第51話 希薄な存在
「てめぇ、ふざけんじゃねぇぞ」
丁度頂上を通過した観覧車のカゴの中で、亜希子の胸倉を怒りのまま掴む美咲。
亜希子は、憤怒の表情を浮かべる美咲に恐怖した。
「何が『ごめんなさい』だ! 何が『愛していた』だ! 本当にその気持ちがあれば不倫なんてしないだろうが!」
顔を近付けて怒鳴り散らす美咲から目をそらすことのできない亜希子。
「アンタは、あっちこっちの男に股開いて私を孕んだんだ! 誰の種でできたかも分からない私を! しかも、その責任をお父さんに全部負わせて! アンタを愛していたお父さんの気持ちを利用して!」
亜希子の瞳から後悔の涙が流れる。
「托卵なんていう子どもが不幸にしかならない反吐が出るような行為をする馬鹿な女もいるけどな、それを認識もせず、お父さんへ無意識に托卵して私を育てさせたオマエは、それ以上に最低なクズ女だ!」
何の言葉もない亜希子。
「しかも、不倫相手と子どもを作ろうとしていたじゃねぇか! クラウドに保存されていた吐き気がする写真や動画を私も見てんだよ! 『愛の証しを残したい』だ? ふざけんな! 子どもは淫乱なてめぇと不倫相手との記念トロフィーじゃねぇんだよ! 命を、子どもの人生をなんだと思ってんだ!」
亜希子の脳裏に、喜んで敦のすべてを受け入れていた愚かな自分の姿が浮かんだ。
「なぁ、教えてくれよ! 私は一体何者なんだ!」
美咲の瞳からも涙が落ちる。
「私は愛し合って生み出されたわけじゃなく、てめぇの性欲から生み出された! この世に産まれ出ても、てめぇからは偽りの愛を注がれ、終いには裏切られて捨てられた! だから、私を愛してくれるお父さんだけは! お父さんだけは! それだけが私の支えだった! でも! でも! それさえも偽りだった! お父さんはお父さんじゃなかった!」
娘の心からの怒りの叫びに、亜希子は泣くことしかできない。
美咲は、そんな亜希子の胸倉を力を強めてガクンガクンと揺さぶり、声を震わせながら叫ぶ。
「教えてくれよ! 私は一体誰なんだ! 私は一体何者なんだ! ちくしょう! ちくしょう!」
――アイデンティティの喪失
心が壊れた美咲に待っていたのは、自分という存在意義の喪失だった。真一との父娘の絆によって、辛うじて自分を保っていた美咲は、DNA鑑定によってそれを否定されたことにより、自らの存在意義を完全に見失ってしまう。幼児退行を起こしかけていたのも、現在の状況を受け止め切れないと判断した心の自己防衛機能が働き、何も知らなかった頃に美咲を戻そうと、必死に心が試みていたのである。
しかし、それが叶わないと判断した美咲の心は、最終防衛機能を働かせることになる――
ひとしきり叫んだ後、美咲は亜希子を掴んでいた手をゆっくりと離し、カゴの座席にドスンと座ってうなだれた。ゆらりゆらりと揺れるカゴ。
そして、その顔を亜希子に向ける。
「!」
亜希子は驚く。美咲は泣き腫らした真っ赤な目を自分に向けながら、いやらしい笑みを浮かべていたのだ。
「私は何もかも失った。全部偽物だった。まさか、私自身すらも得体の知れない紛い物だとは思わなかったけどね…………お父さんとの血縁が嘘だと分かった後、私考えたの。失ったら、また手に入れればいいって。また作り上げればいいんだって」
亜希子は何も言わず、ただ怯えながら美咲を見ている。
「おばあちゃんの家で暮らすようになってからは、本当にラッキーだった。すぐにすべての準備が整ったんだもの」
「じゅ、準備……?」
「そうよ、準備。私が考えた『シアワセノカタチ』を実現するための準備」
「ど、どういうことなの……?」
美咲の言っている意味が分からず、思わず問い掛けた亜希子。
一瞬悩むが、美咲はまたニヤケ顔を亜希子へ向ける。
「そうね……アンタには話しておいた方がいいかしらね」
カゴがゆっくりと下降を始め、ふたりの世界が終わりに近付いていく中、美咲は自らの『シアワセノカタチ』を語り始めた――
<次回予告>
第52話 美咲の計画




