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⑤影武者の甘い罠

「もしもし、涼太さん?


 あのね、ちょっと話したいことがあるんだけど…」


 電話口から聞こえてきた涼太の声は、いつもと同じ落ち着いたトーンだった。


 しかし、その響きにどこか冷たさが感じられて、胸がきゅっと締めつけられた。


 まるで、遠く離れてしまった人のように。


「彩花さん? どうかしたの?」


 彼の声は変わらず穏やかで、まるで何も知らないかのように問いかけてくる。


 私は言葉を詰まらせ、手元に置いたスマホの画面をぼんやりと見つめる。


 心の中では彼を問い詰めたい気持ちと、真実を知ることへの恐怖がせめぎ合っていた。


「あの…その…」


 自然と髪に手を伸ばし、指先で絡めていく癖が出る。


 けれど、言葉が出てこない。


 喉が乾いて、声がかすれてしまう。


「彩花さん? 本当に大丈夫?」


 涼太の声が再び耳に届く。


 いつもならその声に安堵するはずなのに、今はただ、胸が重く沈んでいく。


 意を決して、私は口を開いた。


「涼太さん、あなたは…」


 けれど、その一言で、喉はまるで鉛のように重くなり、続きがどうしても言えなかった。


 まるで全身が凍りついたかのようだった。


「もしもし? 彩花さん?」


 彼の声が遠くから聞こえてくる。


 眉を上げる彼の顔が思い浮かんだが、なぜかその笑顔は今、とても遠く感じた。


 スマホを握りしめる手が震えて、力が入らない。


 結局、何も言えないまま、私はベッドに崩れ落ちた。


 彼がどんな真実を隠しているのか、その言葉がどれほど私を傷つけるのか…想像するだけで怖かった。


 涙が頬を伝い、止まらない。


 電話はまだ繋がっていたけれど、私は何も言えず、ただ涙を流すことしかできなかった。


 どれほどの時間が経ったのかも分からない。


 震える手でそっとスマホを切ると、私は暗闇の中、一人きりで静かに泣いた。


 数日後、私は決意を固めた。


 真実から目を背けていても、何も始まらない。


 涼太の口から、すべてを聞かなければ。


 私は、彼にメールを送った。


「涼太さん、お久しぶりです。


 突然ですが、今夜お時間ありますか?


 どうしても、直接お話したいことがあります」


 返信はすぐに来た。


「彩花さん、もちろん。どこで会おうか?」


 私は、あの海辺のレストランを指定した。


 ドラマのラストシーンの場所。


 涼太が私を初めて連れて行ってくれた、思い出の場所だ。


 夜、レストランに入ると、涼太はすでに席に着いていた。


 彼はいつものように穏やかな微笑みを浮かべて私を迎えてくれた。


 だが、その笑顔を見ても、胸が重苦しい。


 彼の優しさに包まれていたあの頃の感情とは違う、自分がここにいる。


「涼太さん、あの…電話の件だけど…」


 私は震える声で切り出した。


 けれど、すぐに言葉が詰まる。


 髪を無意識に指で弄り、目を伏せたまま、なんとか続きを言おうとする。


 涼太は私の手を優しく包み込み、少し間を置いてから静かに口を開いた。


「実はね、彩花さん…」


 その瞬間、レストランの静寂を裂くように涼太のスマホがけたたましい音を立てた。


 テーブルの上で激しく振動するスマホ。


 表示された名前は「鬼塚」。


 彼の表情がみるみる曇っていく。


 眉を上げていた涼太の顔が、まるで違う人のように険しく変わった。


 心臓が嫌な音を立てて脈打つ。


「涼太さん…誰からの電話?」


 尋ねたかったが、言葉が喉の奥で引っかかり、声にならない。


 ただ彼の顔色をうかがい、不安が広がる。


「はい、もしもし…え?


 今ですか?


