28.わたくしったら本当に身勝手だわ
そろそろ日が傾き始めた。十月も下旬を迎えると、もう秋はほとんど過ぎたようなものだ。寒く感じることも多くなった。
冷えた風の吹く軍部を、レベッカは少し寂しい気持ちで歩いていた。隣には、もちろんレオンがいる。
今日も一日が終わってしまった。またこうしてレオンと過ごせる時間が短くなった。軍部の営門へ向かうにつれて兵士の数も減り、ますます寂しさが際立つ。
空を見上げる。そこには分厚い灰色の雲がかかっている。
「雨が降りそうですわね」
「そうだな。君が帰り着くまで降らないと良いが」
「馬車ですから大丈夫ですわ」
ポケットから懐中時計を取り出し時刻を確認する。まだ迎えの時間までにはしばしあるが、それまでは空も保つだろう。
「そう言えば、アヴァロ男爵は戻られたのか?」
「いえ、まだですわ」
「……そうか。クラウス卿との話、乗り気でないなら考え直しても良いと思うが」
そう言ってそっぽを向いたレオンに、微かな期待が頭をもたげる。
今までレオンは、ヴィクターとの話に文句の付けようがないと言っていた。こんな風に考え直すよう言ってきた事はなかった。
「でも、そうしたら婚期を逃しますわね。レオン様が考え直してくださるなら良いのですけれど」
「……それはない」
断言する声に、やっぱりという気持ちになる。
レオンが自分をどう思っているかはわからない。しかし、婚約を考え直す事がないというなら、レベッカに対してはそれなりの感情しかないのだ。
「そうですわよね……。ヴィクター様は素敵な方ですわ。お断りする理由はないんですの」
「だが、気が進まないように見えるが」
そうだ、ヴィクターには父に話してからと返事を伸ばしている。
断る理由などない。そんなことはわかっているのに。
その気持ちをどう表現しようかと逡巡していた時だった。
ぽつ、ぽつと雨粒がほおに落ちて来た。
「まあ、雨が」
そう言っている間にも、雨粒が落ちてくる。本降りになるのは時間の問題だ。
もう軍部の主だった建物からは離れていて、周囲には駆け込める屋根はない。
「少し走れるか? 営門の下なら雨除けになる」
「は、はい!」
頷いたレベッカに、レオンが手を差し出す。その手を握ると、レオンがレベッカを引いて走り出した。
雨粒が次々と落ち、風が吹いた。石作りのアーチがある営門を目指して走る。レベッカの鼓動が早まった。その鼓動を打ち消すように、本降りの雨が二人を濡らす。
やっと営門の下にたどり着いた頃には、酷く濡れてしまっていた。
手を離したレオンも、その赤茶の髪から雫が滴っているほどだ。
景色が雨で白くなる。風が吹き、狭いアーチの中にも雨が降り込んで来る。冷たい風と雨粒が次々とレベッカのほおを打った。真上からの雨粒がないだけ少しましという状況だ。
「レベッカ嬢、こちらへ」
レオンの腕がレベッカの肩を抱き、壁際へと誘導する。素直にそれに従いつつ、胸を押さえる。走ったせいか、まだ鼓動がおさまらない。
レベッカの肩を抱いたまま、雨が降り込む方へとレオンが立った。その身体で雨を遮ってくれる。
距離が近すぎて、その顔を見上げることが出来ない。
レベッカを庇うように、レオンの腕が肩を引き寄せた。
「酷い雨だ……ずいぶん濡れてしまったな……」
レオンの声が耳元でする。それに全身がぞわぞわと粟立った。
そう言えばこれまで、こんなに近い距離で接した事はなかった。馬車に乗る時も、レオンは必ず向かい側に座っていた。
「寒くないか?」
「あ、はい……大丈夫ですわ」
そう答えたのに、急に寒さを自覚して身体が震えた。もう肌寒い季節だ。雨に濡れて冷えた服が余計に体温を奪う。
昔、雨に濡れて冷え、弱った少年を助けたことがある。彼は肺炎を起こしていた。もっと寒かっただろう。だが、あまりに冷えればレベッカだってそうなるかもしれない。
「冷えているな」
「いえ、はい……あの、でもレオン様が……」
レオンは降り込む雨の方に立っている。レベッカよりもさらにひどく濡れていた。
「まあ、そうだな、正直寒い」
「そうですわよね。あの、場所を代わった方が」
「さすがにそれは俺のプライドが傷つくが」
レオンがおかしそうに低く笑った。熱を帯びたその息がかかり、震えが走る。寒い。
「少しの間辛抱してくれ」
肩を抱いたレオンの腕がレベッカを引き寄せ、背からそっとレベッカを抱き寄せた。鎖骨とお腹に回った腕が、二人を密着させる。
背中から、レオンの引き締まった身体の感触が伝わる。その事に動揺して、息が苦しくなる。寒さなど感じなくなるほど、急激に身体が熱を持ち始め、その事に驚いた。もう風邪を引いてしまったのかもしれない。
レオンの顔がレベッカの側頭部に当たる感触。そこから、肌の温もりを微かに感じる。
「温かくはならないだろうが、少しでも冷えるのを防ぎたい」
「あ、あの……」
「すまない、我慢して欲しい」
「我慢だなんて……ありがとうございます、レオン様」
そっとお腹に回る手に触れる。その骨ばった指先は冷たい。そこに手のひらを添える。これで少しでもレオンが温まるのならいい。温まって欲しい。
レオンは本当に優しい。この優しさが、もうじき新たな婚約者候補のものになるかと思うと、なぜか胸が疼いた。
