前編
木の陰通りゃんせ。
朝靄烟って通りゃんせ。
夏風揺れて通りゃんせ。
夕闇星影通りゃんせ。
月の無い夜は灯りを持てよ。
灯りがあっても気をつけよ。
闇のうちより通せんぼ。
灯りとられりゃ立ち往生。
蛍火追っておいでなさい。
柳陰でお待ちなさい。
通りゃんせ。
通りゃんせ。
その、日。
晴れの日の淡い青。少しだけ青がぼんやりと濁っているのは、まだ黄砂が飛来をやめていないというしるしだ。
陽射しは、だからまだ強さを感じるほどではない。風の具合で日陰はむしろひやりとする。体操着の長袖をしっかりと着こんだ夏歌は、校庭に点在するベンチの一つにクラスメートと並んで腰かけて、50m走の列が進むのを眺めていた。
50mを2本。タイムの良い方を報告(記録)する。新学期が来るたびに行われる体力測定の一項目だ。
体育は二クラス合同で行われるが、校庭にコースは三本しか作れないから男女交互の測定だ。今日は女子が最初で、今は男子の列が進んでいる。もう少し、男子の列が1/3くらいになったら再集合して2回目の測定となる。
うーん、とストレッチともつかない前伸びをして、そのまま上にも伸びた。
「行く?」
こちらは足首を曲げたり伸ばしたりしている級友が聞いてきた。
「・・だねぇ、」
「一回でいいじゃないのかなあ、」
「だるいねぇ、」
屈伸をして立ち上がった。
「でもまあ、十秒ちょっと走るくらいだし。」
「走っている姿さらすのがもう何のバツってって感じ。」
細いが、柔らかな線の彼女は恐らく体育以外の運動とは無縁で高校まできたに違いなかった。
集合の呼びかけ前にお利口に集まりつつあった女子の一部がざわりとした。雰囲気を察した二人もそちらへと目を移した。
「・・うわ、・・だよ!?」
厭そうな文字面と裏腹に、声は弾んで目は見開かれた。
男子はあと二組(一巡目だが)。名簿順が記録しやすいだろうに、背丈の順という体育教員のこだわりの順番である。体の大きさと足の比例しないと思うのだが。
ピーで位置について、次のピがよーい、三つ目のピッがスタート。最後から二組めが土煙を上げて走っていったが、女子の殆どの視線はそれを追うことなく待機位置に留まっている。
殆どに入らない夏歌は、なかなかの接戦(そも50mでは余程の地力の差がなければそんなものだ)を見届けて、スタートラインに目を戻した。
高校二年の男子として、とびぬけて長身という訳ではない。少しだけ頭が出ている、くらい。まだまだ伸びていきそうな、しなやかな生気を発しているとは思う。
なんちゃっての(器具がない)クラウチングスタートだ。
きゃあ、と何に興奮しているのか女子の一部がさざめいた。
「・・・うん、青春だ。」
女子の担当教員は並んだ順に測定する派だ。早く終わったからといっても、終わりの挨拶までは校庭に待機だが、ゆっくりできる方が嬉しい。
ライバルが少ないうちに整列したかったが、友人は見守る気に溢れていた。
クラス替えしたばかり。新しい人間関係は大事にするべきだろうと、夏歌は集合場所からスタート地点へと視線を動かして。
----全く逆の方向へ目を向けていた。
校庭に沿って走る道路の上の電線に小さな黒色が見えた。
風に飛ばされてきた黒いビニール袋だと思った。
以前、家の近くの電線に大きなブルーシートがひっかかって、折からの強風でひどくはためいて電線が切れるのではないかと案じたことが思い出されたが、あの大きさなら大丈夫かと思った。
そこで。
見間違いに気づいた。
黒いビニールだと思ったのは、烏だった。
笛が四回鳴った。フライングだ。数メートル先から苦笑いして戻ってくる。
一人で思って気づいた、完結した見間違いなのに、何となくバツが悪く感じて、しないで良かった告白をした。
「あれ、ビニールだと思ったら烏だったよ。」
会話の隙間に落ちた発言は、思った以上の視線をそちらに向かわせた。彼らはぱちりと瞬いた。
「え、あれビニールでしょ。」
「いや,烏だよ。」
「・・ええ?」
もう一度瞬きして、
「袋、だよね。黒い、」
大きな声のやり取りではないが、次々に聞きつけて皆、電線の上の黒いモノを見る。
「----袋、」
「トイレとかで使う黒いやつに見える。」
笛が鳴った。それが届く距離ではないだろうけれど。
