表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
43/64

㊸偽りの証拠と覚醒の光:裏切りが生んだ希望

「これが…父の隠し場所…」


 彩花は、金庫の前で小さく、しかし深く息を呑んだ。

 その瞳は、恐怖ではなく、父への愛情と悲しみでほんのり震えていた。

 かつて父の背中を追いかけた幼い日の情景が、白い息のように胸の奥から立ち上る。


 蓮は黙って金庫のダイヤルに手を置いた。

 しかし指先はぎこちなく、汗で滑り、焦りだけが回転を加速させる。


「なんで開かないんだよ…ッ!

 ちくしょう!」


 金属の摩擦音が虚しく、焦燥を煽るように響き、蓮の呼吸は荒くなる。

 胸の奥で渦巻く“ミスターXへの憎悪”と“黒崎への断ち切れない情”、そして“母の最期の言葉の重さ”が、彼を内側から鋭い痛みで締めつけていた。



 その時、彩花が極度の緊張で震える手で、カバンから一冊の古い革製の手帳を取り出した。


「…父の、形見」


 手帳の革は時間の跡を深く、静かに吸い込み、触れるたびに、彼が残した体温の残滓が微かに蘇る。


 パリッと、ページを捲る乾いた音が、静寂の中でやけに大きく、決定的に響く。


 ──そして、あるページで指が止まった。


 それは、幾何学模様のようでいて、どこか優しさを含む、奇妙で神秘的な記号列。

 理知と愛情が矛盾なく同居した、父にしか描けない知性の温度だった。


「……この配置……まさか」


 胸が熱く、運命的に脈打つ。


 その瞬間――


「彩花。

 もしもの時は……

 “段階”を追いなさい。

 君なら必ず辿り着ける」


 最期に交わした父の声が、耳元で鮮烈に、炯々と蘇る。

 彩花の視界が揺れ、記号の“段差”が電光石火の速さで意味を帯び始めた。


 記号は、素数を並べた階段のように上下にずらされて並んでいた。


 彩花は息を詰める。


「……これ、素数の……桁の“階段”……?」


 父がよく語っていた。


「素数は宇宙の呼吸だ。

 段階を追うことで、世界の秘密が見える」と。


 脳が一気に熱を帯び、記号列が、数字へ……そして厳密な暗号へと変換されていく。


 彼女の唇が震えながら動く。


「蓮……これが答えだよ。

 104729、1299709、15485863。

 “階段素数”……お父さんが、命の全てを懸けて残した最後の鍵」



 蓮は目を見開き、感謝と決意を込めて静かに頷いた。


 ダイヤルへ指を添えた瞬間、部屋の空気が絶対零度まで凍りついたように動きを止める。


 カチ……  カチカチ……


 金属が軋む音が、三人の命の鼓動のようにやけに生々しく響く。


 最後のブロックを入力する時、三人の呼吸は完全に、空間から消えていた。


 ――カコン。


 重いロックが外れ、低い金属音が、闇の中に沈む刃のように響いた。


 わずかに開いた扉の隙間から、冷たい青白い光が、まるで真実の魂のように漏れ出す。


「……開いた」


 彩花の声は、安堵と、感情を堪えた震えに包まれていた。


 蓮が囁く。


「……この数字、博士は絶対に遊びじゃ使わない。

 これは……プロメテウス計画、そしてクロノスそのものの核だ」


 金庫の中には、ぽつりと、小さなUSBメモリが置かれていた。

 無機質な金属の塊なのに、まるで父の想いそのものが宿っているように温かい。


 彩花は震える指でそれを手に取った。

 父の天才と覚悟と、命を賭した真実が、ようやく彼女の掌に降りてきたのだった。


 蓮はそんな彩花の肩にそっと手を置き、深い眼差しを向けた。


「彩花…お父さんは、君を、この瞬間を信じていたんだ。ずっと」


 その言葉に、彩花の瞳がわずかに潤む。

 二人の間に、裏切りすらも乗り越える、強い絆が生まれた瞬間だった。



 しかし――その温かな希望の温度を打ち消すように、背後の闇から、不気味な機械の軋みが響き始めた。


 ガガガ……ッ。


 冷たい金属が地面を這うような、低い駆動音。

 天井の配管が震え、床板がかすかに揺れる。


 風見の表情が、血の気が引いたように固まる。


「……最悪だ。

 追いつかれた――!!」


 森の静寂を鋭く破り、無数の黒い影がゆっくりと姿を現し始めた。


 真実の鍵は手に入れた。

 だが、生きて持ち帰るための、絶望的な第二ラウンドが今、開始された。





 カチッ…カチッ…カチッ。


 静かな書斎に響くその規則音は、ただの足音でも金属音でもなかった。

 それは「ミスターX」の意志を帯びた──侵入者の、冷徹なリズム。

 風見の耳に、それは逃れられない“死のカウントダウン”として届いた。


「……来たな」


 銃口を低く構えながら、風見はほんの一瞬だけ目を閉じた。

 まぶたの裏に、過去の悔恨と血の記憶、そしてあの日の奥野博士の姿が鮮烈に滲み上がる。


『頼んだぞ、風見さん……娘を……頼む……未来を頼む……』


「博士……私は、必ず果たします。

 あなたの娘も、あなたの遺志も……絶対に、死なせない。

 私の命に代えても」


 小さく呼気を吐くと、風見の瞳に獣のような、猛々しい決意の光が宿った。



 その瞬間だった。


 ギィ……ギギギ……


 背後の通路から、骨が軋むような不気味な機械音が空気を裂いた。


「ッ!」


 風見は反射的に書斎を飛び出し、廊下の角で即座に姿勢を低くした。


 廊下の先──薄闇の中、感情を殺した複数のプロメテウスが鋼鉄の骨のような脚で床をかき、その後方には、愉悦を噛み殺したような、爬虫類を思わせる笑みのセバスチャンが立っていた。


「来てしまいましたねぇ、風見さん。

 奥野博士の遺品探しとは、ご苦労なことです」


 ヘドロのような嫌悪感が風見の背筋を走った。


「蓮!

 彩花さん!

 逃げろ!!

 ここは私が──必ず食い止める!!」


 怒号と同時に、風見は三点バーストでプロメテウスの前列を精密に撃ち抜く。


 ダダンッ! ダン!


 火花が飛び、壁が砕ける。

 だが──プロメテウスは熱も痛みも感じない。

 痛覚を削ぎ落とされた“量産型の死”が、風見へ雪崩のように襲いかかる。



 蓮は振り返り、置いていけないという思いを込めて、一瞬だけ歯を食いしばった。


 彩花は震えながらも、託された使命の重さを思い、蓮の腕を力強くつかんだ。


 だが、蓮は彼女の瞳を真っ直ぐ見た。

 その言葉には、憎しみでも恐怖でもなく──未来への絶対的な使命が宿っていた。


「大丈夫だ。

 風見さんは僕たち以上に強い。

 彼を信じろ。

 僕たちが『データ(未来の鍵)』を外へ出すこと──それが博士の最期の願いだ」


 彩花は唇を強く噛んだ。

 迷いを振り切るように、二人は隠し扉へ駆け込む。

 風見の激しい銃声が、彼らの背中を命を懸けて押すように響いた。


 扉が閉まる直前──


「頼んだぞ……!!

 必ず、生き延びろ!」


 風見の魂を削るような叫びが、薄い隙間から飛び込んできた。


 扉が閉じると同時に、風見の周囲の世界は“地獄の戦場”へと変わった。




 プロメテウスの冷たい鋼鉄の刃が閃き、風見は紙一重の極限でかわしながら、肘、膝、銃床、すべてを研ぎ澄まされた武器に変えて殴りつけた。


 ひとり、またひとりと床へ沈む。

 だが──敵は減ったように見えて、実際は“無限に湧き出す、終わりがない”。


 風見の肩が裂け、赤い血飛沫が噴き出す。

 呼吸は熱く荒く、視界の端が絶望の色に白く揺れ始める。


「まだだ……私は倒れん……!

 博士への誓いを……!」


 最後の一発を装填し、風見は突進してきた黒崎の部下の最も致命的な箇所に照準を合わせた。


 パンッ!


 男が崩れ落ちる。

 しかし──その勝利は、空虚な一瞬だった。


 背中に、獣の牙のような鋭い痛みが、脊椎を砕くように貫通した。


「……っぐ……!」


 プロメテウスの刃が、背骨の際、命の核心まで届いていた。

 風見の膝が重い音を立てて床に落ちる。


 視界が揺れ、音が深海の底へ沈むように遠のく。


 それでも、彼は最後の力で声を絞り出した。


「蓮……彩花さん……あとは……未来を頼む……」


 その声はかすかで、しかし、愛と誓いと、二人への絶対的な信頼という、すべてがあった。


 風見が血の海に倒れ込むと同時に、蓮と彩花は暗い通路の先へと走り出す。


 風見が、命という時間を賭けて繋いだ “未来” を、二人で握りしめて。



 蓮と彩花は、森の小道を息を切らしながら走り抜け、何度も後ろを振り返った。

 さっきまで風見が倒れていた場所──そこには、もう彼の影すら、一欠片も残っていない。


 まるで最初から存在しなかったかのように。


 残されたのは、乾いた血痕と、プロメテウスたちの無機質な足跡だけだった。


 胸の奥が、抉られたようにちぎれそうに痛む。

 二人は、込み上げる激情と罪悪感を押し殺すように車へ飛び込んだ。


「風見さん……嘘だ」


 彩花の声は、震え、破れ、夜気に溶けていった。

 冷たい風が窓から流れ込み、頬を濡らした熱い涙を乾かしていく。

 外の景色は光の帯となり、彼女の視界を悲しみで滲ませた。


 蓮は、ハンドルを掴む指に血管が浮き出るほど力を込め、アクセルを底まで押し込んだ。

 エンジンが怒りのように吠え、黒い闇を切り裂くように加速する。


 強烈なGが体を押し付け、シートが背中を冷たく受け止めた。

 夜の森が流れ去る速度は、逃げるというより“存在そのものが追い立てられている”ようだった。


「必ず……風見さんを取り戻す。

 そして、クロノスを終わらせる」


 蓮の声は震えていたが、その震えは恐怖ではなかった。

 風見の犠牲が作り上げた、心の奥の“怒りの核”が、彼を突き動かしていた。


 彩花は、涙で濡れた目を蓮に向け、決意の重さをもってゆっくり頷いた。


 二人の胸には、風見への感謝、失った痛み、救えなかった悔恨、そして──全てを巻き込んだクロノスへの、静かで、冷たい憎しみが燃えていた。


 蓮は言葉を返さなかった。

 ただ彼女の手を潰れるほど強く握った。

 その握りには、自分自身を保つための必死さすら滲んでいた。


 プロメテウス──あいつらは何者なのか?

 世界を支配するため?

 それとももっと別の目的が……?


