沈黙の内側へ
訓練の翌日。
学院の廊下に差し込む午前の光は、どこかやわらかく穏やかだった。
私は午前の講義を早めに抜け出して、中庭のベンチに向かう。
理由はひとつ。
「ユリウス。少し、話をしない?」
彼は変わらぬ無表情で私を見つめ、静かに頷いた。
「……はい」
ふたり、並んで腰を下ろす。
沈黙が流れる。
でも、居心地は悪くなかった。
彼は無口だが、私にとってはこの“静かさ”も心地よい。
私は紅茶を一口飲んでから、何気ないふりで切り出した。
「昨日の演習、見事だったわ。あなたと、ラファエル副団長」
ユリウスは一瞬だけ目を伏せる。
「……恐れ入ります」
「まるで、以前から組んでいたみたいだった」
「……」
言葉が止まる。
私は、あえて続きを言わずに、カップを置いた。
「……彼とは、以前に面識が?」
「……少しだけ」
答えは短い。でも、その声にはわずかに硬さがあった。
「敵だったの?」
「……いいえ。かつて、同じ戦場にいました」
私は驚いたふりをしないように気をつけた。
(やっぱり、あったんだ……共闘の過去)
「なにか、あったのかしら」
ユリウスはしばらく黙っていた。
そして、ぽつりとつぶやいた。
「……俺が、一方的に……信頼を裏切った、と彼は思っているかもしれません」
私はそっと、扇子を膝に置いた。
「貴方は、どう思っているの?」
少しの間、風が吹いた。
木々の葉が揺れて、影が差し込む。
「……後悔はしていません。
でも……謝ることも、できていないままです」
「どうして?」
「……どうしても、言葉にすると……軽くなる気がして」
その言葉に、私は胸が少し締めつけられるのを感じた。
きっと、ユリウスは不器用で、繊細で、
だからこそ、黙ることを選んできた人なのだ。
でも、感情の糸は嘘をつかない。
今、彼の背から伸びている青の糸は、静かに、ラファエルの方角に向かって揺れている。
「ラファエルは……あなたのこと、恨んでないと思うわ」
ユリウスがこちらを見た。
「貴方を庇っていた。演習で、危険な位置に立ったあなたを、迷わず助けた。
……それが、彼の答えじゃないかしら」
ユリウスの目が、わずかに見開かれる。
「……そう、ですか」
「ええ。……でもね、助けられるだけじゃ、終われないのよ」
私は微笑んで言った。
「大切なのは、そのあとの“会話”なの」
ラファエルに“話しかけるタイミング”というのは、簡単なようで難しい。
彼は基本的に周囲と距離をとっている。
常に冷静で、必要以上の会話をしない。
笑わない。近づかせない。
でも、私は知っている。
昨日、彼はユリウスを助けた。
あれは、反射じゃない。“選んだ行動”だった。
だから私は、動いた。
昼下がり。
学院の裏手にある、誰もいない静かな中庭。
ラファエルが、一人で読書をしていた。
私は足音を消さず、ゆっくり近づいた。
「ご機嫌よう、副団長。お邪魔ではありませんか?」
ラファエルは本から目を上げ、少しだけ眉を上げた。
「クラリス様。……珍しいですね、こちらへ来られるとは」
「ええ。あなたと、少しお話したくて」
彼は静かに本を閉じた。
「構いませんよ。……どうぞ」
私は隣に腰を下ろす。
少しの沈黙。
その時間を壊さないように、私は言葉を選んだ。
「演習でのあなたの行動、見ていました。……ユリウスを助けたこと、感謝します」
ラファエルは視線を前に向けたまま、わずかに目を伏せた。
「……礼には及びません。
彼が負傷すれば、演習に支障が出る。そう判断したまでです」
「それだけかしら?」
ほんの少しだけ、私は踏み込んでみる。
ラファエルの肩が、微かに動いた気がした。
「……昔、彼と同じ戦場に立っていました」
「知っています」
ラファエルは一瞬、驚いたようにこちらを見た。
「彼が言っていました。少しだけですが。
彼の口から、過去の話が出ることなんて滅多にないでしょう?」
「……そう、ですね」
ラファエルの声が少しだけ、柔らかくなった。
「俺が怒っていると思っているでしょう。
でも、あのとき――俺は、何も言えなかった」
彼の言葉は、まるで氷を割るように、静かに続いた。
「俺が責める前に、彼が背を向けた。
だから、残されたのは……何もない“空白”だけだった」
私はゆっくりと頷いた。
「なら、今から埋めていけばいいと思うの。
空白は、言葉と行動で少しずつ塗りつぶせる。……時間はかかるけれど」
ラファエルは黙っていた。
でも、彼の胸元から伸びる糸が、うっすらと淡い銀に染まっていくのが見えた。
「副団長。ユリウスは、いまもあなたの言葉を待っています」
そう言って立ち上がろうとしたとき、ラファエルが小さく言った。
「クラリス様。あなたは……どうして、そこまで?」
私は微笑んだ。
「ええ、“たまたま推しているだけ”ですわ」
言えない。絶対に言えない。
あなたとユリウスのカプが私の前世の尊き命だったなんて。
でも、今は言葉じゃなくてもいい。
この感情の糸を、少しずつ結んでいけば――
きっと、彼らの物語はもう一度動き出す。
「王都防衛任務……ですか?」
クラリスは報告を読みながら、内心で小躍りした。
王都近郊で発生した魔導災害の影響により、
急遽学院騎士と魔導師団が合同で“警戒任務”に当たるという通達が届いたのだ。
しかも――
《派遣班:副団長ラファエル・ダルクレイン、護衛騎士ユリウス・リントブルグ》
「……神、いますわ」
クラリス・フォン・ヴァルトハイン、感謝の正座を脳内で実施中。
しかも任務は1泊2日。
つまり――寝食を共にし、任務中の信頼と誤解と過去の記憶が交差する展開が待っている!!
