後編
次の日から、彼の席は空席になった。
最初の2,3日は体調不良でと言っていた担任が、何も言わなくなり、十日目に退学を報せた。二年に上がるタイミングで一年時に欠席が目立っていた数人が欠けてはいたが、これはあまりに突然だった。担任が退出するとメッセージアプリで連絡を入れようとする様子が散見されたが、すべてのグループからアカウントごと消えたことを口々に報告する。
「やばいことに巻き込まれたんじゃねぇの?」
声を潜めて、気がかりそうに言う者もあれば、職員室で住所を聞いて家まで行こうと盛り上がっていたところに、一時間目の教科担任が入室してきた。チャイムまではまだ五分以上あるが、この教師はだいたい早めにやってきて、スクリーンを下ろしタブレットを繋いだり、プリントを事前に配ったりする。
「先生、」
教卓の近くの生徒が、退学した彼の件を教師に振った。守秘義務がある教員だから、担任が話した以上の話題を提供してくれるはずもなく、歯切れの悪い応えが返っただけだった。だが、教師も困惑していることは確かで、退学がいかに唐突だったかを推察することができた。
昼くらいまではそわそわとした空気があったが、新しい情報が得られるわけでもなく、六時間目の総合探求の授業でタブレットで論文の検索をする生徒の傍ら、担任が彼の机を運びだしていった。
「走るところ、みたかったねぇ。」
教師たちの姿が見えなくなったのに、くるりと振り向いて級友が話しかけてきた。
「----う、ん。」
「保護者の転勤でも、一人暮らしで残ってもいいのにねぇ。我々、あと一年で成人なわけだし。」
「転勤、なの?」
神社の子というのが夏歌の認識だったが、あれから彼の家の事情ももしかして変わったのだろうか。報道部の彼女だから、何か掴んだのかと一瞬思った。
「夜逃げ、とかだったら仕方ないけど。」
「まさか。」
そんな非日常的なことがそうあるわけない、と思って、先日のアレはさらに現実とは思えないことだったと思う。
「インタビュー記事、一応書いたんだけど・・幻の選手!とか見出しつけてトピックはありかな?」
「・・うん、」
「でも本人に確認しないとだめだから、連絡つかないと厳しいか。」
「・・・うん、」
「顧問にあたってみようかな。連絡先、学校には残していくものじゃない?」
「・・・・うん、」
心ここに在らずと生返事を返す夏歌に、級友は不快というより心配そうに眉を寄せていた。夏歌には気づく余裕はなかったけれど。
翌日の体育祭は想定より暑い日になった。朝は曇っていたから油断していたが、応援合戦が終わって一競技目が始まる辺りで、太陽が顔を出した。タオルを被って、ちょくちょく水筒の水を飲んでいたら、出場した借り物競争のところで中味が尽きた。
お昼は教室に戻るまでまだ一種目、一時間強。
予備のペットボトルは教室の弁当袋と一緒だが、校舎は施錠されている。日焼け対策で羽織っていたパーカーのポケットの、交通ICカードを確認して夏歌は立ち上がった。
「飲み物買ってくる。」
校舎内の自販機は使えないが、部室棟近くにも自販機がある。校庭の逆側だから遠いけれど、出番もないから大丈夫だろう。
一緒に行動する友だちは軒並み次の玉入れの出場者で、集合場所に移動してしまっていたから、顔見知りくらいの級友に言い置いた。競技の集合以外で席を離れる時には、行き先を告げるのが申し合わせだ。
小さく頷いたのを見取って、夏歌はクラスのスペースを後にした。
玉入れは、競技者数が多いから通りすぎる他のクラスの座席も空席が多い。カメラを提げた教師たちに遭うたびに、「水かってきます」と愛想よく言いつつ校庭を出て、部室棟に続く通路に入った。ペットボトルを手にした水難民と次々にすれ違う。
