7話【真実を言えない口と冷徹なプロの視線 ── 黒幕「オニヅカ」の支配】
私はベッドに倒れ込み、天井を見つめた。
涼太さんの笑顔。 優しさ。 香り。 声。
全部が、誰かのコピーによる、嘘の上に成り立っている?
涙が頬を伝い落ちる。
しかし、泣いている暇はなかった。
スマホを握りしめたまま、震える指で、私は意を決して、彼の番号をタップした。
真実を。
この恐怖の全てを、彼に直接問い質さなければ。
耳元で聞こえる、「もしもし?」という、優しくも冷たい涼太の声が、物語の次の扉を激しく叩いた。
「もしもし、涼太さん? あのね、ちょっと話したいことがあるんだけど…」
受話器に自分の声が落ちていく瞬間、胸の奥がじんわりと重くなった。
いつもなら軽く言える一言が、今日は断崖絶壁に突きつけられたナイフのように遠く感じる。
“話したいことがある”――たったそれだけなのに、口にした瞬間、胸の奥に黒い靄が広がっていくようだった。
電話のコール音が、今日はやけに長く、時間の引き延ばしのように感じる。
普段なら二回鳴る前に出てくれるのに、三回、四回、そして五回目の音が響く頃には、心臓が自分の意志とは無関係に暴れ出していた。
指先が汗ばんで、スマホの縁で何度も小さく滑った。
まるで、私の理性が「逃げよう」としているみたいに。
数秒後、ようやく聞こえてきた涼太の声は、いつもの穏やかさの完璧なコピーだった。
その声を聞いた瞬間、胸がきゅっと縮む。
落ち着いた声。穏やかなトーン。
それなのに――「影武者」としての演技が完璧であればあるほど、その崩れない壁との距離が逆に痛かった。
「彩花さん? どうかしたの?」
柔らかい声。その奥に、ほんのわずかな冷たい鉄の響きが混ざっている気がしたのは、私の過敏な気のせいだろうか。
ほんの数ミリの違和感。 けれど、その小さな棘が胸の奥に刺さり、じわりと痛みを広げていく。
私は唇を噛み、スマホをきつく握りしめた。画面に映る自分の影が揺れ、心がざわざわと波打つ。部屋の空気がやけに重く感じて、呼吸が浅くなっていく。
聞きたいことは決まっている。それはずっと胸の奥に沈んでいて、「もし壊れたらどうする」という恐怖で見ないふりをしていた疑問。もし聞いてしまえば、もう「恋人」としては戻れなくなる気がした。
それを知ってしまったら、私が作り上げた理想の世界が音を立てて崩れてしまう――そんな予感が、喉を締めつける。
「あの…その…」
言葉が喉で絡まり、まるで棘のついた言葉の糸を無理やり引き抜こうとしているように痛みが走る。 言わなきゃ。 でも、怖い。
その二つの感情が胸の中でぶつかり合って、心臓が不安定なリズムを刻む。
「彩花さん? 本当に大丈夫?」
彼の声が心配そうに揺れる。 その響きは優しいはずなのに、今は監視者からの問いかけのように全身に重くのしかかってきた。 優しさと不安と疑念が絡まり合って、身体が熱を持ち始める。
私は意を決して唇を開いた。
「涼太さん、あなたは…影武者、なの?」
しかし、その決定的な言葉を、私は声に出すことができなかった。
彼の優しすぎる声の周波数が、毒のように喉を麻痺させた。喉の奥がぎゅっと閉じ、「偽りの愛」を失うことへの無意識の拒絶が、理性を上回った。
「もしもし? 彩花さん?」
遠くで呼ばれているように感じた。 頭の中で彼の顔を想像する。 私の最も深い願望を演じる、完璧な「桐谷蓮のコピー」の笑顔。今日の彼の顔は、どこか淡く、ぼやけて見えた。
手が震える。 呼吸が浅くなる。 胸が痛い。 体温が上がっているのに、心だけが冷えていく。
結局、私は真実という名の刃を突き立てることができないまま、ベッドに崩れ落ちた。
涼太の声が遠くで響いている。 けれど、それに応える言葉はひとつも出てこなかった。
涙がこぼれた。 ぽたり、ぽたりと静かに落ちていくのに、心は騒がしかった。
やがて、私は震える指でスマホを切った。 通話終了の音が、ひどく冷たく耳に残る。
部屋は暗く、静かだった。 その断絶した静寂が、今日ほど恐ろしく感じたことはなかった。 私は、真実から目をそらした自分自身の中に、閉じ込められてしまったのだ。
――逃げているだけじゃ、もう駄目だ。
数日後、ようやく私は腹を決めた。 真実を聞くのが怖くても、聞かなくちゃ何も変わらない。 逃げた先に安心なんてなかった。 ただ、疑念が膨らんで、心が沈んでいくだけだった。
深呼吸をして、私はメールを打った。
「涼太さん、お久しぶりです。 突然ですが、今夜お時間ありますか? どうしても、直接お話したいことがあります」
送信ボタンを押す直前、指が止まりかけたが、意を決して押した。 その瞬間、胸の奥で何かが「決壊」の形をとった気がした。
返信はすぐに届いた。
「彩花さん、もちろん。 どこで会おうか?」
その即答が逆に怖かった。けれど私は迷わず、あの海辺のレストランを指定した。
――二人の「偽りの運命」が始まった場所。
