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昭和39年(1964年)4月、石川誠はM大学商学部で留年し、単位のとれていない授業に出席する他、後輩の堀江康之、北原仙次、伊藤直樹たちと『王ゼミナール』で学んだ。新年度の『王ゼミナール』の初めての集まりの時、新入生が沢山、ゼミナール室にいたので、石川はびつくりした。新しい3年生のメンバーは辻和也、風間健二、佐藤洋介、松本貢、山田昭彦、六馬英雄、三浦久子、江口安代、林千帆と大勢で、女性が3人も加入していたからだ。『王ゼミナール』は商学部のゼミナールであり、中国貿易のゼミナールだ。そのゼミナールに女性が3人も参加するなどということは、今までに無いことだった。貿易英語専門の『石田ゼミナール』に女性が入ることは理解出来るが、中国貿易の『王ゼミナール』に女性が参加することが不思議でならなかった。王育文先生の説明によると、彼女たちは文学部で王先生から中国語を習っている学生で、より詳しく中国や台湾の歴史を知りたいということもあっての、特別参加だという。いや女性ばかりではない。中国との国交のない現在、辻和也たち男性が、中国貿易のゼミナールに入る理由が分からなかった。新年度加入メンバーの紹介の時、3年生のリーダー、辻和也はこう挨拶した。
「僕は南京で生まれました。赤ん坊の時、上海から帰国したので、中国語は耳に残っていますが、喋れません。これを機会に、王先生から中国語を学び、日常の挨拶程度、話せるようになり、何時の日にか南京に行きたいと思っています」
辻和也の理由は明確だった。だが、辻が中国に行けるかどうかは、分からない。『王ゼミナール』は中国貿易のゼミナールであるが、現在、大学が考えている中国貿易とは、香港や台湾との貿易であり、鎖国状態中国大陸とこ貿易ではなかった。文学青年の山田昭彦は、こう挨拶した。
「俺は中国文学に興味を持っています。杜甫や李白の詩が好きです。魯迅の小説も好きです。『王ゼミナール』で中国語の勉強をして、中国の歴史と文学を追求したいと思っています」
辻や山田のように、真面目に挨拶する者もいれば風間健二のように、おどけた挨拶をする者もいた。
「俺は英語の入部試験の無い、面接だけの『王ゼミナール』を選びました。英語を得意がってる連中に勝つ為に、中国語を、このゼミナールで習得したいと思っています。ここ数年のうちに中国大陸との交易が中国との友好商社によって、必ず始まります。その取引に英語は通用しません。英語を得意がっている連中の出来ない中国貿易を実現し、アメリカかぶれの連中に勝つ。これが俺の入部の理由です」
英語の苦手な風間らしい理由であった。女性たちの挨拶に、石川たちは先輩組は興味深々だった。まず三浦久子が挨拶した。
「私は第二外国語に中国語を選び、2年間、王先生に教えていただきました。中国語の勉強を2年で辞めてしまうのは勿体ないような気がして、文学部から特別に『王ゼミナール』に入ることを許可していただきました」
続いて野口安代が付け加えるように言った。
「私も三浦久子さんと同じ考えで、『王ゼミ』に入ることを決めました。三浦さんとクラスも同じで、2人で一緒なら、商学部の皆さんについて行けると思い、『王ゼミ』を選びました」
三浦久子と野口安代の挨拶は可愛かった。石川誠はスラットした黒髪を長く垂らしている林千帆が、どのような挨拶をするのか興味を抱いた。林千帆はゆっくりと喋った。
「私は5歳から12歳まで香港で暮らしていました。父が商社マンで香港駐在だった為、小学校まで香港で過ごしました。中学校まで神戸で過ごし、高校を卒業するや神戸の日中友好商社で事務仕事をやることになっていましたが、上司に基本的になっていないと叱られ、直ぐに会社を辞め、上京しました。そこで父と同じ貿易の仕事をしようと考え、商学部に入学しました。第二外国語は三浦さんたちと同じ中国語を選びました。中国語を思い出す為です。しかし、私の記憶に残っているのは広東語で北京語ではありません。ですから更に北京語を学ぼうと『王ゼミ』に入りました。現在、日本は台湾や香港との交易が盛んですが、風間さんが言うように、中国本土との交易が始まるのは目に見えています。その時の為に、私は中国語を勉強します。先輩や同期の皆さん、よろしくお願いします」
林千帆の言葉に、王育文は目を光らせた。台湾と中国を区分して喋る彼女に驚いた。風間健二が、中華人民共和国のことを中国大陸と言ったのに、林千帆は中国本土と言った。どういうことか。新入生の紹介が終わったところで、王育文は、林千帆の挨拶の言葉に出て来た中国本土と台湾について、説明した。