不規則かつ雑多に左右に樹木が植えられている。並木というほどには整備されていないが、校庭に比べれば緑の効果か涼しい。ちょうど帰り足の人たちばかりのタイミングだったらしく、部室棟付近はひっそりと静まり返っていた。ここに来ると時間帯は、いつも騒がしいほどの活気があるから、葉擦れの音だけがする(はっきりいえば古い)建物群は何だかよそ行きの顔をして、まるで別の場所に紛れ込んだような不思議な気がした。
ガタン、と自販機がペットボトルを落とした。取り口から出し、その場で一口飲んだ。冷たい感触が喉を通って行って、ほ、と息をついた。
さわさわと梢を渡る風が心地よい。その風が孕む緑の匂いも。
たまに、わ、と校庭からの歓声が混じる。
「さて、・・戻りますか。」
もう一口水を飲み、ペットボトルのふたをキュッと閉めて、留まりたい気持ちを動かすために呟いた。
一、二、三歩歩いたところで、
----眉を顰めて足を止めた。
ざわざわと葉擦れの音。
風が強くなったわけではない。むしろ、風は感じない。
ざわざわざわ。
見上げた梢から、葉擦れの音が降り注ぐ。
先まで、軽やかに微風に揺れていたのに、今、梢は重く垂れ下がっている。そして、初夏の陽を通して葉脈が美しく透けて見えていたのに、その一枚一枚の表面に黒いものが張り付いたように暗い緑となって、夏歌の周囲に影を落とす。
その影とざわ、ざわ、ざわと不規則に揺れる葉にぞくりと厭な感じが背筋を走った。ざわざわにざくざくという何かを噛むような音が重なる。と思えば、木漏れ日がまた地面を踊り始めた。
ここを離れたいとと思うのに、足は動かない。いや、どこに安全な場所があるのかと本能的に探して、それがないことをも感じ取って、ただ立ち尽くしている。
絶体絶命。あるいは風前の灯火。
どうしてそんな心持ちになったのかは、すぐに理解することになった。木漏れ日の中に、ポトリと黒い塊が落ちた。ポトリ、ポトリ、と次々に地面を埋め尽くすように、夏歌を取り囲む地面を埋め尽くすように。
カシカシカシ、と長い触角を蠢かせる虫。カミキリムシによく似ている。虫嫌いではなくとも、この数と視界一杯蠢くさまには、生理的嫌悪感が掻き立てられる。
じわ、じわ、と足元に這い寄ってくる虫。危険な虫ではないはずだが、気持ち悪い。この大発生はいったい何事なのだろう。踏みつぶすのは気持ち悪いが、ここから離れた方がいい。覚悟を決めようとした瞬間、
「夏歌!」
と、鋭く名を呼ばれた。と、同時に体の正面の地面からカミキリムシたちが、地面ごとこそぎ取られるように左右に吹き飛んだ。羽のある虫だから宙に飛ばされると同時に、ジジと翅を開いて、こちらに飛んでこようとするのに、夏歌はびくりと身を縮ませる。
「こっち!」
宙の虫と、空いた地面に左右から侵食しようとする黒いものがまた吹き飛んだ。
「走って!」
何匹かを踏み付けて、何匹かを払い落として、夏歌は差し伸べられた手を握った。
同学年であることを示す、運動着の肩には赤のライン。今年初めて同じクラスになった、出席番号が近くて、教室の席は前後で、体育の測定では一緒になることが多くて、少し親しくなった、
「ムツヤナギ、さん?」
報道部の。
「そう、」
手を取って目を合わせた瞬間に、袋の口がまたする、と緩んで、零れた記憶。手を繋いで、柳の土手を歩いた。手にはスケッチブック。 写生の道具を入れたバッグを肩がけにして。
「・・いと、な・・?」
彼女は目を瞠って、泣きそうに笑って、けれど口元に力を入れると夏歌の手を引いて走り出した。足元の固い感触と、ぶつかってくる何かは見ないことにしたい----が、前を行く彼女の髪に背に足元に纏わる黒いそれらの様は、そのまま自分の様であるのだろうと思うと足が竦む。
「考えちゃだめ!」
彼女が前を向いたまま叫んだ。
「五月蠅い!!」
これは夏歌にではない。その叫びと同時に、カミキリムシか宙に弾きとばされた。
「ホントにホントにッ。ぜったいッ、詰めるッ。あたしに感謝を捧げなさいってばっ」
「っ、うん、あ、ありがとうっ、」
彼女が来なければ、どうしていいか分からなかったろうから、夏歌は礼を言ったのだが。
