41. レオン様の事が最初からずっと……
あてがわれた独房は、地下にあった。想像していた牢屋というものではなく、外から施錠された一室という感じだ。
部屋の高い場所に、小さな明かり取りの窓がある。あそこだけが、どうやら地面の上にあるらしかった。そこから注ぐ光は、もう薄暗い。
部屋の中には簡易的なベッドが一つだけだ。用を足すときは呼べと言われたが、部屋の外に誰かいるのかいないのかもわからない。
「どうして……」
宮廷市場にも軍部市場にも入れなかった。それだけではなく、密売容疑までかかっている。これは自分だけではなく、アヴァロ商団の信用問題にもなる。
アヴァロ商団の業務停止は、著しく信頼を損なうだろう。
どうしてこんなことに。
「レオン様……」
その名を無意識に呼び、はっとする。胸に鋭い痛みが走り、ベッドへと座り込む。
レオンはレベッカに密売容疑がかかっていることを知っていた。だから婚約破棄をした。
そうして、スティーブと結託してずっとレベッカのことを探っていたのだ。
そんな事も知らないで、軍部へ行くのが、レオンと共に夢に向かって行くのが楽しいとすら思っていた。この日々が終わるのが寂しいと思っていた。
(レオン様は、ちゃんと職務だと言って下さっていたのに……)
最初からレオンは職務として、レベッカに接していた。
そもそも、元婚約者を監視として付けるというスティーブの裁量がおかしかったのだ。密売容疑がかかっているならなおさら、監視はレベッカと無関係の見ず知らずの監査官の方が良かったはずだ。
それをレオンに監視をさせたのは、レベッカが口を滑らせるのを期待しての事なのだろう。
そんな事にも気が付かず……レオンは優しいと、職務以上に協力してくれていると信じていた。
レオンが優しくしてくれたことを、あの楽しかった時間を嘘だったなどと思いたくない。思いたくないのに、そうとしか考えられない。
職務を果たせと言われ、レベッカの手をふり払ったレオン。どんなに呼んでも、応えてくれなかった。目を合わさないように顔をそらしていた。
胸が苦しい。
「わたくしったらそんな事にも気付かず」
声に出して、余計に胸が苦しくなる。
手のひらを眺める。さっきまで、レオンと繋いでいた手だ。
手を繋いで歩く事が嬉しくて、そして寂しくて胸が苦しかった。それが今は、全部嘘だったとわかった。わかってしまったのに、まだ覚えている熱がレベッカを苦しめていた。
(でも……自業自得かもしれませんわ……)
今ならわかる。レベッカがレオンにどんな酷い事を言ったのかが。
レオンの事をなんとも思っていない、それは事実だ、結婚は感情でするものではない、貴族と結婚して貴族市場へ入りたい。
どれも、レオンの事などこれっぽっちも考えていない、独りよがりなものだ。
決してレオンの事をどうでも良いと思っていたわけではない。夢の隣には、いつもレオンがいた。その未来を疑った事などなかった。
そのくせ、レオンの気持ちなど考えたこともなかったのだ。レオンはいつでも優しく、笑顔だったから。
いざそれを自分が突きつけられると、こんなにも苦しいのに。レオンの優しさに甘えていた。
そんなどうしようもない女だから、密売容疑を知ってこれ幸いと婚約破棄をしたのだろう。
「レオン様……」
ぎゅっと握りしめた両手を胸に当てる。枯れたかに思われた涙が、またほおを濡らした。
苦しくて苦しくて、息が上手く吸えない。全身がだるく、よろよろと簡易ベッドに横になる。
(寒い……)
季節柄もあり、部屋の中が暗くなるにつれて寒さが増してくる。
薄い布団に潜り込むが、あたたまるわけもない。
(レオン様は、わたくしを冷えから守ろうと抱きしめて下さった……あれも嘘?)