「----飛んだ。」
羽ばたく。
「飛ばされたね。」
校庭に向かって、真っすぐに飛んで、くる。
羽ばたく翼もはっきり見えるのに、友人たちは何を見ているのか。
----もしくは自分は何を見ているのか。
烏と目が合う、なんである筈もないのに、見据えられている気がして、じり、と夏歌は後ずさっていた。
続けて二度、笛が鳴った。夏歌は大きくなってくる烏から目を離せないでいたが、笛が示す方に視線を戻した女子生徒たちはがきゃあ!と憚りのない黄色い声を上げたが、それは不意に強く吹いた風で、髪を乱される悲鳴に変わった。
その向かい風で、上空の烏もバランスを崩して翼をばたつかせ、風の吹く方角へと押されて、こちらに来るのを諦めたように小さな黒い点となっていった。
「酷い風ぇっ、」
「土埃すごいし、髪ぐちゃぐちゃだし。」
文句を言いあう女子生徒の向こう、彼と同じ組の二人かゴールするところだった。
「もうっ、ゴールするところよく見えなかったしっ。風め!」
と、いうことは彼はすでにゴールしたということだ。見ていないところで、後の二人が転んだのでなければ、吃驚な速さではなかろうか。
風に口を尖らせる一方、速い、すごい、と嬉しそうに、興奮気味に言いあう級友たちには、もう黒い袋のやり取りは、舞った後の土埃みたいなものだ。
女子の熱視線に気づいた他の男子たちが彼を茶化すように取り囲んで絡んでいるのが見えた。
ピピ、と集合の笛が響いて、女子のかたまりがゆっくり解けて流れ出す。
「----行こ?」
どこか心配げに促されて、夏歌も動き出した。
けれど、歩きながらもう一度、空のあちらを見遣った。
雲を溶かしたぼんやりとした淡い青空にいまは何も見えない。
見間違い、そう、思い違いだったと片付けようとしたのに。
「烏だったよ。」
休憩に向かう彼が擦れ違いざまに一言囁いた。
慌てて振り向いたが、彼は振り向くことなく、何食わぬ背が離れていった。
彼とは実は小学校が、一緒だ。
二クラス、学年五十人あまり。クラス替えは2年にいっぺんで、高学年になって初めて一緒だった。とはいえ、少人数の学校のこと顔を知らないということはない。
格好いい、とか崇められるような存在ではなく、ムードメーカーでも、リーダーでもなく、口数も発言も多くも少なくもない、大勢の一人だった。
同じ班に何度かなって掃除や実験をした。何より神楽の伝承グループが同じだった。
地域に伝わる神楽舞は、総合的な学習の時間の中で上級生から下級生への伝講が行われていた。学習発表会で披露されたり、時には祭りに招かれたりする。
低中学年は賑やかしみたいなものだが、高学年はガチだ。夏祭には取材もくるし、観客も多い。
これといって目立つことのなかったクラスメートを特別に認識したのは6年の春の「舞手」オーディションのときだ。
彼だけは舞手に決定していた。その神社の子だから、と地域学習とかで既に周知のことだったから、特に異論はなかったように記憶する。
「タカヤナギさん、」
おっとりとした風情の音楽担当の先生が彼を指名した。
「お手本をお願いできますか?」
はい、と彼は立ち上がった。開いたら扇ぐもの、閉じれば叩くか小突くかの道具でしかなかった扇が、花にも風にもなることを、何もないところに絵が描かれることを知ったのだ。
神楽舞は対舞で、その年は特別な大祭とかで、3度異なる舞い手で催されることと、男舞は彼と、中学生の卒業生は決定していて、もう一人はこれから、女舞は中学生の対手は確定、あと二人を在校生の中から選抜すると報らされた。
やりたい、いやむしろやる、と心に決めた熱を覚えている。
しゃらりしゃらりとしたリズムが苦手で、4年までの基礎(そう、今思えば!)をおざなりにこなした夏歌には、意欲はあっても技術が本当に足りなかった。そして時間も。
オーディションまでは、たったの3週間。
少し遠くの温泉地とその周辺のレジャー施設を堪能するG.W.恒例の家族旅行をキャンセルして、自主練に場所を解放してくれた神社に通い詰めた。
----で。
あえなく落選した。
悔しくて、正確には全然できなかったことが情けなくて号泣していたら、(補欠的に)踊りに通うのは構わないよ、と先生が慰めてくれたから・・そうした。小学生は空気を読まず、遠慮もしない。
