9話【ネックレスを踏む真紅のヒール ―― さよなら、私を愛した「偽物」のあなた】
理沙と共にバーを出た瞬間、心の奥にぽっかり穴が空いたような感覚だけが残った。
「彩花……大丈夫?」
「うん……でも、諦めない。 涼太さんの正体──絶対に突き止める」
理沙の温かい声に少し勇気づけられながら、私は深呼吸をした。 ここで終わらせるわけにはいかない。 むしろ──ここからが本当の始まりだ。
IT企業で働く私は、鍵アカウントでも“公開範囲外の活動”の痕跡を読み解く方法を知っている。 涼太のアカウントを再び洗い直すと、過去に江ノ島へ頻繁に行っていた形跡が浮かび上がった。
江ノ島──。
あの夕焼けの日、涼太が語った「天女と五頭龍の伝説」。 あれは本当にただのロマンチックな話だったのだろうか。
胸がざわつく。 彼は、私の最もロマンチックな幻想に合わせ、初デートの場所を綿密に設計していたのだ。 彼の優しさのすべてが、計算された嘘であることを裏付ける、動かぬデジタル証拠だった。
そして、ある日──私は決意する。
涼太の「家」へ行こう。
江ノ島の海は今日も静かで、夕日を反射して美しく輝いている。 あの日、彼と見たその景色は、今も私の心を離れない。
たとえ真実を知って、もう二度と「偽りの美しさ」に満ちた同じ景色を見られなくなるとしても──。
私は知りたい。
彼が「誰なのか」、そして──なぜ、私というターゲットに近づいたのか。
この答えは、彼のプライベートな空間、彼の「影武者」としての生活の根幹にしか存在しない。 私は、覚悟を決めて、彼の家へと向かう。 これが、ロマンスへの最後の別れになることを悟りながら。
彼の部屋には、影武者の生活の根幹、そして私とのロマンスの真の動機を解き明かす鍵が隠されているかもしれない。
期待と不安が胸を騒がせる中、私は涼太の住むマンションへと向かった。
涼太が暮らすマンションは、都心の高級住宅街の一角にあり、冷たく洗練された「箱庭」のような佇まいだった。
私たちは、理沙が事前に手配してくれた向かいの雑居ビルの屋上に車を停めた。 そこは、少し薄暗く、空き缶や鳩の羽根が散らばるほこりっぽい秘密の監視場所だった。
理沙が周りを見回しながら、わくわくと小声でつぶやく。 「この雰囲気、映画みたいだよね。 彩花、準備できた?」
私は軽くうなずき、理沙の言葉で気持ちが少しだけほぐれた。 けれども、理沙の隣で再び緊張がこみ上げ、私は双眼鏡を手に涼太の部屋に焦点を合わせた。
双眼鏡越しに見えるのは、オレンジ色の温かな光が漏れる閉ざされた空間。 しかしその光は、どこか虚ろで「誰かの設定した照明」のように冷たく見えた。
「涼太さん…」
無意識に彼の名前を呟くと、理沙が小さく私の肩を叩いた。 「彩花、大丈夫? すごく緊張してるみたいだけど…」
私は曖昧に答えた。ふと脳裏をよぎるのは、出張が多いと言っていた涼太の言葉。 もしかしたら、これまでの言葉もすべてがIT機密を奪うための嘘だったのかもしれない…。
「…あっ、彩花、見て!」
理沙の声で我に返り、再び双眼鏡を覗くと、カーテンが開き、窓際に人影が現れた。 それは、距離のために判別は難しいが、明らかに男性のシルエットだった。
私は息を詰め、さらにピントを合わせて観察した。
すると、窓辺に置かれた写真立てが目に入り、その中には男女が寄り添っているのが見える。 だが、その写真にはどこか不自然な影(監視者)が映り込んでいた。
さらに視線を落とすと、窓際のチェストの上に真っ赤なピンヒールと長い黒髪が無造作に置かれているのが見えた。
その瞬間、背筋を電流が走った。
この組み合わせは、以前、桐谷蓮のストーカー記事で見た、あの冷たい女のイメージと完全に一致していた。
その光景に息を呑み、思わず双眼鏡を落としそうになった瞬間、理沙が素早く私の手首を掴んで支えてくれた。
「彩花、何を見たの?」
私は震える声で答えた。 「…涼太さんの部屋に…女の人のものがあるみたい。 それも、私じゃない、あの黒幕と繋がる女の証拠が…」
理沙も驚いたように双眼鏡を覗き込み、すぐにその陰謀の異様さに気づいて息を呑んだ。 「本当だ…これは単なる浮気じゃない。 ヤバいよ、彩花…」
