クラリスと腐女子、融合
目が覚めた瞬間、見知らぬ天井が視界を覆った。
重厚なフレスコ画。天井に描かれた花や天使たちは、どこか美術館で見た西洋画を思わせる。
ベッドの感触は柔らかく、肌に触れるシーツは絹のようだった。部屋にはほんのり薔薇の香りが漂っている。
「……どこ?」
私はゆっくりと身を起こし、辺りを見渡す。
高い天蓋、金糸のカーテン、白く塗られた柱に、繊細なレリーフの家具。まるで中世の貴族の部屋みたい。
そう、夢の中でよく見る「異世界のお嬢様の部屋」だ。でも、これは夢?リアルすぎる。
頭がボーッとするのは、さっきまで号泣してたせいだ。
――そうだ、私は昨夜、推しカプのバッドエンドを読んでしまって。
「……あれ?」
その瞬間、胸の奥がぞわっと冷える。
推しカプ、ユリウスとラファエル。悲惨な死別エンド。あれは小説だった、フィクションだったはず。
なのに、どうして私、こんな場所にいるの?
カーテンの隙間からこぼれる朝陽が、私の手元を照らす。
……その手が、白くて細くて、爪まで美しく整っている。私のじゃない。
「……誰?」
混乱と恐怖で、喉の奥が詰まる。
私の身体じゃない。部屋も知らない。どこにもスマホもない。
夢なら早く覚めて――でも、頬をつねっても、痛いだけだった。
ドアがノックされる音がして、私の背筋が凍る。
「お嬢様、お目覚めでしょうか?」
若い女性の声がする。扉が開かれ、現れたのはレースのついたメイド服を着た侍女だった。
彼女は私の顔を見るなり、ほっとしたように微笑む。
「本日もご機嫌麗しゅうございます、クラリス様」
クラリス?
誰?
私は反射的に頷きながら、頭の中でぐるぐると考えを巡らせていた。
この体の名前はクラリス。私は佐藤遥。日本のOL。じゃあここは――?
……まさか、まさかだけど。いや、でも。そんなの、あるわけない。
服を着替えさせられながら、鏡の前に立つ。そこに映るのは、絹のような白金の髪とアメジスト色の瞳を持つ、絵に描いたような美少女。
「……っ」
目をそらしたくなるほど現実離れした美しさ。でもその中に、確かに私の“意識”はある。
やがて、言葉ではなく“何かの感覚”が、脳内にふわりと流れ込んでくる。
記憶……というより“設定”のようなもの。クラリス・フォン・ヴァルトハイン。王国でもっとも高貴な家柄の令嬢。王太子の婚約者。
そして、傲慢で高慢で、物語の中ではヒロインに嫌がらせをし、最後には断罪される悪役令嬢。
「そんな……まさか」
……まさか、とは思う。でも、確信に近い何かが心を掴んで離さない。
もしかして、私は……あの乙女小説の世界に?
混乱したまま廊下に出た私は、侍女の案内で屋敷の広い回廊を進む。
頭がまだうまく回らない。これは夢?それとも何かの幻覚?
ただひとつだけ確かに感じるのは、この“体”と“匂い”と“空気”が、あまりにもリアルすぎることだった。
そんな中、私の目の前に、ひとりの騎士が現れた。
漆黒の髪を短く整え、まっすぐな背筋。
金の縁が入った制服に身を包み、剣を携えた姿は、まさに“騎士”そのもの。
一瞬、胸がざわついた。見覚えがある。いや、見覚えというか、見慣れてる。
「……ユリウス……?」
思わず名前をつぶやいてしまう。
その声に反応したように、彼がこちらを向いた。
その顔。その瞳。その雰囲気。
まさしく、私が前世で愛読していたBL小説の“推し受”ユリウス・リントブルグにそっくりだった。
いや、そっくりなんてもんじゃない。そのまんまだった。
「……え、なんで?」
頭が真っ白になる。
ここは乙女小説『薔薇色の運命』の世界じゃないの?
じゃあ、なんでBL小説『紅蓮の誓約』のキャラがいるの?
混ざってる……? 偶然……? 似てるだけ……?
でも、声も仕草も、完璧に“彼”だった。
この世界にいるはずのない人が、存在している。
まるで、別の物語が入り込んでいるみたいな。
心の奥がざわざわと不安で満ちる。
それと同時に、彼の奥にかすかに見えた、淡く光る青い糸が脳裏に焼きついた。
あれは、何だったのだろう。
私にしか見えていない、“感情の痕跡”のようなもの――。
この世界は、私の知っている“物語”とは、何かが違う。
違和感は確信に変わりつつある。
でも、まだ断言できない。まだ整理できない。
頭の中で、複数の物語が重なり、揺れている。
――まさか、本当に。
この世界は、ただの乙女ゲームの舞台なんかじゃない?