「これは……最高の素材……」
ニヤけそうになるのを必死で抑えつつ、クラリスは表情を整えた。
任務の指令は、王都北部の森林地帯。
魔力が不安定化し、魔獣が異常行動を起こす兆候あり。
王都への流入を防ぐため、少人数での監視班が必要とされていた。
形式的には、ユリウスが“王家付き警護騎士”として、クラリスの随行任務をこなす体。
実際は、クラリスが“無理やり”その任務に便乗する形だった。
「副団長、現地での配置はお任せしますわ」
「……了解しました。危険地帯は避けていただきますよう」
「ユリウス、あなたも副団長の指示に従って行動してね」
「……承知しました」
……これぞ、“公式に認可された”推しの合宿。
現地では、仮設の簡易拠点が設営され、夕方から夜にかけて警戒体制がとられた。
クラリスは休息用のテントから、そっと外の様子を観察する。
ユリウスは剣を携え、静かに森の縁に立っていた。
ラファエルは、魔力探知を行いながら地脈の安定を確認している。
(……やっぱり、似合うわね、ふたり)
無言のまま任務を遂行する彼らの姿に、かつての“戦友感”がにじむ。
でも、それは言葉ではなく、動きの呼吸でしか伝えられない。
夕闇が森を包み始めた頃。
拠点には、奇妙な“気配”が立ちこめていた。
――空気が、重い。
風が止まり、草木が揺れるのもやんだ。
「……静かすぎるな」
ユリウスが剣の柄に手をかけ、わずかに森の奥を睨む。
ラファエルも、魔力探知の紋章が浮かぶ水晶を手に、目を細めていた。
「……これは、自然の流れではない。魔力が一方向に収束している」
次の瞬間だった。
――ガッ!!
森の奥で何かがはじけるような音がして、光の渦が弾けた。
地面が微かに揺れる。魔力の圧が、皮膚に刺さるように押し寄せる。
「魔導の渦!? こんな場所で……っ!」
「クラリス様、ここから動かないでください!」
ユリウスが瞬時に前へ出て、剣を抜く。
ラファエルも無言で詠唱を始め、杖の先端に冷気を凝縮させていく。
――ズルッ、ズルッ、ズシン。
地面を削りながら、巨大な四足獣が姿を現した。
背中に異常な数の魔核を抱え、身体中から暴走した魔力を噴き出している。
目は赤く、理性の欠片もない。
「暴走個体……!」
獣が咆哮を上げた瞬間、突風のような魔力が拠点を襲った。
木々がなぎ倒され、地面が割れ、クラリスの前髪が逆巻く。
「ユリウス! 右から回り込め!」
「了解!」
ユリウスが音もなく駆け出し、左前脚に斬りかかる。
ラファエルが直後に、氷の鎖を地面から突き出し、後脚を拘束する。
獣が吠える。牙を剥く。だが、その攻撃は――
「——ッ!」
ユリウスが跳び上がり、獣の肩口に剣を突き刺す。
だが刃は皮膚を裂くも、深くは届かない。
「まだだ、ユリウス!」
ラファエルが叫ぶ。彼にしては珍しい大声。
次の瞬間、彼の杖から放たれた氷柱の槍が、ユリウスの攻撃の刹那を狙って獣の胸に直撃した。
爆ぜるような衝撃。魔力が逆流し、獣がのたうつ。
ユリウスは飛び退き、肩で息をしながらラファエルを見た。
「……助かりました」
ラファエルは無言で、軽く頷く。
ふたりの間に、風が通り抜ける。
沈黙。
だがそこにあったのは、言葉よりも速く伝わる信頼の残り火だった。