 蓮の胸に、風見が消えた“異様な速さ”が刺さったままだった。

 まるで“生きたまま連れ去られた”ような……そんな嫌な気配。


 車は山道を登り、人里離れたモダンだが、どこか寂しい別荘へとたどり着いた。

 隠れ家──蓮が俳優時代、クロノスから逃れるために使っていた最後の聖域だ。


 窓から漏れる柔らかな灯りだけが、二人を絶望的な現実から引き戻そうとしていた。



 車を降りたその瞬間、玄関の扉が静かに、しかし予期したように開いた。


「おかえり、蓮

 ……彩花さんも」


 穏やかな声。

 現れたのは、レジスタンスの仲間・悠斗だった。


「悠斗……」


 蓮の肩から張り詰めていた全ての力が抜けるのが見えた。

 一歩、帰還した安堵。

 その直後──


「風見さんは?」


 悠斗が周囲を探し、瞬時に顔が固まった。

 冷たい、重い沈黙が、三人の間に降りた。


 彩花が、喉の奥から血を絞り出すように真実を告げた。


 悠斗は言葉を失い、悲しみを押し殺すように目を閉じ、長く息を吐いた。


「……そうか」


 その一言に、全ての悲しみと、彼を救えなかった悔しさと、これから始まる戦いの重みがのしかかった。


「風見さんの犠牲は……絶対に無駄にしない。

 さあ、中へ。

 話すべきことが山ほどある」


 家の中へ入ると、古い木の床が軋んだ。

 暖炉の火がやさしい音を立て、薪の香りが満ちていた。

 テーブルには、湯気を立てるマグカップが三つ。

 まるで誰かが帰りを予期し、一つの席を空けているかのように。


 悠斗は二人にコーヒーを差し出し、静かに言った。


「風見さんから、お前たちが黒崎邸へ向かったと聞いていた……まさか、こんな痛ましい結末になるとは」



 蓮は深く、長い呼吸の後、喉の痛みを無視して語り始めた。

 エリカの裏切り。

 プロメテウスとの死闘。

 風見の覚悟と、命を投げ出した最後の瞬間。


 悠斗はただ真剣に聞き、時折、感情を制御するように震えるように頷いた。


「……風見さんは、最後まで自らの誇りを失わなかったんだな」


 その声には、深い敬意と悔しさと──これから始まる苛烈な戦いの覚悟が滲んでいた。


「そして……これが、私たちが命懸けで持ち帰ったものです」


 彩花は、熱と震えが残る手でUSBメモリを差し出した。

 その小さな機械片が、彼女の父の最期を刻み、風見の犠牲を背負い、そして世界の命運すら握っている――そんな途方もない重さが、指先からじわりと伝わってくる。


 悠斗はその震えに気づき、重々しく受け取った。

 USBを差し込むカチリという小さな音さえ、場の空気を切り裂く刃のようだった。


 映し出された画面に、膨大で難解なデータが流れ込む。


「……これが、プロメテウス計画の“核”か」


 悠斗の声は低く、無意識に震えていた。


「ああ。

 これでクロノスの野望を止められるかもしれない」


 蓮の瞳には一筋の、確かな希望の光が宿っていた――その一瞬までは。


 次にモニターへ視線を戻した悠斗の表情が、急激に血の気を失い、険しさを帯びる。


「……いや、これは……想像を絶するまずさだ」


「え?」


「どういうこと?」


 蓮と彩花が同時に、不安に押し出されるように身を乗り出す。


 悠斗は言いづらそうに、しかし真実を隠すつもりもなく言った。


「このデータは……」



「データの一部、ファイル名が暗号化されている。

 ――『Λ−04』。

 クロノス内部でも最上位の人間しかアクセスできない、禁断の領域だ。

 つまり、この中には……黒崎どころかクロノスすら完全には制御できていない“未知の何か”がある」


 その言葉に、彩花の心臓がひくりと、寒気を感じて跳ねた。


「そんな……プロメテウス以上のものが……父のデータに?」


「あり得る。

 そして、風見さんを奪った連中が異様に組織的だった理由も説明がつく。

 クロノスはすでに、“別の何者か”――つまり『ミスターX』と、より強固なレベルで手を組んでいる」


 彩花の喉が凍りつき、音を失う。

 蓮は拳を握りしめ、テーブルにその衝撃をぶつけた。


「……黒幕がいる、ってことか。

 最初から」


「ああ。

 クロノスを動かしているさらに上位の意志――今回のデータは、その影の部分を刺激してしまった可能性が高い。

 奴らは必ず、全ての犠牲を払ってでも、このUSBを奪い返しに来る」


 部屋の暖炉の火が、パチ、パチ、と不規則に音を立てる。

 静寂が、まるで分厚い鉛のように恐怖を増幅させていく。



 悠斗は二人をまっすぐに見た。

 その瞳には、失った仲間への哀悼と、生者への責任が宿っていた。


「蓮、彩花さん――これから先、お前たちは『風見さんの死』では済まされない、世界的な規模の危険に巻き込まれる。

 それでも覚悟はあるか?」


 二人は一瞬も、微塵も迷わなかった。


「ある。

 必ず風見さんを取り戻す」


「父の遺したものを……命に代えても、絶対に守る」


 その答えに、悠斗の瞳が揺れた。

 ほんの一瞬だけ、深い哀しみがよぎる。


「……彩花さん。

 お父さんは、本当に勇敢な人だった。

 そして……あなたに伝えなければならない“もうひとつのこと”がある。

 これは、博士の最後のメッセージだ」


「え……?」


 彩花が戸惑うと同時に、蓮も顔を上げる。

 だが悠斗は、自らの感情を冷徹に押し殺すように地図を広げた。


「……その話は後でだ。

 まずは作戦だ」



 地図の中央に、威圧的な黒い建造物が描かれている。


「ここがクロノスの中枢施設――『オメガ・タワー』だ。

 プロメテウス計画の母巣であり、Λ−04のコアもここにあるはずだ」


 蓮が息を呑む。


「そんな難攻不落の要塞、どうやって侵入するんだ?」


「風見さんが残した情報、そして……蓮の“特別な力”を使う」


「力……僕の、『あれ』か……」


「制御できなくてもいい。

 俺が地獄の訓練をする。

 だが――絶対に気を抜くな。

 このUSBには、世界の秩序を変えてしまう可能性すらある情報が入っている」


 悠斗は画面を指さす。


「もし『Λ−04』が解放されれば……クロノスだけじゃなく世界中が敵に回る。

 黒幕は、まさにその混乱と破壊を待っている」


 彩花の背筋を、冷たい汗がひとすじ、ゆっくりと滑り落ちた。

 黒幕はまだ全貌を見せていない。

 風見を奪い、父を葬り、クロノスを動かし、プロメテウスを生み――その底知れない企みは、まだ始まったばかりなのだ。


 蓮は立ち上がった。


「だったら……行こう。

 風見さんを取り戻して。

 父さんの真相を暴いて。

 そして――この世界の影、黒幕を引きずり出す」


 彩花も立ち上がる。

 その眼差しは、光を求める炎だった。


「私も行く。

 絶対に、逃げない」


 悠斗は二人の燃えるような決意を静かに受け止めた。


「……よし。

 では今から、“本当の戦い”の計画を始めよう」


 その瞬間。

 暖炉の火が、不自然なくらい鋭く、激しく弾けた。


 まるで『ミスターX』の視線そのものが、暗闇から彼らを見つめているかのように。





 悠斗は、USBメモリを指先で転がしながら、何度か重い呼吸をした。

 画面にはプロメテウスの研究データが整然と並んでいる。

 だが彼の視線は、その中にひとつだけ浮く“異質で、不気味なフォルダ名”に吸い寄せられていた。


《PRM-0α》


 蓮と彩花は、そのフォルダ名の意味も、重さも分からない。

 ただ、悠斗の表情が――「全ての哀しみと恐怖を受け入れた人間の顔」に変わっていくのだけは分かった。


「…蓮、彩花さん。

 この中に、プロメテウスの“真の正体”がある」


 声は低く沈み、運命の瞬間を告げるようにどこか震えていた。


 彩花の心臓が喉元で跳ねる。

 蓮も無意識に息を呑む。


 悠斗は決然とクリックし、フォルダを開いた。



 そこに表示された“たった1枚の写真”を見た瞬間――彩花の世界が、音も光も失い、崩壊した。


 白衣の男が、優しく、穏やかに微笑んでいる。

 その表情。

 その眼差し。その癖のある前髪。


 幼い頃、夜中に泣き出した自分を、何度も抱きしめてくれた――紛れもない、愛する父の顔だった。


「……嘘……でしょ……なんで……」


 彩花の声はちぎれ、膝が支えを失ったように砕けるように床へ落ちた。

 蓮が支えたが、彩花の体は制御不能なほど冷たく震え続けている。


「プロメテウスの正体は――」


 悠斗は苦しげに、絞り出すように言葉を押し出した。


「奥野博士。

 彩花さんのお父さんだ」


 部屋の空気が、一瞬で数倍の重力を増したように沈み込む。

 彩花は目を大きく見開き、涙も声も出せない。

 ただ、胸の奥で何かがゆっくりと、確実な音を立てて崩れ落ちていく感覚だけが残った。



「父さんが……世界を脅かす側にいたって言うの?」


「違う!」


 悠斗は否定するように強く首を振った。


「博士は、クロノスの闇を暴くために潜入したんだ。

 クロノスの暴走を止めるために。

 彼はプロメテウスを『完成させるフリをして』利用する側だった。

 だが――」


 その先を言うことは、彼もまた己の無力さに苦しいのだろう。


「……バレたんだな。

 そして、殺された」


 蓮が全てを悟ったように低く呟いた。


 悠斗は、静かに頷いた。


「博士は、最期まで内部で戦った。

 そして――このデータだけは死守した。

 これは彼の遺言であり、世界に残した“反逆の証”だ」


 その言葉を聞いた瞬間、絶望で曇っていた彩花の瞳に再び、鋭い光が宿った。


 涙に濡れた目で、スクリーンを見上げる。


「父さん……。

 あなたは、ひとりで……こんな過酷な戦いを……」


 震える指で画面に触れ、彼女は全身全霊で深く息を吸った。


「……父さんの遺志、私が継ぐ。

 クロノスを止める。

 プロメテウスの歪んだ計画も。

 全部、私の手で終わらせる」


 その声には、これまでにない、鋼のような鋭さがあった。


 蓮はその横顔を見つめ、自らの使命を再確認するように静かに誓う。

 風見の犠牲も、奥野博士の死も、絶対に無駄にはしないと。


「悠斗。

 僕たちはもう迷わない。

 全部を終わらせるために……どんな地獄でも前へ進む」


 悠斗もまた、二人の覚悟をしかと受け止めたように頷いた。


「分かった。

 なら、ここから先は……本当に地獄だ。

 覚悟してくれ。

 奥野博士が命を懸けて止めようとした“本当の計画”が、もう僕らのすぐそこまで来ている」


 その瞬間、別荘の窓ガラスを低く、不穏に震わせるような微かな振動が走った。


 まるで――黒幕が“彼らの覚醒”に気づき、静かに、しかし確実に動き出したかのように。




 一方その頃、黒崎邸の湿気を帯びた地下深く──石壁の向こうで、風見の途切れ途切れの荒い呼吸だけが、今にも消え入りそうな生命の証として響いていた。


 床に倒れ伏した風見へ、プロメテウスの一員が躊躇なく刃を振りかざす。

 その瞬間。


「待て」


 低く、氷のように鋭い声が空気を切り裂いた。


 刃が微かに震えて止まる。プロメテウスの構成員が振り返ると、そこには夜の闇そのもののような黒い影のように立つセバスチャンがいた。


「……セバスチャン。

 なぜ止める?」


 上階の研究室から、黒崎の声がスピーカー越しに響いた。

 その声には感情という名の熱がほとんどなく、まるで遠くから運命を定める“神”のようだった。


「奴は裏切り者だ。

 生かす理由などないだろう」


「しかし──彼には、まだ『商品価値』があります」


 セバスチャンは静かに答えたが、喉の奥で言葉がわずかに震えた。

 風見の苦悶に歪んだ表情が視界に入ると、セバスチャンの胸に、ひどく冷たい罪悪感が走った。


 過去の、道具として使われた自分と重なる──それが余計に彼を苛んだ。


(……俺もかつて、あの男の都合でこうして利用されていた)


 その記憶が、骨の奥を軋ませる。



「商品価値、だと?」


 黒崎の声が、獲物を前にした愉悦を含んだ低い音へと変わる。


「はい。

 風見は、かつて我々が育て上げた『最良のやいば』でした。

 戦闘能力、潜入能力、情報収集……どれをとっても超一流。

 そして──蓮と彩花に対して、誰よりも深い情が残っています」


「ほう」


 黒崎はすべてを見透かしたように興味深げに喉を鳴らした。


「彼の『情』を利用すれば……蓮と彩花を確実にこの屋敷に誘導できます。

 二人をここに呼び寄せれば──逃がさず一気に仕留められる」


 セバスチャンは言葉を切ったが、黒崎はすでに全てを理解していた。


「つまり、お前は風見を『生きた餌』にするつもりなのだな」


「……はい」


 セバスチャンの声は明確に揺れていた。

 自身の口から発する言葉が、鉄の味のする罪悪感となって喉を締め付ける。

 風見を見下ろした視線の奥に、贖罪を求めるようなわずかな迷いが溺れそうに揺らめく。



 黒崎は短く黙り込んだのち、凍てつくような声でゆっくりと言った。


「よかろう。

 お前の案を採用する。

 蓮と彩花は、必ずこの手で始末しなければならん。

 ──失敗すれば、お前も風見と同じか、それ以上の末路だ」


 その言葉は、熱された刃より鋭い冷たさでセバスチャンの胸に突き刺さった。

 仮面のような顔を保ちながらも、彼の瞳には拭いきれない迷いの炎があった。


「……かしこまりました」


 深く頭を下げた瞬間、背中に冷たい汗が滝のように流れる。


 忠誠か、罪か、過去か、贖罪か──セバスチャンの心は、氷と炎が同時に燃えるような激しい揺らぎを見せていた。


 倒れた風見が微かに呻く。

 その音が、まるでセバスチャンの魂に向かって


「お前は、この地獄で、どちらの側に立つ?」


 と問いかけてくるようだった。




 黒崎邸の庭は、薄い霧をまとったように静かだった。

 子どもが寝息を立てるような、柔らかな、しかしどこか冷たい月明かり。


 しかし黒崎の胸に広がるのは、その幻想的な穏やかさとは正反対の底知れないざわつきだった。


 脳裏に――鋼の意志で封じ込めたはずの光景が、容赦なく蘇る。


 まだ無邪気だった幼い蓮。

 その隣で、同じ景色に屈託なく笑っていたエリカ。


 無邪気な二人が雪を投げ合い、笑い声が凍てつく冬空に吸い込まれていく。


(なぜだ。

 どうして、あのとき私は止められなかった…?)


(止めれば、こんな未来にはならなかったと、私の魂が叫んでいる)


(蓮…お前は、本当に“私が壊すべき存在”ではなく、“私が守るべき息子”なのか…?)


 黒崎は胸の奥で、静かに、しかし激しい痛みとともに、自分自身を問い詰めた。




 一方その頃。

 蓮は一人、隠れ家の裏庭に立っていた。

 冬空は透明な水晶のようで、痛いほど綺麗だった。


 星々は、まるで氷の中に閉じ込められた光の粒のように冷たく瞬いていた。

 蓮の吐く息だけが白く、儚く上がり、静寂に混ざって消えていく。


 目を閉じた瞬間──胸の奥の、長年触れてはいけないとされていた古傷に、冷たい夜風が吹き込んだ。


 優しい母の声。

 妹の笑顔。

 そして、人生を奪ったあの日の黒い車。


 蓮のまつげが震え、痛切な声にならない言葉が空に溶けた。


「……お母さん」


 その瞬間、脳裏に“全てを覆す”忘れていたはずの光景が閃光のように走った。


 母が、小さな木箱を胸に抱えて微笑んでいる。


『蓮、もしもの時は──これを開けなさい』


 温かい手。

 凍える外気。

 母の瞳に宿っていた「愛と警告」に満ちた“最後の願い”。


 蓮の心臓が、運命の脈動のように一度だけ強く跳ねた。



 蓮は焦燥に突き動かされるように隠れ家に戻り、奥の部屋からあの記憶と同じ木箱を取り出した。

 蓋を開いた瞬間、古い木と、母の想いの匂いが静かに広がった。


 一枚の黄ばんだ手紙。

 震える指で広げる。

 紙は黄ばみ、端が少し破れている。

 だが、母の文字だけは、不思議な熱をもって鮮やかに見えた。


「蓮へ──」


 声に出した途端、胸が張り裂けるほど締めつけられる。

 手紙を読み進めるうち、蓮の世界は静かに、だが確実に変わっていった。


 母が語る“クロノスの真の計画”。

 自分の中に眠る“制御すべき特別な力”。

 そして――


『あなたの父である剛一郎を止められるのは、あなただけ』


 その核心的な一行だけが、心臓に直接、焼印のように刻み込まれた。


 蓮の目から、ひとすじの、熱い涙が零れた。


 しかし、その涙は弱さではなかった。

 胸の奥で、長年眠っていた意志が音を立てて形を変えていく。


(母さん……僕はもう、二度と逃げない)



 その瞬間だった。


 胸の中心に、熱い針が刺さったような、堪え難い痛みが走る。

 息が詰まる。脈が異常な速さで跳ね上がる。


 高周波の耳鳴り。

 脳の奥が純粋な光で満たされる感覚。

 視界の端が激しい白に染まり、世界が低く、深く震え始めた。


 そして次の瞬間――蓮の身体を包む光は、月光よりも強く、炎よりも静かで、神々しいほど美しかった。


 すべてが収まったあと。

 蓮の瞳は、暗闇を貫くような深紅の光を宿していた。


「……行くよ、母さん。

 もう、迷う必要はない」


 蓮は手紙を胸にしまい、静かに息を整えた。


 恐怖はもうない。あるのはただ一つ――“家族の悲劇と、世界の狂気を終わらせる”という、絶対的な使命。


 少年としてではなく、この世界の運命を背負う者として、蓮は、今、覚醒した。





 一方その頃、黒崎邸の湿った冷気が漂う奥深く。

 屋敷の底冷えする静寂を裂くように、ひとつだけ灯った書斎のランプが、セバスチャンの影の濃い横顔を淡く照らしていた。


「……なぜ、会長は『あの娘』を逃がした?」


 セバスチャンは、奥野博士の娘である彩花が蓮と共に脱出した事実を反芻していた。

 呟いた声は、摩擦で焦げ付いたように、自分でも驚くほど乾いていた。


 黒崎の判断にはいつも冷徹で明確な「理由」がある。

 必要だから切り捨て、価値があるから拾い上げる。

 だが――彩花を追撃せず、簡単に逃がした時だけは違った。


「まさか……会長は、彼女に――何か、特別な目的を見ている……?」


 セバスチャンは思考を振り払うように、強い力で首を振った。

 だが胸の奥に芽生えた不吉な影は、もはや消えない。


 黒崎への忠誠は、彼の人生そのもの、存在の根幹だった。

 その鋼鉄の柱がきしむ音が、静寂の中ではっきりと聞こえる。


(本当に……私はこの道を信じていいのか?)


