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⑤⑥蒼い絶望の渦 :罪を負った少年と家族を引き裂く毒の連鎖

 抜けるような青い空と、太陽の光を浴びて白く輝く白い砂浜。


 隆二、悠斗、蓮の三人は、そのコントラストの下で束の間の平和な一日を過ごしていた。

 だが、微熱にうなされる悠斗は、熱い砂を避けてヤシの木の木陰で休むことを余儀なくされる。


 隆二と蓮は、快活な笑い声を上げながら、エメラルドグリーンの海へと泳ぎ出していった。

 その楽しそうな背中を、悠斗はいつものように砂浜から見送っていた。

 しかし、やがてその静けさが、次の瞬間を予告するように不気味なほどに押し寄せる――。



 突然、隆二は戻ってこなかった。


 海の異変は、警告もなく、一瞬にして訪れた。

 遥か沖合の海面が、音もなく不自然にうねり始める。

 突如として現れた巨大な渦。

 クロノスの悪意が凝縮されたかのような荒れ狂う水流は、隆二を一瞬でその中心へと引き込んでいった。


 悠斗は、何が起こったのかを理解する思考能力を失い、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。

 網膜に焼き付いたのは、愛する兄が、無力な人形のように渦に飲み込まれていく、恐ろしく残酷な光景だった。


「兄ちゃん!」


 悠斗の叫びは、唸りを上げる風と渦の轟音にかき消され、届かない。


 蓮は、渦に引き寄せられる隆二に向かって、必死に、顔を歪ませて手を伸ばした。

 あとわずか数センチ。

 しかし、その手は永遠に届かない。

 渦の力はあまりにも強く、隆二は水面から完全に姿を消し、海の底へと沈んでいった。


 蓮は、砂浜に這い上がりながら、ただ声を上げて泣いた。

 彼の両手には、隆二のぬくもりも、命の欠片も、何も残っていなかった。

 その無力さを痛感し、彼は打ちひしがれ、木陰にいる悠斗を直視することさえできなかった。

 涙は止まることなく頬を伝い、彼の心に修復不可能な深い傷を刻んでいった。


 悠斗は、兄の死を信じられなかった。

 あの優しかった、自分を守り続けてくれた兄が、こんなにも唐突にいなくなるなんて。


 蓮は、その日から毎晩、隆二の名前を呪文のように呼びながら、眠れぬ悪夢のような夜を過ごすことになる。




 数日後、悠斗の耳に入ったのは、彼の世界をさらに深く引き裂く、衝撃的な真実だった。


「蓮がクロノスの実験装置を起動させたことが原因で、あの渦が生まれたのよ」


 理沙の言葉は、氷のような冷たい刃となって悠斗の心を貫いた。


「そんな…蓮が…?」


 理沙は、千鶴から聞かされたその情報を、自らの声が震えるのを感じながら伝えた。

 千鶴は、息子を失った悲しみのあまり、現実を受け入れられずにいた。

 彼女は悲嘆のあまり、誤った情報にすがりつき、蓮を悪者に仕立て上げることで、自らの魂の痛みを晴らそうとしていたのだ。


 しかし、真実は違った――


 渦が発生する直前、蓮はクロノスの不審な動きを察知し、暴走を始めた実験装置を停止させようと必死だった。

 機械を止めようともがく中で、彼は隆二を助けようとした。

 だが、彼の能力は届かず、隆二は海の中へ消えていったのだ。


 千鶴はその事実を知るすべもなく、誤った情報を理沙に伝えた。

 そして理沙もまた、蓮の無実を疑いながらも、千鶴の悲痛な表情と狂気に言葉を飲み込むしかなかった。

 真実を知る由もない理沙は、千鶴の言葉をそのまま悠斗に伝えてしまった。



 悠斗は、裏切りと絶望に駆られ、激しく蓮を問い詰めた。


「どうして兄ちゃんを助けなかったんだ!

 どうして…!

