61:消えた記憶の先に、クロノスの闇と風見の選択
風見は、新しく設けた探偵事務所の冷たいデスクに深く腰掛け、目の前に広がる静けさに、自らの内面の空白を投影していた。
ドクター・ゼロの「ゼロリスタ」によってすべてを奪われた今、彼の心には常に揺らぐ、根源的な疑念があった。自分は本当に失われた正義のために行動しているのか? それとも、ただ空虚な自身を満たすため、失われた記憶を取り戻すという自己目的のためだけに動いているのか? 答えを深く沈ませたままのその問いが、彼の胸に鉛のように重くのしかかっていた。
消去されたはずの記憶は、時折、激しいフラッシュバックのように断片的に蘇る瞬間があった。その瞬間、風見はかつての自分を手繰り寄せるように、消えそうな幻影を追いかけるが、追えば追うほどその幻影は指の間からすり抜け、蜃気楼のように遠のいていく。
彼は静かに息を吸い、ゆっくりと吐き出す。記憶の残酷な欠片を追うことに疲弊したのか、それとも自分の本当の動機に気づきたくないのか――彼自身も定かではなかった。
「俺は本当に、正義のために動いているのか?」
そう問いかけながらも、心の底には拭い去れない不安と強迫的な使命感が絡み合って消えなかった。
Ⅱ. 「神の因子」の寓話
...探偵事務所を開く数日前、風見はデータ化された古い電子絵本を再び発見していた。
ふと目を引いたのは、「神の因子」という謎めいた言葉が象徴的に散りばめられた一節だった。その物語は、かつて地上を支配していた古代の超存在が、未来において再びその禁断の力を人類に託すと予見し、「選ばれし者」に因子を与えるという筋書きだった。
しかし、因子を受け取った者には、神の力を手にする代わりに、魂を代償に捧げるという暗い運命が待っていた。
それ以来、風見はこの太古の寓話が、単なる神話ではなく、クロノスの核心に触れる予言なのではないかという疑念を、拭いきることができずにいた。
ある夜、風見は自室で再び電子化された絵本を読み返していた。ページをめくるたび、物語の古代的な描写が、クロノスが追う禁断の研究に驚くほど奇妙に一致していることに気づき始める。
太古の陰謀が、現代の最先端技術と結びつき、今、再び動き出そうとしているのか?
この重すぎる問いが、失われた記憶を持つ風見の胸の中で、膨れ上がる波のように広がっていった。
Ⅳ. 中庭の謎の女性
その時、ふと窓の外に目をやった風見の視界に、薄暗い月の光に包まれたクロノスの中庭が捉えられた。その奥にある公園のベンチに、誰かが静かに座っているのが見えた。
風見は無意識にその姿を見つめ、驚愕した。黒髪の女性が、一冊の古い本を手にしている。そして、微かに反射する表紙に目を凝らすと、それは風見がデータで所有している予言の絵本と、物理的に全く同じものだった。
「まさか…」
風見の心臓は警鐘のように激しくざわめいた。彼だけが見つけたはずのその本が、なぜ彼女の手にあるのか? 彼女は一体誰なのか?
本能的な衝動に駆られるように、風見は音を立てずにその女性の元へ向かった。廊下を静かに進み、中庭へ足を踏み入れると、冷たい夜風が彼の肌を鋭く撫でた。
彼女の姿が次第に近づくにつれ、月の光に照らされたその横顔が鮮明に見えてくる。彼女の視線は絵本に釘付けで、その指先は畏敬の念を込めるように、ゆっくりとページをめくっていた。
Ⅴ. 未来を語る者
「その本…」
風見は、張り詰めた静寂の中で、静かに声をかけた。
女性はゆっくりと顔を上げ、しばらくの間、風見を見つめた。その目は、まるで風見の失われた記憶の奥底を見透かすような、鋭い輝きを放っていた。
短い沈黙の後、彼女はふっと、どこか寂しげな微笑みを浮かべ、静かに口を開いた。
「この本、あなたも知っているのね」
風見は言葉を失った。彼女はこの絵本の真実を知っているのか? 彼女の言葉が、彼の中に新たな、巨大な疑念を巻き起こす。
「あなたは…誰なんだ?」
風見は問い詰めたが、彼女は穏やかに微笑むだけで答えは返さなかった。代わりに、絵本の表紙をそっと撫でながら、彼女は静謐な声で語り始めた。
「これは、未来を示す物語よ。選ばれた者だけがその意味を理解する。あなたがその本を持っているということは、すでに未来への道を歩み始めている証拠なの」
その言葉に、風見の心は激しく動揺した。未来への道を歩み始めている――それは、彼が記憶喪失になって以来感じていた、不安と不可解な予感にぴったりと符合するものだった。
「でも、まだその全貌を知らないのね。神の因子がもたらすのは進化か、それとも破滅か…それは、あなた次第よ」
風見は息を呑んだ。彼女は、この絵本に込められた真のメッセージを知っている。いや、それ以上に、彼女はすでにその未来の片隅を覗き見ているような気がした。
風見がさらなる質問をしようと焦燥に駆られて口を開いた瞬間、彼女はそっと、しかし素早く立ち上がり、古びた絵本を彼に差し出した。
「あなたに託すわ。この物語の結末を見つけて」
その言葉とともに、彼女は夜の闇に吸い込まれるように、音もなく姿を消した。
風見は、重みのある絵本を手に、冷たい夜風が吹き抜ける中庭にただ一人、立ち尽くしていた。彼の心には、彼女の存在というさらに深い謎が刻み込まれた。彼女は一体誰だったのか? そして、この古代の寓話が暗示する未来とは、何なのか?