「違っあう!!」
ど、とまた空気が爆ぜる。
「夏歌はあたしがちゃんと守る!!から、もういいよ!!」
叫んで、けれど、ふ、と息を吐いた。
「----そうも、いかない・・かあ。」
彼女は、夏歌を己が前に押し出した。
「走って!! 」
「!?」
「こいつらはあたしが始末する。夏歌は校庭に出て、そしてもと町に向かう!」
「----もと、町。」
にこ、と(空気を爆ぜさせながら)彼女は笑った。
「あたしたちの、小学校があった・・そう、」
「----うん、」
思い出して、いる。
「でもッ!?」
「これはあたしの見せ場だから?」
あと、と嫌味なく言って、ひら、と手を振った。
「いると邪魔。」
「あとでちゃんと再会おう。また、いっぱい話をしよう?」
「…うん!」
夏歌は彼女をじっと見て、そしてくるりと背を向けた。走りだす。その後ろで、風を叩きつけるような音が始まったが振り返らなかった。
林を出た。明るい陽に、くらりとする。息を調えたところで、声がかかった。びくりと肩を跳ねさせ振り向く。
「・・トオヤナギ、先生。」
担任ではないが学年所属の教師----そう、黒い袋について彼に注意したのは、この教師だ。
「具合が悪いから、早退だな。」
何を言う前に、そう指示されて関係者だと心得た。今日はスーツではなくジャージ姿の彼はいつもより、とても若く見えた。
「・・あの、あっちで・・」
教師は浅く頷いた。
「総て除けるつもりだが、念のためこれを、」
と、手の中に握り込める大きさの巾着を渡された。
「もと町までなら姿隠しできるだろう。」
これも・・知っている。ランドセルにぶら下げていた。
----むし除け。
袋の口が、じわりじわり----ただ確実に開いていく。
夏歌は巾着を握りしめて、また走り出した。
木の陰通りゃんせ。
朝靄烟って通りゃんせ。
夏風揺れて通りゃんせ。
夕闇星影通りゃんせ。
月の無い夜は灯りを持てよ。
灯りがあっても気をつけよ。
闇のうちより通せんぼ。
灯りとられりゃ立ち往生。
蛍火追っておいでなさい。
柳陰でお待ちなさい。
通りゃんせ。
通りゃんせ。
夏歌は家を通り過ぎて、道路一本向こうの旧市街----もと町と呼ばれる地域に向かった。
二車線の県道の下に隧道が設置されている。小学校時代の通学路だが、卒業して以来通り抜けるのは初めてだ。
隧道を使って登校していたのは、自分だけだったな、とふと思った。
少子化の昨今だが、市内には五つの小学校があって、いま町の国道沿いの二つは大規模といわれる学級数だ。
近所に同学年はいなかったが、少し上と下の子はいた。彼らはその大きな小学校へ----夏歌とは逆側へ通っていた。こっちの方が距離としては近いと思うが、学区は選択できるから、大人数の方が社会性が身に付くとか行事が充実しているとか勤務先が近いとか、保護者が判断したのだろう。
夏歌自身は、というと。
『おばあちゃんの母校、なんですって。どう? 通ってみる?」
幼稚園の友だち(ママ友)がいればそれが判断材料になっただろうが、小学校入学と同時に引っ越してきた一家である。
父も母も大らかな性質だし、引っ越し転勤の多忙で、きっと最初に目についた情報で決めたに違いない。
いいよ、と自身も頷いたのだろうけれど。
隧道の空気はひんやりと湿った、懐かしい匂いがした。LEDに変えていない、古い電灯がちかちか瞬いている
突き当りで、左の階段を上がった。
道路一本越えただけで、まちの雰囲気はがらりと変わる。
まず目に飛び込んでくるのは、風に枝を揺らす柳の並木が続く河川敷だ。あえて桜でないところが渋い。ちなみに、いま町側になる下流では桜並木が整備されていて、花見の季節は大賑わいだ。
「写生の授業があったっけ。」
頬近くに流れて来た細い枝に呟けば、並んで歩いた同級生の気配も思い出されて、いまだれもいない隣に、まだ冷たい春の夕風が強く感じられた。