当選(?)した(今年は)隣のクラスのシラヤナギさんは、顔を合わすたびにつん、としていたが、中学生のヤナギュウ先輩と後輩(4年生だった)のヤナギゾノちゃんはちゃんと混ぜてくれたから、めげずに通った。
ニシヤナギくんとヤナギゾノちゃん、マヤナギ先輩とヤナギュウ先輩、タカヤナギくんとシラヤナギさんの対舞を見ながら、ひとりで踊っていた。
彼女たちとの差は歴然で、どんなにやったところで追いつくはずもなかく、取って代わりたいとか、そんな野望はなく。でも、彼の扇が描く世界で、一度踊りたいな、とは夢見てはいたけれど。
八月。緑の濃い季節だが、小高い場所の境内には涼やかな風が吹いていた。例年は一日きりの大祭は三日も続き、宵の終わりに三度、神楽舞が行われた。
祭は終わって、舞の時季も終わった。秋がきて、冬が過ぎて、----中学校は、道路一本でだれとも学区が異なった。
通学方向が違うから、高校の廊下で三年ぶりに彼とすれ違った時は、思わず二度見したことを思い出す。彼はいま町ではなく、もと町の方の高校に通うものだと思っていたから。彼も何となく表情は動いたから、まあ、気づいてはいたのだろう。小さな会釈もどきで行き過ぎた。
そのまま、一年のクラスは、一年フロアの端と端、教科の合同クラスにもなる機会もなければ、委員会も部活も異なったから、行事で遠くに見かけるくらいで終わり、今年同じクラスになったものの、出席番号が遠いから、まだ会話した----いや、面と向かった覚えもなかったのに。
どうして、わざわざ。
体育の後の授業は選択で、彼とは科目が違った。担任の都合でSHRも省略。
つまりあの後、顔を合わせることなく、本日は終了だ。彼と話したい気もしたが、ビニール袋が烏がことについては、あまり考えたくなかったから、このまま曖昧にするのもありだろう。
週番の仕事として、クラス分をまとめて提出するようにと指示があった古典プリントを出席番号順に揃え、教科担当に提出した職員室前で、また明日、と当番の相方と別れた。
真っすぐ下校する者も部活へ向かう者もちょうど絶える時間帯だった。だれもいない昇降口に、カタンと靴箱の戸を開けた音がやけに大きく響いた。
外靴に履き替え、左肩にかけた鞄の位置を調整しながら外に出た。
----出たら、花壇のブロックに腰をかけて端末を見ていた彼が顔を上げて・・つまり目が合った。
誰を待っているのかな、と考えた。彼女のウワサはなかったと思う。
例の件が過ぎったものの、どう口火をきったものかと目を合わせたまま静止していたら、
「----ミナカミ、」
すっかり低くなった、知っているようで知らない声で呼びかけられた。
彼は端末をポケットに入れて立ち上がった。
「・・足、速かったんだね。」
迎え撃つ自分の口をついたのは、本日のホットワードである。言葉を継ごうとした彼は、厭そうに眉を寄せて反論する方を選んだ。
「計るヤツが押し違ったんだ。」
「ええ?」
「二度目は普通だった。」
二度目は知らないが、一度目の独走(した後の)後ろ姿を目撃しているから首を傾げてしまった。
「うーたぬが真っ白になってたとか?」
体育教師の卯山先生はタヌキ似だ。
「計測のミスだ。」
彼は繰り返した。
「----そうなんだ。」
深追いするような関係でもない。
沈黙の間が落ちて、
「その、」
「・・あの、」
視線がぶつかって、とっさにずらした。恐らく互いに。
「----帰るか。」
「うん、」
じゃあ、と彼の前を行き過ぎようとしたのに、隣に並んできたからぎょっとした。
「----は?」
「どうかしたか?」
「・・だれか待っていたのでは?}
「ああ、」
じ、とこちらを見下ろしてきた。お前だ、と語る目に気づいて頬が引きつった。
「なに?」
なんなのだ、突然。
幼馴染として声を掛けてくるのなら、一年遅い。
風が吹く。春らしい、一瞬の突風。
夏歌の前髪と彼の耳にかかるほどの髪を乱して。
----こんな風に向き合ったことがあった、気がした。今のように見上げるのではなく、ほぼ同じ高さで。
小学校六年も同じ空間に居たのだから、そんなこともあったかも知れない----いや、そんな偶発的なことではなく・・・?
