きのう死んだキミ
電車に跳ねられた女の子がいた。
たったいま僕の目の前にいた女子高生だ。
僕と同じほどの高校生。
制服を身につけて、名前はちょっとわからないけど、たぶん、同校なのは間違いない。
朝の登校時刻、朝のプラットホームでぐしゃりと生々しい肉の音がして、次に血が飛び散った。
快速電車の強い急ブレーキの音と誰かの悲鳴が耳をつんざく。
たった今、人が死んだ。
僕の前に立っていた人間が自殺した。
落ちた彼女の死体は、電車に引きずられて少し先の線路沿いにまだあった。野次馬が群がっている場所がそこなのだとすぐに分かった。
僕はそれが道徳的に駄目なことだとは分かっていたが、好奇心の為に向かっていた。
そこでは僕のように死体を見に来ているどうにも物好きな人や、スマホを掲げ死体を映しているマナーの悪い人がいた。
電車が止まったことに怒ったサラリーマン、耐え切れずその場で嘔吐している人、
野次馬どもを追っ払う駅員。
全てが混合困惑している中で、僕は死体になってしまった彼女を見つけた。
ぎりぎり人の形は保っているものの確かに絶命している。手足が千切れ落ちてダルマのようになって、
顔の皮膚が剥がれ誰かも特定できない。
死体だ。
そこにあるのは
間違いなく死体。
肉の塊だった。
たぶん。
正常な人間ならそれを気持ち悪い。
と、感じるべきなのだろう。
だって人が忌避すべき明らかな死がそこにはあったのだから、目を背けるべきだったのだろう。
いや、確かに。
たしかにだ。
それを目の前にして、グロテスクや気持ち悪いといった気持ちは僕の中に100も無かったわけではないが、
それよりも強く思ったのは、
願ってしまったのは
かわいそう。
そんな哀れみだけだった。
だって。そうだろう。
かわいそうだ。
死んでしまった彼女は、かわいそうだ。
自殺するなんてかわいそうだ。
死ぬこと自体がそうなのに、
死んだ後もこうして人目に晒されてしまってる。
見世物になっている。
酷いことだ。
惨い事態だ。
僕に何かできたのだろうか。
なにかこの惨事を回避できるようなことはあったのだろうか。
彼女を生かすため、彼女がこの先も生きるため。
彼女が助かるために、
僕にできることがあったのだろうか。
もしできるなら。
可能なら、彼女を助けたかった。
そんな悔しさだけが残った。
だんだんと駅員が増え、警官の姿も見えてきた。
ブルーシートを持っていた人がいた。
これ以上ここにとどまると面倒なことに巻き込まれかねないので離れることにした。
どこに行こうとかはまだ決めてない。
ああいや、今決めた。
そうだ、駅前のどこか、立ち止まれるところでコーヒーでも飲もう。ゆっくりと。
どうせ、しばらく電車は動かないのだから。
・・・
僕は高校生だった。
名は東条 勇気
現行、高校二年生、16歳。
都内のどこにでもあるような平凡な公立高校に通い、どこにでもいるような平凡な家庭で育った、どこにでもいる男子高校生。
その日は7月の初夏、11日金曜日。
満員電車が嫌いなので一般生徒より早く登校。静かな早朝の学校に向かう。
これもごく平凡。
特に何ら変わりのない、大した面白みもない生活。
その最中だった。
もはや見慣れた通学駅のプラットホーム。
その3番乗り場に昨日死んだはずの彼女がいた。
7月11日に死んだはずの彼女が。
昨日、彼女が死んでしまってから学校の生徒コミュニティではそれなりの騒ぎになっていた。
それはそうだろう、人が自殺したんだから騒ぎにならないわけがない。
普段は他人の恋話、ゴシップなんてものは甚だ興味を持たなかった僕も今回ばかりは気になった。
当事者なのだ、気になったっていいだろう。
しかし、そうは言ってもだ。
公に自殺者についてああだこうだ探るのは少し行儀が悪いと見られかれない。
だから学校の生徒が活用すると言われる裏匿名掲示板。
今回はそれを活用させてもらった。
元々そういうものがあるとは聞いていたが、実際に使ったことはなかった。どうせ匿名掲示板だ。教師への悪口や陰口ばかりだろうと思っていたからだ。
実際使ってみて、その考えは半分当たり半分間違っていたと言えるだろう。
サイトを覗き履歴を辿れば予想通りのくだらない記事ばかり、しかしお目当ての物もあった。
ページの一番上、新着の最もアクセスが伸びている、
髪結 栞が自殺したという記事。
覗けば死んだ彼女のことをそれなりに知ることができた。
ーーー
【悲報】3年の髪結 栞が自殺した件
自殺動機は不明。
クラスで虐められていたというような噂もないし、精神的に不安定だったということもない。
人知れず病んでたとか?