土手を降りると通学路だった歩行者道だ。商店街の裏に通った道は小学校へと続く。その半ばほど、大きなネコヤナギのある土塀の家の角を北側へ曲がる。緩やかな坂の、カーブを曲がるたびに少しずつ眼下に広がるまちの面積が増えていく。
そして。
行く手に鳥居が、見えてきた。
その左右に鎮座するのは、
「はーちゃんとぐーちゃん。久しぶり。」
阿形の獅子がじゃんけんの「はー(゜は自主規制)」で、吽形の狛犬が「ぐー」。小学生の咄嗟の名付けに安易とかのジャッジはいらない。
台座によじ登ったこともあるが、いまは大人らしく合掌する。
門番たちに挨拶も済ませて、さてと気を入れ直して鳥居をくぐろうとしたら、鳥居の前に彼が立っていた。
どこから現れたのか、さっぱり分からなかったが、少し息が上がっている。
もう二度と自分の前には現れないような、そんな気がしていたから、こんなかたちでも再会えて、ほっとした。
体操着姿の夏歌にす、と視線を滑らせて、彼もまた安堵の息を吐いた。
「・・無事で良かった。」
その彼は制服姿だった。ただし違う学校の。
凝視されていることに気づいて、彼はきまり悪そうに目を反らした。
何を問えばいいのか、何から語られれば納得するのか。言葉が必要な筈なのに、沈黙は横たわり、黄昏の手前、オレンジ色の光が影を孕んて、互いの表情を曖昧にする。
「境内に案内するところか?」
鳥居の向こうに見える参道はずっと無人だというのに、唐突に----まるで降ってきたように、また人が現れた。
彼と同じ制服の、ただし少し着崩している男子生徒。
「いきなり中座したと思ったら。迎えならそう言えばいいじゃないか。」
ふうん、と値踏みするように顎に手をあてて、首を傾けた。
「これがヒノキノが言っていた追加キャストか。」
「・・いや、」
僅か躊躇って、彼は言った。
「いま町の高校のクラスメートだ。」
「道案内もなく、いま町のただの級友がここに辿り着く? おまえ、一年のいま町暮らしで、ますますおもしろいヤツになっているなあ!」
貶める物言いに、夏歌は目を丸くした。こんなあからさまな挑発、動画の中でしか見たことがない。
「入学して来ないわ、いまさら突然一人で編入してくるわ、」
「----参加は任意だ。」
「言わず語らず、暗黙の了解だろう!?」
「忖度ができて立派なお子だったのだな。」
挑発に挑発を返すのに、そういうキャラだったか?と瞬きの回数に心情は追いつかない。分かりやすく少年の頬が引きつった。
「・・てめ、」
ゴゴッと地鳴りが響いて、続いて足元に震動。地震?とあたりを見渡した。
「おもしろいのはそちらだな、スギノ。禁域だぞ?」
「ぎり外側だ。」
いつの間にか、彼の背に庇われていて、彼がスギノと呼んだ少年と遮られた。
緊張を帯びていく空気を感じないほどに鈍感ではなかった。そろ、下がったところ、どん、と背後に岩が現れていて踵があたって目を瞠る。
「大人しくしていろ。」
足首に、岩から伸びた岩が巻き付いて、足枷となって夏歌を拘束した。
「ヤナギノに灸を据えたら、代わりにオレが連れて行ってやるよ。なに、数が増えるのに文句は出ないさ!」
彼は無表情だったが、右手を振り降ろした。夏歌を戒めていた岩が砂に変じて流れていく。
「行くぞ!」
短い言葉には万感の何かが籠っていて、言葉は違うけれど、この響きを知っていると稲妻に打たれたように思った。
彼は夏歌の右手首を掴んだ。鳥居の逆、坂道の方へと走り出す。
その行く手を阻もうとボボボ、と地面が丸く盛り上がり、その丸い瘤は次々に弾けて、二人に降りかかろうとする。
恐らく触れたら危険な代物なのだろう。彼の右手は忙しく動いて、まるで透明な傘を振り回しているように泥を防いでいる。
「訓練もしていない乙女じゃ、そりゃ足手まといだよなあ!」
馬鹿にしきった物言いに----いや、ずっと横柄で一方的な悪態に腹が立ち続けている。
というか、林からずっと逃げっぱなしで、もう己が不甲斐なさ過ぎて!
