60:ゼロリスタの夜明け
風見が目を開けた時、彼は地下の冷たく湿った薄暗い部屋、すなわち拷問室に横たわっていた。
目を開けるたびに、血走った網膜に剥き出しの電球の光が鋭い痛みを伴って突き刺さり、全身が無残に、しかし強固に拘束されていることに気付く。錆びついた鉄の冷たい感触が手首と足首に深く食い込み、彼は逃げ場のない、絶対的な絶望の中に置かれていた。
Ⅱ. 肉体と精神の極限
そして、悪魔の儀式のように拷問は始まった。
高圧の電流が全身の神経を火花のように駆け巡り、激痛が肉体の隅々まで焼き尽くすたびに、風見は理性の檻を破り、獣のように叫びかけた。しかし、喉は渇ききって声にならず、ただ内側から身体が引き裂かれるような感覚に耐えるしかなかった。
だが、それ以上に恐ろしいのは、精神を静かに蝕む薬物だった。意識は霧のようにぼやけ、何が現実で何が鮮烈な幻覚なのかが区別できなくなっていく。
彼は何度も、機械のように冷たい声で同じ質問を投げかけられた。
「外部に何を漏らした? 内通者は誰だ? お前が手に入れたデータの全貌は?」
風見の脳裏には、壊れかけのフィルムのように「神の因子」の情報がフラッシュする。選ばれた支配者と操られる一般市民の姿、崩壊寸前の社会構造。だが、激しい痛みと視界を覆う幻覚が混ざり合い、それらの映像は次第に曖昧にぼやけていく。現実感が薄いガラスのように剥がれ落ち、彼は自身の記憶の輪郭が溶け出すような恐ろべき感覚に苛まれた。
Ⅲ. 狂気と悪意の対峙
その時、新たな人物が拷問室に現れた。クロノスの狂気の科学者、ドクター・ゼロだ。
彼は白い作業着を着ていながら、その表情は常軌を逸した歓喜に歪んでいる。ゼロは玩具で遊ぶ子供のように風見を見下ろし、特徴的な甲高い笑い声を上げた。
「カカカ…興味深い。まさか、クロノスに潜り込むとはね」
彼の隣には、柳田が冷徹な目で風見を見下ろし、口元に残酷な笑みを浮かべながら、再び慈悲を装った質問を投げかける。
「風見、私たちは何も隠していない。ドクター・ゼロの遊びは、正直、あまり愉快なものではないぞ。お前が知っていること、全てを話せば苦しまずに済むんだ。楽になるぞ」
その声は滑らかで、しかし底知れぬ悪意に満ちていた。
風見は歯を食いしばり、全身を貫く痛みに耐えながら、最後の意地を絞り出す。
「…俺は、何も…話さない…」
かすれた声に込められたのは、警察官としての誇り、わずかに残された最後の抵抗だった。だが、その意地も肉体的な限界に近づいていた。拷問は続き、風見の意識は次第に脆く、崩れ始めた。
電流が再び走るたび、彼は目の前に見える柳田やドクター・ゼロ、そして周囲の拷問器具が歪んだ色彩を放って見え始めた。薬物が脳を支配し始めたのだろう。目を閉じようとしても、鮮烈な色の幻覚が脳裏に現れては消え、現実と悪夢が激しく交錯していく。
脳が焼け付くような痛みの中で、風見はついに意識の限界を超えようとしていた。
風見の抵抗の炎が今にも消えようとしたその瞬間、柳田が冷ややかに、そして非情に告げた。
「もういい。これ以上の無駄な痛みは不要だ」
柳田の非情な宣告を受け、歓喜に歪んだ表情のドクター・ゼロが、鋭利な光を放つ注射器を手に、風見に楽しげに歩み寄った。
別室の分厚いガラス越しには、セバスチャンが微動だにせず、冷徹な観察者としてこの光景を見つめている。
ドクター・ゼロは、ためらいなく風見の腕の血管に冷たい針を突き立て、特殊な薬液をポンプのように注入した。
風見は、冷ややかな薬液が血管を逆流する感覚を感じたが、もう抵抗する力は一片たりとも残されていなかった。
「ゼロリスタ」――それは、ドクター・ゼロという狂気の頭脳がクロノスのために開発した、記憶を完全に消去する特殊な薬物だった。これまでの拷問は単なるテストであり、風見が話さなければ、彼の記憶そのものを永遠に消し去ることで、クロノスの恐るべき秘密を絶対的に守り抜くことが目的だったのだ。
Ⅴ. 記憶の霧散
風見の視界は急速に、そして無情にぼやけ始めた。
彼の中で血肉となったはずの「神の因子」計画に関する全ての記憶が、無残にも崩れ去っていく。最初は細かいディテールから、そして次第に巨大な真実のピースが消失し、まるで砂漠の砂が強い風に流されるように、彼の意識の輪郭が薄れていった。
彼の記憶の奥底で、必死に叫ぶ声があった。
「忘れるな! 忘れちゃいけない!」
だが、その悲痛な魂の叫びも次第に遠い反響となり、やがて絶対的な静寂が訪れた。
風見の意識は断片化しながらも、自分がすべてを失っていくことを本能的に感じ取っていた。正義感も、クロノスへの復讐心も、師への怒りも全てが霧散し、ただ空虚な虚無だけが、魂の残骸として残っていく。
Ⅵ. 抜け殻の誕生
「これで終わりだ」
柳田は、感情の欠片もない冷たい声で言い放ち、勝利を確信した目で風見の顔を覗き込んだ。
「お前が何を見て、何を知っていたとしても、もうすべては無駄だ。お前は、ただの、意志を持たない抜け殻だ」