 疑念は日を追うごとにセバスチャンの心を蝕んで増していた。

 どこまでが真実で、どこからが彼自身の黒い企みなのか。


 従うのか、それとも過去の自分を裏切って背くのか――。


 どちらに転んでも、彼の人生はもう後戻りができない『運命の分水嶺』に立たされていた。



 セバスチャンの忠誠心が揺らいでいた、そんな時だった。


 ――コン、コン、コン。


 書斎の扉を叩く、控えめだが異常なほど冷たい音。


「セバスチャン、入るよ」


 聞き慣れた声なのに、なぜか背筋が氷のように凍る。

 扉が静かに開き、ランプの光が鋭く差し込んだ影を形にした。


「……エリカ様?」


 その名を信じられない思いで呟いた瞬間、セバスチャンの胸の中で何かが音を立てて崩れた。



 エリカは、美しいが氷の刃のように冷たい笑みを浮かべ、ゆっくりと歩み寄る。


「あなたも気づいてたはずよ、セバスチャン。

 私が『ミスターX』の“裏側”で動いていたことくらいはね」


 セバスチャンはあまりの衝撃に言葉を失った。


 書斎の空気が、急激に命の熱を奪うように冷えていくのを彼は感じていた。


 全ての歯車が、最悪の方向へと回転し始める。



 エリカとセバスチャンの緊張が高まるその時だった。


 ——パリン!


 静まり返った書斎に、運命の崩壊を告げるような、不吉な破片の音が落ちた。


 黒崎のデスクから滑り落ちたのは、経年劣化で脆くなった家族写真の入った額縁。

 床に散ったガラスの上で、幼い蓮と澪の無垢な笑顔だけが、ひどく場違いに、残酷なほど輝いていた。


 黒崎は、冷徹な仮面をかなぐり捨て、膝をついた。

 震える指で写真を拾い上げる。

 かつての妻・エミが蓮と澪の肩を抱き、彼自身はその隣で照れくさそうに、幸福に笑っている。


 その笑顔は、もう二度とどこにも戻れない、永遠に失われた世界のものだった。



 ふいに、黒崎の頬を一筋の涙が、冷たい氷のようにつたった。


「……エミ。

 許してくれ」


 掠れた声は、誰に届くでもなく静かに、懺悔のように空気に溶けた。


 幸福にすると守ると誓った家族。

 その誓いを自らの手で破った自分。

 黒崎の胸には、悔恨と自己嫌悪が息苦しいほどの濃霧のように渦巻いていた。


(あの日、最後にお前は言ったな……)


 脳裏に、妻が最後に残した、重い鎖のような言葉が甦る。


『蓮と澪を……お願いね』


 写真の中のエミは微笑んでいる。

 しかし黒崎には、その笑みが強く責めるようにも、悲痛に泣いているようにも見えた。


「私は……守れなかった。

 蓮を、私自身が作ったこの地獄へ引きずり込んでしまった……」


 血が滲むほど拳を握りしめ、喉の奥から深く、重い慟哭が漏れる。


 それは、男としても、父としても、そして指導者としても、すべてを失った罪人の声だった。



 黒崎が家族写真の破片を握りしめ、慟哭を押し殺した――その瞬間。


 書斎の扉が、彼の懺悔を嘲笑うかのように、静かに開いた。


「……お父様?」


 黒崎の時間、呼吸、思考、すべてが止まった。


 扉の向こうに立っていたのは——澪。

 だが、その顔は写真の中の無邪気な少女とは完全に別人だった。


 黒崎は呆然と、額縁の破片を握ったまま立ち上がる。


「み……澪……?

 どうして、ここに……いたのか……」


 声が震え、言葉が熱をもって途中で千切れる。



 澪はゆっくりと歩み寄る。

 その瞳には、氷のように深い悲しみと、長年蓄えられた、燃えるような怒りの炎が揺れていた。


「ねえ、お父さん。

 これを見て覚えてる……?」


 淡く笑った表情は、幼い頃の面影をほんの一瞬だけ呼び起こす。

 だがそこに宿る感情は、温かい愛ではなく、冷たい憎悪だった。


「私ね……昔はあなたが大好きだったの。

 本当に、心から尊敬していた」


 黒崎の胸が懺悔の念で締めつけられる。


「でも——」


 澪の声の温度が、急激に、決定的に下がった。


「あなたは、私たちの家族を自らの手で壊した。

 あの日から、私はもう……『あなたの娘』をやめたの」


 その言葉は、何万もの刃よりも鋭く、黒崎の心に深く、致命的に刺さった。

 愛していたからこそ、裏切られた痛みは深く、もはや消せない烙印となった。


 床に散った写真の中で微笑む幼い澪が、まるで二度と手の届かない別の世界の住人のように見えた。



 澪の手には、夜の闇を凝縮したような黒光りする小型拳銃が握られていた。

 その細い指に宿る悲痛な決意の重さを、黒崎は自らの魂が裁かれるように痛いほど理解した。


「私は、全部知ってるの」


 澪は低く、氷点下の温度を持つ声で言った。


「お母さんの最期も……蓮の過去も……そしてクロノスの“血塗られた本当の目的”も」


 黒崎の呼吸がひとつ深く止まる。


 澪の瞳には、涙と憎悪と、決して消えない家族の傷跡が渦巻いていた。

 だがその奥には、どこか異様な静かな光——自らの手を汚すことも厭わない狂気に近い覚悟が宿っていた。


「あなたは、家族を守ると言いながら……全ての人間を裏切り、世界のバランスを決定的に狂わせた。

 私は、あなたの罪を絶対に許さない」


 黒崎は言葉を失った。

 何を言っても、それは虚しい弁解にしか聞こえない。


「澪……お願いだ。話を——」


「もう遅いわ、お父さん」



 銃口が、黒崎の過去と現在を裁くように、その額にまっすぐ向けられた。

 その距離はたった数歩。

 しかし黒崎には、埋められない永遠の隔たりに感じられた。


「一つ……」


 澪が数え始める。

 その声は、自らに呪いをかけるような詠唱のように冷ややかだった。


「二つ……」


 黒崎の喉が、ゴクリ、と乾いた音を立てる。

 部屋の空気が、圧力をかけられたように重くなる。


「三つ——」


 その瞬間、澪の頬を堰を切ったように大粒の涙が伝った。


「……たとえあなたを殺すことになっても、私は進む」


 震える声で、しかし一点の迷いもない表情で告げる。


 黒崎は娘の瞳を見て、胸が焼けるように痛んだ。

 その瞳の奥に映っているのは——冷酷な権力者ではなく、ただの哀れな父親が作り出した地獄だった。


「澪……」


 黒崎は権力者の仮面を完全に崩壊させ、膝をつき、娘の目線の高さまで落ちた。


「私は……間違っていたのかもしれない。

 すべてにおいて」


 声は震え、しかし娘への愛だけは真っ直ぐだった。


 澪の指が、最後の決断を下すようにトリガーを締めかける。



「守りたかったんだ」


 黒崎は、血の滲んだ写真立ての破片を握りしめながら、絞り出すように言う。


「この残酷な世界から……お前と蓮を、そして家族を」


 澪の瞳が微かに揺れた。

 一瞬だけ、無邪気な幼い頃の面影が戻る。


 だが、それは刹那の、冷たい幻影。


「守る?」


 澪は魂の抜けたような乾いた笑みを浮かべた。


「母さんを治療もせずに見殺しにして……蓮をクロノスの非人道的な兵器にして……それが“父が家族を守る方法”だと?」


 黒崎は反論しない。

 反論できないほど、娘の言葉は絶対的な真実だった。


「私はね……」


 澪は銃を握り直し、悲しみで顔を歪める。


「あなたに世界を奪われたの。

 母さんの命も、蓮の未来も……そして、父を愛した私自身の人生も」


 その一言一句が、黒崎の胸に深く、深く、贖えない罪として突き刺さる。



「もう、後戻りはできないのよ。

 あなたも、私も。

 誰ひとりとして」


 銃口が再び冷たい金属の塊として、まっすぐ黒崎を捉える。


 黒崎の脳裏に——最後に見た、愛するエミの笑顔が、ふっと浮かんだ。


『蓮と澪を……頼むね』


 あの日の声が、今になって鋭い刃となって黒崎の心を切り裂く。


 黒崎はゆっくり目を閉じた。


「……そうだな」


 静かに、しかし運命を受け入れる確かな声で。


「もう遅いのかもしれない」


 それは、敗北の言葉ではなかった。

 世界を動かす権力者としての地位を捨て、父としての罪を、逃げずに自らの命で受け止める覚悟だった。


 ——澪の指が、鋼の意志のもと、ほんのわずか動いた。


 部屋が、時間が停止したような凍りついた静寂に沈む。


 父の命か、家族の復讐か、黒幕の計画か。


 次の一瞬が、彼ら父娘の、そして世界のすべてを決める——。



 運命を決定づける銃声が、書斎の空気を暴力的に裂いた。


 瞬間、硝煙の匂いが黒い、苦い霧のように漂い、世界が一拍遅れて鈍く揺らいだ。


 黒崎は、撃たれたにもかかわらず倒れず、ただ静かに目を閉じた。

 表情には痛みではなく、長年の業と、娘への愛を受け入れた者の――深い、静かな諦念が浮かんでいた。


 そのとき。


 書斎の扉が壁に叩きつけられるように開いた。



「会長!」


 エリカとセバスチャンが風のように駆け込んだ。


 二人の顔に走る戦慄は、銃声の余韻に重なるように強く、激しく震えていた。


 床にゆっくりと崩れ落ちた黒崎を見た瞬間、エリカは理性を失ったように喉を裂くような悲痛な叫びを上げた。


「剛一郎さん!!」


 彼女は黒崎にすがり、血に濡れた手を制御不能なほど震わせながらその体を抱き起こす。


「お願い…反応して…剛一郎さん…!」


 黒崎は動かない。

 胸元には、小さな赤い穴――静かに咲いた“死の花”があった。


 セバスチャンは、瞬時に状況を把握し、低く短く命令を下すように言った。


「……まだ、息があります」


 彼は一切の無駄を排した精密な動きで応急処置に入る。

 その手際は、優雅さすら感じさせるが、どこか冷たく鋭い――かつて『影』として動いていた頃の名残だった。



 澪はその姿を呆然と見つめ、震えながら呟いた。


「どうして……?