「タカヤナギくん。」
もと同級生に鋭く声をかけた。
「あれ、何とかできないの?」
意表を突かれたとばかりに、一瞬こちらを見た。
「頭くるでしょ!? 突然出てきて名乗りもせず、ひたすら悪口雑言! こちらの話をフル無視して、自分の話ばかりでイラつく!」
土くれができて弾けて払って、の騒動の只中である。
「口の悪い女だな。」
声を潜めては聞こえないから、当然スギノにも届いている。
「野育ちのせいか? 毛色が変わって新鮮だ。躾甲斐がありそうだ。」
「は?」
「気の強い目が屈服して哀願してくるのもいいなあ!」
変態だ。
鳥肌を立てて彼を見れば、彼も生ぬるいグレープフルーツジュースを飲まされた表情をしていた。
「手、放すが動かないでくれ。おれの後ろにぴったり立って、おれの肩甲骨のあたりに掌をあててもらえるか?」
「・・うん、」
「痛いことも怖いこともない。目を瞑っていればいい。」
「うん。」
----前にも、こんなことがあった。
遠くで誰かが、扉を叩いているような感覚。だが、それを追いかけている暇はなかった。
「ヤナギが真っ向からスギに立ち向かうって!? 一年逐電していたヤツが!?」
本当に腹が立つヤツだ、と口の端を引きつらせた夏歌だが、足元から何かが身体のうちを昇っていく感覚に息を詰めた。
決して不快ではなく。
お湯につかった足から熱が伝わっていくようなジワリとした熱。
硬い彼の背にあてた掌に伝って、そして彼の中へと流れていく、と判った。
-----前にも、こんなことがあった。
リフレイン。
小さく微笑む気配がして。
ぼーっとのぼせたような頭で、いつしか、まぼろしのなかにいた。
大きく風にしなる、それでいて折れぬしなやかさ。その幹に手を這わせて、金色に光る枝を葉が空を覆いつくすように広がるさまを仰ぎ見ていた。
さらさらと葉擦の音が降り注ぎ、水気を帯びた緑の匂いが鼻をくすぐる。
生命を、歌うごとく。
鳥居の前に突然人が現れるのに、もうびっくりはしない。
ただ今度はずっと年上で、複数だった。そして、ふたりは制服姿だが、漸くこの場に相応しい狩衣姿である。
豪奢な装束の人がメインで、一歩下がっている人はお付きだろうか。
「若い者は元気があって良い。」
声を張っている感はないが、よく通る声で、自然と聞く方の背筋を伸ばさせる。
「・・なにゆえに、貴方さまが、」
彼も、吹っ飛ばされて吹っ飛ばされて地面に転がっていたスギも、膝をつき、首を垂れた。
「宵の散歩の途中よ。元気な気配に誘われた。----が、」
夏歌はどうしていいか分からず、見下ろすかたちになった彼の後頭部から、狩衣の人物に視線を映した。
目が合う。
古い、大木の前に立ったような既視感が起きて、ゆっくり首を傾けた。
「柳陰の乙女か。」
「! おそれながら・・!」
彼は目を上げたが、狩衣の人物は一瞥で異議を唱えることを許さなかった。
「その色が見える、とわたしが申しておる。」
「----は、」
「それに目を瞑ることこそ不自然である。疾く招くことこそが世の理を調えるものと心得よ。」
地についた手が白くなるほど強く握りしめられていた。
「ヤナギの。愛しきものを覆い隠してしまいたいのはヤナギの性やも知れぬが、」
その上位者は未熟な若者を諭す口調に切り替えた。
「乙女に正しく選ばれたいのであれば、語り知るこそが本道である。」
「----俺は、いえわたしは、」
手はついたまま、けれど決意したように彼は顔を上げて、狩衣の人物を見た。
「あなたのようになりたいとは思わない。」
無礼な、とばかりにお供の顔が厳しくなったが、言われた当人はただ不思議そうであった。
「我らは一にして異、おまえはおまえを生きるだけだろう?」
「・・そうは思われない。」
届ける意志のない吐息まじりの呟きを隠すように、彼は再び面を伏せていく。
「----畏まりまして、」
深く頭を下げた彼に鷹揚に頷き、そのまま、画面を消すように狩衣の人物たちはいなくなった。
土埃塗れになった制服を叩きながら、スギが立ち上がった。
「いや、まさかカミさまが臨場されるとはなあ!」