風見は、絵本を確かな感触で握りしめ、その場を去った。この物語の謎を解くためには、クロノスが抱える暗い真実にもっと深く、容赦なく迫らなければならないことを痛感していた。そして、彼が知ろうとしているその真実は、人類の進化を左右するだけでなく、記憶を失った自らの命運さえも根底から揺るがしかねないものだった。
Ⅶ. 絡み合う糸
...クロノス、神の因子、そして謎の死を遂げた田中の娘とされる田中理沙……。
それらが一つの明確な線に結びつくことはなく、風見の思考は複雑に絡まった糸のように乱れたままだった。
記憶を失い、何をすべきかという羅針盤を見失いかけている今、依頼をこなし、探偵という役割を演じることで、風見は辛うじて自分という存在を保っているかのようだった。
一方で、佐伯真奈美は、記憶を失った風見と再会を果たしてからというもの、彼の危機的な状況に対する強い感情を常に抑え込んでいた。
「彼を助けたい」という純粋な願望が日に日に強くなる一方、心理学者としての分析力から、「焦りは禁物。慎重に行動しなければ、彼を破滅させる」という自制心が、彼女を鋼の鎖のように縛りつけていた。
だが、ふとした瞬間に、かつて風見と濃密に過ごした日々の記憶が胸を締め付け、彼女を揺さぶる。真奈美が風見に抱いていた感情は、決して過去の遺物ではなかった。それは、知性と情愛が複雑に絡み合った、現在進行形の想いだった。
Ⅸ. 隠されたデータと重すぎる事実
しかし、彼女が彼を助けたい理由は、個人的な情愛だけではなかった。
真奈美は、風見が決死の潜入の際に外部に流した極秘データを秘密裏に手にしており、その中には、田中誠一、彼の娘田中理沙、依頼人となる奥野彩花、そして桐谷蓮といった、クロノス計画の核心に触れる名前が記されていた。
特に、田中誠一が**「神の因子」の力を自ら取り入れようとして命を落としたという重すぎる事実が、彼女の心に暗い影となってのしかかっていた**。
このデータを知っている限り、真奈美は風見にすべてを打ち明けるわけにはいかなかった。クロノスの恐ろしさを最もよく知る彼女にとって、記憶が戻れば風見が再びこの巨大な闇に、それも無防備な状態で飛び込んでいく可能性が高かったからだ。
真奈美の心は、「風見の失われた記憶を戻してあげたい」という願いと、「彼の安全のため、クロノスのことを永遠に忘れさせたい」というエゴイスティックな思いの間で、激しく揺れ動いていた。
かつての彼を知る彼女にとって、風見が再び危険に巻き込まれ、命を落とすことは耐え難い恐怖だった。
だからこそ、彼女は孤独な決断を下した。愛ゆえに、真奈美は極秘データの内容を伏せると硬く決意したのだった。
ある日、風見が探偵事務所に戻ってくると、真奈美がすでに彼のデスクに座っていた。
彼がドアを開けた瞬間、彼女は優しく、しかしどこか固い微笑みを浮かべた。その笑顔には、風見への抑えきれない情愛と、口に出せない重大な秘密が複雑に潜んでいた。
「今日も忙しそうね」
「まあ、依頼があるのはありがたいことだ」
風見は軽く冗談を交わすが、その言葉の奥に含まれた自己に対する皮肉を真奈美は瞬時に感じ取った。彼の少し無防備な姿を目の前にすると、真奈美の心の中で押さえつけていた感情がふと溢れ出しそうになるのを、彼女は懸命に耐えた。
ⅩⅢ. 警告と運命の糸
「相談に来た奥野彩花って人、彼氏のことで困ってるらしい。どうやら相手が何か隠してるようなんだ」
風見は資料を片手に淡々と話したが、名前が口に出た瞬間、真奈美の表情に微かな、しかし決定的な変化が走った。彼女の眉がわずかに動き、風見はそれを見逃さなかった。
「その名前…どこかで聞いたような…」
「田中理沙の同期らしい」
その一言が、真奈美の中に再び強い不安を呼び起こす。田中理沙は、風見が以前の調査でクロノスに深く関わっていることが判明していた鍵となる人物だ。そして、その同期である奥野彩花が風見に接触してきたことは、ただの偶然とは到底思えなかった。
「慎重に進めたほうがいいわ。この依頼の裏には、何か恐ろしいものが隠れているかもしれない」
「わかってる。だが、理沙のことは聞かない。今は彼女の相談を真摯に受けるつもりだ」
風見の言葉には記憶を失っても失われない誠実さが滲んでいた。しかし、その誠実さが、彼を再び危険な渦へと導く最大の弱点となることを、彼女は恐れていた。
ⅩⅣ. 記憶の再接続と破滅の予感
風見は真奈美に背を向け、窓の外を見つめた。彼の視線の先には、まだ答えの出ない過去と未来が混ざり合った、果てしない旅路が広がっていた。
しかし、この静かな日常の中で、風見は彩花の彼氏に関する調査を進めるうちに、彼がクロノスと密接に関わっているという鳥肌が立つような真実を突き止める。
その瞬間、物語は一気に加速し、風見の失われた記憶とクロノスの闇が絡み合い始める。彼が真実に近づくにつれて、記憶の欠片が再び繋がり始める。だが、それは同時に、風見が最も危険な渦中へと否応なく巻き込まれていくことを意味していた。
彼が真実に迫るにつれて、暗い影が彼の背後で忍び寄り、過去の断片が恐ろしい形で蘇る。
そして、運命の糸が結ばれたある日、風見はついに彩花の彼氏について重大な手がかりを掴んだ。
しかしまさにその時、真奈美から一本の電話が入る。
「あなたが探している真実は、もっと恐ろしいものよ」




