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⑤③真実の親友:もう一人の黒崎

 重傷を負ったセバスチャンのかすかな足音が廊下の奥へと消えていき、重厚な扉が音を立てて閉ざされた。


 理沙は、扉が完全に閉まる直前、その固い表面にそっと触れ、小さな声で語りかけた。


「セバスチャン、無理しないで。

 早く休んでちょうだい」


 返事はなかったが、その一瞬の気遣いに、監視者としての理沙の立場を超えた人間的な優しさが滲んだ。


 部屋に残されたのは、彩花と理沙、そして、真実を前に張り詰めた静寂だけだった。


 彩花は、ベッドの上で自力で身を起こし、理沙の顔をまっすぐ見つめた。

 彼女の瞳は、全ての感情を内に秘めた、嵐の前の海のように静かに揺れていた。


 絞り出すような震える声で、彼女は核心を問いかけた。


「どうして…本当のことを教えてくれなかったの?」


 その言葉は、小さな刃のように理沙の心の最も弱い場所を刺し貫いた。

 彩花は、親友だと信じていた彼女に裏切られた悲しみと怒りを、涙の手前で必死に抑え込んでいるようだった。


 理沙は、彩花の痛々しい瞳から目を逸らすことなく、懺悔のようにゆっくりと語り始めた。

 その声は、まるで遠い過去の記憶から蘇ってきたかのように、かすかに震えていた。


「私は、物心ついた時から、クロノスという組織の中にいた。

 そこが世界の全てで、上司の命令は絶対で、それを疑うことさえ許されなかった」


「友達を作ることも許されず、ただ孤独な日々を送っていた。

 そんな私が唯一、心の底から通わせることができたのが、桐谷エミ…桐谷蓮のお母さんだった」


 理沙の告白の言葉は、重く、冷たい鎖のように二人の間に垂れ込めた。

 それは、理沙が背負ってきた過酷な運命と、孤独な魂の叫びだった。


 彩花は、蓮の母親と理沙が、秘密裏に深い絆を通わせていたという衝撃的な事実に息を呑んだ。


「えっ、蓮の…お母さんと、理沙が?」


 彩花は驚きを隠せず、理沙を見つめた。


 理沙は静かに頷き、エミさんとの過去の絆、彼女がどれほど温かく、素晴らしい存在だったかを語り始めた。


 彩花は、師の母に対する、嫉妬、羨望、そして純粋な尊敬が入り混じった複雑な感情を抱いた。

 蓮さえ知らない、理沙とエミさんの間に特別な絆があったことに、彼女は抗いがたい感動を覚えた。


「理沙、エミさんのこと、もっと教えてくれない?」


 彩花は、エミさんへの興味と、理沙への理解を深め、真剣に彼女の言葉に耳を傾けた。



「エミさんは、私にとって、光のような姉の存在だった。

 いつも優しく接してくれて、私のクロノスによる孤独を、唯一癒してくれた」


「でも、ある日突然、エミさんは、何の前触れもなく私の前から姿を消したの。

 理由もわからず、ただ…いなくなった」


 理沙の瞳から、再び抑えきれない大粒の涙がこぼれ落ちた。

 それは、組織で育まれた幼い頃の孤独と、唯一の温もりであったエミさんとの突然の別れがもたらした深い悲嘆の表れだった。


 彩花への裏切りの罪悪感と、偽りから募った本物の友情。

 相反する感情の板挟みで揺れ動く彼女の心は、今にも断ち切られそうな張り詰めた糸のようだった。


「その後も、私はクロノスが決めた学校に通い、誰とも心を通わせることなく、ただ機械のように任務をこなす毎日だった」


「そんなある日、黒崎様に呼ばれたの。

 そして、『あなたに近づく』任務を与えられた。