と、憑き物が落ちたように、あっけらかんと話しかけてきた。
「言い返すなんて、なかなかの怖いもの知らずじゃねぇか!」
楽しそうである。
「鈍っていないことも分かったし。」
それから、スギの目は夏歌に向けられた。反射的に睨み返すと、なぜか嬉しそうなのが気持ち悪い。
「いまは柳陰でも、松柏になるかも知れないよな?」
と、満面の笑みでよく分からないことを言って、またな、と一方的な約束を置いて、少年もまたいなくなった。
始まりのまま、紫を過ぎて、紺に染まっていく鳥居の前で二人は向かい合っていた。
ここでは、と前言を翻した彼に誘われて境内に入った。参拝した後、渡り廊下の部分にならんで腰をかけた。
どこにも人気はなく、闇が押し包もうとしてくる。目顔で灯り、と問う。
すると軽い足音を立てて猫か狐のような生き物が走ってきて、宙でくるりと回って見せたと思ったら、暖色の灯となって宙に浮かんだ。
軽い頭痛を覚えつつ、もういいや、と溜息で受け入れた。
それから。
神話を謳うように、彼は語った。
ここは。
守の社の一つである柳の社。
ずっと奥、禁域の先に総社があって、現在の守は、イチョウノミコトとお呼びする。
イチョウノミコトはとてもとても長い時季、守位におわされたが、最後の銀杏の媛に不調の兆しがあって、いよいよ代替の儀式、競が執り行われると布告された。
競に参加するのは、樹繋の各一族の代表と奉る乙女。
二人ともに天羽学院に通い、そこで守たるべき知識教養を学び、そして守の座を勝ち取るべく競い合う。
-----と。
「それに、参加していると?」
「していなかった。俺に乙女はいなかったから。いや、候補はいたが。」
苦いものを噛みしめるように、彼は言う。
「競の期間は、俺がちょうど高校入学の年からの三年間となった。」
「天羽学院って、」
まちでも由緒正しい学校だと知られている。
「競がある時以外はふつうの学校だ。本来はせいぜい十年以内で競は行われていたらしいが、今代の守は異例だから、もう競自体が昔語りの域だ。」
イチョウノミコトとは、あの狩衣の人物らしいと夏歌は推測する。そんな年齢にも見えなかったけれど。
「俺は競を辞退して、だから天羽ではないいま町の高校に進学した。」
「じゃあなんで退学して、天羽の制服を着ているの!?」
「----俺の、・・・乙女がいたと知られてしまったから。まず、俺が連れ戻された。」
烏。交差点の人。スギ。
鼓動が高鳴る。不安なのか期待なのか。
「・・---俺の乙女は・・君だった。」
罪を告白するように彼は言った。
「あの祭礼のとき、君と舞って・・君だと判った。」
え、と目を瞠る。そんな記憶は・・、
「----もと町を出る時に、君の記憶には靄がかけられた。」
ぎょっとすることを言い出した。
「・・でも、解けてきている。高校で、俺と再会って、俺を思い出して固く縛った袋の口が緩んだ。昨年はなるべく目に触れぬように立ち回っていたけれと、この春同じクラスで俺を見に来た烏を君も見てしまうくらいに。」
「----え、と、だから転校?」
まさかの話ばかりである。それは続く。
「競を見越して、あの時、もと町の小学校ではヤナギからの候補者と乙女の育成と選定が行われていた。君は、祖母君の所縁で招かれた。本当ならばそのまま天羽の中等部へ入るはずだった。」
「・・じゃあ、なんで、」
「・・ふつうの将来を君は楽しそうに語っていたから。もと町から集まった女の子たちは、媛に選ばれるのが何よりの誉れで幸せだと言い含められているけれど。君は違った。だから、連れて行ってはだめだと思った。何より、俺がダメだった。好きな子が、他のヤツを好きになるかもしれないと思ったら----隠して、全部終わったら何食わぬ顔で会いに行けばいいと・・、」
「待って・・ちょっと待ってくれる?」
いまさり気なく、告白された、気がする。
「ずっと好きだった。」
真っすぐに目を合わせて、彼はストレートに言った。
袋、と彼は言ったけれど、その時大きくその口が開いて、彼との思い出がこぼれだした。