シーツに涙が染みを作るが、もう拭うことすら億劫だ。
考えまいとすればするほど、脳裏にレオンの顔が浮かぶ。優しげに笑いかけてくれた顔が。
(レオン様……)
* * *
扉をノックする音で目が覚めた。いつの間にか眠っていたらしい。
部屋の中は暗闇だった。もう日が落ちたことはわかるが、今が何時なのかもわからない。
もう一度、ノックの音がする。
「はい」
返事をして身体を起こす。それと同時に、扉がそっと開いた。
ランプの灯りが部屋に差し込み、長身の影がその中にゆらめいた。
「ベッキー」
「ヴィクター様……!」
レベッカのことをベッキーと呼ぶのはヴィクターだけだ。
ヴィクターはすっと室内に入り、扉を閉めた。ランプを床に置いて、レベッカに歩み寄って来る。
「寝ていた……?」
「はい、いつの間にか」
「こんな夜更けにごめん、君が捕まったって聞いて居ても立ってもいられなくて」
ヴィクターは簡易ベッドに浅く腰掛けた。レベッカの肩に布団を着せ掛け——顔を覗き込んで来る。
「涙の跡がある。かわいそうに……」
ランプに照らされたその整った顔が、悲しげに息を吐く。
「ヴィクター様、どうしてここに……」
「私は伯爵家の長男だよ? こういう時に使うのが伯爵家の力だろ?」
わざとなのかちょっとおどけた調子でそう言い、次の瞬間。
ヴィクターは布団ごしにレベッカを抱きしめていた。
「————っ」
その力強い感触に、監査官達に取り押さえられた時の記憶が蘇った。
喉からもれかかった悲鳴を、慌ててぐっと飲み込む。
「ごめん、こんな横暴を許してしまって」
「ヴィクター様のせいではありませんわ」
「こんなの間違いだ。君は密売なんてしない。そんな事も分からず、話も聞かないでこんなところに押し込むなんて……!」
レベッカを抱く力が強くなる。その手が頭をなでた。
ヴィクターの熱が、レベッカにも移る。
「アヴァロ商団の荷に火薬が混じっていただなんて何かの間違いだ。だって火薬はクラウス商団でしか扱っていない。しかも君のサイン入りの命令書まで……」
「そうなんですの」
答えた声は、ヴィクターの腕の力にかき消される。
(こんな時、レオン様なら……)
職務に忠実なレオンがここに来る事はないだろう。そもそも、ヴィクターのように実家の権力が強いわけでもない。
それでももし、レオンがここに来たなら。
きっと、抱きしめたりはしないだろう。レベッカの様子を慎重に伺って、気遣ってくれる。
それが、たとえ嘘だったとしても。
(嘘、でしたの……?)
また、胸が締め付けられるように痛んだ。目の端に涙がにじむ。
それに気づいたヴィクターが、身体を離して涙を拭ってくれた。
その指先は、レオンと同じようにあたたかく、優しい。だけど、なにかが違う。
「それにしても、火薬を入れてたあの木箱。他の荷よりひと回り小さくて、底板が二重になっていたそうだね。二重底部分に火薬を詰めていたなんて随分と用意周到だ」
「二重底……」
靴のラベルで中身は火薬だったとは確かに聞いた。だが、その情報は初耳だ。
二重底は、隠す意思が明確だ。密売だと誰もが思う。レベッカが発見したとしてもそう判断するだろう。
「ヴィクター様。レオン様は、わたくしに密売容疑がかかっている事を知っていらっしゃいました。だから、婚約破棄を……」
「なんだって? 婚約破棄の理由がそれなら、七月にはもう知ってたって事かい?」
「はい」
「……許せないな、知っていて何もせず婚約破棄するなんて」
ヴィクターはそう言って憤っているが、レオンとしては正当な行為だ。理由を明かせなかったのは、単に守秘義務違反になるから。
なにも間違っていない。
レオンは貴族だ。自分の感情だけではなく、スタンフィールド子爵家を守らねばならない。だから、レオンの取った行動は正しい。
