⑤⑦罪を分かつ海 :殺意の失敗と神の因子の追跡
灯台の最上階。クロノスの実験装置を前に、千鶴の口元は歪んだ。
「これで…終わりにしてやる…」
彼女は、長年蓄積された憎悪の塊を吐き出すように呟き、まるで氷に触れるかのようにそっと、躊躇なく装置のスイッチに手を伸ばし、それを押し込んだ。
海面が微かに震え始めた。
水面は不自然な重力に引かれるように沈み込み、次第に巨大な黒い円錐形の渦が出現していく。
その唸るような低周波音は、灯台の分厚いガラスをわずかに震わせた。
眼下に、蓮が一人で海面に浮いているのが見えた。
彼は水流の異変に気づいた様子で、藻掻きながらも、抗う術なく渦の中心へとゆっくりと引き寄せられていく。
千鶴は、夫の裏切りの証である彼を、冷ややかに、ただ見下ろしていた。
彼女の胸には、何の躊躇もなかった――その瞬間までは。
「蓮!
危ない!」
隆二の肺腑を抉るような叫び声が、渦の轟音を一瞬で打ち破り、灯台のガラス越しに響き渡った。
その声が千鶴の鼓膜を貫いた瞬間、隆二は迷うことなく、兄としての本能に従い、海へと垂直に飛び込んだ。
彼は、蓮が渦に巻き込まれるのを見て、ただ一つの命を守ろうと、水しぶきを上げながら必死に手を伸ばした。
しかし、千鶴は灯台の薄暗い内部で、その光景をスローモーションのように見つめることしかできなかった。
彼女の体は、極度のショックによって神経から凍りついたかのように動かない。
まさか、自分の息子が身代わりになるとは――いや、本当に望んでいたのはこの結末だったのだろうか?
心に浮かぶのは、言いようのない悍ましい後悔と、底なしの恐怖、そして現実が崩壊していく絶望だった。
渦は、蓮の体に触れる寸前、隆二の体を一瞬にして捉え、水中の巨大な手で喉を掴むように飲み込み、海の底へと強引に引きずり込んでいった。
水面に残されたのは、急速に広がる泡の輪だけだった。
千鶴はようやく我に返り、全身が痙攣する中で、震える指先でスイッチを探り当てて止めた。
しかし、すべてが遅すぎた。
装置が停止すると、渦は嘘のように静まり、荒れ狂った波は穏やかに戻り始める。
まるで、何事もなかったかのように、海は青く静まり返っていた。
その瞬間、千鶴の喉の奥からは、人間のものとは思えない、絞り出すような叫び声がこぼれ落ちた。
「隆二…! 隆二!」
海岸では、悠斗が、まだ波をかぶっている兄の体が打ち上げられるのを、ただただ震えながら見つめていた。
水に濡れて重たくなった隆二の髪。
その冷たく閉ざされた瞳は、もはや悠斗の存在を映さない。
彼は何度も何度も兄の名前を喉が嗄れるまで叫び続けたが、永遠に返ってくる声はなかった。
蓮は、自らの命を救ってくれた隆二の前で、涙を奥歯で噛み殺しながら、必死に心肺蘇生を試みた。
しかし、その懸命な努力も空しく、奇跡は起きなかった。
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
千鶴は、隆二の血の通わない冷たい頬に手を伸ばし、崩れ落ちながら呟いた。
彼女の心は、すでに砕け散っていた。
愛する息子を、自らの憎悪の衝動で奪ってしまったという、耐えがたい現実に、彼女は正面から向き合うことができなかった。
しかし、その場で完全に砕け散った心の中で、千鶴は自己防衛という名の最終手段にすがった。
彼女は、自らに向けられるはずの強烈な自責の念と怒りを、徐々に、そして狂おしいほどに、蓮に向けることで、辛うじて精神の均衡を保とうとしていた。
「すべて蓮のせいだ…全部、あの忌まわしい子のせいなんだ…」
彼女は、自我を維持するための呪文のように、そう自分に言い聞かせた。
蓮さえいなければ、隆二は死ぬことはなかった――そう思い込むことでしか、愛する息子を殺した殺人者である自分を救えなかったのだ。
千鶴の瞳は、事実の光を拒絶し、憎悪という名の幻想に完全に染まりきっていた。
悠斗は、母の精神の変調に気づくことなく、ただ兄の死を、海の気まぐれな、避けられない自然現象のせいだと信じ込んでいた。