祭。宵。灯は消えて。人気もなくなった神楽舞台にこっそり上がって。口ずさんで一人。もう装束ではない彼。ここで会ったが百年目とばかりの好機に、さわりだけでいいから、と厚かましいのは承知の上で強請ったのは夏歌。
しゃら、と。
しゃらしゃらと。
垂れさがる枝の中を泳ぐように、枝を揺らして風と光を呼び込むように、天から水を通すように。
無限の夢幻を彷徨うような。
----舞いが終わって、夏歌はとても満足していただけだったけれど、彼は完全に硬直して唇をわななかせていた。
「守護くん?」
そうだ。あの頃、彼をそう呼んでいた。
彼の目じりから涙が零れさせながら彼は膝まづぃて、固く握りしめていた扇を夏歌に捧げるように差し出したのだ。
「俺の、・・柳陰の乙女。」
「・・・なのに待てなくて、君のもとに行ってしまった。結局、君を中途半端に乱した。俺の覚悟の足りなさはよく分かっている。」
その通りではあるのだが、絵になる彼がどうかと物語の登場人物のように希う。
「それでも、どうか俺と一緒に天羽に行ってほしい。俺は必ず君に選んでもらえる男となるから。」
「・・選ぶのは、守の候補者では?」
記憶はいろいろと戻ってきているが、守とか競とか乙女とか、(神楽の時のように)特定にしか関わらないと思っていたから、曖昧極まりない。
将来の夢を語る行事で、「どんな媛になりたいか」(言い回しは異なる)を女子が異口同音に述べるのに、「イベントを企画する会社に勤務して皆を楽しませたい」的なことを言って、シンとしたことが中学校の時、「夢はまだないです」と後ろ向き発言に至ったトラウマだったかと分かった。
「守候補一人について、一人、乙女を連れて高等部に上がる。でも、競の中で他の候補者と合うとなれば別の樹繋の乙女となることは、普通だと聞いている。」
「・・候補者一人に乙女一人で、別の人の乙女になったら・・え、修羅場じゃない!?」
三角関係だ、と眉を寄せたが。
「守の乙女は一人とは限らない。」
斜め上の返答が返ってきた。
「いまの、イチョウノミコトさまには事始めには媛が十一人おられたそうだ。」
「----はい?」
大奥か後宮か!? 理解が追い付かない。
「媛が多いほど、守の在位は長い・・らしい。」
「はあ、」
「でも俺は君だけでいい。守位も競もどうでもいいが、もし君が守の媛になりたいのなら、そうなるように尽くすけれど。」
「待って、本当に待って。」
瞳に宿る熱から目を反らして、夏歌は訴えた。
「守護くんの気持ちは嬉しいんだけど、私にとって守護くんは懐かしい人で、いまも別に嫌いとか厭とかはないんだけれど、いま同じ想いを返すのは無理。」
「分かっている。」
ちら、と目を戻したが、瞳の温度は変わらない。
「これからの中で、きちんと俺を見てもらえるように努める。」
「そういうことではなくて・・え、と・・私も天羽に行くことはもう決定なの?」
「君は俺の乙女だが・・ということは、媛の素質があるということだ。君は小学校で習った歌を覚えているだろうか。」
彼は小さく口ずさんだ。
木の陰通りゃんせ。
朝靄烟って通りゃんせ。
夏風揺れて通りゃんせ。
夕闇星影通りゃんせ。
月の無い夜は灯りを持てよ。
灯りがあっても気をつけよ。
闇のうちより通せんぼ。
灯りとられりゃ立ち往生。
蛍火追っておいでなさい。
柳陰でお待ちなさい。
通りゃんせ。
通りゃんせ。
「変質者対策の歌だね。夕方、帰宅する時変な人に出くわしたら逃げて、外灯が点いている家に助けを求めよという。」
夏歌が記憶を辿って言えば、苦笑いが返った。
「害に遭わぬよう、用心するよう訓えるものだ。我らは力を持つが、その力を掠め取ろうとする存在が生まれることは、世の摂理ではある。そういうモノから君を、必ず俺が守る。」
「・・それが、アレ?」
あのカミキリムシのような・・。
彼は静かに頷いた。
「・・あれは我らの天敵に成る。今日は間一髪間に合った。」
「そう! あの子は、残ってくれた彼女は無事なの!?」
「我らは喰わない。・・彼女は、きみの側近と為るべく天羽に来る。」