正しいとわかるのに、それがどうしようもなく悲しい。
(わたくし、本当に自分の事しか考えられないのですわね……)
結婚は感情でするものではないと自分で言ったのに、レオンが感情抜きで冷静に婚約破棄をしたのを悲しんでいる。
きっとなにか事情があるに違いないと思っていた。そして、その通りだった。
「ねえベッキー。私がここから君を出すよ。こんな不当なこと、許しちゃいけない」
「出す、って……」
「良いかい、君は無実なんだ。それを無能な貴族連中が寄ってたかって……ベッキー、結婚しよう。まだ容疑なんだから婚約して、アルマール伯爵邸へ身柄を移すんだ。私なら、それが可能だ。父はもう高齢で隠居気味だし、家督を継ぐのもすぐだ。貴族が権力を持たない世を作るために、今私が権力を使おう。私には君が必要だ」
ヴィクターの瞳が、ランプの灯りを映して揺らめいている。
ヴィクターの言葉にきっと嘘はない。本当に自分を必要としてくれているし、無実だと信じてくれている。
(こんな時、レオン様なら……)
レオンはきっとここへは来ない。なにしろ真面目一辺倒の堅物だ。
レオンなら、外側からレベッカの無実を証明しようとしてくれるだろう。
いや、そんな事を考えても意味がない。レベッカが捕まった以上、レオンが無実を信じる意味もない。レオンの優しさは嘘だったのだから。
また涙がこぼれる。
どうしてこんなに悲しい? レオンには新しい婚約者候補もいて、もう正式に婚約を交わしているかもしれないのに。
どの道、自分と結ばれる未来はないのに。
(わたくし、レオン様と結婚したかったんですわ……)
そう、それを信じて疑っていなかった。最初から、レオンとの未来以外を見ていなかった。
レオンと結婚する事に、特別な感情などなかった。ないと思っていた。それほど当然だと思っていた。当たり前に来る未来だと信じていた。
「ベッキー?」
「ヴィクター様……」
ヴィクターは、結婚相手としてだけ考えるなら、レオンと比べるまでもなく上の相手だ。身分も、容姿も、態度も洗練されたまるで王子様のような相手。
自分の、貴族を相手に顔の見える商売をしたいという夢もすぐに叶えてくれるだけの力がある。
それなのに、どうして婚約を躊躇っていたのか。ヴィクターと結婚する未来が上手く描けなかったのか。
どうして、レオンに考え直して欲しいと思っていたのか。
たとえ、それが嘘だったのだとしても。その嘘を……。
(わたくし、レオン様の事が最初からずっと……)
その嘘の姿でさえ嬉しくてたまらなくなるほどに、好きだったのだ。
なんとも思っていなかったのではなく、ただ当たり前に好きだった。好きか嫌いかと言われれば好き、当たり前の話だ。
雨の日、抱きしめられて鼓動が暴れた。ふわふわして、感覚がおかしかった。手を繋いでくれた時も、胸が疼いた。嫌いになったわけではないと知って、心底嬉しかった。
いつもレオンの事を考えていた。
こんなことにならなければ気づけないほど、当たり前に好きで。
「ヴィクター様、わたくしとの婚約の話は、なかった事にしてくださいまし」
貴族制度を変えたい、無くしたいと言っていても、まだそれは着手もしていない夢の話だ。
断じて密売などしていないが、容疑をかけられた人物と婚約を結んで、その夢に翳りを落として良いような軽い事柄ではない。
それに、もう自分の気持ちに気づいてしまった。
レオンがそれに応えることなどなくても、この自分の気持ちはきっと本当のことだ。嘘の姿だったとしても、そのレオンを好きな気持ちは嘘にはならない。
嘘でも、レオンは言ってくれたのだ。笑っていても泣いていても、レベッカが思うように生きている姿が好きだと。好きな事をしている姿が好きだと。
だからきっと、自分はレオンを好きでもいい。それが偽りの優しさだったとして、その偽りを好きだと思ったのは真実。
