5話【執着の正体 ── 理想の顔に隠された「引退した男」と「謎の女」】
カフェを出たあと、夏の熱気がふわりと頬を撫でた。 夕方なのに空気はまだじんわりと暑く、街の雑踏の中にいるはずなのに、どこか自分だけが遠い場所に置き去りにされたような心細さがあった。
──それでも夜になると、私は抗うようにまたスマホを手に取っていた。
涼太について検索し、SNSを遡り、名前でヒットするものを一つずつ確認する。 しかし、手がかりらしい情報は何一つ出てこなかった。
まるで、存在自体が“完璧すぎる空白”みたいに。
情報がなさすぎるという、その事実こそが、涼太の「完璧な偽装」を裏付け、逆に疑念を強めていく。
彼はいったい──誰の理想を演じているの?
何度目かの検索結果を眺めていたとき、スマホが振るえた。
画面には、理沙からのメッセージが表示されていた。
『ねぇ彩花、今ニュース見た? あのIT社長の結婚詐欺事件……被害者、全員気づくの遅かったって。 やり口めちゃくちゃ巧妙だったらしいよ』
リンクが貼られている。 開こうとする指が、わずかに震えた。
記事には、詐欺師の手口として、「ターゲットの過去のSNSを徹底的に分析し、理想の恋人像を演出し、外見までも合わせてきた」と書かれていた。
胸の奥で、冷たいものがスッと底まで落ちていく。
バニラの香り、桐谷蓮に似た外見、そして、心の傷を守るという甘い言葉。すべてが、この記事と残酷なまでに一致していた。
私は小さく呟いた。
「……もしかして、涼太さんも──私を、ターゲットにしているの?」
その言葉は、思った以上に重く、そして、もう後戻りできない決定的な確信を伴っていた。
呼吸が浅くなり、胸の奥で心拍数が異常なスピードで跳ねているのがわかる。スマホの光が部屋の隅々まで行き渡っているように感じられ、デジタルな情報全てが、私を監視している装置のように思えた。
スマホの画面が夜の部屋に淡く光り、静寂の中で私の鼓動だけがやけに大きく響いていた。
──次に会ったとき、私は彼を、「運命の人」ではなく、「私を騙す詐欺師」として見られるだろうか。
胸の奥の渦は、もはや単なる疑念ではなかった。
それは、知ってしまった真実と、抗い難い愛の渇望が混ざり合った、制御不能な愛憎の渦だった。
これまで誰にも理解されなかった趣味や、幼い頃の夢を、彼は完璧に肯定してくれた。彼の優しさは、私にとって欠けていた「承認」そのものだった。その救いのように感じたロマンスが、全てデータベースから抜き出された偽物だとしても、彼の優しさから手を離す勇気が持てなかった。
私は、嘘だとわかっている、あの甘い世界に、もう一度足を踏み入れるのだろうか。
答えは、夜の闇に吸い込まれていった。
私は、胸の奥にひっかかった小さな刺をどうしても無視できなくなり、ついに――桐谷蓮について調べることを決めた。
あの夜からずっと、私の中で何かがざわついていた。 あの外見の「似ている」という偶然だけでは片づけられない、もっと深い、不気味な共通点。それが、ロマンスの最後の砦を揺さぶり続けていた。
不安を抱えたままでは、前に進めない。 知ることで残された幻想がすべて壊れるかもしれなくても、それでも知りたい。そう思う痛みを伴う覚悟に従い、私はSNSを開いた。
検索バーに「桐谷蓮」と打ち込み、Enterキーを押す。 その瞬間、心臓が大きく跳ねた。
すぐに複数のファンアカウントが表示された。 アイコンには、今でも若い頃の彼の写真を大切そうに飾る人たちがいて、投稿には「懐かしい…」「今でも忘れられない」「あの頃に戻りたい」といった切ない言葉が並んでいる。 私だけじゃない。 多くの人が、彼の完璧な美貌を、彼の存在そのものを求め続けていた。
その光景に胸がわずかに温かくなる。 けれど、その温かさは、凍りつく事実の前には無力だった。