風見は、その非情な宣告をかすかに聞きながら、意識が冷たい闇の中へと吸い込まれていく。最後に残ったのは、薄れていく自分自身の存在、そして彼が命を懸けて追い求めていたはずの「真実」もまた、彼の中から完全に、永遠に消え去っていった。
その後、風見はただのゴミのようにクロノスの施設の外へと無造作に捨てられた。
彼が目覚めたとき、周囲の光景は意味のない色の羅列でしかなく、自分がなぜここにいるのか、自分が何者なのかすら一切理解できなかった。記憶の欠片がすべて消され、彼はただぼんやりと、虚ろな目で世界という名の迷宮を見つめるだけだった。すべてを忘れさせられた男、風見には、かつての使命も、クロノスへの燃えるような怒りも一片たりとも残されていなかった。
だが、クロノスは水面下で依然として恐るべき計画を進行中であり、風見が消されたはずの記憶の先に、何があったのか――彼の意識の奥底に、説明のつかないわずかな違和感が消えることはなかった。
Ⅷ. 心理学者、佐伯真奈美
風見が光を失っていることに最初に気づいたのは、佐伯真奈美だった。
彼女は風見のかつての恋人であり、現在は心理学の研究者として、世界的にその名を馳せていた。真奈美は冷静沈着でありながら、知的な美しさを湛え、常に他者の内面を深く理解する天賦の能力を持っていた。特に、人間の記憶や意識に関する分野での知識は誰にも抜きん出ており、彼女の存在そのものが一つの真実を解き明かす羅針盤のようだった。
風見がクロノスに潜入していた時期から、彼の電話の向こう側の言動にわずかな異変を感じ取っていた彼女は、彼が音信不通になった後、強い不安に突き動かされた。そして、愛する人の行方を追うことを決意した。
真奈美は、風見の細かな変化を敏感なセンサーのように察知した。彼の無表情な顔、抑揚のない話し方、ぎこちない仕草――それらは一見普段通りに見えながらも、彼が失った記憶の痛々しい痕跡が確かに感じられた。
彼女にとって風見は、ただの元恋人という枠を超えていた。彼の不屈の正義感と、何事にも真摯に向き合う、嘘のない姿勢は、真奈美が一度心から愛し、今でも忘れられない理由だった。
そのため、彼がクロノスに潜入し、そしてドクター・ゼロの影響で記憶を改竄されたことに気づいたとき、真奈美の胸にあった感情は悲しみや動揺ではなく、彼を救い出すという揺るぎない使命感へと変わった。
「彼を放っておけない」。
知性と深い愛情に導かれ、彼女は風見を救出するために行動を起こす決意を固めたのだった。
真奈美は、心理学の専門家としての冷静な慎重さと、愛する者への確信をもって風見に接触を試みた。
彼女は、風見がどのような心理的な空白に置かれているのかを緻密に分析し、優しさと、揺るぎない理知を帯びた口調で彼に語りかけた。真奈美の声は、鋭い洞察力に裏打ちされており、一言一言が風見の意識の奥深くまで届くようだった。
風見は、真奈美に対して抗いようのない懐かしさを感じながらも、記憶の空白に戸惑っていた。しかし、彼のすべてが欠けた世界において、彼女の存在だけが、説明のつかない、絶対的な安心感を与えた。真奈美の言葉は、まるで暗闇の迷宮に迷い込んだ風見を**そっと照らし、導く、知的な羅針盤**のようだった。
彼女は根気強く、そして深い集中力をもって風見の心を探り続けた。ゼロリスタによって封印された真実を引き出す過程は、風見自身が極限の恐怖や越えた一線への葛藤を思い出すたびに激しい痛みを伴った。だが、真奈美はその苦しみを共有し、理知的な分析と深い共感をもって、共に乗り越えようとした。その献身的な行動の背後には、彼への深い愛情が、静かに、だが確固として残っていた。
Ⅹ. ゼロリスタを越えた使命
一方、失われたすべての記憶にもかかわらず、風見の魂の奥底に刻まれた持ち前の正義感は、本能的な原動力として彼を行動へと突き動かし続けていた。
彼は、刑事として叩き込まれた経験と能力を疑いなく信じ、真奈美の知的な助けを得ながら、クロノスの暗い影から抜け出しつつも、常に、心のどこかで何か決定的なピースが欠けている感覚に苛まれていた。その拭い去れない探求心こそが、ドクター・ゼロのゼロリスタをもってしても消し去れなかった、風見という存在の本質だった。
ⅩⅠ. 新たな戦場、探偵事務所
真奈美の揺るぎない支えのもと、風見は過去の自分を取り戻すため、そして己が信じる正義を再び世に問うための新たな戦場を選ぶことを決意する。
彼はついに、風見探偵事務所をオープンした。
この開業は、風見にとって単なる生活の再開ではない。それは、記憶を盗まれた自分を奪い返すための戦いであり、失った正義を再び手にするための、孤独な旅の始まりだった。
これまで命懸けで追い続けたクロノスの影は、記憶と共に薄れた。しかし、彼の理性的な意識には届かない心の深い場所に、根源的な疑念が影のように残っていた。
「何か、決定的な何かを見逃している」――。
風見の中に湧き上がるその不気味な予感は、新たな真実への扉が目前に迫っていることを暗示していた。真奈美との再会が彼に与えた影響は計り知れず、風見は今、かつての自分以上の覚悟を持って、クロノスの潜む闇の中へと、再び足を踏み入れる準備を整えたのだった。




