64:柳田の微笑と隠された裏切り
薄暗い地下駐車場に、湿気を帯びた重たい空気が澱み、無音の静寂が支配していた。
風見は、コートのポケットに手を深く突っ込み、足音を殺して慎重に歩を進める。記憶を失って以来、彼の日常はまるで濃い靄の中を孤独に彷徨っているかのようだった。思い出そうと焦るが、心の中には固く施錠された扉があり、何度手を伸ばしてもその扉は開かない。
「お前…風見だな?」
背後から低く響く、重厚な声がした。聞き覚えはないが、奇妙に心の奥底に引っかかる声だった。
風見は反射的に振り返ると、黒い、仕立ての良いスーツを纏った一人の男が、人工照明の影の中に静かに立っていた。その鋭い目つき、そして周囲に漂う圧倒的な存在感――彼はただそこに立っているだけで、その場の空気を支配していた。風見の本能が心の奥底で激しく警戒信号を上げるが、すぐにはその理由を思い出せなかった。
「誰だ…?」
Ⅱ. 記憶の断片
「柳田だ。お前の昔の上司だよ。覚えていないのか?」
男は薄く、どこか皮肉めいた笑みを浮かべ、まるで風見がその事実を忘れていることが信じられないかのような冷ややかな調子で語った。
風見は無言でその男を凝視した。顔も名前も、何もかもが遥か遠い過去のようで、馴染みのない、空虚な感覚がする。しかし、心の奥で何かが鋭く引っかかっていた――忘れていたはずのものが、再び浮かび上がりつつあるかのように。
「柳田…?」
風見がその名前を口にした瞬間、胸の奥に鋭い痛みが一瞬走り、施錠されていた記憶の扉が軋みながら開いた。次の瞬間、記憶の断片が一気にフラッシュバックした。
……風見はかつて、刑事だった。
彼の刑事としてのキャリアを形作ったのは、目の前に立つ柳田だ。柳田はただの上司ではなかった。彼は風見にとって手本であり、時に父親のような存在だった。厳しさと公正さを兼ね備え、風見は柳田の揺るぎない背中を追うように、正義の道を歩んできた。
しかし、ある日突然、柳田は不可解な形で姿を消した。警察内部で不正が明るみに出た際、柳田がその中心にいるという噂が飛び交ったが、風見は心底信じたくなかった。「そんなはずがない」と。
だが、それ以来、柳田は風見の前に二度と現れることはなかった。
そして今――柳田は何食わぬ顔で、クロノスの幹部として漆黒の闇の中に立っていた。
かつての手本が巨大な悪意の組織に属しているという衝撃的な事実に、風見の心は激しく揺れた。断片的に戻り始めた尊敬の記憶が、彼の胸を熱くさせる。しかし、同時に深淵なる疑念も浮かび上がった。
「あなたが…柳田…本当に…?」
柳田はその問いに答える代わりに、冷ややかな微笑みを浮かべながらゆっくりと歩み寄った。
「そうだ、風見。お前はわしの下で、最高の刑事として育ったんだ。そして今、再びわしの下に戻ってきた。それが…運命だ!」
風見の拳は無意識に固く握られる。
「どうしてあなたがクロノスにいるんだ? 私は…あなたが警察から消されたと思っていた。だが…」
言葉が途切れたその瞬間、柳田の目の奥に、風見が警察時代には決して見たことのない、冷徹で底知れない闇が光った。それを見た瞬間、風見の胸に氷のような予感が走った。
Ⅳ. ゼロリスタの真実と最後の抵抗
その予感は、恐ろしいほど正しかった。
風見の記憶は、クロノスで記憶消去薬「ゼロリスタ」を投与されたことによって失われていた。その薬を打ったのはセバスチャンだが、命令を下したのは、この柳田だったのだ。風見は、自分がかつて尊敬し、師と仰いだ男に、その存在の根幹を奪われていた。だが、この致命的な真実には、今の風見はまだ気づいていない。
風見は必死に、何かを思い出そうとしていた。
記憶を消される直前、彼は柳田が自分を監視していることを本能的に察知し、決死のある行動に出ていた――それは、体に隠し持っていた特殊なペンで、最重要なメッセージを残すことだった。
風見は焦燥する気持ちを抑え、「柳田」「裏切り者?」と掻き殴るように、ワイシャツの内側に書き記していた。
このペンのインクは肉眼では見えないが、ある特定の香水を使うと文字が浮かび上がるという特殊な仕組みだった。風見はこの短い時間で、自分が記憶を失っても、誰かがこの手がかりを見つけることに、すべてを託していた。
だが、今はまだ、風見の中に残っているのは柳田との「良い思い出」と、得体の知れない本能的な不安だけだった。記憶がなくとも、彼の探偵としての本能は、この男に近づきすぎることが致命的な危険を伴うと警告していた。
「なぜ…俺の記憶がないんだ?」
風見は、全身の力を振り絞るように、静かに、しかし刃のような鋭さで柳田に尋ねた。その声には、表面的な疑問だけでなく、すべてを疑う探偵としての鋭い疑念が込められていた。
柳田の表情が一瞬だけ、微かに曇った。それは風見の言葉が、隠し続けるべき真実の核心を突いた証拠だった。
しかし、彼はすぐに冷徹な冷静さを取り戻した。柳田は仮面のような微笑みを浮かべ、風見の決意を軽くいなすように言った。
「お前はまだ知らない方がいい。全てを知る時が来たら、その時に、このわしが話してやる」
風見はその言葉に、胸を抉られるような強烈な違和感を感じた。それは論理的な解答ではなく、支配的な脅しのように響いた。柳田は何を隠しているのか? そして、記憶が完全に戻った時、彼は果たして何を思い出すのだろうか?