↑分からん。
性格はおとなしめ。
成績優秀、学年トップクラスに頭はいいが運動が苦手。
文系。
部員数の少ない書道部に在籍していたそう。
童貞のお前らが好きそうな典型的隠キャのいい子ちゃんじゃん。
↑そういう女は大体彼氏持ちな件。それも彼氏はごりごりのDQNね。
↑髪結、彼氏いないってよ。
↑えーマジ?しんじらんねー。
↑3年ではなかなかモテてたらしい。
それで女達から疎まれいじめられて自殺って流れが自然?
↑だーから3年に虐めは無いって!
私、女で三年でクラスメイトだけどそういうことはなかったよ。断言できる。髪結さん運動以外なんでも出来るからみんな尊敬してたし。
てか、受験でそれどころじゃねえの3年は!
じゃあ受験のストレスで身投げ?
↑そんなん死ぬほどか?
↑え?俺も受験つらたんだから死んでいい?
↑勝手に死ね。
髪結は〇〇大の推薦とってたらしいからその線は薄いな。
↑え、羨ま。
髪結の対人関係調べたけど、狭く深くみたい。
だがあの柔道部の女傑、藤堂と幼馴染らしく仲がいい。
↑藤堂ってあの、藤堂パイセン?
↑そう、あの藤堂。
↑ひゃー、それは男寄り付けませんわ。
バイト先は喫茶店〇〇。
シフトは水曜と金曜。
↑そこまで特定してんのまじキモい、絶対コイツキモオタストーカーだろ。
↑黙れ。
写真見たけど可愛い。あざとさのない可愛さ。
こりゃざんねん、なむさん。
ちょっと大人の色気、…人妻感あったよな髪結。
胸めっちゃでかいやん。自殺とか勿体ねー、死ぬならせめて一ぱつくらいヤラせて欲しかったわ。
↑こいつが死ねばよかったのに。
地味子で隠れ巨乳とか萌える要素しかないよね?
決めた、オデ、明日、髪結先輩に、告ってこよ。
↑だからもう死んでるっての。
ーーー
などなどと。
掲示板に髪結 栞の情報が出揃ってくる。
しかし肝心だった、なぜ髪結が死んだのか?