「私は諸君が私のゼミを志望した理由を再確認して、一層、元気づけられました。『王ゼミナール』の存在理由は、日本国が隣国と付き合う為に中国の歴史を諸君が学び、未来への研究を深め、将来に役立たせることです。そして、まず知っていただかなければならないのが、風間君や林さんが語っておられた、二つの中国です。この二つの中国については、中華人民共和国と中華民国ということで、中学校、高校の歴史で学んで来たと思いますが、これは林さんが言われたように、中国本土と台湾と表現した方が理解しやすいと思います。私は台湾の台南市の生まれです。小さな時から日本語を教えられ、日本人の先生から教育を受けました。台湾では、私より年上の人は皆、日本語が分かります。読み書きも出来ます。ですから私たち台湾人は、日本のチャンバラ映画『国定忠治』や『鞍馬天狗』を観て、泣いたり笑ったりするのです。私は台湾の台北高校を卒業してから、東京大学の大学院中国語学科に通い、今、博士論文を執筆中です。論文の内容は秘密ですが、中国本土と台湾に関する論文であることは確かです。私が、その中で論じていることが正しいか、何が正しいかは、これから築かれる歴史によって証明される筈です。現在、私が生まれた台湾は台湾という国でありながら、別名で呼ばれています。中華民国です。台湾人にとっても、日本人にとっても紛らわしい台湾の呼称です。中華人民共和国と中華民国。紛らわしいと思いませんか。この中華民国の呼称は、台湾で暮らす一部の人たちだけが使っている呼称です。大陸から台湾に逃亡して来た国民党、つまり蒋介石一派が決めた台湾の呼称です。本日、新入生の皆さんに、私の著書『苦悩する台湾』をプレゼントします。次回から、中国語指導と共に、この小冊子を参考に、中国と台湾について講義して参ります。中国を知ること。これが『王ゼミナール』の基本です」
新入生たちは王育文講師の言葉に圧倒され、皆、真剣な顔になった。石川誠は後輩たちが、王育文の経歴と台湾贔屓の情熱に、不思議な世界に引き込まれて行くような、呆気状態であるのを目にした。
〇
石川誠にとって、『王ゼミナール』の時間は退屈だった。3年生の時、4年生の時に学んだことの繰り返しで、教室の中で浮いているような状態だった。4年生の伊藤直樹がリーダーになり、張り切っていてた。なのに文学部で留年になった白石真二を誘い、『王ゼミナール』に参加している自分たちが邪魔者であることに気づいた。正常に考えれば、それは当然のことだ。ゼミナールの単位は既に4年生の時、取得したのであるから、この教室にいる必要がない。その上、高校時代の仲間を連れて来るとは異常だ。それに気づいた石川は『来々軒』での仕事を続けている楊映心が出入りしている『台湾青年会』の事務所に顔出し、するようになった。『王ゼミナール』の授業は王育文の歴史観と学生たちの討論の場だった。文学青年の山田昭彦にとって、王育文の講義は中々、面白く、待ち遠しい程であった。中国大陸ではなく、台湾島、そのものの歴史の学習であったが、興味深かった。だが辻和也や佐藤洋介たちや三浦久子たちは、中国語の学習を希望していた。ところが王先生は教室に入って来た時の〈你好〉と教室から去って行く時の〈再見〉しか、中国語を喋らなかった。中国語を学びたい連中が多いのに、王先生は、あえて中国の歴史を語った。王先生にとって、商学部のゼミナールは、貿易相手国、中国の歴史と現状を学生たちに教え、どのようにすれば中国語圏との貿易が上手く出来るかを指導研究する立場にあった。しかし、予想していたのと異なる『王ゼミナール』の活動に、三浦久子や野口安代も不平を抱き、『王ゼミナール』の学年委員である辻和也に、その不満をぶちまけた。辻は、その訴えを王先生に伝えようとしたが、迷った。どうしたものかと山田に相談した。山田は自分の意見を辻に伝えた。
「文学部から参加している女性たちの気持ちを分からぬではないが、『王ゼミ』は中国貿易のゼミなので、王先生が言われるように、中国を知ることを学習するのが第一だと思う。『王ゼミ』は商学部の授業の一端のゼミなのだから、文学部の女性たちに、王先生の指導方法をとやかく言われることはないと思うが・・」
山田のこの言葉に、辻和也は渋い顔をした。
「そうは言っても、僕は『王ゼミ』の学年委員だ。授業方針変更を相談されて、それを放って置く訳には行かない」
「ならば商学部の女性にも意見を訊いたらどうだ。彼女が同じ意見だったら、先生に相談しても良いだろう」
辻は山田の言う通りだと思った。