(わたくしだって、ヴィクター様との縁を結ぼうとしていますわ……なのにこんなことを思うなんて、本当に身勝手だわ)
身勝手な自分には、レオンはきっと最初から釣り合わない相手だったのだ。
「この雨だ、迎えが遅くならないと良いが……」
「は、はい……」
なんと答えたら良いものかわからない。なにか話さなくてはと思うが、上手く頭が回らない。
「あ、あのそう言えばレオン様、靴に雨は染みていませんか?」
こんな時に聞かなくても良いのにと思った時にはあとの祭りだった。
「今のところ染みていない。大雨の日に護衛していた兵も喜んでいたな」
「良かったですわ」
「雨の日の運搬は大変だろうからな。モントルソー辺りでは大雨で道が封鎖され延泊したりもしていたようだからな」
モントルソーを通る軍関係の運搬と言えば、クラウス商団の事だろう。
「まあ、それは大変ですわね。道が封鎖されるなんてよっぽどですわ。アヴァロ商団はモントルソーを通ってレーシタント帝国へ頻繁に行きますの。でも道が封鎖されたって話は聞いたことがありませんわ。雨が多いというのは良く聞きますけれど。よほど降ったのね」
「そう、なのか? レーシタント帝国へは、月にどれくらい行くんだ?」
「月に四便が向かいますわ。向こうからも四便帰って来ます。だから八便が動いている事になりますわね」
「クラウス商団よりも多いな……」
レベッカを抱くレオンの腕に力が入った。息が詰まる。
「その便が出来てどれくらいだ?」
「さあ……わたくしが小さい頃からそうでしたからはっきりとは……」
「そうか」
力強い声。その熱が、冷えたレベッカのほおを温める。
「お天気が気になりますの?」
「そう、だな……。いつ封鎖されたのかわかれば良いんだが……」
「あの、それなら、月毎に各地方から報告が上がると思いますけれど」
レオンが小さく息を飲んだ。その音が、レベッカにはやけに大きく聞こえた。
「地理局か……!」
「はい」
地理局は軍部の一部門だ。各地の天候を始め、地図や工事などの事業も記録している。
とにかく、地理に関しての情報を集めている場所だ。
「うちも地理局に記録の閲覧申請を出して、よく見せてもらっていますの。例えば、ルート上の去年のお天気を見るんです。日照りが続いているようなら水を多く持っていこうとか、馬の休憩を多くしようとか準備出来るのですわ。道の封鎖情報も記録されていると思いますけれど」
「そう、だな。照会してみよう。ありがとう、レベッカ嬢」
「お役に立てたのなら良かったですわ」
レオンの役に立てた。その事に、今更ながら嬉しくなる。
本当はこうしてレオンの、スタンフィールド家の役に立ちたかった。
視線の先にはやみそうもない雨。白くけむる景色に、自分も溶け出しそうになる。
それを、レオンの腕が、体温がとどめてくれている。
(レオン様……)
もうなにを思うべきかもわからず、頭の中のうるさい声を放棄した。
ただ、レオンの腕と、体温と、息づかいだけを感じる。
そっとレオンの冷えた指先をさすった。背後でレオンが微かに身じろぎをする。お腹から離れた手のひらが、レベッカの指を捕らえた。そのまましっかりと手の中に握り込む。
冷えているなとつぶやく声。大きなその手が、レベッカの指を温めようとしてくれている。その優しさに、なぜか胸が苦しくなった。
こんなに手が大きいなんて知らなかった。
黙ってその優しさを受ける。握られた手の体温がレオンに移ればいい。少しでも温まるようにと、レベッカは祈る事しか出来なかった。
* * *
雨で濡れた制服を着替えると、もう終業時刻だった。そのまま、急いで地理局へと走る。
あんなに激しく降っていた雨は、嘘のように上がっていた。
もう少し時間がずれていれば雨に降られなくて済んだはずだ。仕方ない事とはいえ、不甲斐ない思いに唇を噛む。
レベッカが風邪を引かないかは心配だったが、それは今レオンにどうにか出来るものではない。
今出来るのは、交通障害の記録を照会することだ。
出て来た記録を、閲覧室に戻るのももどかしくその場でめくる。
(やはり……)
その記録には、レオンの思っていた通りの事が公的に記されていた。
大雨の記録はある。暴風雨もある。だが、道の封鎖情報は一つもなかった。
(護衛隊の者にも聞き取りをしなければ。いや、その前にスティーブ殿に報告だ)
気が焦る。こんな時こそ、スティーブを頼るべきだ。
今後どう動くべきか、慎重に策を練らなければならない。
(クラウス商団……火薬の運搬……度重なる虚偽の延泊……怪しむなという方がおかしい)
もしかしたら、レベッカの火薬密売疑惑に繋がるかもしれない。
クラウス商団は、実質ヴィクターが率いている。もしヴィクターがクラウス商団を使って不正に手を染めているならば、レベッカに求婚したのもなんらかの意図があるように思えて来る。
もちろん、クラウス商団の中の誰かが独断で行っている可能性もある。しかし、延泊して火薬の納品が遅れれば、ヴィクターにも報告が行くはずだ。それを黙認しているのなら、共犯でしかない。
「お前なんかをレベッカ嬢に近づけさせるものか……!」
* * *