その情報だけは待てど一向に出なかった。
だんだんと話が脇道にそれてきたのを確認し。
僕はそっとスマホを置き、夜を眠った。
次の日、つまりは本日、またもや7月11日。
朝のプラットホームで、死んだ、髪結が僕の目の前に立っていた。
さも当然のように、
昨日と同じように、昨日と同じ展開で。
そう、そして見知った電車が走ってくる。
これもまた昨日と同じ。
そして彼女はゆっくりと前進し、それに身を投げだす。
筈だった。
「なにやってんすか」
線路上に飛び出そうとする髪結の腕を掴んだのは僕だった。
理由なんてものを考える暇もなく、止めた。
「え?」
髪結は振り返る。
驚き、何が何だか分からないと言った顔。
それでも僕は知っている。
昨日、髪結がここで何をしたか。
そこで電車が通り過ぎた。
髪を靡かせる風を感じながら、僕は安全を確認し髪結の手を離す。
「あはは。
いきなり手なんか、掴んじゃってすいません。
キモいっすよね。
でも、どうにも
あなたが線路に飛び出そうとした。
そんなふうに見えてしまってつい、反射的に、
気を悪くしたなら謝ります、ごめんなさい」
「あっ…いや、その、別に」
とりとめのない様子の髪結。
小動物のような怯えた仕草をする髪結を見て、
その時の僕は少しだけ意地悪な気持ちになった。
「ああ、いやいや、わかってます。
優等生の髪結先輩がまさか自殺なんてするはずないって。だってそんなの非常識ですもんね、線路に飛び出し自殺なんか、どれほどの人の迷惑になるか分からない。
家族も悲しみますし、ホント、よくないよくない。
あとたぶんかなり痛いし」
「……」
髪結は胸に手を当てて、黙りこくってしまった。
彼女が今何を考えているのかなんて僕にはわからなかったが、ただ一つ。
このままだと、髪結はまた自殺しようとするだろう。
本当に髪結の自殺を止めたいなら、手を掴むだけじゃなく問題の根本から解決しなきゃいけないことがわかった。
これから先のことを思うと途端にめんど臭くなったが。
ここで投げ出すのはあまりにも中途半端だし、そういう無責任は好きじゃない。
せっかく助けたものだ、
望んで足を突っ込んだものだ。
なら、最後までやりきろう。
「挨拶が遅れました。
俺は2年の、東条といいます。
東条 勇気。
あなたは髪結 栞…先輩であってますよね?」
「…なんで私の名前を知ってるんですか?」
「なんでって…」
あんたが自殺したからだよ。
「ああ、ええっと、その。
有名人っすよ、髪結先輩。
あーっ。そう、いろんなところで?」
敢えて匿名掲示板のことは話さなかった。
あそこは便所の殴り書きのような場所、髪結には毒になることだろう。
「いろんなところ?」
「そ、といっても主に学校とかで、
優等生って聞いてますよ髪結先輩。
〇〇大の推薦とったとかなんとか」
「ああ、そんなことまで噂になってるんだ…」
暗いな。
雰囲気が暗い。
お通夜のように暗い。
そりゃ今さっきまで自殺しようとしていた人に明るく振る舞えなんてこと、口が裂けても言えないけどさ。
でもそれでも、会話しずらいよね。
僕はそんなにコミュ力高いわけじゃないし、だいぶ難易度高い。
これはちょっと僕が明るめに、
盛り上げなきゃいけないか。
その時だった。
突然、アナウンスが鳴った。
どうやら次の駅で人身事故が起こったらしい。
「人身事故…か」
運命ってのは非常に性格が悪いようだ。
ここで髪結が死ななかったことで他の誰かが死んだのだから。
でもこの場合、僕にとってはタイミングが良いというべきか。
「これじゃこの路線は当分使えないっすよね。
俺ら、学校に行きたくても行けない。
そうじゃないですか?髪結先輩?