 それは、私にとって、初めて自分の意志で『友達を作る』ことを選択できる、赦しのような任務だった」


「孤独だった私が、『彩花』という本物を得ることを許された。

 だから、私は…」


 理沙は、言葉を詰まらせ、衝動的に彩花を強く抱きしめた。


「ごめんなさい、彩花。

 こんな形であなたを騙していた。

 でも、あなたを失うことが怖くて…真実を話すことが、私にはできなかった」


 彩花との日々は、理沙にとって初めて味わう、本物の温かい時間だった。

 任務のために始まった関係のはずが、彩花の存在は、彼女の中で次第に、生きる目的として大きくなっていった。


 任務と友情の間で揺れ動く日々は、理沙にとって計り知れない苦しみであり、彩花を失うくらいなら、全てを捨ててしまいたいとさえ思ったこともあった。


 彩花は、理沙の温かい抱擁と、心臓の鼓動から伝わる彼女の心の痛みを感じた。

 彩花は、理沙の背中にそっと手を回し、優しく抱きしめ返した。


 彩花は、理沙の言葉の一つ一つを噛み締めながら、彼女の心の奥底にある、クロノスに染まらなかった本当の気持ちを感じ取っていた。

 理沙の目から流れる涙を見て、彼女がどれほど苦しみ、葛藤してきたかということを、彩花は深く理解した。


 彩花は、理沙の抱擁に包まれながら、静かに語りかけた。


「理沙、もういいよ。

 あなたの気持ちは、ちゃんと私に伝わったから」


「私も、あなたを、嘘のない親友だと思ってた。

 だから…」


 彩花は、言葉を詰まらせ、安堵と理解の涙を再び流した。

 それは、悲しみではなく、理沙への深い愛情と、全てを受け入れる理解の涙だった。


 理沙は、クロノスという絶対的な組織に縛られながらも、精一杯自分自身と向き合い、彩花との友情を守ろうとしていたのだ。

 二人の間には、言葉では表現できないほどの、深く、揺るぎない絆があった。


 それは、偽りから始まった関係かもしれない。

 しかし、その中で育まれた感情と絆は、紛れもなく、真実だった。




「彩花、あなたは、これからどうするつもりなの?」


 理沙は、涙の跡が残る彩花の瞳を見つめながら、試すように尋ねた。


 彩花は、理沙の抱擁からそっと離れ、一瞬の沈黙の後、決意を固めたように、揺るぎない力強さで答えた。


「私は、黒崎を倒す。

 そして、必ず母を見つける。

 それが、今の私の存在する使命だから」


 彩花の瞳には、かつての迷いや弱さは一切消え、鋼のような強い意志が宿っていた。

 理沙との再会、そして彼女が抱える深い葛藤を目の当たりにしたことが、彩花を精神的に大きく成長させていた。


 理沙は、彩花の言葉に、驚きと、そして胸が熱くなるような感動を覚えた。

 彼女は、彩花の真の覚醒を感じ、心から嬉しかった。


「わかった。

 私も、あなたと一緒に戦うわ。

 今度は、任務のためじゃない。

 あなたの本当の仲間として」


 理沙は、彩花の手を強く握りしめ、固く誓った。

 二人の瞳には、過去の全てを乗り越える、強い決意が宿っていた。

 それは、未来を切り開くための、新たな『裏切りのない絆』の証だった。


 …彩花は、理沙の言葉に深く頷き、そして、少し間を置いてから、最も核心に近い部分を慎重に尋ねた。


「理沙、前に話してくれた、子供の頃に両親が事故で亡くなったって話は…本当なの?」


 理沙は彩花の問いに一瞬だけ、凍りついたような表情を見せたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべて答えた。