 私を、止めなかったの」


 まだ銃を握る手は、罪と憎しみと、拭いきれない愛の狭間で小刻みに震えていた。


「お嬢様」


 セバスチャンは静かに、諭すように言う。


「会長は、あなたを恨んでいません。

 助かる見込みはあります。

 どうか、銃を下ろしてください」


 澪は、まるで魔法に吸い込まれるように銃口を下げた。

 父を撃ってしまった後悔。

 まだ彼を許せない自分への苦しみ。

 それでも――セバスチャンが全身全霊で父を救おうとする姿が、胸の奥の凍りついた憎悪の一部を溶かしていった。


 エリカは、処置を続けるセバスチャンの肩にそっと手を置き、涙混じりに心の底から言った。


「セバスチャン……ありがとう」


 彼は微かに微笑んだ。


「会長は私の『主』です。

 過去も、罪も、全てを含め、命を懸けてでも守る価値のある方ですから」


 その言葉には、忠誠というより、確固とした“運命的な覚悟”があった。


 まるで、黒崎と共有する、深くて暗い過去の闇が、一瞬透けて見えるような――そんな重い誓いだった。



「お嬢様、こちらへ」


 セバスチャンは茫然自失の澪を書斎の外へ連れ出した。

 父を救急室に運ぶ者たちの慌ただしい足音が遠ざかり、静かな廊下にふたりだけが残る。


「会長は、すぐに緊急手術を受けます。

 その間に……あなたへ伝えなければならないことがあります」


 歩きながら、セバスチャンは感情を排した低い声で続けた。


「お嬢様。

 あなたが過去に――ある客に卑劣な乱暴をされかけたことがありましたね」


 澪の足がコンクリートに縫い付けられたように止まる。

 その記憶は誰にも話していない。

 魂に鍵をかけ、深海の底に葬り去ったはずのものだった。


「……なんで……それを知ってるの……?」


「会長が私に極秘に調べさせたのです。


『娘を傷つけた奴は、地球のどこにも生かしておくな』と」


 セバスチャンの声は淡々としているのに、全身の血が凍るほどの重みを持っていた。


「その男は、二度と日の光を見ることはありません。

 この世から――完全に、痕跡すらなく消えました」



 澪の喉が震えた。

 背筋を駆け上がる恐怖。

 驚愕。そして……胸の奥で静かに芽生える“父の、極端に歪んだ愛”への痛切な理解。


「さらに……」


 セバスチャンは続ける。


「あなたが大学へ入れたのは、会長が全てを極秘裏に裏で支えたからです。

 入学金。

 生活費。

 あなたに毎月匿名で届いていた五百万の援助金――あれもすべて会長の指示です」


 澪の目から止めどなく涙が溢れる。


 ずっと知らなかった。

 知ろうともしなかった。

 父の愛は、不器用で、歪んでいて、血に濡れた壊れた形をしていた。

 でも確かに――自分の全てを犠牲にして、自分に向けられていた。


 それを理解した瞬間、胸の奥の憎悪と絶望が入り混じった何かが、音を立てて崩壊した。



 救急室の、微かな機器の音だけが響く静寂を切り裂くように、黒崎のまぶたがわずかに震えた。


 やがてゆっくりと開かれた目に映ったのは――涙と安堵でぐしゃぐしゃになったエリカと、愛の真実と罪の重さに立ち尽くす澪だった。


 黒崎の視線が、わずかに、澪に向けられる。


 父は、最期の瞬間すら、娘の愛を求めていた。


「……私は……生きているのか……?」


 掠れた声が、死の淵から帰還した者のように漏れる。

 その問いは、まるで自分の犯した罪を確かめるかのようだった。


「ええ。

 生きています、剛一郎さん」


 エリカは悲鳴のような嗚咽をこらえながら、黒崎の手を強く握った。

 失われた温もりを必死に確認するように。


 澪は、父を見下ろしていた。

 憎しみ、悲しみ、安堵――相反する感情が嵐のように胸の中で渦を巻く。

 それでも、父が生きていてくれたという事実だけが、心の奥底でそっと温かい灯をともした。


 パチ、パチ……


 暖炉の火が静かに燃えている。

 赤い炎は、まるで黒崎の胸に残された“命の残り火”そのもののように揺らめいていた。



 黒崎は、全ての力を振り絞るように意を決し、澪へ視線を向けた。


「澪……すまなかった」


 その声は震えていた。

 世界を支配した男としての最後のプライドが、音を立てて完全に崩れていく。


「私は……お前を愛していた。

 ただ、それを……こんな世界でどう守ればいいのか、分からなかった。

 私は……取り返しのつかない間違いを犯した」


 澪の瞳が激しく揺れ、涙が熱い軌跡を描いてこぼれ落ちる。


「お父様……」


 黒崎は続ける。

 苦しみに耐えながら、魂を削るように絞り出す。


「私は、お前たちを守るために〈クロノス〉に手を染めた。

 だが……それこそが、最もお前たちを危険にさらした。

 私は……この罪を、償わねばならない」


 その言葉は、澪の胸に深く、決定的に沈んだ。

 憎んでいたはずの父の、あまりにも人間らしい弱さと、愛ゆえの迷走と、長すぎた権力者の孤独が、初めて透けて見えた。


 ――そして、彼が抱えていた“世界の闇の重さ”も。



 その瞬間、書斎の扉が開き、医師が切迫した様子で駆け込んだ。


「会長、緊急手術の準備が整いました!

 一刻を争います!」


 黒崎は澪の手を握り、力の残らないが、愛に満ちた笑みを浮かべた。


「澪……すまない……そして……ありがとう……」


 澪は震える指で父の手を決然と握り返し、涙の奥で強く頷いた。


「お父様……生きて戻ってきてください。

 今度は、私があなたを守ります。

 父の罪も、すべて私で」


 黒崎は担架に乗せられ、運命の廊下を静かに運ばれていく。

 遠ざかる父の背中に、澪は小さく――しかし世界に響くような確かな決意を告げた。


「……私はあなたを許します。

 そして必ず、この運命を断ち切ります。

  父の愛を利用した ――クロノスごと、すべてを」


 暖炉の炎だけが、未来への希望と、次の戦いの予兆のように、激しく揺れていた。





 その日、澪は会社からの帰り道、人の流れが薄くなった黄昏時の歩道で足を止めた。

 背後から、自分の名を呼ぶ静かで、しかし確信に満ちた声がしたのだ。


「──桐谷澪さん、ですね?」


 振り返ると、夜の闇に溶け込むような見慣れない女性が立っていた。

 黒髪が風に揺れ、どこか深い影を帯びた瞳。

 その微笑には、優しさよりも“運命の転換”、あるいは“哀しみの予告”のようなものが滲んでいた。


 澪の背に、無視できないわずかな警戒心が走る。


「どちら様ですか…?」


「私は理沙。

 以前、 彩花さんの同期でした」


 彩花の名が出た瞬間、警戒心の棘が瞬時に抜け落ちた。

 彩花の人柄を知る澪にとって、その名は「共通の敵を持つ者」の“信頼の鍵”のように作用した。


 理沙は、静かな仕草で近くのカフェを指し示した。


「少し…… 時間をいただきたい お話があります。

 あなたと蓮さんと、そして、 亡くなった お母様のことです」


 その言葉に、澪の胸が予期せぬ衝撃で微かに震えた。



 カフェの窓際。夕陽がカップの縁を最後の光で赤く照らし、店内に淡い影を落とす。


「蓮さんは── 全てを知り、 クロノスに立ち向かう覚悟を決めました」


 理沙の言葉は、まるで磨かれた刃のように静かで鋭かった。


「え…?

 あの 蓮が……?」


「あなたのお父様を止めるために。

 そしてそれは…… 亡き エミさんが最後に望んだことでもあります」


 母の名を決定的な証拠として聞かされた瞬間、澪の心臓が痛むほど強く跳ねた。


 理沙はゆっくりと、確かな重みをもって語り始めた。

 エミがどれほど家族を愛していたのか。

 どれほど蓮に未来を託していたのか。

 どれほど黒崎の冷酷な変貌を恐れていたのか。


「エミさんはね、最後まであなたたちの幸せだけを願っていました。

 蓮さんが その内に秘めた “自分の力”に気づき、世界を救うと信じていた」


 その言葉は、澪の胸の奥に閉ざされていた最も深い痛みを直接叩いた。



「でも──蓮さん一人では、クロノスには 決して 勝てません」


 理沙の瞳が決然とした光を宿して、真っ直ぐ澪を射抜く。


「彼には、あなたが必要なのです。

 黒崎の全てを知る “黒崎剛一郎の娘”であるあなたが」


「私が……お父様を、止める…?」


 澪はカップを両手で包み込み、現実逃避のように熱を逃がさないようにしながら呟いた。

 コーヒーの湯気が目の前で揺れて、断ち切れない曖昧な記憶を呼び起こす。


「忙しかったけれど……家に帰ってきたとき、ほんの少しだけ笑ってくれた。

 あれが── 父の人間性の 本当の破片だと信じたかった……」



 湯気が、熱い涙を隠すようにふわりと立ちのぼる。


 兄への想い。

 母の願い。

 そして、打ち砕かれた幼い頃の父の記憶。


 そのどれもが澪の心を引き裂く。


 理沙は、そんな複雑に揺れる心をすべて見透かしたように静かに言った。


「澪さん。

 あなたが動かなければ、お父様は 家族への愛さえも歪め、 “世界を壊す側”に堕ちます。

 救えるとしたら── 血を分けた あなたしかいない」


 澪は息を吸い込み、冷たい空気を胸の奥まで満たした。

 迷いはまだ胸に残っている。

 だけど、それ以上に──自分の手で守りたい人がいる。


 兄と、母の願いと、一瞬だけ見えた過去の父の面影。

 そのすべてが澪の背を強く押した。


 ゆっくりと顔を上げた彼女の瞳に、もはや無力な少女の弱さはなかった。


「……わかりました。 行きましょう。

  私は、黒崎邸へ行きます」


 その声は微塵も震えていなかった。決意だけが澄みきった鋼の音になって響いた。



 理沙は安堵の吐息とともに、そっと澪の手を握った。


「ありがとう、澪さん……あなたなら、蓮さんを救えるわ」


 だが、その柔らかな笑みの裏で、理沙の胸は罪悪感という名の荒波のように揺れていた。

 クロノスで叩き込まれた徹底した忠誠。

 彩花と過ごした青春の記憶。そして、触れれば壊れてしまいそうな澪の無垢さ──。


 黒崎剛一郎から受けた 残酷な 命令は、凍った刃のように理沙の心に刺さり続けていた。


『澪を連れてこい。蓮を呼ぶための*“命の鍵”*になる』


 命令を聞いた瞬間、喉の奥が焼け付くほどの罪悪感が走った。

 裏切れば終わる。

 従えば、傷つくのは澪。

 その非情な現実に、彼女は幾度も夜中に声を殺して涙を堪えた。


 それでも──任務を遂行するために、理沙は澪へ近づいた。

 だが接するたび、澪の曇りのない笑顔が彼女の中の“任務遂行のための機械”をゆっくり溶かしていった。


 今、澪は自ら黒崎邸へ向かおうとしている。

 理沙は、自分がどちらの陣営に立っているのかすらわからなくなるほどに揺れていた。

 けれど、もはや後戻りはできない。

 彼女は、せめて澪が生きて、心を壊さずに戻ることだけを祈った。



 風が鋭い刃のように頬を切りつける。

 二人は無言のまま、黄昏の光の中で黒崎邸へ続く坂道を歩き出した。


 ──澪は胸元を握りしめ、心の中で母に語りかける。


「お母さん、見ていてください。

 私は蓮を助けに行きます。

 そして……お父様を、あの闇から 私の手で 取り戻します」


 彼女の瞳は震えていたが、決意は揺るがなかった。


 一方、理沙もまた心の中で呟く。


「……彩花。

 ごめんね。

 でも私は、あなたと蓮さん、 どちらの未来も 失いたくない」


 その横顔には、贖罪の涙が光っていた。


 重苦しい沈黙を破ったのは、澪のふいの質問だった。


「えっと……理沙さん。

 クロノス・コーポレーションって、どんなところなんですか?」


 緊張をごまかすような、彼女らしいどこか天然な声音。

 理沙は意表を突かれ、思わず苦笑いを漏らしてしまう。


「そうね……例えるなら、巨大な迷路かしら。

  一度入ったら、光を見失う 場所」


「迷路?