少しくらい遅刻しても文句は言われないですよね?」
「…なにが言いたいんですか?」
「少し話しませんか。
何か甘いものでも飲みながら」
まるでナンパだ。
人生初だぜ、ナンパなんか。
うん、恥ずかしいね。
もう2度としない。したくない。
「他の路線を使います…ごめんなさい」
振られた。
人生初のナンパは速攻で振られた。
あーいや。
なんだろう、、まぁ下手だったかな。
妥当か。
「あと、これ以上私に関わらないでください…」
そう言ってドライにたち去ろうとする髪結。
「待ってください」
振られてなお、僕は呼び止める。
しつこく話しかける。
ここで髪結を一人にしちゃいけない、そんな予感が確かにしたから。
だから、苦肉の策を使う。
釣れない魚には贅沢な餌を使う。
文字通り身を切った餌を。
「髪結先輩は…。
魔法とか、超能力とかって信じますか?」
「え?」
髪結は食い付いた。
振り返り、目を見開く。
明らかにこの話題は髪結の興味を引くものだったよう。
魚が餌に食いついたなら最後、引き上げるだけ。
めいいっぱいの力で引き上げよう。
「俺が魔法使いって言ったら。
あなたは信じてくれますか?」
・・・
「昔から1日を繰り返すことがあったんです」
「1日を繰り返す?」
某有名ハンバーガーチェーン店の机を挟んで僕らは向かい合っていた。
僕はブラックのコーヒーを一杯。
髪結はフローズンシェイクと簡素なものだったが、話し合いに来ただけだったのでこれだけで十分だった。
「そうですね。魔法使いって大げさに言いましたけど、空を飛んだり手から火とかを出せるってわけじゃないんです。
幼い頃から、特定の一日を繰り返す。
そんな奇妙なことがあった」
昔の話をしよう。
昔、まだ僕が中学校に上がって間もない頃。
妹が車に轢かれて死亡した。
相手は居眠り運転のトラックで、妹は当時まだ小学生の半ば。あまりにショックな出来事に、その日は泣いて眠ったのを覚えている。
そして翌日。
眠りから醒めればまた同じ日が訪れた。
妹が轢き殺された日に戻っていた。
朝には妹とともに食卓を囲み。
妹は元気に登校し、轢き殺される、そんな一日をループした。
その当時の僕にはこれがどんな理屈なのかは正直言ってわからなかったが。
てか今もよくわかってないが。
死んだ妹を助けたい、その一心であれこれと手を尽くしたのを覚えてる。そしてだいたい10回くらいのループをへて、妹が死なない一日になった。
そんなことを僕は髪結に語る。
こういったループの経験は他にもあったが、それらを語ると長くなるからここでは割愛した。
「俺はこれまで5回ほどこんなようなループを経験しています…もちろん。自分の意思で特定の1日をループさせれるわけじゃないし、こんなものコントロールとかできるはずもない。
はは、できたら人生楽勝だったんすけどね…」
「…なんでそんな力…」
「さあ?
それについては俺が聞きたいっていうか…。
けど、まぁ、多分。
これまでの経験則上。
これらの繰り返す一日は、俺の精神面と多少なりとも繋がってると思うんです。
これまでのループは俺が満足したら終わっていた」
逆に言えば満足できなければ終わることができない牢獄のようなものだ。
僕自身が深層心理的に定めたであろう、ある一定の課題をやり遂げるまでは永遠と同じ1日を繰り返してしまう。
「たぶん、出来の良い髪結先輩にはもう察しはついてると思いますけど。
俺のループは始まっているんです。
つい昨日から。
あー…いや、今日か…?
…ややこしいな…。
まぁ、とにかく…。
今日という7月11日は繰り返している。
あなたが俺の目の前で轢き殺されたことがきっかけ、それで受けたショックのせい」
「…そんなことを、私に話してどうしろっていうんですか…」
「この問題の解決はいたって簡単です。
俺の心残りや後悔を晴らせればいい。
つまり髪結先輩が死ななきゃいい。
それでループが終わるんです」
髪結は僕の話を聞いて強く目を閉じる。
「あなた、東条さん…でしたっけ?」
「そんな…かしこまらず、東条でいいっすよ。
同校の後輩じゃないっすか」
「では東条くんと呼ぶのは?」
「ああ、それがいいならそれで」
呼び名がいいところに落ち着いたところで仕切り直す。
「東条くんの話は正直言って、信じられません」
まぁ、そうですよね。
自分自身でも説明しながら、何言ってんだ僕と首を傾げたくらいですし。そんな簡単に信じてもらえるとも期待してないし。
「それは残念。
あいにく証明するものは持ち合わせてないです」
「だけど。
ループの話は信じられませんけど。
東条くんのお願いについては理解しました。
私は今日は死にません、これでいいですか?」
今日は死なない。
それはつまり明日以降の未来のことは確約できないそう言っていた。
「それは明日もですか?
