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第8話 壊れゆく心

 オレンジ色の常夜灯が薄く照らす愛香の部屋。ベッドには愛香が横になっており、ベッドの脇には布団が引かれて、ポニーテールを解いた美咲が横になっていた。


「愛香……ごめんね……」


 天井を眺めながら、ぼそりとつぶやいた美咲。愛香は身体を美咲の方へ向けた。


「美咲、謝ったらダメだよ」

「え?」

「美咲は何も悪いことしてないじゃん。でしょ?」

「……うん……でも、私のお母さんだし……」

「それは違うよ」

「違う?」

「美咲は美咲。美咲のママはママ。親子であっても、家族であっても、別の人間なんだからね。ママの(あやま)ちに、美咲は引きずられたらダメだよ」

「愛香……」

「どんなことがあっても、私は美咲が好き。それだけは忘れないで」

「……ありがとう」

「ふふふっ。明日は駅前のショッピングモール行こうよ!」

「そうだね、楽しみにしてる」

「よし! じゃあ、寝坊しないようにもう寝ようか」

「うん」

「美咲」

「なに?」

「こっち来る? 私と一緒に寝ようか? いいよ、おいで」


 笑顔で掛け布団をめくり上げる愛香。

 母親の愚行で家に帰りたくないこんな自分を、心から気遣ってくれる愛香の姿に美咲は涙が零れそうになる。本当であれば愛香と一緒に眠りたい。愛香の胸に顔を(うず)めて思いっきり泣きたい。きっと愛香なら、そんな自分を優しく抱き締めてくれる。しかし――


「ううん、大丈夫だよ。ありがとう」


 ――美咲は、愛香の誘いを断った。

 あの母親の血が自分にも流れていると思うと、大切な友だちである愛香を(けが)してしまう。そんな恐れが胸に渦巻き、愛香の下へ行くことができなかった。


「愛香、おやすみ」

「うん。おやすみ、美咲」


 美咲は目を(つむ)ったが、(まぶた)の裏に瞳と心へ焼き付いた光景が鮮明に蘇った。知らない男と微笑みながら口づけする母親。知らない男の下半身へ嬉しそうに顔を(うず)める母親。

 頭まで布団をかぶる美咲。身体が震え、涙も溢れ、小さく嗚咽を漏らした。

 布団から聞こえてくる美咲の嗚咽に、愛香は何もできない。母親のあまりに身勝手な行動で苦しむ美咲の姿に、愛香もまた悔し涙を零すのだった。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 翌朝――


「……本当に申し訳ございません……」


 愛香とその父親に、顔を真っ赤にして深く頭を下げている美咲。


「美咲ちゃん、大丈夫だからシャワー浴びておいで」

「気にしないの、美咲!」


 そんな美咲に優しい笑顔で接するふたり。

 美咲が寝ていた布団には、大きな濡れたシミができていた。


「で、でも、あの、片付けを……」

「それはこっちでやるから大丈夫だよ」

「でも……汚い……」


 目に涙を溜める美咲に、父親は優しく微笑んだ。


「全然汚くないよ。後はおじさんに任せて」

「そうそう! 美咲はシャワー浴びてきな!」


 愛香に促され、うなだれたまま浴室へゆっくりと向かっていく美咲。

 美咲を見送った愛香は、父親の胸に飛び込み、身体を震わせた。


「美咲が……美咲が何したっていうのよ……何もしてないじゃない……何で美咲がこんな目に……何でこんな思いを抱えなきゃいけないのよ……」


 愛香を抱き締めながら、頭を撫でる父親。

 友だちの姿に涙する娘へ、掛けられる言葉は何も出てこなかった。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 秋晴れの青空の下、昨夜美咲の父親である真一と話し合った自然公園の駐車場へやってきた愛香の父親。昨日と同じように、赤いミニバンへ身体を(ゆだ)ねながら缶コーヒーを飲んでいた。


 ププッ


 短いクラクションに顔を上げると、深紫色の軽ワゴンがすっと近くに停まる。真一だ。車を降りると、愛香の父親へ頭を下げた。


「おはようございます。昨夜はありがとうございました」

「いえいえ、こちらこそまた急にお呼び立てして申し訳ございません」


 愛香の父親の顔に、渋い表情が浮かんでいることに気付く真一。


「あの……美咲に何かありましたでしょうか……?」


 一瞬の間の後、愛香の父親は小さくため息をついた。


「……美咲ちゃん、夜尿症の傾向はありますか?」

「夜尿症……って、おねしょってことですか?」

「はい」

「いえ、無いです。美咲が物心付いた頃から、そういうことは一度もありません……えっ、まさか……」


 愛香の父親は、残念そうな表情を浮かべる。


「昨夜、美咲ちゃん、おねしょしてしまったんです……」

「えぇっ! も、申し訳ございません!」

「いえ、謝らないでください。私が言いたいのは、そういうことではありません。もしも、夜尿症の傾向があるのであれば、それは仕方ないことだと思います。ただ、そうでないとなると……」


 真っ青になる真一に、愛香の父親の表情が厳しくなった。


「心因性のものではないかと……」

「…………」


 言葉のない真一。


「おねしょで済んでいるうちはまだマシかもしれません。最悪、日常生活にも支障をきたすようになったりしたら……」

「日常生活……?」

「普通に生活している時、尿意を感じた瞬間に我慢できず失禁してしまうかもしれない、ということです」

「…………」


 真一はうなだれた。


「美咲ちゃん、もう心が限界なのだと思います」

「…………」

「あなたが奥さんを信じたい気持ちは分かります。でも、それは美咲ちゃんを犠牲にしてまで信じるべきことですか?」


 ハッとする真一。


「裏切った妻を待ち続ける健気(けなげ)な『夫』であり続けるのか。家族の裏切りに苦しむ娘を優しく抱き締める『父親』として生きるのか。選択に悩む時間はもうないと思います」


 真一は気付く。自分のこれまでのはっきりしない行動に、娘である美咲も巻き込んでしまい、自分も娘を傷付け続けていたのだと。

 顔を上げた真一は、愛香の父親に力強く頷く。真一の心には、もう娘の美咲しかいなかった。

 嘘で築き上げられた夫婦という幻影を壊し、家族である娘の美咲を幸せにすること。それが真一の思い描いた新しい『幸せの形』であった。

 新しい『幸せの形』を築き上げるべく、真一は動き始める。



 一方で、真一の妻である亜希子もまた、自分だけの『幸せの形』を追い求めていた。真一も知らない亜希子の人生、そして心の変化とは――



挿絵(By みてみん)





<次回予告>


 新章『第二章 背徳』


 第9話 快楽(けらく)の海




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