 じゃあ……チーズとかあるんですか?」


 澪の顔は真剣そのもの。理沙は吹き出し、肩を震わせた。


「ふふ……残念ながらチーズはないわ。

 でも、あなたのお父様という 『出口を塞ぐ巨大な壁』 なら確実にいるわね」


 澪は「やっぱりかぁ……」と小さく肩を落とし、それでも少し安心したような──しかし、不安を完全には隠せない表情を浮かべていた。


 風が再び吹き抜ける。その奥で、遠く黒崎邸の灯りが、獲物を待つ眼差しのように、不気味に瞬いていた。




 理沙の過去の記憶が断ち切られたとき、彼女の目の前には、クロノス・コーポレーションの冷酷な世界が広がっていた。


 そこは、冷たいコンクリートの壁と鼻を刺す金属の匂いに満ちた『人間兵器』育成施設。

 理沙の幼い世界は、規則正しい機械の軋みが響く、色を奪われたモノクロ写真のように無機質だった。

 彼女は物心ついた時から、この冷酷な箱庭の中にいたのだ。


 銃弾が空気を裂く訓練では、鼓膜が焼けるような不快な轟音が響く。

 格闘訓練では、倒れるたびに床の冷たさが身体の芯まで骨に染みた。

 腕も足も、いつも生々しい痣と傷で覆われていた。


 汗と涙が混ざり合い、足元に落ちたその跡だけが、理沙の“生きている証”のように黒く滲んでいた。



 ──そんな終わりのない悪夢の中で、一輪だけ色づいた花のような存在があった。


 桐谷エミ。


 白衣のポケットから覗く小さな花のバッジ。

 忙しない施設の空気の中でも、彼女の歩みだけはどこか柔らかく、希望を運ぶようだった。


 ある休憩時間、理沙が壁にもたれ、小さく存在を消すように息を殺していた時のことだった。


「理沙ちゃん、頑張ってるね」


 エミの声は、理沙の氷の世界に突然差し込んだ春の陽だまりだった。

 その柔らかな微笑みは、凍りついていた理沙の感情と孤独をゆっくりと溶かしていった。


 その日を境に、理沙は初めて人間らしく笑うことを覚えた。


 彼女には両親の記憶がない。

 父・田中誠一は研究員だったが、幼い理沙を残して事故死したと聞かされていた。

 理沙が覚えているものは──父の残した、秒針の音がする古い懐中時計だけ。


 静かな規則音。

 それは、理沙の荒れ果てた世界の中で唯一「守ってくれる」生命の音だった。


 エミは、そんな理沙の孤独に、無理なく自然と寄り添ってくれた。


 訓練の合間、二人は施設の隅にある小さな花壇に足を運んだ。

 そこだけは、クロノスの非情な支配が届かない、二人だけの小さな楽園だった。


「いつかね、理沙ちゃん。プロメテウスが完成したら、世界はもっと優しくなれるんだよ」


 エミの瞳には、確かに希望に満ちた未来が映っていた。



 理沙も、その未来に手を伸ばしたかった。

 彼女に計り知れない恩を返したかった。

 幼い胸に芽生えたその気持ちは、氷の世界で灯った、たったひとつの、消えない光だった。


 ──その光があったからこそ、理沙は今日まで人間性を失わずに生き延びてこられた。


 だからこそ今、恩人の娘である澪を裏切る自分が許せない。


 自分に“愛”を教えてくれたエミの娘を、傷つく場所、黒崎の策謀の渦中へ連れて行こうとしている自分を──。

 理沙の心臓は、罪悪感で押しつぶされそうに脈打っていた。



 その冬の日、理沙は花壇の隅で痛みに耐えるように膝を抱えていた。

 空気は骨まで凍りつき、風が頬を鋭く刺す。

 いつもそばにいたエミの姿が見えないだけで、胸の奥は重い鉛のように沈んだ。


 冷たく閉ざされた施設で、理沙が人間性を保てる唯一の時間は──訓練で傷ついた子犬の世話をしている瞬間だった。


 小さな体を両手で包み込むと、そのか弱い鼓動が、自分がまだ「誰かを守れる」と教えてくれる気がした。

 無垢な瞳は、凍りついた心にかすかな、しかし重要な火を灯してくれた。


 しかし、クロノスはそんなささやかな希望すら許さなかった。


 非情な訓練の日。子犬は、理沙の腕の中で静かに息を引き取った。


 温度を失っていく小さな命。

 理沙の声にならない、魂の叫びは、冷たい壁に吸い込まれ、ただ虚しく、不毛に反響するだけだった。


 その日、彼女は世界から全ての色彩が失われる音を聞いた気がした。



 ふと、隣に温かい座る気配がした。

 振り向くと、エミが静かに膝を折り、寒さとは全く別の優しい温もりをまとって寄り添っていた。


「理沙ちゃん、これ……。

 寂しくならないように、作ってみたの」


 エミが差し出した小さな包み。

 開けると、手編みの犬のぬいぐるみが現れた。


 糸がわずかに震える。

 形は少し歪で、耳も左右で大きさが違った。

 それなのに──いや、だからこそ、人間の温かさとして伝わってきた。


「……かわいい……」


 自然と本心から声がこぼれた。


「よかった。

 不器用だけど、頑張って作ったの」


 エミは照れたように笑った。


 理沙は震える腕でぬいぐるみを抱きしめた。

 たったそれだけのことなのに、胸に広がる温もりは堰を切ったように涙がこぼれるほど大きかった。


「エミさん……ありがとう……。

 大切にします。

 本当に……」


 エミは理沙の涙をそっと拭い、慈愛に満ちた母親のように優しく頭を撫でた。


「理沙ちゃん。

 あなたは一人じゃないよ。

 どんな時でも、私のところにおいで」


 その言葉は、冷たい世界の奥深くに生涯消えない約束として刻まれた。

 理沙にとってこのぬいぐるみは、「温もりを知った証」であり、どんな運命にも負けないための、小さな、しかし強靭な灯火となった。


 ──それは、彼女が人間として生きる理由となり、今、澪を裏切る罪悪感の果てで、彼女を救う光にもなる。



 しかし、そんな一輪の花のような小さな幸福は、冬の陽だまりのように脆く、あっけなく消えた。


 ある日、エミは突然、この世から姿を消した。


 クロノスは淡々と「事故」と冷たく告げたが、理沙は本能的に理解した。


 ――あれは事故ではない。

 この組織に、消されたのだ。


 その瞬間、胸の奥に、折れない氷の針が深く突き刺さった。


 エミの死は、父の“事故”への疑念をも呼び覚ました。

 優秀な研究員たちが理由も告げず消えていく不自然さ――。

 理沙は幼いながらも悟った。

 この施設のどこかに、誰にも逆らえない巨大で冷酷な“闇”が息を潜めている。


 そして、その闇が自分の唯一の光だったエミを奪ったのだ。


 理沙は泣き叫ぶことすらできず、胸の奥だけが静かに、しかし決定的に崩れ落ちていった。

 世界が色を失い、絶望的な冷たい雨に濡れ続けるような孤独だけが残った。



 無力感は彼女の小さな心を蝕み、夜ごとエミの名を呼んでは身を震わせる眠れぬ時間を過ごした。

 愛情、感謝、そして闇の根源への燃えるような憎悪が、幼い胸の中で溶け合うように渦を巻いた。


 そして、理沙は気づいた。


 もう二度と、この無力さで大切なものを奪わせてはならない。


 絶望の底で、彼女の心に硬質でひび割れた鋼が生まれた。


 エミの最後の笑顔を胸に、理沙は過酷な訓練のすべてを復讐の糧として受け入れた。

 涙を封じ、痛みを呑み込み、感情のない鋼の心で任務を遂行する『クロノスの刃』へと変わっていった。



 ――そして今。彼女が守ろうとしているのは、エミの息子・蓮。

 そして、かけがえのない親友・彩花。


 それは単なる復讐ではない。

 エミへの絶対的な恩返しであり、凍りついた自分の心に再び温もりを灯すための戦いだった。


 理沙は、そっとぬいぐるみを胸に抱きしめる。

 その柔らかな毛糸は、失われた温もりと、黒幕への静かで冷徹な誓いを宿していた。


 瞳には涙が光り、同時に、凍りつくほど冷たい決意がその奥に宿る。


 ――今度こそ、必ず守る。


 そして、必ずこの手で終わらせる。


 恩人を奪った、あの根深い闇を。





 プロメテウスたちが、風見に向かって一斉に襲いかかる。


 金属製のブーツが床を踏みならすたび、破壊的な鈍い衝撃が空気を震わせる。

 無機質な仮面の奥に感情はない。

 ただ、風見を「処理すべきエラー」として見下ろす冷たい光だけ。


 風見は銃弾を撃ち返しながら、死角へ滑り込むように動いた。

 硝煙の匂いが鼻を刺し、耳をつんざく銃声が静寂を裂く。

 だが──数は圧倒的だった。


 肩を撃ち抜かれ、足がふらつく。

 温い血が滴り、床に運命を象徴する赤い点を描いていく。


「……くそっ」


 最後の弾丸を込める手が震える。

 恐怖と絶望が胸を満たしかけた、その瞬間──蓮と彩花の顔が強い光のように脳裏をよぎった。


 守れ。この手で、必ず。


 心臓が暴れ馬のように跳ね、全身に熱が駆け上がる。

 風見は、恐怖を怒りへ。怒りを生きる力へ変えた。



 その刹那──背中に岩のような衝撃が走った。

 吹き飛ばされ、鉄の床を転がる。視界が激しく白く弾ける。


 その白さの中で、“過去”が深い傷跡のように裂け目を開いた。


 血と砂煙に覆われた戦場。

 仲間の断末魔。無感情な自らの銃声。


 かつて風見は『死神』と呼ばれていた。

 命令のためなら、女子供でも、かつての友でも──引き金に一瞬のためらいもなかった。

 感情など邪魔なノイズだと、そう冷徹に**信じ込んでいた。


 ……だが。


 あの日の任務で、無抵抗な幼い兄妹が風見の前に立ちはだかった。

 兄は震える身体で妹を庇い、小さな腕を広げていた。


 その姿と重なるように──風見が今、命を懸けて守ろうとする蓮と澪の笑顔が、脳裏を強く突き刺した。


「……俺は、何をしてる……?」


 初めて、引き金を引く指が止まった。

 心臓が痛むほど脈打ち、喉の奥が熱くなった。



 風見は命令に背き、組織を捨てた。

 追跡と制裁が待っていたが、それでも構わなかった。

 “血を流す生き方”をやめ、“守るために”生きると決めたからだ。


 逃亡の果てに辿り着いた小さな町。

 彼を受け入れてくれたのは、地元の警察官・佐藤だった。


 佐藤は風見の過去を知らず、ただ困っている人を助ける真っ直ぐな背中を見せてくれた。

 その曇りのない優しさは、風見の壊れかけた心を静かに縫い合わせた。


 ある日、強盗に襲われた佐藤を咄嗟に救ったとき──彼は風見の手を握り、弱いが確かな声でこう言った。


「君は……本当に勇敢な男だ。

 警察官にならないか?」


 その言葉が、風見の胸で長く閉ざされていた『生きる道』の扉を開けた。


 守るために戦いたい。

 償いのためではなく──誰かの未来を築くために。


 風見は警察官になった。

 そして今、過去と同じ、命を賭けた選択を迫られていた。


 守るのか、殺されるのか。

 二度と誤らないために──この手で生きて、守るのか。


 プロメテウスたちの影が迫る中、風見はゆっくりと、軋む体を叱咤するように立ち上がった。

 握った銃が、重い覚悟とともに軋む。


「……俺は、もう二度と間違えない」



 警察官となった風見は、市民からの信頼も厚く、誰よりも真っ直ぐな正義感を持っていた。

 だが、その胸の奥ではいつも、『死神』の過去が静かに蠢いていた。


 ――俺は……いったい何人の命を奪ってきた?


 初めて芽生えた後悔は、風見の心に深く、消えない影を落とした。

 その影を振り払うように、彼は蓮と澪、そして彩花を守ると誓った。

 血に塗れた傭兵だった身体に、ようやくもう一度熱い血が流れ始めた瞬間だった。


 この命を賭けた贖罪は、ここから始まった。


 そのときだった。

 視界の端に、蓮と彩花が出口を目指し必死に走る姿が映る。


 風見の胸が破裂しそうに激しく脈打った。


 ――守れ。

 彼らを。もう二度と誰も失うな。


「私は……もう二度と、大切な仲間を失わない!」


 その叫びとともに、風見の身体は過去の枷を断ち切り、再び戦場へと飛び込んだ。

 鋼よりも硬い意志、炎よりも熱い覚悟。

 それは、罪を抱えた男の『命を燃やし尽くす』生きようとする力だった。



 風見は最後の弾丸をプロメテウスのリーダーへ撃ち込む。


 火花が散り、鋼の巨躯が鈍い音を立てて崩れ落ちた。


 だが、終わりではない。

 残されたプロメテウスたちが、獲物を囲む獣のような速度で風見を包囲する。


 彼らの動きは、バラバラなのに非情な意志で整っている。

 爪を振りかざす者。

 鞭のように腕を伸ばす者。

 巨体で突進する者。

 一体一体が異なる殺意を宿した『複数の生物兵器』だった。


 弾倉は空。

 もう銃はない。


 風見は迷わず銃を捨て、過去の訓練の全てをかけて素手で迎え撃った。


 その戦いは、ほとんど人間の動きではなかった。

 鋭く、しなやかで、荒々しい。

 それでいて、無駄のない研ぎ澄まされた武術の型が息づいている。


 拳が装甲の隙間にめり込み、鈍い衝撃が地響きのように床まで伝わる。

 床がひび割れ、破片が跳ね上がる。


 しかし──圧倒的な数は、わずかな隙さえ赦さなかった。


 風見の身体には深い、致命的な傷が刻まれ、血が止めどなく滴り落ち、視界は赤く滲んでいく。

 呼吸は荒れ、手足の感覚が徐々に薄れていく。



 …それでも。


(蓮……彩花……頼んだぞ。

 お前たちなら──きっと行ける)


 最後に残った一体を蹴散らし、風見はその場に力尽きるように膝をついた。


 全身が断末魔の悲鳴を上げていたが、ただひとつ──その顔には、全ての苦悩から解放されたような穏やかな笑みが浮かんでいた。


 ああ……これで、償える。


 風見は静かに倒れた。

 血に染まったその身体の上で、戦いの余韻がゆっくりと消えていく。


 蓮と彩花は、風見の犠牲を胸に刻み、プロメテウスの研究データを抱えて闇の中へと消えていった。


 風見の命と引き換えに守られた未来の続きが、今まさに動き出した。


 そして──残されたプロメテウスたちの正体は、なお深い闇に覆われたまま。

 無表情の仮面の奥には、かつて人の心があったのか?

 それとも、初めから『人ではない何か』として造られたのか?


 その答えはまだ、闇の底で眠っていた。




 黒崎邸に来て数日。

 澪は、広すぎる屋敷を漂う透明な影のように過ごしていた。


 父・剛一郎と向き合うことができない。

 近くにいるのに、言葉を交わせば長年築いた心の壁が崩れてしまうようで、得体の知れない怖さがあった。


 剛一郎も同じだった。

 娘を守りたい。

 しかし、何をどう言えばいいのかその方法を分からない。

 だから、ただ近くに置いた。

 それだけが、この闇の中で父としてできる唯一のことに思えた。


 澪は、屋敷から少し離れた古めかしい別館に暮らしていた。



 その夜——風呂の湯に身を沈めていた時。


 一瞬の静穏を裂くように、遠くから不穏な金属音が響いた。


 水面が微かに震える。

 耳を澄ますと、怒号。

 悲鳴。何かを叩き割るような音。

 冷たく強い戦いの嫌な気配が、湯気の中を通って肌に触れた。


 胸がざわつき、澪は思わず湯から飛び出すように立ち上がった。

 濡れた足で窓へ駆け寄り、外を覗いた。


 呼吸が止まり、絶句した。


 月光に照らされた庭で、蓮、彩花、そして風見が——全身黒い装甲に包まれたプロメテウスたちに囲まれ、必死に応戦していた。


 火花が散り、拳が弾け、影が揺れる。まるで現実味のない映画のワンシーン。

 しかし、これは現実。


 喉が凍りついた。



「……行かなきゃ」


 恐怖よりも、大切な人を失うという得体の知れない予感が勝った。


 澪は慌てて服を掴み、濡れた肌に貼りつくことも気にせず着替えると、別館を勢いよく飛び出した。


 息を切らし庭に駆け込むと——


 もう、蓮も彩花もいなかった。


 代わりに目に飛び込んできたのは、鮮烈な血に染まった風見が、地面に力なく倒れ伏している光景だった。


「……風見さん!」


 鼻を刺す生々しい鉄の匂い。

 そのすぐそばには、プロメテウスを率いる父・剛一郎の背中があった。


 冷酷なほど静かで、迷いのない影。

 それは、澪が知っていたはずの、父ではない、世界の支配者そのものの姿だった。



「止めを刺せ」


 父の声が、夜気を凍らせた。

 その声には、娘の悲痛な叫びを予測した上での、有無を言わせぬ冷酷な鋼鉄の響きがあった。


 澪は息を呑んだ。

 世界が、ほんの一瞬、ショックで白く点滅したように見えた。


 風見は——澪が初めて『本当の正義』と『味方』だと信じられた大人だった。

 孤独だった彼女に、命を懸けて逃げ場を作ってくれた人だった。


 その彼を、父は一顧だにせず、自らの手で終わらせようとしている。


 理解が追いつかないほどの絶対的な拒絶が胸を締め付けた。


「そんな…… やめて!」


 震える足を叱りつけるように、澪は風見へ走った。

 プロメテウスたちが阻もうとしたが、必死に振り払い、倒れ込むように膝をつく。


「風見さん!

 目を開けて!