 僕の兄ちゃんだろ!」


 その叫びは、蓮の心を引き裂き、彼の内側に残された隆二の魂までをも傷つけるようなものだった。

 蓮は俯いたまま、口を開くことさえできなかった。


「僕は…あの時…」


 本当のことを伝えたい――その真実への衝動と、悠斗を危険から守りたいという使命感が、彼の心の中で凄まじい勢いでせめぎ合っていた。

 だが、蓮は、クロノスの誓約により、真実を告げることが許されない状況に縛られていたのだ。


 悠斗は、蓮の前で力尽きたように崩れ落ち、熱を帯びた砂の地面を、無力な拳で何度も叩きつけた。


「兄ちゃん…!」


 彼の心は、深い悲しみと絶望、そして蓮への怒り、何もできなかった自分自身への無力感という、重く冷たい感情の塊に包まれていた。


 蓮は、悠斗の目の前で何度も隆二の名前を呼び続け、静かに涙を流し続けた。

 だが、もう彼には何も戻せない。

 何をしても、隆二は帰ってこない。


 その日、砂浜に残ったのは、涙で濡れた足跡と、二人の少年の心に決して消えることのない深い傷跡だけだった。




 数日後、蓮は一人、隆二が眠る冷たい墓標の前に立っていた。


 重い雲に覆われた空の下、冷たい風が墓地を吹き抜け、彼の漆黒の髪と、喪失の淵にある彼の心を揺らす。

 その風には、どこか隆二の、優しかった声が混じっているような、儚い気がした。


 蓮は、墓石を前に、光を失った虚ろな瞳で、まるで世界から切り離されたかのように立ち尽くす。

 やがて、彼は喉を震わせ、張り裂けそうな声で、隆二の魂に語りかけた。


「隆二…こんなことになるなんて…まだ、僕は信じられないんだ」


 彼の告白は、風に攫われるように無力に、儚く消えていった。

 それはまるで、もう二度と掴むことのできない、過ぎ去った時間そのもののように。


「本当のことを言えなくて…ごめんな。

 でも、僕は悠斗を守りたかったんだ…

 お前を失った分まで…」


 蓮は、苦痛に顔を歪ませて息を吸い込み、今にも雨が降り出しそうな曇り空を見上げた。

 彼の瞳には、言い表せないほどの自責の念から、涙が滲んでいた。

 それでも、その涙は頬を伝うことなく、空の灰色の湿気に溶けていった。


「お前が生きていれば…こんなことには…」


 言葉が途切れ、抑えきれない嗚咽が喉の奥で震え、張り裂けた。



 その瞬間、彼の全身を、獲物を射抜くような鋭い視線が貫いた。


「よくも…よくも、こんなところに来られるわね!」


 突然、怒りの炎をまとったような声が、凍てつく風を切り裂いた。


 蓮はハッとし、戦慄しながら、ゆっくりと振り返る。


 そこには、悲しみと憎悪に全身を染め上げた、千鶴の姿があった。


「蓮…!」


 彼女の瞳は、隆二の命を奪った渦のように、怒りと絶望で赤く燃える炎そのものだった。


 蓮の背筋は一瞬で凍りつき、心臓の鼓動は警鐘のようにけたたましく早まった。


 彼女は、ゆっくりと、確かな殺意をもって近づき、蓮の学生服の胸ぐらを、力が尽きるまで強く掴んだ。



「あなたが…あなたが隆二を殺した!

 私の息子を返して!

 返してよ…!」


 千鶴の叫びは、悲痛な呪詛となり、凍てつく風の刃と共に蓮の心に突き刺さった。


 彼女は、息子を失った狂気にも似た絶望で、何度も何度も蓮の体を激しく揺さぶりながら、熱い涙を流し続けた。

 その涙は、単なる悲しみではなく、彼女の全てを物語る血の涙であり、蓮の罪悪感を洗い流すどころか、深く染み込ませていった。


「どうして…!

 どうしてあの子を助けられなかったの…!

 あなたさえいなければ…!」


 蓮は、胸ぐらを掴まれたまま、反論も弁解もできなかった。

 言葉を持たない口は、ただ空虚に開閉するだけで、千鶴の暴風のような怒りと悲しみを受け止めるという、自己懲罰を課すことしかできなかった。

 彼の心には、助けられなかった深い罪悪感と、真実を語れない無力感が、冷たい泥のように染み込んでいく。


「ごめんなさい…ごめんなさい…!」


 蓮から絞り出せたのは、その二つの言葉だけだった。

 それ以上の言葉は、彼の喉の奥に重く鉛のように詰まっていた。

 彼は、自分が真実を語らなければ、千鶴の苦しみが永遠に続くと知っていながら、その真実が彼女をさらに打ち砕くことを恐れて、自らの存在理由までも失ったかのように言葉を失っていたのだ。