明後日もですか?
一か月後も俺は先輩に会えますか?」
「…」
髪結は答えなかった。
彼女の下向きの目線が、自殺しなきゃいけないほどの闇を抱えてることは明白だった。
「髪結先輩。
教えてください。
どうしてあなたは死のうとしてるんですか?
何の問題があなたにのしかかってるんですか?」
「それは…東条くんには関係のないことです」
「関係なくはないです、こうして今、先輩と関わってる」
「なら迷惑です、やめてください」
「嫌です、やめません。
俺は死のうとしてる人をほっとけるほど人手なしじゃない」
…。
互いが黙り、3秒ほど静かになった。
「…本当に話しても意味のないことなんです」
「意味がないかは話してみなきゃ分からない。
聞いてみなきゃわからない。
俺は髪結先輩の抱えてる問題を解決することができるかもしれない」
「無理なの、どうせ。
無駄なことだってわかるから」
髪結は諦めた表情をしていた。
けどそれが俺の心に火をつけた。
少しムキになった。
「悪いけど!
そういわれるほど強情に聞き出したくなってしまう性格なんですよ俺。
髪結先輩、無駄なことですよ。
たとえあなたがここで口をつぐんでも。
意地になった俺は聞き出すまで、しつこく何度もこの一日をループするだけです。
あなたが口を破るまで何度も挑戦するだけ。
どうせいつか話してしまうなら、ここで話してくれた方が話が早くないですか?」
俺が強気にそう言うと髪結は張り詰めた表情を崩しふふ、と笑った。
「熱い人間なんだね。東条くんは」
「え…熱い?ああ、いや。
その、怖がらせたならすいません」
「ううん。いやいや、大丈夫。
怖くはないよ、ただ優しいなーって思って」
…優しい。
人からそんなこと初めて言われた。
少し照れ臭かった。
「…そっか、そうだね…。
…そう、なのかもね。
今だって東条くんは善意で私を助けようとしてくれてる。
それなのに私は一人でに諦めて、ふてくされて。
突っぱねようとしている。
これじゃ、手本にならないダメな先輩だね」
「駄目なんかじゃないです。
いつでも変われますよ髪結先輩」
「うん、そうだね。
そのとおりだと思う。
じゃあ今、変わるね。
言うね」
わたしは。
そう言いかけたところで髪結は唇を噛み躊躇う。
が、直ぐに決心して話した。
「私は人を殺してしまった。
本当の私は髪結 栞じゃないの」
・・・
「本当の髪結 栞はね。
今から10年前にもう死んでいたの」
「…何を…言ってるんですか?」
「簡単な話だよ。
本当に簡単な理由。
私は過去に取り返しのつかない罪を犯していた。
人を殺していた。
それを思い出したの。
思い出して、私は私を許せなかった、
死ぬほど許せなかった。
だから死ぬしかなかった。
死ななきゃいけなかった」
「…」
「髪結 栞はね。
昔、とある一体の化け物と友達だったの。
その化け物は形のない真っ黒な影のような化け物でね。
普通の人なら見ることも感じることもできない。
人が恐れる、異形。
髪結 栞は特別だった。
そして優しかったの。
誰に対しても分け隔てなく優しく、それは化け物にだってそうだった。
髪結 栞と化け物は一緒になって遊んだり、話したり、たくさんの時間を過ごしていたの。
化け物はね、そんな日常が何よりも幸福で幸せだった。
だけどね、髪結 栞は人間だった。
子供から大人に成長していくにつれて人間関係の輪も広がっていった。
だんだんとその化け物と遊ばなくなってしまったの」
髪結は目を伏せる。
「化け物は寂しかったんだ。
髪結 栞が他の人間と遊んでるのを見てそれが楽しそうで、
寂しくて、
羨ましがった。
そして次第にこう思うようになっていくの。
自分が人間だったらよかったのにと。
人間だったら髪結 栞は変わらずに遊んでくれたのにと。
ああ、人間になりたいな。
できるなら髪結 栞のような人間になりたいな。
なりたい。
なりたい。なりたい。なりたい。
なりたいな。
そう強く願った形のない化け物は、
ついに髪結 栞を食べてしまった。
髪結 栞を殺し、身体を取り込み、
髪結 栞を真似て、
髪結 栞として乗り替わり化け物はこれまでを生きてきたの。
そう、そんな自分自身の罪の記憶すら消して。
髪結 栞という人間の記憶以外を全て消してしまってね」
その後、髪結は僕の目をまっすぐと見つめた。
「ねぇ、東条くん。
せっかくだから聞いていいかな?