「何を言っているんだ、こうなったからこそ、君には私が必要なはずだ」
そっとヴィクターの手がレベッカの両手を取る。
「アヴァロ商団は業務停止を命じられた。あまりに大きな打撃だ。だけど、私なら助けられる。私には財もあるし、商団もある。資金提供ならいくらでもする。私たちは資金を、君達は人手と物流を。悪い話じゃないだろう?」
「ええ……」
業務停止による損害は、停止の日数にもよるがかなりのものだろう。
それこそ、日にちが長引けば長引くほど商団自体の存続の危機になる。もしかしたら倒産という事にもなりかねない。
そこに伯爵家の財を投入して助けてもらえるなら、そんなにありがたい事はないだろう。
「でも……」
自分の一存でアヴァロ商団の未来を潰していいわけがない。家族も、家族同然の大勢の従業員たちも、その先の取引先全ての存続がかかっている。
それなのに、首を縦にふれない。
「財なら気にせずいくらでも使ってくれ。私は、貴族制度をなくしたい。自分が貧しくなろうが構わないよ。君と生きられるならそれで良い」
ヴィクターの瞳が、やんわりと細められた。
「君とよく遊んでいた頃、もし私たちが結婚したら、小さな店を持ちたいって話してたことあったでしょ? それで、職業体験と称してあちこちの店を回ったよね」
そういえば、そんな事もあった。
ヴィックは商才があると思う、もし結婚したら一緒にお店を持ったら楽しそうね。そう言って、いろんな店を回った。
カフェでタルトを食べ、ブティックで背伸びをしたワンピースを見て、花屋でヴィックが小さな花束をくれた。
楽しい遊びだった。懐かしい、子供の頃の思い出。
「本当に、そういう未来でもいいんだ」
「いいえ、いけませんわ」
違う。それは直感のようなものだった。声に出した後から、理由が遅れてレベッカの中に落ちる。
「ヴィクター様は、まだ貴族ですわ。伯爵家の子息です。伯爵家の富は民の税です。それを全て使って良いはずがありません。ヴィクター様がおっしゃったんですのよ、民の声を聞かない貴族は民に捨てられると。ヴィクター様は、ヴィクター様の勤めを果たしながら夢に向かわなくてはいけないのですわ。民を蔑ろにしてはだめです」
それがたとえ、アヴァロ商団の倒産であったとしても、そんなことはアルマール伯爵領の民には関係のない話だ。
「あぁ……そうだね」
一瞬、ヴィクターの瞳が冷えた気がした。
「本当にその通りだ。ごめん。それを聞いて、ますます君が必要だと思ったよ」
「ヴィクター様……」
「とにかく、君をここから出すために全力を尽くそう。だからどうか、私と生きる事を考えて欲しい」
ヴィクターの指が、レベッカの涙を再度拭った。その時、部屋の外から三回ノックの音が響いた。
ヴィクターが、悲しげに瞳を伏せる。
「どうやら時間切れのようだ」
その腕がもう一度レベッカを抱き締めた。その力強さに、なぜだか心が冷えていく。
ヴィクターが嫌だというわけではないが、これは……。
「待っていてくれベッキー、必ず助ける」
すっと離れたヴィクターが、ランプを持って静かに扉の外へと消えて行く。
外側から施錠された音が響いた。
暗闇。
(わたくしも、同じ事をレオン様にしていたのだわ)
視界が奪われたせいで、思考が明瞭になってくる。
婚約破棄を考え直してくれるよう、一方的にレオンに気持ちを押し付けていた。レオンはそれはないと、何度も言っていた。あの時のレオンは、今の自分のような気持ちだったのかもしれない。
なんと言われても、応えられないと。
(わたくしったら本当に馬鹿ですわ……こんなの嫌われて当然ですのに)
嘘でも、嫌いになったわけではないと、笑っていても泣いていても、思うように生きている姿が好きだと言ってくれた。
それだけで十分優しいではないか。
(レオン様……)
* * *