「返して…私の隆二を…!」


 千鶴の叫びは、鋭く、鋼鉄のように響き渡り、墓地全体に痛々しい残響を残した。

 その痛みと憎しみに満ちた声は、蓮の胸を物理的な力で貫き、彼の心に新たな深い傷口を刻んでいく。


 千鶴は、全身の力を込めて泣き叫びながら、蓮を強く押し倒した。


 彼は、抵抗することなく、そのまま冷たい地面に倒れ込み、ただ虚ろに涙を流すしかなかった。


「僕は…僕はお前を助けたかった…!」


 蓮が、自らの内側に向けて放ったその声もまた、虚空に消えた。

 誰にも届くことのない孤独な叫び。

 それは彼自身に向けられた、自らを責める懺悔の言葉だった。


 墓地には、千鶴の悲痛な慟哭と、蓮の無言の涙だけが、陰鬱に響いていた。


 蓮は、千鶴の叫びを懺悔の水として浴びながら、どこまでも深い闇の中へと沈んでいった。

 出口の見えない迷宮に囚われたまま、彼の心は絶望という名の墓場で彷徨い続けた。


 冷たい風が、再び彼の髪を揺らす。


 空は灰色に深く染まり、雨粒が彼の頬を濡らしていく。

 それは、隆二の魂の涙なのか、蓮自身の悲痛な涙なのか、もう彼には判別がつかなかった。


 ただ一つ確かなことは、彼の心には今もなお、癒えることのない、生涯背負うべき深い傷が刻まれているということだった。




 …その日、澄み渡る青空の下、悠斗は待ち望んでいた夏の家族旅行に胸を躍らせていた。


 久しぶりに家族全員で過ごせる特別な夏の日――父・剛一郎、母・千鶴、そして愛する兄・隆二と共に過ごす、絵に描いたような幸福な時間を夢見ていた。


 しかし、出発の直前、予想外の影が玄関に現れた。蓮である。


 悠斗は瞬時に顔を曇らせた。

 兄の隆二が、また蓮と一緒に過ごすのではないかと、幼い心の中で小さな嫉妬の炎が燻り始めた。


「蓮も一緒に行かないか?」


 剛一郎が何気ない顔で誘うと、隆二は心からの喜びの笑みを浮かべて蓮を迎え入れた。

 蓮が、まるで家族の一員であるかのようにその場にいることに、悠斗は拭い去れない違和感と疎外感を覚える。

 蓮が父の別の家庭から生まれた異母兄であり、自分にとっての義理の兄であるという事実は、幼い悠斗にはどうしようもなく受け入れがたい現実だったのだ。



 海に着くと、悠斗は太陽に煌めく波打ち際で一秒でも早く遊びたいとせがんだ。


 しかし、剛一郎は「先に海を見下ろす場所がある」と言い、家族全員が古びた灯台へと向かう。


 灯台の内部は薄暗く、独特の冷たい空気が漂っていた。

 剛一郎が灯台の最上階にある「クロノスの実験場」を紹介すると、その場所がただの観光スポットではない、組織の影が潜む場所であることを皆が察した。


 灯台の窓から見下ろすと、広大で美しい海が視界いっぱいに広がっていた。

 太陽の光が波に眩くきらめき、その荘厳な美しさに誰もが息を飲む。


 しかし、そのとき、千鶴の視線は一瞬だけ、海ではなく蓮に向けられた。


 彼女の目には、冷たい憎悪と嫉妬が鋭く映り込んでいた。


 剛一郎の愛人であるエミの息子である蓮は、千鶴にとって愛する夫が現在も犯し続けている裏切りの証だった。


 彼女にとって、蓮の存在そのものが、家庭と自尊心を傷つける許されざる罪のように感じられていた。



「早く海に行きたい!」


 悠斗の無邪気な声が、張り詰めた灯台内部に響く。

 隆二と蓮は、悠斗を連れて楽しそうに灯台を降りていった。


 その背中を見送りながら、剛一郎のスマホが鳴り、彼は業務の用事でその場を離れた。


 広大な海を見下ろす灯台には、千鶴ただ一人が、孤独に残された。


 彼女の心に、長年潜んでいた暗い感情が、まるで毒のように、抑えきれずに冷徹な表情となって顔を出した。

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