第44話 心からの謝罪
断罪の日からまもなく三年が経とうとしていた。私は毎月欠かさずに慰謝料と養育費を支払い続けている。五百万円近くあった慰謝料とローンの残債の肩代わり分の返済も、もう半分を切っている。完済まではまだまだ時間がかかりそうだが、自分の犯した罪を償うためにも、きちんと支払っていきたい。
そんな贖罪の日々を送る中で、私には月に一度楽しみにしていることがあった。
玄関の扉についている郵便受けを確認する私。
「……あっ! 届いてる!」
私宛に白い封筒が届いていた。慌てずに封を開けると、中には小さな紙が一枚。書かれていたのは――
『領収書』
『慰謝料分割分およびローン残債返済 九万円』
『養育費 三万円』
『計十二万円 確かに受領いたしました』
『高木真一』
――私が振り込んだお金の領収書。毎月真一がこうして紙で送ってくれるのだ。この一枚の領収書が私と真一をつなぐモノになっている。
不倫をしていた私が復縁を持ちかけるなんてできないし、仮に求めたところで首は縦に振ってくれないだろう。だから、この一枚の領収書だけが私にとって真一を感じられるものなのだ。
離婚して約三年。未だに私は真一の夢を見る。夢の中の真一はあの頃のままで、とても優しく微笑んでくれて、私を抱き締めてくれる。私は離されまいと抱きつくのに、真一は微笑んだまま離れていってしまうのだ。必死で真一の名前を叫ぶ私。そこで目が覚め、濡れている枕に自分が泣いていたことを気付く。実際に声を上げて、自分の声で目を覚ましたこともある。諦めているはずなのに、私の心は未だ真一が占めているのだ。
だから、届いた領収書に私は口づけをする。不倫して離婚されたオバサンの気持ち悪い行為だと自分でも思う。でも、せずにはいられないのだ。少なくとも、真一がこの領収書を書いている時は私のことを考えている。それでいい。真一の心に私がまだいる証なのだから。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「あれ……?」
寒さ厳しい冬。今月はまだお金の振込をしていないのに、真一からの封書が届いた。私は、美咲に何かあったのかと慌てて封を切る。中に入っていた一枚の便箋。
『日曜日 午後七時 実家 塀の隙間から見よ』
その一文だけが書かれていた。意味がさっぱり分からない。でも、真一がわざわざ送ってきたくれたのだから、意味があるのだろうと思う。日曜は仕事も休みなので、指定した時間に実家を覗きに行くことにした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
日曜日 午後七時――
白い息が私の視界を霞ませる。所々に設置された街灯がポッと畑と道路を照らし始め、夜の闇がゆっくりと空に滲み始めた頃、私は三年振りに実家へと帰ってきた。ただ、もう絶縁されているので、家の敷居を跨ぐことはできない。真一もその事は母から聞いているだろう。
家の中を隠す役割を果たさない隙間だらけの古い木の塀。子どもの頃のままだ。人通りが少ない田舎の住宅地ではあるが、周囲から目立たないよう、また家の中から自分が見えてしまわないよう、私は黒っぽい上下で揃えた。寒さに震えながら、居間を望める塀にそっと顔を近づける。
塀の隙間からは小さな庭と小さな縁側、そして明かりの灯った居間が見える。カーテンはすべて開けられていた。
「……お母さん」
母親である沙織の姿があった。何となく年をとったように感じるのは、自分が多大な迷惑をかけたからだろうか。声を掛けたくても、それは許されない。私の心が痛む。その母は、誰かを待っているかのように、居間の入口を気にしている。そこにやってきたのは――
「……真一」
――あの優しい微笑みは何も変わっていなかった。もう一度、あなたに口づけされたい。もう一度、あなたに抱き締められたい。でも――
「!」
――真一に続いて居間に入ってきたのは、私が不倫をしていた敦の元妻の涼子さんだった。真一と微笑みを交わしている。私の叶わぬ望みは、本当に絶対叶わない望みなのだと、現実を突き付けられた。でも、これでいい。真一も涼子さんも本当に幸せそうだ。私が傷付けた真一の心を、きっと涼子さんが癒やしてくれている。そして、涼子さんの傷付いた心を真一が癒やしているのだ。お互いを思いやり、お互いを愛し合い、お互いを必要とし合う関係。きっと、あのふたりは再婚したのだろう。おめでとう、真一。そして――
「美咲!」
――自分の記憶にある可愛らしい少女から、この三年弱で美しさを纏い始めた女の子へと変貌していた。無邪気さを放ちながらも、大人への階段を少しずつ登り始めた娘の姿。三人の前で、私が見たことのない制服姿を披露している。そうか、中学生だった美咲は間もなく高校生になるのだ。きっと、その高校の制服なのだろう。この日、三人の前で制服姿をお披露目することになっていて、真一はその姿を私に見せようと、この日時を教えてくれたのだ。
三人の前で嬉しそうにクルッと身を翻したり、涼子さんに笑顔で抱きついたりしている美咲。私はこんなに可愛い娘を、自分のお腹を痛めて産んだ娘を、かんたんに捨ててしまったのだ。美咲が笑顔で抱きつき、それを嬉しそうに微笑む涼子さんの姿に、自分の幻が重なって見えた。涙が溢れて止まらない。
しかし、私は思い出す。
私の目の前にいる四人は、私が不倫という暴力で深く傷付けたひとたちだ。
勘違いしちゃいけない。
私は可哀想な被害者じゃない。
私は卑劣な加害者なんだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
オレの目の前でじゃれ合う美咲と涼子さん。沙織さんも嬉しそうに微笑みを浮かべている。
昨年、オレは涼子さんと再婚。この沙織さんの家で、四人家族として小さな幸せを少しずつ積み重ね、『幸せの形』を築き上げていっている。美咲が志望の高校に合格したのは、最近の出来事の中では一番の幸せな出来事だった。
そんな美咲の姿を亜希子にも見せるべきだろうと、オレは亜希子にこの日時を指定して見に来るように連絡した。亜希子、見に来ているだろうか。オレは、何気なくガラス戸の方へと視線を向けた。
塀の下の大きな隙間から、亜希子らしき黒い服を着た女性が、こちらに向かって土下座しているのが見えた――
寒風に吹き晒されながら、路上に跪いて、地面に額をつけるように深く頭を垂れる女性。あの女性が亜希子だとすれば、オレたち四人に、特に美咲に対して心からの謝罪をしているのだろう。
離婚から三年近く経ったが、亜希子が反省と後悔の日々を送っていると信じたい。それは別に亜希子を辛い目に会わせたいわけではない。自分を省みるその思いは、きっと彼女の幸せにつながるのだから。
オレは美咲たちに視線を戻し、もう一度塀の方へと視線を向ける。
そこには、もう誰もいなかった。
<次回予告>
第45話 縁切り