 聞こえますか!」


 彼は血まみれで、呼吸は蝋燭の炎のように浅い。

 けれど——かろうじて生きている。



 脈を確かめ、澪は小さく息を吐く。

 そして抱き起こそうと腕を回したその時。


 風見の血の滲んだ唇が微かに動いた。


「……蓮……彩花さん……逃げろ……」


 途切れた声は、彼の最後の、全ての力を振り絞ったものだった。


 胸の奥で、長年の忍耐と愛情が音を立てて崩れた。


 意識を失いながらも他人を案じる無償の優しさ。

 そんな人を——父は容赦なく殺そうとした。


 絶対零度の冷たい怒りが、静かに、心の最深部からせり上がる。


 母が亡くなったあの日から、ずっと心に沈んでいた黒い塊が、今日、決定的な力を伴って音を立てて形を成した。



「……許せない」


 その言葉は、夜風に紛れるほど小さかった。

 けれど、これまでの人生で最も重く、未来を断ち切る最も確かな言葉だった。


 憎しみは、ついに頂点に達した。


 澪は、黒崎剛一郎の冷酷な背中を見上げた。


 もはやそこにいたのは、父ではない。

 愛する者たちを次々に踏み潰していく、非情なる世界の支配者——彼女が討つべき、『巨大な罪そのもの』だった。





 手術室の重い扉が閉まった瞬間、その音は澪の胸を乱暴な鉄槌で乱暴に締めつけた。

 冷えた指をぎゅっと結び、彼女はまるで壊れ物を抱き寄せるように祈った。


 白い壁に掛けられた時計だけが、感情を持たない動きで秒を刻む。


「カチ、カチ」と響くその音は、沈黙を切り裂く断罪の刃のようで、澪の不安をえぐり続けた。


 長椅子の硬さが背中に痛いほど食い込み、座っているだけで心が削れていくようだった。

 ただひとつの願い――大切な風見さんが、生きて戻ってきますように。


 時間の感覚が、砂のようにこぼれ落ちていく。

 どれほど待ったのか、自分が呼吸していたのかさえわからなかった。


 ようやく扉が開き、疲労の色を浮かべた医師が姿を現した。


「……一命は取り留めました。

 ただ――」


 その一言だけで、澪の心臓が強く跳ね、次の瞬間には冷たく凍りついた。


「まだ予断を許さない状況です。

 峠は越えていません」


 安堵と恐怖が同時に胸に流れ込み、身体が小さく震えた。



 病室に移された風見のベッドの傍らに腰掛けると、彼の顔は蝋のように青白かった。

 微かな呼吸だけが、かろうじて『生』を示している。


 そのとき――。


「……黒崎だけは……許せない……」


 うわ言のように漏れた声は弱々しいのに、言葉そのものは鋭い、燃えるような刃を帯びていた。

 怒り。

 憎悪。

 命を焼く怨念。


 澪の胸の奥で、最後の感情のタガが音を立てて切れた。


 守りたい人をここまで追い詰めた『父』。

 風見を撃ち、彩花を破滅へ追いやり、すべてを操ってきた男――黒崎。


 気付けば澪の手は、風見の荷物に残された黒い拳銃を掴んでいた。

 冷たい金属の重みが、小さな掌に運命のように深く沈む。


 ――これは武器じゃない。

 ――これは、私の生き方を選択する引き金だ。


 そう理解した瞬間、迷いは霧のように消えた。



 澪は静かに立ち上がる。

 月光に照らされた背中が、幼さを残した少女のものでは完全になくなっていた。

 伸びた影は、復讐の女神の降臨を告げるかのように長く、鋭く揺れた。


 夜の廊下に、彼女の足音が乾いた音を刻む。

 広い屋敷の静寂を、自分の決意でひとつひとつ踏みしだくように。


 黒崎の部屋の前に立つと、澪は息を整え、ゆっくりと扉を押し開けた。


 部屋の中は静寂に包まれていた。

 剛一郎は窓際に立ち、外の闇を眺めていた。

 その手には、家族写真の額縁が握られている。

 彼は割れたガラス越しに、写真に写る妻と、そして幼い蓮と澪の笑顔を黙って見つめていた。


 澪は銃を構え、真っ直ぐにその男に向ける。


「……お父様」


 その声は微かに震えていたが、もはや後戻りしない確かな覚悟を宿していた。


 静まり返った部屋に、澪の父との決別の一言だけが、ひどく澄んだ響きを残した。




 蓮の隠れ家には、一時的な穏やかな時間が流れていた。

 暖炉の炎が静かに揺れ、薪が弾ける柔らかな音が部屋に確かな温度を与える。

 濃く淹れたコーヒーの香りが、雪の匂いすら忘れさせるほど温かかった。


 窓の外では、雪が世界を厚く白く塗り替えていた。

 その絶対的な静寂は、蓮の胸にある『黒崎を止める』という“決意”をより濃く際立たせる。


 母から託された言葉。

 悠斗から受け取った機密のプロメテウスの研究データ。

 蓮は、それを真剣な眼差しで読み込んでいく。


 複雑な数式や多層構造の設計図が、頭の中で高速で立体的に組み上がっていく。

 まるで、長らく失われていた巨大なパズルがついに少しずつ姿を現していくようだった。


「……これは?」


 蓮が一枚の設計図で指を止めた。

 瞬間、胸に予期せぬ小さな電流が走る。


「この装置……どこかで見た。

  間違いない」



「どうしたの、蓮?」


 彩花がそっと覗き込む。


「この構造、クロノス本部の地下設備に似てる。

  僕の記憶の断片に…… 確かに映っていた」


 蓮が息を呑むと、悠斗の表情が希望に明るく弾けた。


「本当に!?

 蓮、それは大きい!」


「でも……はっきりしない。

 断片だけなんだ……まだ霧の中みたいで」


「焦るな」

 

 悠斗は蓮の肩を軽く叩いた。


「蓮の脳は繋がってきてる。

 必ず辿り着ける。

 俺たちは、お前を信じてる」


 蓮はゆっくり瞼を閉じ、深く記憶の底へ沈んでいく。



 そのとき――。


 ――甲高い着信音が、静寂を爆ぜるように響いた。


 あまりにも突然で、全員の身体が小さく跳ねた。

 蓮は画面を見ると、そこには普段は連絡してこない「エリカ」の名が不吉に光っていた。


 この電話が、穏やかな平穏の終わりを告げていることを、蓮は本能的に察した。



「……エリカ?」


 通話ボタンを押した瞬間、彼女の声が雪を溶かすように優しく響く。


「蓮……聞いて。

 まず、風見さんのことだけど――心配しないで」


 その言葉に、蓮の身体から一気に力が抜けた。

 床に座り込みそうになるほどの安堵だった。


「彼は今、黒崎邸の医師が治療してる。

 重傷だけど……命には別状ないわ」


「……そう、か。

 良かった……本当に……」


 安堵の息が、胸の底からこぼれ落ちた。


 だが、エリカの次の言葉は、その安心をかき消すように微かに震えていた。


「……蓮。

 あなたに、どうしても伝えなきゃいけないことがあるの」


 蓮の心臓が、再び早鐘のように打ち鳴った。

 胸の奥で血液が逆流するような感覚に、息が詰まる。



「黒崎剛一郎――あなたのお父様のことよ」


 空気が、一瞬にして絶対的な沈黙に包まれた。

 暖炉の火がパチパチと弾ける音さえ、遠くに霞むほど静かだった。


「父……さん……?」


「落ち着いて、蓮。

 聞いて……。

 黒崎剛一郎は、あなたの“実の父親”よ」


 その言葉は、蓮が心の奥で恐れていた事実を、冷徹に確定させた。

  黒崎邸で見た写真、母の置き手紙、幼い頃の記憶の隙間に漂う影――全ての違和感と予感が、一つの線に恐ろしく収束していく。


「……どういう、ことなんだ……」


 蓮の声は震え、言葉にならなかった。

 事実の確定は理解が追いつかないほど重く、心が拒絶する。

 しかし現実は、容赦なく迫ってくる。


「黒崎はね……あなたを“息子”として育てたのは、クロノスに引き入れるためよ。

 全部、彼の計画の一部だったの」


 エリカの声は掠れ、途切れた。

 その中に、彼女自身の裏切り者としての痛みと葛藤までが、蓮の胸に伝わる。


 蓮は拳をぎゅっと握りしめた。

 暖炉の光に揺れる瞳だけが、怒りと真実の重みで炎のように燃えていた。


 父、黒崎剛一郎。敵であり支配者であり――そして血の繋がった父。

 蓮の中で、静かな炎がじわじわと燃え始めた。


 エリカは一呼吸置いた後、最も重い真実を告げた。


「……それは、彼が……あなたのお母さんを、本当に愛していたのよ」


 蓮の心に、予期せぬ落雷が落ちたような衝撃が走る。


 父が、母を――愛していた……?


 信じたい。

 しかし、クロノスの支配者であるこの男の残酷な現実を前に、信じてはいけない。


 視界が揺れ、心が波打つ。母の微笑み、父の涙。

 そして、自分の知らなかった二人の関係。


「彼はあなたを、クロノスの計画に組み込むため、利用したのよ」


 その瞬間、蓮の胸はえぐられるように痛んだ。

 愛ではなく、利用――。

 父という存在に寄せていた最後の小さな信頼が、音を立てて崩れていく。


 だが、崩壊の淵で、黒崎邸で見た“あの涙”が、蓮の心に割り込んだ。


 ――あれは、嘘だったのか?

 ――それとも本物だったのか?

 愛憎が、解決不能な葛藤となって渦巻く。



「あなたの父を止められるのは、あなただけ。

 救えるのも……あなただけなの」


 エリカの声は、冷たい残酷な運命を告げる神託のように響いた。

 憎むべき敵、愛してしまった家族。

 その両極が、蓮の心を裂き、深い葛藤を生み続ける。


 蓮は拳を握りしめ、暖炉の火を見つめた。

 炎がゆらぎ、影を伸ばす。


 その揺らぎの中で、彼は愛憎の鎖を断ち切り、心は決意を固めていく。


 ――父を止める。

 ――母の想いを無駄にしない。

 ――そして、クロノスを打ち砕く。


 深く息を吸い込み、蓮は静かに口を開いた。


「……僕が、やる」


 部屋に、愛憎を超越した決意の言葉が静かに、しかし力強く響いた。



「……最後に、もう一つだけ」


 エリカは泣き出しそうな震える声で言った。

 それは、彼女にとって最も告げたくない悲劇的な真実だった。


「――彼は、さっき……澪さんに撃たれたわ」


 蓮は息を呑んだ。

 呼吸が止まった。

 身体の内側から力が抜け、氷のような寒気が全身を駆け抜ける。


 父の顔。妹の顔。

 その二つが血と涙の中で衝突し、蓮の思考を粉々にかき乱した。


「澪が……?」


 蓮の声は掠れ、震え、まるで今にも絶望に泣き崩れてしまいそうだった。


「彼女は、あなたのお父様を……もう許せなかったの」


 エリカの声が痛みに耐えきれず細く切れる。


 雪が降り積もるような沈黙が流れた。


「父さんは……?」


「……命はあるわ。

 でも……意識は戻っていない」


 蓮の手が震える。

 スマートフォンを落としそうになるほど、全身が揺らいでいる。


 父の死線。

 妹の暴走。

 愛憎を巡る自分の存在理由の消失。


 すべてが同時に襲いかかり、蓮の心は悲痛な音を立てて粉々に砕け散りそうだった。



「澪は……無事なのか……?」


 それは蓮が愛する妹のために最後の力を振り絞って絞り出した言葉だった。


「ええ。

 身体は無事よ。

 でも……心は、深い嵐の中にいる」


 その光景が目に浮かぶ――澪が、ひとりで、憎悪と後悔の狭間で泣き叫ぶ心を冷たい廊下に閉じ込めている姿が。


 蓮は静かに目を閉じた。


 砕けた心の奥底に、ひと筋の火が灯る。

 それは憎しみではなく、すべてを受け入れる慈悲の炎だった。


「――父さんを助ける。

 そして……澪も、必ず救う」


 その声は微かに震えていたが、世界の重荷を背負うような確かな意志で満ちていた。


 エリカはその言葉に、こらえていた涙をこぼした。


「……頑張って、蓮」


 その声は、絶望的な状況での、最後の希望を託す祈りにも似ていた。



 電話が切れた後、蓮はしばらくその場に立ち尽くし、凍てつく冬の星空を仰いだ。


 凍てつく空気の下でも、彼の瞳には確かな光が宿っていた。

 それは希望というより――過去の全てを焼き尽くし、未来を切り開く決意の炎だった。


 蓮は深呼吸し、彩花と悠斗の待つ場所へ戻った。

 三人は風見の命が繋がったことに胸を撫で下ろしながらも、黒崎の危機を知って顔を曇らせる。


「……悠斗。

 彩花」


 蓮は、握りしめた拳を震わせながら、最も重い真実を吐き出した。


「黒崎剛一郎は……僕の、父さんだ。

 そして、僕たちは…… 兄弟 だったんだ」


 部屋の空気が凍り付いた。

 彩花は息を呑み、悠斗の顔は驚愕から一転、苦痛と激しい動揺に歪んだ。


「それでも、僕は諦めない」


 蓮は二人の手を強く握った。

 その指先に、これまでとは違う『世界の運命』を引き受けるという“覚悟”が宿っていた。


「必ず風見さんを救い、父さんを取り戻す。

 そして——クロノスを終わらせる」


 蓮の言葉に、彩花は静かに頷いた。

 しかし、悠斗は血を吐くような叫びを上げた。


「父さんだと!?

 まだそんなことを言うのか!

 ふざけるな!」


 悠斗は、叫ぶように暖炉脇のテーブルを血が滲むほど強く殴りつけた。

 薪が弾ける音よりも、その拳の鈍い衝撃の方が強く部屋に響く。


「あいつは、家族を裏切り、母さんを苦しめ、世界を壊そうとしている支配者だ!

 俺たちの血が、あいつと同じだというだけで、 それでも『父さん』だと呼ぶのか!?」


 悠斗の悲痛な感情が爆発し、蓮と彩花は言葉を失った。

 彼の目にも、黒崎を憎みきれない、断ち切りたいのに断ち切れない血の繋がりへの葛藤が炎のように燃えていた。



 やがて、悠斗は深く息を吸い込んだ。

 その瞳には、初めて見せる長年の秘密を吐露する懺悔の色が浮かんでいた。


「……ごめん、蓮。

 こんな時になって、本当にごめん。

 実は、俺は…… 知ってたんだ 」


 悠斗は震える声で告白した。


「以前、父さんの部屋でディスクの裏に伏せられた写真を見てしまった。

 父さん、君、澪、そしてエミさんの四人が写っていた……俺には、別の家族がいる、と知った。

 何より、君の顔は……俺にそっくりだった。

 確信はなかった。

 だが、もし真実なら、俺たちの家族は壊れる。

 俺は怖くて言えなかった。

 家族を壊したくなくて……」


 悠斗の告白を聞き、彩花はそっと蓮と悠斗、二人の手に静かに手を重ねた。


「私もそうじゃないかと思っていた。

 二人は顔だけでなく、抱えている運命的な痛みが似すぎているもの」


 蓮の眼差しは、怒りではなく、全ての苦悩を受け止める慈愛に満ちていた。


「悠斗。

 血の繋がりは変えられない。

 だが、僕たちの絆は、それ以上のものだ」


 三人を繋ぐのは偶然ではなかった。

 共有した痛みと、守りたいものへの揺るぎない想いが、血の繋がりを超えた、確かな『家族』の絆へと変わっていた。



「蓮」


 悠斗は、もはやためらいはない重い口を開くように言った。


「君の“特別な力”……今こそ使う時だ」


 蓮は目を伏せ、母の言葉を胸の奥からそっと呼び起こす。


 ――あなたの力を信じて。


 静かに拳を握りしめた瞬間、空気が激しい稲妻のように振動した。

 部屋の全てが一瞬にして無音になる。


 星明かりが吸い込まれるように蓮の周囲へ集まり、世界の理を塗り替えるような眩い光が彼の身体から爆発的に溢れ出す。


 それは、闇夜を切り裂く、純粋で絶対的な覚悟の光だった。


 希望と覚悟、そして彼の愛憎の全て、その両方が形を持ったかのような輝きは、クロノスの闇を照らす、新たな時代の幕開けを告げていた。


 蓮の瞳には、迷いの影はもうない。

 彼は全ての真実と痛みを “力” へと変え、運命の扉を力強く開いた。





 夜明け前の黒崎邸。

 深い霧が古びた屋敷を包み込み、音を吸い込むような静寂が支配する。

 ただ一つ、張り詰めた鋭い緊張だけが空気に漂っていた。


 エリカは息を殺し、剛一郎の部屋へと歩を進める。

 古い木製の床板が、彼女の足取りに合わせて悲鳴めいた軋み音を上げる。

 その音ひとつひとつが、張り詰めた神経をさらに鋭くする。


 扉の前で、彼女は立ち止まった。

 胸の奥で心臓が暴れる鳥籠のように早鐘を打ち、冷たい汗が背筋を伝う。

 そっと耳を澄ます。


 かすかに響く声――紛れもなく、剛一郎のもの。

 しかしもう一人、重く、存在感を放つ低く聞き慣れない声が重なっていた。


(ミスターX――やはりこの男が直接乗り込んできたのか。

 セバスチャンに嘘をついてまで探ろうとしたあの情報が今、目の前で……)


 エリカの心の中で、偽りの裏切りが成功しつつある戦慄が走る。


「…奥野彩花は、我々の計画の鍵となるだろう」


 剛一郎の声は普段より低く、疲労の色を帯び、しかし絶対に揺るがない冷徹さだった。


「彼女の持つ『神の因子』は、プロメテウスの力を飛躍的に高める。

 計り知れぬポテンシャルを秘めている」


「ほう?