次の瞬間、私は決定的な事実を知った。
桐谷蓮は――5年前、突然の芸能界引退をしていた。 理由は非公開。 どこにも明確な説明はない。
唐突な引退。 説明されない理由。 残された空白。 涼太のデジタルな不在と重なる、不穏な影が差し込む。 背筋がぞわりと震えた。
私はさらに指を動かし、過去の投稿をさかのぼった。 知るべきではないパンドラの箱を開けている気もした。 けれど、目をそらすこともできなかった。 ページをスクロールするたび、心の奥で鉛のような重りが沈んでいく。
そんなときだった。
ひとつの記事が、まるで私を運命の淵に引きずり込むように目に飛び込んできた。
「桐谷蓮、電撃引退の真相は? 関係者が語る、異常な執着」
タイトルを見た瞬間、心臓が大きく脈打つ。 クリックする指先が冷たく震えた。
記事には、信じがたい内容が書かれていた。 桐谷蓮は、かつて「バニラ」というハンドルネームの女性から異常なまでの執着とストーカー行為を受けていたという。彼女は彼の行動を四六時中監視し、仕事現場まで押しかけ、周囲のスタッフを脅す言動もあったらしい。そして――その女から逃げるために、桐谷蓮は芸能界を引退した。
私の指が、ある一文で止まった。記事が引用した、その女性「バニラ」がSNSに執拗に書き込んでいたとされるフレーズ。
『蓮は、私の欠けた魂を埋めるための最後の一片なの。私が出会うために、彼は生まれてきた』
――嘘でしょ。 それは、数年前、孤独に押しつぶされそうだった私が、誰にも見せない鍵付きのアカウントで一度だけ吐き出した言葉と、一言一句、全く同じだった。
胸の奥がきゅっと締まった。嘘であって欲しい。どうか噂であって欲しい。そう願った。 しかし、さらに記事を読み進めると、決定的な写真が掲載されていた。
男の隣に立つ、黒髪ロングの女性。 彼女の顔は端整だったが、その瞳は異常なほど潤みがなく、レンズの向こう側ではなく、隣の男性の首筋にある所有権の印を確かめているかのようだった。冷たい、底の見えない笑み。視線はカメラではなく――彼、桐谷蓮を所有物として見つめているかのような、その表情が、私の胸にチリチリとした不安を植え付ける。
そのとき、あまりにも恐ろしい、決定的な結論が電流のように頭を駆け巡った。
「涼太さんは、私の憧れを完全に把握した上で……。それどころか、私の過去のすべてを、この事件の犯人に塗り替えて、私に演じさせているの?」
思わずスマホを握る手に力が入る。いや、まさか。そんなはずはないと否定する理性が、声にならない悲鳴を挙げた。 もし、私の心の聖域である「憧れ」や「秘密の独白」までもが、彼に戦術として模倣されていたとしたら?
背筋に、氷水を流し込まれたような寒気が走る。 涼太の完璧な優しさは、私の最も深い弱点を狙った、意図的な虚像だったのだ。
考えるだけで、息がうまくできなくなる。 その夜、私は震える身体を抱きしめるようにしてベッドに潜り込んだ。心臓の音が耳の奥でドクドク鳴り続ける。
涼太さんの優しさも、笑顔も、言葉も。すべてが、この巨大な嘘の上に成り立っている気がした。
「……怖い」
小さくつぶやき、毛布を頭からかぶる。けれど、どんなに目を閉じても不安は消えない。 ――誰かに、この恐怖すらも見られている。 そんな感覚が、夜が深まるほど強くなっていく。
私は、偽りの運命を自覚しながらも、この美しい罠から逃げられないことを悟り始めていた。 その時、枕元でスマホが短く、そして冷たく震えた。
『彩花さん、まだ起きてるんですね。バニラの香りは、よく眠れますよ』
――メッセージの送り主は、涼太だった。
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