だからこそ、母が灯台の装置を使ったことが兄の死につながったという地獄のような真実を、彼は知る由もなかった。
蓮は、そんな悠斗の曇りのない純粋な顔を見つめながら、心の中で言葉にならない葛藤に引き裂かれていた。
彼は以前、父である剛一郎にこの灯台に連れてこられ、実験の恐ろしさを知らされていた。
まさか、父が誤って装置を作動させてしまったのではないか――そう考えると、蓮の心には、剛一郎に対する裏切りと激しい怒りが湧き上がってきた。
父は、兄弟の命を奪ったのかもしれない…そして、この悲劇の根源はすべて「クロノス」の非道な実験のせいだったのだ。
しかし、悠斗の純粋な眼差しを直視するたび、蓮はクロノスの闇を口にすることができなかった。
彼の中で真実と使命感が渦巻き、彼は隆二の死の責任をすべて自分自身に背負わせることで、その耐えがたい痛みを乗り越えようとした。
「隆二を守れなかったのは自分だ…
自分の力が足りなかったせいだ…」
蓮はそう自己を罰することで、自らの心を納得させようとしていた。
千鶴の狂気的なまでの憎悪と怒りは、ついに蓮に明確な矛先を向けた。
彼女は、隆二を抱きしめることを忘れ、泣きながら蓮に詰め寄り、その罪なき存在を責め立てた。
「あなたのせいで…
すべて、あなたのせいで、隆二は死んだのよ!」
蓮は、嵐のようなその言葉を、ただ静かに受け止め、反論の一言も口にしなかった。
千鶴の憎しみが自分に向けられることで、彼女の精神の崩壊を少しでも食い止め、救うことができるのなら――彼はそう、自己犠牲的な思考にたどり着いていた。
波音だけが静かに、遠くで響く中、蓮は何も知らない悠斗に向き直り、その小さな、震える肩を力強く抱きしめた。
「大丈夫だ、悠斗。
お兄ちゃんは…僕がずっとそばにいるから」
悠斗は、嗚咽が止まらない蓮の背中にそっと触れ、その暖かさを感じながら、胸の中でただ一つの切実な願いを繰り返していた。
「もう、誰も…いなくならないで…」
愛と憎しみ、そして取り返しのつかない喪失が交錯したこの夏の日。
真実を知る者も、知らない者も、それぞれの心に深い傷跡を残した。
この悲劇は、彼らの未来を暗く、大きく狂わせることになるのだろう。
しかし、その耐えがたい痛みの中で、蓮と悠斗は、互いの存在だけを唯一の拠り所とし、暗い闇を進むことを、無言の内に誓い合ったのだった。
...風見は、深く、重い息を吐き出し、乱雑に積み上げられた資料の山を見つめた。
机上には、クロノス・コーポレーションの名前が刻まれたファイル。
表向きは世界的な巨大製薬会社だが、その内側には、法の光が届かない、暗い影の顔が隠されているという噂が絶えない。
風見は、ある匿名の情報提供者から入手した、ザラついた感触の一枚の写真に目を止めた。
そこには、二人の男が写っていた。
一人は、クロノスの表向きの顔である社長、黒崎剛一郎。
そしてもう一人は、彼の兄であり、組織の真の支配者とされる黒崎一護だった。
二人の表情は硬く、重い秘密を共有するかのように、何かを深く思案しているように見えた。
「黒崎兄弟か…」
風見は、その血の繋がりと権力の構造について、様々な憶測を巡らせた。
兄弟でありながら、なぜ一護は闇の奥に潜み、表舞台に立たないのか。
そして、彼らの間にどんな冷たい確執が潜んでいるのか。
捜査を進めるうち、風見は、クロノスの闇に深く関わっていた一人の研究員、田中誠一の存在を知った。
田中は、クロノスが極秘裏に開発中の「新薬」の恐るべき危険性を訴え、それを世間に公表しようとしていた。
しかし、その直後、彼は謎の死を遂げたのだ。
「田中誠一…
彼の死は、本当にただの事故だったのか?」
風見は、田中の死の真相を突き止めようと、彼の研究資料の断片や、細々とした交友関係を執念深く調べ上げた。
そして、ある重要な手がかりを発見する。
それは、田中が娘に残した、角が擦り切れた古い絵本だった。