風見の瞳には、かつての師への断ちがたい信頼と、今、目の前にいるクロノスの幹部への底知れない疑念が複雑に交錯し始めていた。
その目の奥には、尊敬と共に、新たな、そして最も個人的な恐怖が静かに息づいていた。
クロノスの中枢に漆黒の塔のようにそびえる高層ビルの薄暗い廊下。
冷たい人工照明が、磨き抜かれた床に長い影を落としていた。柳田は無言でその空間を歩く。その冷静な表情の奥には、張り詰めた緊張と、絶え間ない計算が渦巻いていた。
彼の立場は極めて独特だった。
表向きは、クロノスの最高幹部・黒崎一護に絶対的な忠誠を誓う側近として知られていたが、その裏側では、柳田には別の、冷徹な顔があった。彼は警察庁とクロノスを繋ぐ危険な「ブリッジ」であり、双方の情報を巧みに操作しながら、巨大な組織の内部で暗躍していたのだ。
一護にとって柳田は最も信頼に足る者だった。柳田は警察庁からクロノスに**「切り替わった」最初の実力者であり、警察時代の経験とコネクションを駆使して、クロノスの安全保障という汚れ役を担っていた。表向きは、一護の深い信任を得てクロノスの最も暗い部分**に触れることを許されていた。
だが、その裏では柳田は二重スパイとして活動していた。彼が真に忠誠を誓っているのは、一護やクロノスではなかった。
Ⅶ. 秘密裏のアクセス
柳田が歩みを止めたのは、クロノス内部でも最も厳重なセキュリティが敷かれた**「機密情報室」**の前にだった。
彼は躊躇なくカードキーを差し込み、指紋認証を済ませてから、無機質なドアを静かに開いた。部屋に入ると、彼は誰もいないことを徹底的に確認し、慎重に机に向かって座った。
目の前にはクロノスのすべての秘密が詰まった端末が並んでいたが、柳田の手は一つの端末にまっすぐ伸びた。それは、奥野彩花に関する極秘ファイルだった。
彩花はクロノスの特別な保護下に置かれていたが、「神の因子」を持つ彼女の存在がクロノス全体に及ぼす影響は計り知れなかった。彼女は組織の未来を左右する存在であり、その動向は厳重に監視されていた。
しかし、柳田はその機密情報を独自に操り、外部勢力に流すことで、クロノスの内部に揺さぶりをかける危険な計画を実行していた。
柳田は彩花のファイルを開き、彼女の行動履歴と、最近の黒崎剛一郎との接触内容を緻密に確認した。
彼の目が鋭く光る。ファイルに記された情報は、彩花がクロノスにおける**「特別な役割」、すなわち最終計画の中核を果たす準備をしていることを明確に示唆していた**。
その背後に隠された剛一郎の意図は、柳田が外部に報告するための最も重要な手がかりとなった。
柳田はコートのポケットから超小型の端末を取り出すと、機密情報を素早く、淀みなくコピーし始めた。
彼の手は一切の躊躇もなく、滑らかに動いていた。警察時代から培われた極限の慎重さと大胆不敵な決断力が、この危険な作業を支えている。彼はこの瞬間も、黒崎一護にこの裏切りが発覚すれば、自分の命が間違いなく失われるという絶対的なリスクを理解していた。
それでも、柳田は迷いなく続けた。
彼は、一護に表面上は忠誠を誓いながらも、内心では警察庁の一部という別の勢力と密かに繋がっていた。クロノスが世界を支配する陰の勢力として猛威を振るう中、柳田はその内部から崩壊の種を撒き続けていた。一護の野望が完全に成就する前に、それを阻止する必要があると彼は確信していた。
Ⅸ. 必要な犠牲
しかし、その大義のためには犠牲にしなければならないものも多かった。
奥野彩花の運命も、その冷酷な犠牲の一部だった。柳田は、彩花が**「神の因子」を持つ鍵となる存在であることを知りながら、彼女を利用することでクロノス内部の混乱を意図的に引き起こす計画**を立てていたのだ。
彩花がこの裏切りの連鎖に巻き込まれることは避けられない。彼女の今後の運命は、柳田が外部に渡す情報に直接影響を受ける。だが、柳田にとってそれは必要な犠牲でしかなかった。
「すべては、あの時から決まっていたことだ…」
柳田は自らに言い聞かせるように呟いた。彼が警察を去り、クロノスに身を置いた瞬間から、この孤独な裏切りは始まっていた。
警察もクロノスも、そして奥野彩花でさえも、柳田という男の冷徹な手の中で操られている。
端末の画面が無音で消え、柳田はファイルを完璧に閉じた。その瞬間、彼の顔からは一切の感情が消え、無表情な仮面が再び戻ってきた。
柳田は再び廊下を歩き出し、冷たい影の中に溶け込むように姿を消した。
だがその背後では、彼が動かした一つの情報が、クロノス全体に激しい波紋を広げ、やがてすべてを飲み込む運命の渦を巻き起こそうとしていた。
彩花の運命、クロノスの崩壊――それらすべてが、柳田という一人の男の手の中に握られていた。