頭一つ高い位置にある彼を振り仰ぎ目を瞠ったままの夏歌に、彼は目を細め、そして鋭い頬をして青空を仰いだ。
羽ばたきがあって、彼の----二人の頭上で黒い鳥が旋回していた。
「・・・烏?」
「烏、」
三階建ての校舎の屋上付近。何を狙おうと言うのか。
夏歌の視界を遮るように、彼の腕が差し出され、また風が、今度は下から上に、烏を押し上げるように吹いた。
彼の腕が引かれた時には、校舎で四角く区切られた青空が頭上にあった。
そして。音、が戻ってきた。
静かすぎたことに気づいた。下校時刻が過ぎたとはいえ、普通の放課後だ。吹奏楽部の音合わせ、合唱部の発声練習、演劇部の呪文のようなセリフ回し、校庭の方角からは野球部の掛け声と陸上部のホイッスル----あって当たり前の音がしていなかった。
「タカヤナギ~っ!!」
ガラリと頭上の窓が開いて、学年の教師が顔を覗かせた。
「ゴミを散らかすな!」
という、お叱りに、
「すいません、手を放しちゃって。」
彼はふつうの高校生らしい口調で応じていた。
「いま、追いかけて拾ってきます!」
「おう!」
愛想よく教師に手を振って、夏歌にはにこ、と柔らかに笑みを向けて走り去っていった。
烏、なのか、ゴミ袋、なのか。
自分と教師は、同じものを見て、いたのか?
淡い青を振り仰いで、暫く動けなかった。
翌日。LHRで体育祭の選手決めがあった。
縦割りであるから、中間学年として上と下に対して適当なことをしては示しがつかない、と実行委員が力説して、花形かつポイントが高い縦割りリレーの選出は昨日の50m走のタイム順となった。
夏歌はリレーの補欠と借り物走になった。黒板の選手一覧を見れば、彼はリレーと玉入れだ。実行委員が体育科から借り出してきた50m記録一覧は、一度めを計測ミスとする彼の主張は通っているようで彼だけは二回目の記録のみ記されたものだった。そこからなら候補にはならないはずだが、どう思い返しても速かったという目撃多数の意向に当人も強弁はできなかったようだ。
種目の話から、次はクラスTシャツの話になり、作成係を希望した面子以外は解散となった。
「楽しみだねぇ、体育祭。」
持ち帰るものと個人ロッカーにしまうものを仕分けしている夏歌に、前の席の級友が話しかけてきた。因みに前から一番目と二番目の席である。
「スポーツ、好きだったっけ?」
「やだなあ、行事だよ、おまつりだよ!?」
にこにこと言う。
「てんでバラバラな文化祭より、 みんな同じものを同じタイミングで共有するわけだから、話題も一致して盛り上がるでしょ!? 記事にした時の共感度が違うの!」
「報道部らしい捉えだね。」
「いかに話題を呼ぶ紙面にするかの勝負はもう始まっているの。まずは各クラスのリレー代表インタビュー・・ってことで、タカヤナギくん!」
二人の間の通路を通って前の扉から出て行こうとしていた彼は、突然の勢いに驚いた顔で振り向いた。
今日はまだ挨拶もしていない。いや、それが常態なのだけれど
声をかけた級友と彼が特に親しい様子はなかったが、それならばなお、さらりと声をかけられるコミュニケーション能力の高さは羨ましいところだ。