ある日、なんとなく、特に理由もなく。
そんな現実を思い出してしまった化け物はそれから一体どうすればいいと思う?」
どうすればいいのだろう。
僕は髪結に何て答えればいいのだろう。
分からない。
正しい答えなんか分からないけど。
けど、それでも。
髪結がたとえ化け物だとしても、
死んでほしくはなかった。
「髪結先輩。
もしあなたが言ってることが本当で、それが理由で死のうとしてるのならあなたは間違ってる。
死ぬことで罪を償うのは逃げだ。
あなたは生きて罪の意識の中で苦しまなきゃいけない」
「…」
「あなたの周りからは髪結 栞という人間はまだ生きている、そう思われてるはずです。
そんなあなたが死んだら髪結 栞という存在が世間的に死んでしまう。
あなたは2回も髪結 栞を殺す気ですか」
「はは、そんな、酷いこと言うね。
生きてこれ以上私に罪を重ねろっていうの?」
「そうです。
あなたは髪結 栞としてこれから先も生きていく。
髪結 栞として人を騙しながら人として生きていく。
それでもまだ、
あなたがあなた自身を許せなく、殺そうとするなら、化け物であるあなた自身を殺して人間として生きてあげてください。
それがあなたが奪った髪結 栞へのたった一つの贖罪になるはずです」
髪結に話したことが正しかったのか正しくなかったのかなんて分からない。正しさの基準なんてものは人によって変わるだろうから。
けど、僕は。
これが正しいことだと思った。
正しくあって欲しかった。
「そっか。
そういう意見もあるんだね」
髪結は笑っていた。
乾いた笑いだった。
たぶん、僕の言葉なんてものは彼女の心内には響いていないのだろう。
「…あっ!ああ、そっか!
なんだ、そうだよ!簡単なことだった!」
突然。
髪結は何かに気がついたのか、ポンと手を叩き席を立った。
「ありがとう、東条くん!」
「…どうしたんですか?いきなり?」
あまりのテンションの落差だ。
「いやね!
解決策を思いついたの!
あー!そうだよ、初めからこうすればよかったんだ!こうすれば!
髪結 栞にこだわる必要はなかったんだ!」
「ああ、えっと…。
なんか、解決しました?」
「うん!バッチリ!
東条くんのおかげで大事なことに気がつけたよ。
ありがとう!」
「因みにどんな解決策なんですか?」
「内緒!
答え合わせは明日するね。
7月12日に」
そう、るんるんとステップで立ち去ろうとする髪結に僕は最後の確認として問いかける。
「じゃあ、もう髪結先輩は死なないんですよね?」
「うん、約束する。
髪結先輩は死なないよ」
そうやって僕らは別れた。
・・・
次の日、
7月12日は予定通り訪れた。
その日は少し曇りの日。
僕はいつものように学校に登校し、
そして、とある噂を聞くことになる。
髪結 栞が記憶喪失になった。
そんな噂を。