その場で二人は顔を見合わせ、互いに言葉を失った。
そして、理沙が落ち着いた声で聞いてくれた。 「彩花、これからどうする? 一旦戻る?」
私は、涼太からもらったネックレスをぎゅっと握りしめた。 その感触は、「偽りの愛」の鎖だった。
「いや、直接会って話を聞くよ。 このままじゃ、前に進めない」
その瞬間、体は不信感と、裏切られた怒りで震えていた。 もはや恐怖は消え、真実を叩きつける激情だけが残った。 「影武者」であることよりも、共犯者を家に引き入れていたという屈辱が、私の行動を決定づけたのだ。
そして、私たちは急いでビルを出て、涼太のマンションのエントランス前へと身を潜めた。
しばらく待っていると、涼太がエントランスから姿を現した。
隣には、すらりと伸びた黒髪、真紅のピンヒールを履いた女性が寄り添っている。 先ほど部屋で見た、オニヅカと繋がる共犯者だ。 彼女は涼太の腕に警戒するようにしがみつき、その瞳は彩花をターゲットとして捕らえていた。
「涼太さん!」
気づいた瞬間、私は思わず彼の名前を呼んでいた。
彼は驚愕した表情でこちらを見つめ、「影武者」としての冷静な仮面が一瞬で崩壊した。
「彩花さん…? どうしてここに?」
その言葉が聞こえた瞬間、我慢していた怒りが、裏切りの屈辱とともにこみ上げてきた。
「海外出張中じゃなかったんですか? 一緒にいるのは、まさかこの方と、私たちのロマンスを設計した共犯者ですか?」
言葉が刃のように鋭くなったのを感じたが、もう止められなかった。
一瞬、涼太の顔がこわばり、目を泳がせながら、次の指示を待つように沈黙した。
いつもは冷静な彼がこんなにも焦っている姿を見たのは初めてだったが、その態度に私は全てを悟った。
「…涼太さん、どうして…」
震える声で問いかけると、彼は黙り込み、目を伏せたままだった。 彼は「涼太」として私に話すことも、「影武者」として状況をコントロールすることも、できなくなっていた。
一瞬、涼太の指先が、わずかに私の方へ動いたように見えた。しかし、横に立つ共犯者が、涼太の腕に力を込めてそれを静かに制止した。
「私、信じてたのに…。 私のIT機密を盗むためだけに、こんな酷い嘘を演じきったんですね!」
止められない涙がこぼれ落ち、視界がぼやけた。
涼太は顔を上げないまま、わずかに声を絞り出すように言った。
「…ごめん」
その言葉は、任務失敗の報告のように冷たく、私の心に深く突き刺さった。
私は、首から涼太からもらったネックレスを引きちぎり、偽りの愛の鎖として、彼に向かって勢いよく投げつけた。
ネックレスは、二人の足元で乾いた音を立てて転がった。
涼太は、それを拾い上げることも、目を向けることもしなかった。 代わりに、隣にいた共犯者の女が、涼太の腕から離れ、真紅のピンヒールで無造作にそのネックレスを踏みつけた。
「あら、ゴミよ。そんな安っぽい演技に引っかかったあなたが滑稽だわ」
彼女は嘲るように鼻で笑った。
「涼太は、あなたなんかのために、余計な感情を持っちゃいけないの」
女は涼太の顎を指先で持ち上げ、まるで壊れた機械の動作チェックでもするかのように冷たい目を向けた。 「ねえ涼太、今の『ごめん』は、どのプログラムから出力された言葉? 次に同じバグを起こしたら、あなたの『核』を消去しなきゃいけなくなるわよ」
涼太は、ただの操り人形のように、生気のない瞳で私を……いや、私の背後にある闇を見つめていた。
「もう、いいです。 すべて分かりました。 あなたは、あのとき電話をかけてきたオニヅカと繋がっていたんですね? 影武者だとか、桐谷蓮だとか、もう何も信じられません!」
こみ上げる怒りと悲しみで涙があふれそうになり、必死にそれをこらえた。 私が怒りで震える中、理沙がそっと肩に手を置いてくれた。
「彩花、行こう」
その一言で我に返り、理沙に促されるまま、踵を返した。 私のロマンスは、たった今、この場で焼却された。
最後まで読んでいただきましてありがとうございます!
ぜひ『ブックマーク』を登録して、お読みいただけたら幸いです。
感想、レビューの高評価、いいね! など、あなたのフィードバックが私の励みになります。