「・・なに?」
「抱負聞かせて?」
「玉入れのか?」
「リレーだよ。----君は実は面白い人だな!?」
と砕けた雰囲気を作った彼女に、彼も笑いながら向き直った。
「さて彗星のごとく現れて、うーたぬの肝を大気圏外に飛ばしたと話題の高柳守護くんにインタビューです!」
「侵略者かよ!?」
「いいねぇ、ノリっ。」
----気が合っている。
固い表情ばかり向けられているから、そんな権利はないとないと自らを宥めつつも、面白い気分にはならない。
「私、お先するから。」
「OK。今日は塾だっけ?」
「うん。」
鞄を取り上げた。
何か言いたげな彼の顔が目の端を掠めたけれど、それもきっと気のせいだから、と振り返ることはしなかった。
授業が終わり、自習室を経て外に出れば、春の一日はとっぷりと暮れていた。
今日は母が仕事終わりに迎えに来てくれる。そろそろ、と端末を開いてメッセージが来ていたことに気づいた。遅れるごめんスタンプが捺されていた。もう少し早く分かれば自習室にいたのだが、荷物をまとめて玄関を出てしまってから戻る気にはなれず、車道の向こうで輝く大きなロゴに惹かれて、ファーストフードショップで待とうと横断歩道に向かった。
信号待ちの間にファーストフード店で待つとメッセージを送った。母の職場からだと、塾の駐車場よりファーストフード店の駐車場の方が入りやすい。問題なくおち合えるはず。
車側の信号が黄色になったのを目の端で捉え、既読にはならない画面から顔を上げて、行く手の歩行者信号の赤を見据えた。小さい頃からの習慣で数を数えて。五で青に変わった。
一歩を踏み出そうとして強烈な違和感に、足はその場に縫い留められた。
何度も渡ったことのある信号だ。視覚補助の鳥の声がしない。
代わりに、通りゃんせ?
木の陰通りゃんせ。
朝靄烟って通りゃんせ。
夏風揺れて通りゃんせ。
夕闇星影通りゃんせ。
月の無い夜は灯りを持てよ。
灯りがあっても気をつけよ。
闇のうちより通せんぼ。
灯りとられりゃ立ち往生。
蛍火追っておいでなさい。
柳陰でお待ちなさい。
通りゃんせ。
通りゃんせ。
----どうして、唄付なんだろう。
後ずさる。
真っ暗な道の向こう、まあるい仄かな灯りが揺れながら、通りゃんせと誘われるよう、少しずつこちらへと渡ってくる。
悪夢の中で藻掻くように、夏歌の足は動かない。
ゆらゆらと上下に小さく震える灯りを見ていた。
そして、濃くなってくる甘い匂い。香水ではなく、香。
----提灯だ。
柄を持つ手元が見えて、判った。だが、祭りでもないのに?
光の輪が照らす足元は----スニーカー。
そして。
夏歌も灯の輪の中に入れて立ち止まったのは、どこかの制服姿の若者。
頭がバグるとは、このことだ。
ここは、羽織袴に草履と足袋が相応のいでたちではあるまいか。
「・・・何かの行事の途中?」
定期戦とか文化祭前に仮装して街を練り歩く学校もあると聞く。
あちらも何かを言おうと口を開きかけたところの機先を制したかたちになった。
びっくりとしたように目を見開いて、けれど不快そうな色ではなく面白そうな色を載せたから----悪いヤツではない、たぶん?
