第55話 許されざる者
自分が求める『シアワセノカタチ』を実現するために、血の繋がりがない父親である真一の子どもを妊娠している美咲。驚愕しながらも、ただその話を聞くことしかできない美咲の産みの母親である亜希子。ふたりの乗った観覧車のカゴは、もうまもなく地上へと戻ろうとしていた。
「私がなんでアンタにこの話をしたのか分かる?」
「…………」
美咲の問いに、亜希子は答えられなかった。
「もうアンタの入る隙間は、私たち家族にはないってことを分かってもらうためよ」
うなだれる亜希子。
「それから、最後に言っておく。今後一切、私たち家族と関わるな」
亜希子は顔を上げ、ビクリと身体を震わせた。
自分を睨みつける美咲。その表情は、本気であることを物語っていた。
「私は家族を傷つけようとする者、そして私の計画を邪魔する者に容赦はしない。いいな、二度と私たち家族に関わるな!」
実の娘からの排他的な絶縁宣言に、亜希子は震えが止まらない。
「私たちは私たちだけの『シアワセノカタチ』を築き上げる! 誰にも邪魔はさせない!」
怯える亜希子に向かって、美咲は鬼気迫る表情で叫んだ。
ガチャリ
「お疲れ様でしたぁ! 足元に気をつけてお降りくださぁい!」
カゴが地上に戻り、外から係員がカゴの扉を開けた。
何事も無かったように、無表情にカゴをスッと降りる美咲。
真っ青な顔で、絶望したような表情を浮かべた亜希子がそれに続き、ふらふらとしながらカゴから降りた。
係員は一瞬亜希子を支えようと身体に触れようとしたが、美咲と亜希子が発していた異常な雰囲気を察し、その手を伸ばすことはなかった。
カンカンカンと金属製の階段を降りる美咲。少し離れて、その後ろを亜希子がヨロヨロと続く。
「お父さん! お母さん! おばあちゃん!」
美咲の戻りを待っていた三人の下へ、嬉しそうに足早に帰っていく美咲。そのまま真一の胸の中に吸い込まれていった。幸せそうに抱き締め合う真一と美咲。その姿は親子ではなく、まるで恋人同士のようであった。沙織と涼子は、その姿を優しい眼差しで見つめている。
四人、いや五人は、そのまま踵を返して、夜の闇に覆われ始めた公園の出口へと向かっていく。亜希子には一瞥もくれずに。
遠ざかっていく幸せそうな四人の背中を見ながら、亜希子は涙が止まらなかった。
美咲の話した内容に大きなショックを受けたのは確かだ。しかし、亜希子が泣いているのは、それだけが理由ではなかった。
亜希子は自分の犯した罪の本当の重さを理解したのだ。
不倫は、秘密裏に自分自身を満足させる行為だと思っていた。
違う。
バレなければ何もしていないのと同じことだと思っていた。
違う。
不倫は、家族に一生消えない傷を負わす苛烈な暴力だ。
そう思っていた。
でも、それも違っていた。
不倫は――
――家族や周囲のひとたちの心を殺す殺心だ。
小さくなっていく四人の背中に、もう謝罪の言葉すら出ない亜希子は、涙を零し膝から崩れ落ちる。
「私は……私は…………許されざる者だ……」
殺心を犯したことに気付き、一気に膨れ上がった罪悪感と後悔に、亜希子の心は耐えられず、弾けた。
「……ふふふ…………あはははは…………あははははははは! あははははははは!」
四人の背中が視界から消えても、アスファルトの地面に跪いたまま、亜希子は甲高い笑い声を上げ続けた。
『あれ? 長田さん、お疲れ様です。休憩ですか?』
あの日、「公衆便所」と呼ばれていた亜希子に、優しく手を差し伸べてた真一は、亜希子の汚れた過去を受け入れ、すべてを優しく愛で包み込んだ。家族のために全力で頑張る真一を支え続け、そして新築の住宅を購入。まさに順風満帆。そこには、確かに家族という名の『幸せの形』があったのだ。しかし――
『……一度だけ……一度だけと約束してください……』
――小さな、本当に小さな気の迷いから始まった一年半以上に渡る不倫。自ら背徳の沼に溺れ、性欲と愛情を見誤るほどに自分を見失った。夫を蔑み、娘を捨て、家族という『幸せの形』を自分で破壊。不倫相手の敦と子どもを作ろうとまでした。それが真実の愛だと疑わず。
しかし、それは真実の愛ではなく――
『お前なんか単なる「公衆便所」なんだよ!』
――偽りの愛だった。
自らの愚かな過ちによって、家族という名の『幸せの形』は完全に瓦解。パート先のスーパーをも閉店に追い込んだ。
結果、多額の慰謝料や債務を抱え、そして――
『今、私のお腹にはお父さんとの子どもが宿ってる』
――家族や周囲のひとたちの心を壊し、そして殺した。真一、美咲、沙織、涼子。彼らの心を殺し、人生をめちゃくちゃにしたのは、自分の不倫が一端であり、また主因となっているのだ。五年間もの長き贖罪の日々を経ても、その事実は変わらない。自分がどんなに代償を支払って贖罪を重ね、自らの背負った罪を軽くしようとしても、それは美咲たちの心の救いや慰めにはなっていないのだ。そんな厳しい現実に直面した亜希子の心は、それらを受け止め切ることができず、最終的には自らの心までも壊すことになった。
不倫で得るものなど何もなかった。
不倫は周囲を巻き込んで、すべてを壊していった。
どれだけ謝罪してももう遅い。
どれだけ後悔してももう遅い。
不倫は殺心。
許されざる罪。
夜の闇が支配する公園に、亜希子の狂ったような笑い声が響き渡る。
街灯の明かりは、許されざる者を晒すかのように亜希子を照らしていた。
罪人を遠巻きに見るひとたち。
しかし、手を差し伸べる者は誰もいない。
遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた――
<次回予告>
終幕『エピローグ 幸福』
第56話 美しき虚像