夜、レストランの扉を開けたとき、涼太はすでに席に座っていた。照明の柔らかい光が彼の横顔を縁取り、穏やかな微笑みを浮かべている。あの日と同じ「完璧な笑顔」。それなのに、今日の私の目には、それが一枚の張り子の面のように見えた。
「涼太さん、あの…電話の件だけど…」
口を開いた瞬間、胸がざわつく。言葉が震え、喉が詰まる。真実の核心に触れることが、自分の命綱を切るように恐ろしかった。
私は一度深呼吸をし、髪を指で触って気持ちを落ち着かせようとした。だが、指先がうまく動かない。
涼太は静かに私の手を包んだ。その手は温かくて優しいのに、どこか感情を排した「真意」を読めない温度でもあった。
「実はね、彩花さん…」
その瞬間、涼太は主導権を握り、彼の物語で私の追究を封じようとした。
その刹那――レストランの静けさを破るように、鋭い電子音が鳴った。
テーブルの上でスマホが激しく震え、画面にはカタカナ四文字の名前が浮かぶ。
「オニヅカ」
見慣れない、冷たいコードネームのような名前。
けれど、その名前を見た涼太の表情は、瞬時に切り替わった。
先ほどまでの柔らかい顔が、一瞬で研ぎ澄まされた刃のように険しくなる。 眉間のシワが深くなり、瞳の奥に一切の感情を排した、機械的なプロの視線が宿った。
今まで見たことのない彼の一面。 胸の奥がひやりと冷えた。
「はい、もしもし…え? 今ですか? わかりました、すぐに向かいます」
短い会話。 けれど、その緊迫感はひどく鮮明だった。 まるで、機械のスイッチを切り替えるように、彼の中から「恋人の涼太」が消えた。そこに座っているのは、名前も持たない冷徹な実行犯だった。
電話を切ると、涼太は急ぎ足で立ち上がった。
「彩花さん、本当に申し訳ない。 緊急の案件ができてしまって…」
丁寧に頭を下げる。 だが、その横顔には焦燥と、私の追及を逃れた安堵が混ざっていた。 私の存在よりも優先すべき「影武者の仕事」がある。 その事実が胸に鋭く突き刺さる。
「…大丈夫、気にしないで」
笑ってみせたけれど、声が震えるのを自覚した。 本当に聞きたかった核心は、「オニヅカ」という新たな謎の登場によって、闇の奥へと隠されてしまった。
「必ず、また連絡するよ」
そう言って、彼は去っていった。
残されたのは、コーヒーカップに立ちのぼる湯気と、「鬼塚」という、私が次に追うべきターゲットの名前だけだった。 彼の追求を避け、ロマンスを断ち切るために鳴らされたこの電話こそ、涼太の「裏の顔」への決定的な手掛かりに違いない。
私は、テーブルに置かれたままの自分のカップを見つめた。 彼の嘘が詰まったこの場所で、これ以上座っている意味はない。
立ち上がった瞬間、胸の中に冷たい決意が固まった。
もう、彼の「嘘」に感情を揺さぶられている場合ではない。 「影武者」を操る存在―― その人物こそが、涼太の「真の主人」であり、私をこの罠に嵌めた「設計者」かもしれない。
翌日、私はすぐに行動に移した。
再び社内システムに向かう。 今度は、「鬼塚」という名前にすべてを賭ける。
昨夜の涼太のあの焦燥は、この「鬼塚」という人物が、彼にとって抗えない権力を持つ存在であることを示していた。
検索バーに「鬼塚」と入力し、エンターキーを押す。 画面に表示されたのは、涼太の時のような「非公開」のマスキングではなかった。 その代わりに出てきたのは、私の会社が関わる、あるM&Aの機密文書だった。
そこには、涼太が所属する大手商社の「顧問」として、鬼塚という名の人物の署名があった。その経歴は華麗で、裏社会との繋がりすら噂される、業界のフィクサー。
そして、その文書の最後のページ。添付された顔写真を見た瞬間、私は息を呑んだ。 男の横顔。鋭い目つき、計算し尽くされたような冷徹な表情。
その顔は、私が以前SNSで見た桐谷蓮の記事の隣に写っていた、あのストーカー女性の顔と、構造的な共通点を持っていた。それは外見の類似ではなく、相手を絶対的にコントロールしようとする、冷たい「支配欲」の影だった。
さらに、その写真の背景に写り込んでいたものに、私の鼓動が止まりかけた。 磨き抜かれた机の上に置かれた、見覚えのある銀色のフォトフレーム。……それは、数年前に亡くなった私の父の書斎にあったものと、全く同じデザインの特注品だった。
なぜ、父の遺品が、この「鬼塚」という男の手元にあるのか。
「鬼塚」という男。彼が涼太を操り、私に「偽りの愛」を仕掛けた黒幕なのだろうか。それとも、私の家族さえも、最初からこの「設計図」の一部だったというのか。
私の調査は、「誰を愛しているのか」という個人的な問題から、「誰に操られているのか」、そして「私のルーツに何が隠されているのか」という、巨大で冷たい情報戦へと、確実にシフトしていた。
涼太の背後にある「真の黒幕」に、私は一歩、踏み込んでしまったのだ。
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