「こんばんは、」
「・・・こんばんは、」
襟元に3つのピンバッジ。一つは学校章だろうが、ほのかな明の中でもキラキラして、なんだか高そうだった。
「…天羽学院」
不意に口をついた。
通う予定、だった中高一貫校だ。
「思い出してくれて嬉しいよ。」
彼が微笑んだ。
近所では見かけないし、通っている知り合いもいないのだから、即応できるはずはない。嫌味か、と思ったが、彼はただ嬉しそうに見えた。
「久しぶりだね、夏歌さん。」
「・・えーと、」
「おや、つれない。」
同級生には思えない。先輩(確定)だ。でも、三年生とも思えない。
「なんどか交流活動で顔を合わせたじゃないか。」
「----小学校の、」
彼は思わせぶりに小首を傾げた。
「君はヤナギノ、わたしはヒノキノ。キャンパスは違えど、同じ天羽に通っていた。」
「キャンパス?」
学年二クラスの。小さな----つきり、と頭の奥に彼の言葉が刺さる。
「キャンパスが同じになる中等部を楽しみにしていたのに。」
「? 学区が違うのだから、」
学区?
「学区?」
思ったのと笑ったのとは同じで、合う視線。
呼び覚まされる、違和感。
記憶を探して目を瞠る夏歌に、彼は深く微笑む。
そして。
次の会話(あるいは問い)を探して眉を寄せた瞬間、ぐ、と後ろから右の手首を掴まれた。
盛大に跳び上がって、最大級の悲鳴をあげる、はずだった。
「ミナカミ、」
名を呼ばれて、何とか悲鳴を息に抑えることができた。
肩越しに振り向けば、ジーンズに薄手の春ニット。私服姿だと大学生でも通るだろう。
「はやかった----いや、遅かったか?」
くすくすと、同年代の男子の笑い方としては雅すぎると思った。
「まだ何も言っていないよ。その点では早かった。」
彼は、提灯の光を遮るように夏歌の前に立った。
「でも、こうしておれに会わせてしまったことは、遅かった。」
間近い彼が発する熱----緊張だと気づいた。
「まずは、おめでとうを言わせてくれ。これで君が戦線に戻ってくると思うと嬉しくて、つい宵の散歩に出てしまった。」
光の輪が急激に小さくなっていく。と、同時に先輩も立ち止まっているのに遠ざかっていった。
「つれないことだ。」
「去ね。」
古風な口調がまるで壁を立てたようで、闇が引いていき、足元には白い線が戻って、点滅する歩行者信号を見た。
車のエンジン音と建物からの生活音が返ってきて、ふ、と息をついて一歩下がった。
「!」
また闇が一息に濃くなった。ぬ、とその端正な顔----顔だけが真上から夏歌を見下ろしていた。
「・・に枯らされぬようご用心、」
バン、と彼が両手を打ち鳴らした。首は烏に変じた。一声、まるで笑うように鳴いて夜空に飛び上がり、夜の色に溶けて見えなくなった。
歩行者信号は赤に変わり、停車していた自家用車が何もなかったと言わんばかりに行き交い始めた。
次に信号が変わるのを待って、普通に渡った。
ファーストフード店の駐車場は、店内からの明るい光と賑やかなBGMが漏れ出している、何時もの顔でそこにあった。
あの、後。彼はまだ口を開いていいない。
「----どういう、」
こと?と問いただそうとしたのに、被るように車道から車が侵入してきた。母だ。
ハンドルを回す母の車のライトが彼女たちを捉える----直前に、
「・・あれはゴミ袋だ。」
「はあ!?」
「言い続け、思い続ければ、人とはそうできるものだ。」
「え・・っと、何を言っ・・!?」
光の輪に入らぬように彼は体を動かした。思ったら彼もまた、闇に溶けたようにもうどこにも見えなくなった。
「お待たせぇっ!!」
母の陽気な声も、いつもの夜だった。
※
※
とんとん、とーん。
とと、とん、とと、とーーん。
口で言いながら、足を動かす。
みな思いやり深く、聞かないふりで、それぞれ別の壁際でさらっていた。
タオルで汗を拭いながら、外に風にあたりに行こうと通りかかった時に、小さく助言をくれた。
「とと、じゃない。ととの後に1/4拍。」
「!」
顔を上げればもう背中だったが助言のとおりに動いていたら、戻ってきた彼がちょっと立ち止まって、
「・・リズム感、あるな。」
と笑ってくれたから、
「ありがとう!」
と、返した。
※
※
----覚えていた。
いや。
思い出した。