 わかりました、すぐに向かいます」


 涼太は電話を切ると、焦った様子で立ち上がった。


 その動きはいつもの落ち着いた彼とは違い、何かに追い立てられるように見えた。


「彩花さん、本当に申し訳ない。


 急用ができてしまって…」


 涼太は頭を下げ、彼なりの礼儀正しさを示す。


 それでも、その慌ただしさが私の心をざわつかせる。


「…大丈夫、気にしないで」


 私は、精一杯微笑みながら言ったが、心の中では疑念と不安が渦巻いていた。


 優しい涼太の言葉に頼りたい気持ちと、目の前で広がる違和感が入り混じっていた。


「必ず、また連絡するよ」


 涼太はそう言い残して足早にレストランを出て行った。


 彼の背中を見送りながら、私は深いため息をついた。


 残されたコーヒーカップにはまだ湯気が立っているが、その温かさは急速に冷めていく。


 まるで、彼との関係そのものが色褪せていくかのように感じた。


「一体、何が起こったんだろう…」


 私は呟きながら、心臓が激しく鼓動するのを感じた。


 冷や汗が手に滲み、不安が胸を締め付ける。


 誰からの電話だったのか、そして、なぜ彼はあんなに慌てて出て行ったのか。


 彼は私から何を隠しているのだろうか。


 窓越しに見えた涼太の後ろ姿は、どんどん遠ざかっていく。


 まるで、彼が私の手の届かない場所へ行ってしまうかのように、小さくなっていった。


 数日後、スマホの画面に涼太の名前が表示された。


 彼からの謝罪のメッセージだった。


 彼は急な仕事で海外出張になってしまったと説明し、帰国したら必ず連絡すると約束してくれた。


 しかし、以前のような親密さは感じられず、彼の言葉はどこかよそよそしかった。


 まるで、目の前にいた優しい彼とは別人のように。


 以前は、絵文字を多用し、冗談を交えて楽しげにやり取りしていたのに、今回のメッセージは事務的で冷たかった。


 短く、必要最小限の言葉だけ。


 それを見て、私は彼のことを信じたい気持ちと、どこか疑わしい気持ちが交錯するのを抑えられなかった。


「もしかしたら、私の過去を知ってしまったのかもしれない……」


 そう考えると、胸の奥に鈍い痛みが広がる。


 幼い頃に両親を亡くした私にとって、家の中に漂っていたバニラの甘い香りは、母の温もりそのものだった。


 涼太と出会った時、あの香りに導かれるように心が引かれていったのに、今はどうしてこんなに遠い存在に感じるのだろう。


 その時、ふとスマホの中の不明な差出人からのメッセージが目に留まった。


 差出人の名前も、メッセージの内容も、今までのどんな人とも異なる。


 電話で聞いたあの女の声が脳裏に浮かんだが、すぐに送信元のアドレスが違うことに気づいた。


 文体も挑発的ではなく、機械的で冷たく、まるで事実だけを無感情に伝えてくるようなメッセージだった。


 私はスマホを握りしめたままベッドに腰を下ろした。


 胸がざわつき、呼吸が早くなる。


 誰が私を見ているのだろうか?


 そして、なぜ今こんなタイミングで連絡をしてくるのだろうか?


 窓の外には、街の灯りが静かに揺れている。


 だが、その穏やかな夜景は、私の不安を少しも和らげてくれない。


 何度も窓の外を確認し、誰かが見ているのではないかと感じるたびに背筋が冷たくなった。


「もしかして、涼太さんも…」


 その考えが頭をよぎった瞬間、心臓が一気に跳ね上がった。


 桐谷蓮のストーカーが、私を追い詰めようとしているのではないか?


 それとも、涼太を利用して私を混乱させようとしているのか?


 不安が一層深まり、手の中でスマホが汗ばんでくる。


 涼太は何も知らないのか、それとも知っていて私に何かを隠しているのか?


「落ち着いて、彩花。


 まずは、このメッセージの送り主を突き止めることが先決だ」


 私は深呼吸をして自分にそう言い聞かせたが、心の中で芽生えた恐怖は、すぐには消えなかった。


 部屋の中を歩き回り、何度も窓の外を確認しながら、スマホを強く握りしめる。


 心臓の鼓動が耳元で響く中、私は一つの答えに辿り着いた。


「この謎を解かない限り、私は前に進めない」


 そう決意し、静かな夜に包まれた部屋を後にした。


 江ノ島の海は、今日も穏やかに波音を立てていた。


 しかし、その音を聞いても、私の心は少しも落ち着かなかった。


 まるで、私の胸の中に嵐が吹き荒れているように、不安と疑念が渦を巻いていた。


 天女と五頭龍の伝説のように、美しい風景の裏には隠された真実が待ち受けている。


 私がその真実にたどり着くまで、どれほどの時間がかかるのかはわからない。


 だが、私はその道を歩み続けなければならない。


 たとえそれがどれほど苦しいものであっても。

最後まで読んでいただきましてありがとうございます!


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