「ううん、違うの。

 あの時も、組織からそう話すように言われていた」


「本当のことを言うと、母は私が産まれてすぐ亡くなったって聞かされてる。

 父は単身赴任で海外で働いてるってクロノスの人たちに言われてたけど、一度も会ったことがない」


「そして、ある日、父は死んだと一方的に聞かされただけ」


 彩花は理沙の衝撃的な告白に言葉を失った。

 理沙の、クロノスに全てを翻弄されてきた孤独な生い立ちに、彼女は深い同情と、自分の境遇と重なる共感を覚えた。


 理沙の涙の理由は、偽りの親友であることだけではなかったのだ。

 彼女もまた、クロノスという巨大な運命の歯車に噛み砕かれてきた被害者だった。


 二人の間の重い共感の沈黙を破り、部屋の外からかすかな話し声が聞こえてきた。


 それは、先ほど去ったセバスチャンと、もう一人の男性が交わす声のようだった。


 彩花と理沙は、即座に言葉を止め、その音に全神経を集中させた。


 次の瞬間、扉の外から、低いが絶対的な威厳を持つ声が響いた。


「セバスチャン、もう結構だ。

 彼女たちはこの私が相手をする」


 その声に、セバスチャンはわずかに戸惑い、短く躊躇うそぶりを見せたが、すぐに「畏まりました」と短く答え、足音が廊下の闇へと遠ざかっていった。


 セバスチャンは、その場を離れながらも微かに身震いした。

 黒崎剛一郎の兄。

 クロノスの真の指導者。


 一護の真意は何なのか?

 彼は本当に、主から受けた『恩寵』を尊重し、彩花たちを助けるつもりなのか、それとも…黒崎剛一郎さえも凌駕する別の思惑があるのか?


 セバスチャンは、全身の傷の痛みを無視し、背後の密室で繰り広げられるであろう展開を、最大限の警戒心をもって観察し続けた。


 彩花と理沙の間には、極度の緊張が走った。

 一体誰が、セバスチャンを退けて来るというのか?


 重厚なドアが、ゆっくりと、音もなく開かれた。


 部屋の照明が一瞬、不吉にちらつき、扉の向こうから差し込む光が、一瞬の闇を辺りに覆った。


 その暗闇の中から、漆黒のスーツに身を包んだ、背が高く、圧倒的な威厳のある男がゆっくりと姿を現した。

 まるで闇から生まれたかのような、冷徹な存在感だった。


 彩花は一度も会ったことがないはずなのに、なぜか胸の奥に『懐かしさ』を感じた。


 理沙もまた、その男に見覚えはないが、以前、黒崎剛一郎の部屋から聞こえてきた『もう一人の声』に似ていることに気づいた。


 男は、一歩、静かに部屋の中央へと踏み込み、冷たい眼差しで二人を見つめた。


「はじめまして、彩花さん、理沙さん。

 私は、黒崎一護と申します」


 彩花と理沙は、「黒崎一護」という名に戦慄し、思わず息を呑んだ。

 黒崎剛一郎と同じ姓は、この男がただの幹部ではないことを雄弁に物語っていた。


 彩花は驚愕と極度の緊張で体が石のように強張り、心臓が激しく、警鐘のように鼓動し始めた。


 理沙は反射的に彩花の少し前に出て、戦闘態勢に近い警戒心を露わにした。


 その瞬間、彩花の脳裏に、幼い頃の、長く封印されていた記憶の断片が、激しい光とともにフラッシュバックした。

 見知らぬ男の優しい微笑みと、温かい抱擁。それは、夢か幻か、それとも…避けて通れない過去の真実なのか?


「黒崎…剛一郎の…ご家族なんですか」


 彩花は、言葉を詰まらせながら、震える声で問い返した。


 黒崎一護は、その問いに揺るぎなく答えた。


「ええ、その通り。私は彼の兄です。

 そして、君たちが破壊を目論むクロノスという組織の、真の責任者です」


 一護の口元には、剛一郎とは似て非なる、全てを掌握した不敵な笑みが浮かんでいた。

 だが、その瞳の奥には、深い闇と、世界を焼き尽くさんとする燃え盛る炎のような激しい感情が渦巻いていた。

 それは、彼が背負ってきた『神』としての過去、そしてこれから成し遂げようとする『世界の再構築』への、絶対的な決意の表れだった。


 彩花と理沙は、彼の言葉に込められた重みと、底知れない力を感じ、思わず息を呑んだ。


 二人の心は、剛一郎の兄という事実、そしてクロノスの真のトップという、想像していた以上の真実に驚愕と混乱で渦巻いていた。


 部屋の中の空気は極限まで張り詰め、黒崎一護の存在は、まるでこれから始まる巨大な嵐を予感させるかのように、彼女たちに重くのしかかった。


 彩花と理沙は、自分たちの運命を決定づけるであろう、彼の次の言葉を、身構えながら待った。

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