『神の因子』とやらを、貴様はそう評価するか」


 ミスターXの声が、低く呟く。

 底なしの沼の底から響くような、不気味さを孕んでいた。


「彼女に埋め込まれた特別な遺伝子情報だ。

 父親である奥野博士が、密かに研究を進めていたものだ」


 剛一郎の声に、かすかな興奮が混じる。

 だがそれは狂気に近い、欲望の炎を帯びた音だった。


「しかし、奥野彩花は蓮の側に在り、クロノスに牙を剥いた。

 このままでは容易く、 その『鍵』 を手に入れることは叶わぬだろうな」


 ミスターXの低い声が部屋の空気を震わせる。


「だからこそ、蓮を利用するのだ。

 奴は必ず彼女を助けに来る。

 その瞬間こそ、我々の好機となる」


 剛一郎の言葉に、エリカは息を呑む。

 ――蓮を犠牲にする……?


「しかし…蓮様は、あなたの息子です。

 彼を犠牲にするつもりですか?」


 セバスチャンの声が、冷たくも割って入る。

 その深い動揺と抵抗が、言葉の端々から滲み出ていた。


「必要とあらば、それも致し方ない。

 全てはクロノス、そしてこの世界の未来のためだ」


 剛一郎の言葉は、あまりにも冷酷だった。

 エリカの瞳には、熱い涙が浮かぶ。

 この男が、本当に蓮の父親なのか――。

 冷酷な言葉の奥に、息子への愛情のかけらすら見えない。


 再びミスターXの低い声が響いた。


「む。

 だが、剛一郎よ。

 もう一つ、懸念材料がある。

 それは蓮の母親、桐谷エミだぞ」


「エミ…?」


 剛一郎の声が、一瞬だけ微かに震えた。

 微かな苦悩が滲む。


「彼女はプロメテウスの研究に深く関わっていました。

 蓮に、計画を阻止するための重要な情報を託している可能性もあります」


「…それは、厄介だな」


 剛一郎の声は、再び氷のように冷たくなる。


「心配には及ばん。

 何せ、 蓮はまだ自らの真の力にすら気づいていないのだ。

 我々が彼を掌中で操れば、全ては計画通りに 完璧に 進む 。

 そうであろう?」


 ミスターXの声は、有無を言わせぬ絶対的な自信に満ちていた。


「…承知した」


 剛一郎は静かに答える。


 エリカは壁に背中を押し付け、体温を奪われたように全身が冷たくなった。

 彼女が裏切りを偽装して得ようとしたミスターXの情報は、あまりにも残酷なものだった。

 蓮の母の意図と、クロノスの最終目的が今、鮮明に繋がった。



 エリカは、これ以上耳を傾けることができなかった。

 扉の冷たさが、心臓の鼓動と同じくらい激しく震える手に伝わる。

 深呼吸をひとつし、静かにその場を離れ、自室へ戻る。


 廊下の薄暗い照明が、彼女の胸のざわめきを増幅させた。

 混乱、恐怖、そして抑えきれぬ焦燥――心は渦巻く暗闇の中にあった。


 黒崎剛一郎の背後には、もはや人間ではないようなさらに恐ろしい存在が潜む。

 その名は――ミスターX。

 一体、彼は何者なのか。

 そして、その目的とは、クロノスの計画のその先にあるものなのか。


 エリカは、深い闇の底に足を踏み入れたような感覚に襲われる。

 まるで、得体の知れない怪物が背後で息を潜め、生唾を飲み込む音さえ聞き逃さず、牙をむいているかのような恐ろしさだ。




 重い決意と共に書斎に足を踏み入れると、重厚な調度品が静謐な空気を支配していた。

 昨日も感じた冷たい視線が、今日も鋭く突き刺さる。


 黒崎は、革張りの椅子に深く腰掛け、微動だにせずエリカを睨む。

 その姿勢は、絶対的な支配者以外の何者でもなかった。


「エリカ、蓮たちと繋がっていることは知っている」


 言葉は静かな水面に巨大な石を投げ込むように、エリカの心に激しい波紋を広げた。


「部下が、君を密かに尾行させていたからだ」


 淡々とした声。

 だが、その冷たさは全身の血液を凍らせる。


 恐怖と怒りが交錯し、エリカの手が小さく震える。

 拳を握りしめたが、すぐに平静を装う。

 黒崎は、その一瞬の呼吸の乱れを見逃さない。


 口元に浮かぶ笑みは、不気味で狂気じみていた。


「知っているのか?

 君の一挙手一投足は全て筒抜けだ。

 いつでも蓮や彩花や悠斗を始末できる。

 だが、泳がせている」


 氷の刃のような声が、エリカの胸を締め付ける。


(泳がされている……私だけではない。

 彼ら全員が、この男の手のひらの上だというのか――)


 父親の顔が脳裏をよぎる。

 優しい笑顔、遠い表情、愛した記憶と怒りが同時に襲う。

 しかし表に出せば、父の身に危険が及ぶ。

 必死に感情の全てを押し込めるしかなかった――彼女の顔は、完璧な無表情の仮面で覆われた。



「もう一度、スパイをするんだ」


 黒崎はゆっくりと立ち上がり、静かにエリカに近づく。

 その足音は床板に響かず、まるで漆黒の影が動くかのように忍び寄る。


「奥野彩花をおびき寄せるのだ。

 蓮や彩花、悠斗たちと仲間のふりをし、クロノスコーポレーションに誘い出す――ただそれだけでいい。

 もちろん、彼らの命も保証する」


 黒崎はエリカの肩に手を置き、囁くように言った。

 その手の温もりと顔の笑みが、あまりにも不気味で歪んでいた。

 目には狂気じみた底の見えない光が宿り、静かな威圧感が部屋中を満たす。


(まるで悪役の台詞をリハーサルしているみたいね……)

 エリカは心の中で小さく呟いた。


「だが、もし断ったら――」


 黒崎はそこで言葉を切る。

 部屋は絶対的な沈黙に包まれた。

 暖炉の火が恐怖にかすかに揺れるだけ。

 時計の秒針の音が、鋭く、処刑のカウントダウンのように耳障りに響く。



 エリカは息をするのも忘れ、黒崎の次の言葉を待った。

 恐怖に全身が震え、心臓は胸を突き破りそうに高鳴る。

 それでも、瞳は逃げずに、 黒崎をまっすぐに見つめた。


「もし私が断ったら――あなたは本当に、私の父親を殺すのですか?」


 黒崎の表情が、一瞬だけ歪む。

 怒りなのか、苛立ちなのか、それとも裏切り者への哀れみか――エリカには読み取れなかった。


「君の父親も、蓮たちも、始末する」


 その声は死神の囁きのように冷たく、一切の迷いを排した暗黒の力を帯びていた。


 絶望の淵に立たされたように、エリカの心は揺れた。

 愛する父を人質に取られ、蓮たちを裏切るか。

 それとも全てを失い、自分自身が消えるか。


 心の奥で、小さな炎が灯る。

 エミとの約束、蓮たちとの絆が生んだ、抗いがたい希望の光――それは冷たい恐怖に抗う、彼女自身の魂の声だった。



 黒崎はその反応を、獲物を見定める薄い笑みで眺めた。


 再び椅子に腰を下ろし、冷たく言う。


「明日までに、返事を聞かせてくれ」


 その言葉は、静かに、しかし深くエリカの心に刻まれる。


(裏切り者にさせられるのは、一度ではない。

 だが、私は父と、蓮たちを守るために、この偽りの取引に応じる)


 黒崎の過去。

 謎の人物“ミスターX”の存在。

 全てが、この残酷な状況を作り出しているのだろう――エリカは、黒崎の瞳の奥に次の手がかりを探そうとする。

 だがその奥は、深く、暗い闇で閉ざされていた。


 エリカは、偽りのスパイとして再び蓮たちの側に戻ることを、胸の奥で秘かに決意した。



「よく考えろ、エリカ。

 君の選択次第で、多くの命運が決まる」


 冷たく響くその声に、恐怖と絶望、そして守り抜くべきものへのわずかな希望が混ざり合い、エリカの心は大きく揺れた。

 その揺れが、やがて彼女の裏切りを装う決意の火種となる――


 エリカの脳裏に、幼い頃の記憶が痛みと共にかすかに蘇る。


 借金に追われ、疲れ果てた父の姿。

 夜遅くまで働き詰めで、険しい表情ばかりの父。

 彼は家族のためと言いながら、次第にクロノスという名の巨大な力にのめり込んでいった。

 借金を帳消しにするという悪魔の甘い囁き――その裏に、魂を喰らう深い絶望が潜んでいるとは、まだ知らなかった。


 母は、かつて優しい笑顔でエリカを抱きしめ、何度も「必ず迎えに行くからね」と約束してくれた。

 しかしその言葉は空虚に響き、母はある日、何の言葉も残さず忽然と姿を消してしまった。


 あの日、家の窓から遠ざかる母の背中を見つめた幼い自分。

 一度も振り返らなかった母――それが最後に見た母の姿であることを、子ども心に消せない傷として覚えた。

 母は自分を捨てた――その現実が胸に重くのしかかり、父の変化はさらに彼女を傷つけた。



 母がいなくなった後の父は、優しさのかけらも残さず、冷酷で遠い存在になっていった。

 借金に苦しむ父はクロノスに全てを賭け、娘の存在すら、自分を救う使い捨ての駒として利用していた。


 クロノスの陰に取り込まれた父の冷徹な姿を前に、エリカの胸は二度と癒えない痛みで張り裂けそうになる。


 しかし、絶望の中にも、彼女の心には静かな炎が灯っていた。

 それは――支配されながらもまだ父の心の奥底に残る、僅かな人間性への最後の希望の光だった。


 エリカは決意した。


 黒崎の言葉に従うふりをしながらも、心の奥で決して曲げない揺るぎない覚悟を胸に秘めた。

 たとえその道が茨に覆われ、血の匂いが立ち込める困難なものであろうとも――愛する父を見捨てることはできない。

 彼をこの闇から引きずり出す。

 彼が最後に流した涙、それは彼女が信じる本物の人間性の証なのかもしれない――


 拳を握りしめ、深く息を吸う。

 心の炎は、恐怖や悲しみを越えて、使命感として燃え上がった。


 ――エリカは、孤独な二重スパイという危険な賭けに出ることを、静かに、しかし血の滲むような確かな覚悟で決めたのだった。





 その頃、風見はリハビリ室で獣のような荒い息を吐いていた。


 張り詰めた筋肉が断末魔の悲鳴を上げ、玉のような汗が床に水たまりを作り滴り落ちる。

 歯を食いしばり、ただ「動く」こと、「生きること」だけを身体に刻み込むその姿は、鬼気迫るものがあった。


 だが、その皮膚の下には、彼自身が知るよしもない冷たい鎖が潜んでいた。


 手術の際、命を救う処置に見せかけて密かに埋め込まれた極小のGPSチップ。


 それは黒崎による最新鋭の首輪であり、風見を泳がせることで残党を炙り出すための、あまりに冷徹な罠だった。

 風見が再び歩き出したその瞬間から、彼の自由は憎むべき黒崎のてのひらの上にあるのだ。



 その様子を静かに見守る男がいた。セバスチャンだ。


 本来、黒崎が彼に下した命令は許容しがたい残酷なものだった。


『風見を再び薬物ネメシス漬けにし、クロノスの忠実な操り人形に戻せ』――と。


 しかし、セバスチャンはその命令を冷然と呑まなかった。


「意識を奪えば、獲物は寄ってきません。

 泳がせてこそ、 より多くの情報を引き出す 意味があります」


 そう論理的に進言し、薬物の使用を回避したのだ。

 それは黒崎の利益を優先した合理的判断のように聞こえたが、セバスチャンの胸中にあるのは、もっと個人的で、抑えきれない複雑な感情だった。



 風見の汗をタオルで拭いながら、セバスチャンは静かに告げる。


「無理はいけません。

 ……黒崎会長はいまだ意識不明のままです。

 あなたが焦っても、状況は変わりませんよ」


 もちろん、この上ない嘘だ。

 黒崎は健在であり、この会話すらも監視の対象かもしれない。


 それでも風見を救いたいという個人的な「情」と、黒崎への長年の絶対的な「忠誠」。

 そしてエリカへの贖罪の意識。

 相反する感情が、セバスチャンの心の中で激しい嵐のように渦巻いていた。


 ――なぜ、俺はクロノスの敵であるこの男に肩入れするのか。


 一心不乱にリハビリを続ける風見の瞳。

 その、絶望の淵から這い上がろうとする、諦めない光を見た瞬間、セバスチャンの脳裏に、長らく鍵をかけて封印していた過去の記憶が、激しい痛みを伴いフラッシュバックした。



