第15話 破綻した思い
俺は涼子と結婚し、幸せな日々を送っていた。
お互いの両親が派手な式を望んだため、大層なホテルで結婚式と披露宴を行った。俺も涼子も友だちが少ないので、出席者の大半が親戚と取引先だったのだが、みんな盛大に祝ってくれて、本当にありがたかった。そんなあの日の思い出は、居間のフォトスタンドの中で今もキラキラと輝いている。
早く敦くんとの子どもが欲しいな――
よく涼子がそんなことを口にしていた。俺も同感で、早く自分だけの家族が欲しかった。自分の子どもにいっぱいの愛情を注いで、親の顔色を窺うのではなく、親の顔を見ると安心して微笑んでくれるように育てたい。スーパーマツナガに縛り付けるようなこともしたくない。夜空に輝く星々のように、世の中には無数の選択肢がある。その中にある自分だけの星を掴んでほしい。失敗したっていい。挫折したっていい。何度転んでも立ち上がって前を向いて生きていけるように、いつか「お父さん、お母さん、育ててくれてありがとう」と言われるように育てたい。
思わず語ってしまう子どもへの自分の思いを、涼子はいつも俺の隣で微笑みながら聞いていてくれていた。
あの日までは――
「敦くん、ごめんなさい……」
病院でベッドに横たわる涼子は、声を震わせながらそう呟いた。
涼子に子宮頸がんが見つかった。妊活している時に出血することがあり、婦人科で検査をしてもらった結果だ。
中学時代に俺と疎遠になってしまったが、涼子はずっと俺を想っていてくれていた。しかし、高校を卒業して社会人になったのをきっかけに、前を向こうと決断して、俺を忘れようとある男とお付き合いをしたらしい。でも、そのお付き合いも三ヶ月程で、相手の浮気が原因で終わりを告げた。それ以降、涼子は恋人を作らず、ずっとひとりとのこと。トラウマになるほど、かなり酷い別れ方をしたようだ。
ただ、その三ヶ月の間に一度だけ、たった一度だけ性交渉があったらしい。このたった一度の性交渉で、涼子はウイルスに感染した可能性が高い。俺はワクチンを接種していたが、涼子は接種していなかったのだ。
涼子は涙ながら正直に告白してくれた。初めてを捧げた相手に酷い裏切られ方をされて、おまけに自分の身体に時限爆弾を仕掛けられた涼子に、俺はもう掛ける言葉が見つからなかった。
そして、涼子は女性にとって極めてつらい選択をせざる得なかった。もう子どもは望めない。夢見ていた家族は望めないのだ。
俺の『幸せの形』が崩れていく――
涼子の手術は無事に終わった。スーパーの方は父と母に任せ、俺はずっと涼子に付き添っていた。そして、退院して自宅に帰ってきた時、涼子の姿におかしな違和感を感じた。それが何かは分からない。
居間のソファに座っている涼子。かなりふさぎ込んでいるが、それも致し方ないだろう。俺も掛ける言葉が無く、とりあえずお茶を入れようかと思った、その時だった。
――なんで?
心の声が響く。
――なんで俺が励まさなきゃいけないの?
胸がドキッとした。
――今までずっと我慢してきたのに
そうだな、何も無い空虚な人生を我慢して送ってきた。
――また我慢しなきゃいけないの?
そう……なのかもしれない。
――俺の家族は?
もう消え失せたよ。
――俺の『幸せの形』は?
だから、そんなものはもう無いって!
――壊したのは誰?
……黙れ。
――俺の『幸せの形』を壊したのは誰?
「うるさい!」
心の中で響き渡る邪な気持ちを払うつもりで、思わず大声を上げてしまった。涼子も驚いて俺を見ている。
「敦くん……どうしたの……?」
「い、いや、何でもない。気にしないで」
「私にずっと付き添ってくれてたから、きっと疲れてるんだと思う。ごめんなさい、ゆっくり休んで」
「涼子も退院したばかりなんだから、早く休みな」
俺の言葉に、申し訳無さそうな表情を浮かべる涼子。
「うん、ごめんなさい……敦くんも早く休んでね」
「あぁ……」
ソファからゆっくりと立ち上がる涼子。その姿を見た瞬間、中学時代に友だちから言われた言葉がフラッシュバックした。
『松永(敦)、お前あんなブスと付き合ってんの?』
居間から出ていく涼子の姿を見て、俺の心から憎しみの気持ちが湧いてくる。
「……自分の家族を持てない……俺のせいじゃない……もちろん涼子のせいじゃない……分かっている……それは分かっているんだ……それでも、アイツの責任を俺も背負い……一生あの女と生きなければならない……ふたりきりで……死ぬまで……」
『松永、お前あんなブスと付き合ってんの?』
「俺の人生……俺の人生は一体誰のモノなんだ……」
パチンッ
お茶を入れようと、お湯を沸かしていた電気ポットのスイッチが切れた。目の前には緑茶のティーパックと湯呑みがふたつ置いてある。
湯呑みへ注がれたのは、憤怒の表情を浮かべた俺の涙だった。
<次回予告>
第16話 獣の交わり