絵本の奥深くには、田中が娘への絶ちがたい愛情と、クロノスへの命懸けの告発の決意を綴った、切々とした手書きのメッセージが隠されていた。
風見は、その魂の遺言を読み、田中の燃えるような正義感と、娘への深い献身に心を打たれた。
「田中さん…あなたは、一体何を知っていたんだ?」
風見は、田中の死の背後に巨大なクロノスの影を感じ取り、捜査の手をさらに、鋭く強めた。
そして、彼は、クロノスに隠された、世界を揺るがすある恐るべき計画の存在にたどり着く。
それは、「神の因子」と呼ばれる特殊な遺伝子を持つ少女を利用し、世界を支配しようとする、壮大で冷酷な陰謀だった。
「神の因子…
そんな非科学的なものが本当に存在するのか?」
風見は、半信半疑ながらも、その計画の常軌を逸した恐ろしさに身震いした。
そして、彼は、その計画の核心に、二人の少女がいることを知る。
一人は、クロノスの社長令嬢、黒崎彩花。
もう一人は、クロノスのスパイとして彩花に近づいた、田中誠一の娘、理沙だった。
風見は、二人の少女の運命が、巨大なクロノスの闇に翻弄されていることを悟り、彼女たちを救い出そうと固く決意する。
しかし、それは、巨大な組織との、文字通りの孤独な戦いの始まりだった。
それでも、風見は諦めなかった。
彼は、田中誠一が遺した正義の火と、二人の少女の未来を守るために、最後まで闘い抜くことを、静かに誓った。
風見は、田中誠一が娘に残した古い絵本を、再び、慎重に手に取った。
娘への深い愛情が、魂を削って綴られたかのような手書きの文字から、切実に滲み出ている。
だが、それが示すのは、単なる親の温かい想いだけではなかった。
絵本の紙の隙間に隠されたメッセージは、言葉を超えた、何か巨大で重大な秘密を、沈黙の中で雄弁に物語っているように感じられた。
「クロノス…
田中さんは、あの巨大企業が地底深くに隠している恐ろしい真実に、触れてしまったんだな…」
風見は、静かに、悔恨の念を込めて呟きながら、田中の死の原因を論理の枠で改めて構築した。
それは単なる事故などではなく、巨大な陰謀に飲み込まれ、葬り去られた結果だと確信していた。
田中が、組織を揺るがす重要な情報をつかんでしまい、それが執行猶予なき死刑宣告となった――風見の頭の中には、その因果律が冷徹に、鮮明に浮かんでいた。
クロノス・コーポレーション。その背後に立つ黒崎兄弟の存在が、全ての闇を象徴していた。
表向きの社長は剛一郎だが、実質的な影の支配者は、兄の黒崎一護だとされている。
そして、彼らが根幹で関わる「神の因子」と呼ばれる謎の計画。
それが、クロノスの揺るぎない核心にあることは間違いない。
だが、その世界支配にも繋がる計画の全貌は、いまだ濃い霧の中に閉じ込められていた。
風見は、田中が関わっていた機密性の高い研究プロジェクトに、改めて目を向けた。
クロノスが開発していた「新薬」の研究。表向きは画期的な治療薬の開発という偽りの光であったが、その裏では、人間の遺伝子を操作し、強制的な進化を促す、禁断の実験が着々と行われていたのだ。
田中は、その非人道的な事実に気づき、その最終的な危険性を訴えようとしていたのだろう。
「神の因子を持つ存在…」
風見は、研究資料の暗号めいた一文を脳裏で反芻した。
それは、自然界の摂理には存在し得ない、特異な、進化の鍵を握る遺伝子を持つ存在。
クロノスは、その遺伝子を持つ者を探し出し、さらには人工的に作り出すことで、人間を超越した『神』を生み出そうとしていた。
だが、その『神の因子』を宿す人物が誰なのか、いまだ特定されていなかった。
「社長令嬢に、その因子があるのかもしれない…」
風見は、調査の過程で手に入れた断片的な情報を、パズルのピースのように慎重につなぎ合わせた。
クロノスの権力の中枢にいる黒崎兄弟の娘――しかし、その娘が誰なのかは定かではない。
剛一郎の娘である彩花か、それとも表には一切出てこない一護の娘なのか。
その答えは、物語最大の謎として、依然として風見の前に立ちはだかっていた。




