したのに生きている。
伯爵家を継ぎ、国一番の商団を率いるという夢は潰えなかった。それどころか、幸運にもアヴァロ男爵の娘レベッカに助けられた。
幸運の女神は、ヴィクターに微笑んでいるのだ。
「そうだわ、お兄様に診ていただきましょう。今ならいらっしゃいます、呼んで来ますわね」
手からぬくもりが離れ、飛び跳ねる金髪が部屋から出て行く。
あの無邪気な娘を懐柔しよう。そう心は決まっていた。
アヴァロ商団は宮廷お抱えの大商団だ。宮廷お抱えと言えばヴィクターの父率いるクラウス商団もそうだが、伯爵家であるのに規模はアヴァロ商団より小さい。
あと何年かすれば、自分はそのクラウス商団を率いることになる。平民出になど負けたくない。
そう、思っていた。その時はまだ。
「は……反吐が出るな」
自然に口元が歪んだ。
懐柔しようと近づいたはずなのに、レベッカと過ごす時間が何よりも楽しかった。人生で一番幸せだったと思えるほど、全てから解放されたような気持ちになれた。
自分がいかに歪んだ選民思想を持っていたのかを理解した頃には、彼女の存在はあまりにも大きくなっていた。
だから、身分を明かしたのだ。ちゃんと向き合えるように。それなのに。
士官学校の卒業を待っていて欲しい。そうしたら必ず迎えに行く。そう告げたヴィクターに、レベッカは頷いた。楽しみに待っていると。
だが、それから間もなくレベッカは婚約した。自分に何も告げる事もなく。
自分は、こんなにもレベッカを必要としているのに。
「ベッキーが捕まれば婚約破棄になるだろうとは思っていたけど、密売容疑の時点で破棄するとはな……あんな男にベッキーを渡すものか」
彼女を手に入れなければならない。そして、彼女が教えてくれた理想へと進むのだ。貴族などという無能を、一掃した世界へ。
その理想の国は、シヴァ公国にある。爵位を捨てたシヴァ王は、民主主義の国を作ろうとしている。王の権限すら制限することも厭わずに。
あそこへ行こう、身分など捨てて自由に生きよう。
「待っていてくれ、ベッキー……」
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