その矛盾に、このときの夏歌は気づけない。級友の無事を担保されたことだけを理解して胸を撫でおろす。
彼の言葉に胸を撫でおろしたものの、転校することを前提に語られるのには一言申したい。
「いや、でも大学受験もあるし、いま転校というのは現実的でなくない?」
「天羽に在籍し、競に加わるということは、殆どの大学が無条件で門を開く特記事項だ。」
我々はこの国においてそういうものだ、と彼はさらりと言った。
「でも・・卒業して、君が元通りのいま町での生活を送りたいと願うのなら、俺はそれをきっと叶える。何度も言うが、守になんてならなくていい。」
「・・・でも、守護くんだって、私以外の人がいいと思うかも知れないでしょ?」
言ってから、何駆け引きみたいなことを言い出した自分!と赤面した夏歌だが、彼は真正面から言葉を返した。
「あの夜に、君が俺に葉を芽吹かせてから、葉は増えるばかり、繁りゆくばかりだ。いまさら、その総てをこそぎ落として、誰かのために葉を繫らすには時が足りない。」
と。
その言葉を受け止め、咀嚼して。夏歌は真っ赤になって俯いた。
「----そういう、人だっけ? ・・寡黙な方かと思っていた。」
「うん。そう、だね。俺はいますごく浮かれている。」
情熱的なことを言って、そして屈託なく笑う。
「ずっと会いたくて、ずっと話したかった。」
・・・とりあえずはキャパオーバーだ。
さらに深く俯いたら、あろうことか彼はいつかのように膝をつき、下から彼女の顔を覗き込んだ。
「どうか、いまは俺に譲って、俺を君の傍に置いてほしい。」
希う瞳に、否といえないくら思い出の中の彼は特別ではあったと、夏歌は自覚した。
※
※
※
「----今宵、ヤナギより、守補と乙女が入学れました。」
「それは重畳。」
当たり前の高校生のように数学の教科書に目を落としていた若者は、当たり前の高校生らしくない言葉を発した。
「此度の十二の樹繋が競に揃い、まったき形となった。」
告げられた方は満足げであったが、報告した方はといえば、異論を沈黙に包んでいた。
「気に入らぬのかい?」
「・・今更ではございませぬか。しかも下位のヤナギに、なぜあなたさまが拘られるのか・・。」
「そのヤナギが、いやヤナギだけが前回の競で守の媛を出さなかった。」
柔らかい応え。だが。
「他の樹繋は、すべて差し出すことになったというのに?」
その僅かに上がった口の端に、堪えきれない苛立ちがある。
「そして今回ははなから競を抜けようという。」
「はい。所詮はその程度の、」
「わたしが現代よりもまったき守となるためには、その欠けは決して認められぬ。」
傲然と、顎を引いて若者は宣言した。
「この国の、斎ひ槻たる我が樹繋が、イチョウなぞの後塵を拝した百年の屈辱をわたしが必ず晴らさねばならぬ。そうではないか!?」
「御意にございます。」
側近は深く首を垂れた。
「明日からが、本当のはじまりである。」
毅然たる声にて、若者は宣した。
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木の陰通りゃんせ。
朝靄烟って通りゃんせ。
夏風揺れて通りゃんせ。
夕闇星影通りゃんせ。
月の無い夜は灯りを持てよ。
灯りがあっても気をつけよ。
闇のうちより通せんぼ。
灯りとられりゃ立ち往生。
蛍火追っておいでなさい。
柳陰でお待ちなさい。
通りゃんせ。
通りゃんせ。
彼らの路はどこへと伸びたのか。
その話はまた、いずれ-----。
続いてます!な感じの終わりですが、「柳」の物語はひとまず一区切り。
軽く用語説明と世界観を。
現代によく似た世界ではありますが。
①数多の樹繋があって、その数だけの町があって、競にはその中から有力な十二が時々に参加する資格を持ちます。
②ちなみに「ヤナギ」以外で顔出ししたのは、今回登場したのは「「ヒノキ」「スギ」「イチョウ」「ケヤキ」です。今代である「イチョウ」は今回の競に参加する資格を持ちません。
③樹繋の乙女は、相手が守に選ばれると媛と呼ばれることになります。