 かつて、セバスチャンは『心』という『機能』を持たない殺し屋だった。


 幼くして家族を奪われた後、彼はある組織の非人道的な生体実験により、脳に「感情処理回路エモーショナル・プロセッサー」を埋め込まれていた。

 全ての感覚、痛み、後悔は瞬時にデータ化され、「無意味な情報」として消去される。


 復讐のためだけに血に染まった手は、標的を仕留めるたび、自身の存在意義を磨耗し、空洞化していく。

 セバスチャンにとって、殺しはただの計算と実行であり、感情の伴わない冷たい現象でしかなかった。



 転機は、ある電磁嵐の夜だった。


 彼の組織が追っていた標的は、通常の物理法則に干渉する、不可視の存在(非物質的なプロトタイプ兵器)。

 激しい戦闘の最中、セバスチャンは組織から与えられた特殊な位相銃フェイズ・ガンを発射した。


 その一撃は、標的を正確に貫いた――と同時に、その存在が保持していた時空間の微細な歪み、 そしてそれに付随していた 『ある概念』を、連鎖的に破壊してしまったのだ。


 崩壊した不可視の歪みから、純粋な『感情データ』がセバスチャンの回路に逆流した。

 それは、破壊された存在が持っていた「未来への希望」の断片であり、彼の脳内で初めて未処理の情報として認識される。


【ERROR: 新規感情データ受信。

 名称:コウカイ。

 処理不能】


 冷たい機械だったセバスチャンの歯車が、焼き付くような痛みと共に狂わせられた。

 彼は初めて、「破壊してはならないもの」を破壊したのだと、演算ではなく、感覚で理解した。


『もう、誰の希望も……砕きたくない……』



 組織を裏切り、追っ手に追われ、傷だらけで逃げ込んだ古びたクロノス所有の教会跡。


 そこで出会ったのが、黒崎だった。

 黒崎は、血と泥にまみれたセバスチャンを見下ろし、その脳内の回路が発する未処理の信号をすべて見透かしたように言ったのだ。


「お前には、まだ生きる価値がある。

 その 『バグ』 こそが、お前の存在証明だ。

  ――償いの機会をやろう」


 その言葉は、凍てついていたセバスチャンの心に灯った唯一の光だった。

 黒崎が与えてくれた「クロノスでの新しい人生」。


 それだけが、罪深い自分が生きることを許される場所だった。

 だからこそ、黒崎への忠誠は絶対であり、自分の命以上の重みを持っていたはずだった。


 だが今、目の前にいる風見もまた、かつての自分と同じように傷つき、それでも生きる意味を見出そうとしている。


 黒崎を裏切ることはできない。

 だが、風見を再び闇に突き落とすこともできない。

 セバスチャンは握りしめた拳を、回路に逆流する痛みで震えるように隠した。


 風見の瞳にかつての自分の姿を見たセバスチャンは、震える拳を握りしめ、ある決意を固めていた。

 それは、絶対君主である黒崎の命令に背くこと。


 風見を再び闇に突き落とすのではなく、人間として『希望』を持って生きる道を残すこと。

 それが、多くの概念を奪ってきた自分なりの「償い」の形だった。


 たとえそれが、黒崎という唯一の理解者を裏切る行為に見えたとしても、セバスチャンは信じていた。

 この選択こそが、最終的には支配者として行き詰まった黒崎自身の魂をも救うことになると。




 数日後。

 風見はリハビリ施設の窓辺に立ち、眼下に広がる緑豊かな庭園を見下ろしていた。

 手入れの行き届いた芝生、穏やかな木漏れ日。ここはまるで楽園のレプリカのようだった。


 だが、風見にとってそこは、美しいだけの「金色の檻」に過ぎなかった。


 庭園を行き交う他の患者たち――彼らの多くは、クロノスコーポレーションによって使い潰され「消費」された人々だった。

 過酷な労働で精神を病んだ社員、実験の過程で健康を損なった被験者たち。

 彼らはここで手厚い看護を受けているが、その目は一様に虚ろで、魂を失っている。


 風見はリハビリの合間に彼らと言葉を交わす中で、徐々に失っていた人間らしい感情を取り戻しつつあった。

 スプーンを落とした老人に手を貸し、悪夢に怯える青年の背をさする。


 だが、彼らに触れれば触れるほど、クロノスという組織の底知れぬ悪意が、風見の肌を粟立たせた。

 ここは病院ではない。

「生きた証拠」を隠滅するための、美しく偽装された「保管庫」だ。



 風見は窓ガラスに映る自分の顔を憎しみを込めて睨みつけた。


 その脳裏をよぎるのは、決して忘れられないエリカの笑顔だ。


 共に戦い、背中を預け、信頼していたパートナー。

 彼女の裏切りは、風見の心臓に突き刺さった冷たい棘のように、抜けることなく疼き続けている。


『あの日々も、あの笑顔も、すべて演技だったのか?

 私だけが、愚かにも信じていたのか? 』


 疑心暗鬼が心を蝕む。

 だが、怒りや裏切られた痛みと同じくらい、彼女の身を案じる自分がいることにも気づいていた。

 もし、彼女もまた黒崎の脅迫によって何かに囚われているのだとしたら?

 この矛盾した感情こそが、風見を動かす原動力となっていた。



「黒崎会長はいまだ意識が戻らない」


 セバスチャンの言葉が、風見の中で警鐘のように反響する。


 ――嘘だ。


 風見の研ぎ澄まされた直感がそう告げていた。

 黒崎ほどの男が、ただ眠っているはずがない。


 そして、この施設の完璧すぎる管理体制。

 トップ不在の組織が、まるで強固なプログラムのようにこれほど統率されていること自体が不自然なのだ。

 黒崎は、意識がなくても、あるいは意識が戻っていても、何らかの形でここを支配している。


 クロノスとの戦いは終わっていない。

 いや、むしろ、より深く、より静かな、情報戦へと移行しているだけだ。


 エリカはどこにいるのか。

 真実はどこにあるのか。


 この檻の中で餌を与えられているだけでは、決して答えには辿り着けない。


 風見は、窓ガラスに映る監視カメラの死角と、警備員の巡回ルートを目で追い始めた。


 セバスチャンには命の恩がある。

 だが、彼もまたクロノスの人間だ。何も告げるわけにはいかない。


 風見の瞳から迷いが消え、獲物を狙う猛禽類のようなかつての鋭い光が戻っていた。


 すべてをこの目で確かめる。


 風見は静かに、しかし確固たる意志を持って、この美しき「金色の檻」を破り、真実を掴む計画を練り始めた。



 厳重な警備網を前に、風見が足を止めたその時、背後から白い影が近づいた。


 看護師のマリアだった。

 彼女は怯えたように周囲を警戒しながら、無言でカードキーを風見の手に押し付けた。


「……西側の通用口。

  警備システムが、 今だけ切れています」


 震える声。

 彼女の瞳には、かつてクロノスの実験施設で見せられた地獄の記憶が焼き付いていた。

 風見の境遇を知り、彼女の中で「人間性」のタガが音を立てて弾けたのだ。


「私は、この場所で、 あまりにも多くの『死』 を見てきた。

 ……あなたには、生きて、この地獄を終わらせてほしい」


 マリアの言葉には、深い懺悔と未来への祈りが込められていた。

 風見は言葉を失い、深く頷いた。


「ありがとう、マリア。

 必ず、 生きて戻る」


 マリアは小さく頷き、影のように闇へと消えていった。



 風見は白衣を羽織り、マスクで顔を覆って廊下を進んだ。


 すれ違う警備員たちは、風見を一瞥しただけで素通りしていく。

 あまりにも容易い。

 容易すぎて、背筋に冷たい水が流れるようだ。


(やはり、泳がされているのか……

 GPSチップは既に起動している)


 風見は罠であることを確信しながらも、あえてその「蜘蛛の糸」を掴んだ。

 外に出なければ、何も始まらない。

 この罠の向こうにこそ、真実がある。



 その様子を、モニター室の暗闇の中でセバスチャンが見つめていた。


 風見が敷地を出た瞬間、彼は通信機のスイッチを入れた。


「対象、確保ポイントへ移動中。

 ……計画通りです」


 その声は冷徹だったが、握りしめた手には皮膚を突き破るほど爪が食い込んでいた。

 これでいい。

 風見を泳がせ、仲間を一網打尽にする。

 それが黒崎の描いたシナリオであり、最も効率的な「解決策」のはずだった。


 だがその時、モニターの解析データが激しい緊急を示す赤色に点滅した。


『Warning: Detonator Linked』


 セバスチャンの目が極限まで大きく見開かれた。


「……起爆装置?」


 GPSチップの仕様書には記載されていない、隠蔽された機能だった。

 追跡だけではない。

 風見が用済みになった瞬間、あるいは捕獲に失敗した瞬間、遠隔操作で彼の全てを吹き飛ばすための爆弾――


 黒崎は、最初から風見を 『生きている証拠』 として残すつもりなど、微塵もなかったのだ。

 セバスチャンの体内に埋め込まれた「感情処理回路」が、制御不能の絶望と怒りを、初めて発した。



「そんな……約束が違う……!」


 セバスチャンの心の中で、長年にわたる絶対的な忠誠の塔が、地鳴りのような音を立てて崩れ落ちていく。

 激しい怒りと、唯一の理解者に裏切られた悲しみが胸を焼き尽くした。


 その時、懐の携帯が不吉に震えた。

 非通知設定。


 耳に当てた瞬間、切羽詰まった声が響く。


『セバスチャン!

 聞いて!』


 エリカだった。


『風見さんを止めて!

 あれは捕獲作戦じゃない、処刑よ!

 剛一郎さんは、風見さんごと証拠を消す気だわ!』


「……知っている!」


 セバスチャンは低く呻いた。


『お願い、彼を助けて……!

 あなたなら、まだ間に合うはずよ!』


 通話が切れる。

 静寂が戻った部屋で、セバスチャンは自身の胸に問いかけた。

 黒崎への報告義務。

 自身の保身。


 だが、脳裏に浮かぶのは、リハビリで汗を流す風見の、あの絶望を知りながら前を向く真っ直ぐな瞳だった。


「……クソッ!」


 セバスチャンの埋め込まれた感情処理回路が許容範囲を超えて悲鳴を上げた。

 彼は通信機を床に叩きつけ、自らの運命を賭して部屋を飛び出した。



 夜の路上。

 風見は足を止めた。


 静寂を破り、数台の黒塗りの車が逃げ道を断つように前後を塞ぐ。

 ヘッドライトの強烈な光が、風見の全身の影を射抜いた。


 車から降りてきたのは、冷徹に武装した男たち。

 その数、十数人。


 やはり、ただ逃がすつもりはなかったか。


 風見が構えを取ろうとした瞬間、男たちの一人が無機質な声を上げた。


「抵抗は無意味だ

 ……処理しろ」


 銃口が一斉に、冷酷に風見に向けられる。

 もはや格闘でどうにかなる状況ではない。


 死――その冷たい感触が風見の肌を撫でた、次の瞬間だった。


 キキーッ!! ガガガッ!!


 耳を劈く轟音と共に、一台の重厚なバイクが割り込み、風見と男たちの間に滑り込んだ。


 タイヤスモークの中から現れたのは、革ジャンに身を包んだセバスチャンだった。


「セバスチャン……!?」


 風見が驚愕の声を上げる。



 セバスチャンは風見に背を向けたまま、長年の主である黒崎の部下たちに銃口を向けた。

 その瞳には、一切の迷いを断ち切った悲壮な決意と、燃えるような闘志が宿っていた。


「退け、セバスチャン! これは会長の命令だ!」


 部下の怒号に対し、セバスチャンは静かに、しかし腹の底から絞り出すように断固として言い放った。


「断る。

 ――この男の命は、 今日から 私が預かる」


 それは、彼にとって黒崎への決定的な裏切りであり、冷酷な機械としての人生を捨て、二度と後戻りできない修羅の道への血塗られた第一歩だった。





 深い闇に包まれた部屋で、澪は一人、ベッドの隅に胎児のように身を縮めていた。


 呼吸をするたびに、肺の奥が鉛のように重く張り裂けそうに痛む。

 それは、物理的な傷ではなく、内側から自己を蝕む罪悪感の重さだった。


 目を閉じても、瞼の裏にはあの地獄の光景が焼き付いて離れない。

 轟音、そして世界を真っ白な虚無に染めた閃光。

 その直後、まるでスローモーションのように、父が床に崩れ落ちた血と硝煙の、あの生々しい匂い。


「私が……私がお父さんを……この手で……」


 乾いた声が、部屋の空気に断末魔の叫びのように吸い込まれて消える。

 自責の念に苛まれるその呟きは、もはや涙も枯れ果てた彼女の魂の慟哭だった。


 澪の視線は虚ろに天井を見つめている。

 そこには、ただ漆黒の闇が広がっているだけ。

 父への深い愛情と、愛する人を傷つけたという極限の絶望、そして、すべてを仕組んだ黒崎への激しい憎悪が、体内の血液のように嵐となって渦巻いていた。


 生きながらにして、精神の死を迎えた澪は、孤独と恐怖の冷たい波に全身を覆われ、震える右手でシーツを深く掴んだ。



 そんな澪を、一人の女が静かに見守っていた。

 クロノスが誇るエリート心理カウンセラー、田中 理沙だ。


 組織の冷徹な空気とは裏腹に、彼女の表情は常に穏やかで、人間の心の機微を捉えるガラスのように鋭い光を宿している。

 理沙は、澪の心の痛みを深く理解していた。

 そして、組織の非道に心が壊されていく澪を、自分の分身として、何としてでも救い出したいと強く願っていた。


 理沙もまた、クロノスの『最高傑作』として完成された、 哀しい犠牲者だったからだ。


 かつて、理沙の父も、組織の実験に巻き込まれて命を落とした。

 幼い頃に全てを奪われた理沙は、皮肉にも、その加害者であるクロノスに教育され、最も優秀なエリートとして育てられた。


 彼女は毎日、この暗い部屋を訪れる。

 言葉は多く発さない。

 ただ、冷え切った澪の手を静かに握り、肩に触れた。時にはそっと涙を拭い、温かいハーブティーを淹れる。


 その献身は、任務ではない。

 それは、過去の、救えなかった自分自身へ向けた、遅すぎた静かなる弔いの儀式だった。



 しかし、理沙の心は深く深く葛藤していた。


 彼女は、クロノスコーポレーションの一員であり、黒崎への絶対的な忠誠を誓っている。

 澪を観察し、精神崩壊のプロセスを報告することが彼女の絶対的な任務だ。


 だが、鏡に映るように自分の境遇と重ね合わせた澪の苦しむ姿を見るたびに、組織に対する堪えきれない罪悪感が胸を締め付ける。


 愛する父を奪った組織に身を置きながら、その組織に傷つけられた娘を救おうとする――このねじれた行為。


 理沙の心は、絶対的な「任務」と、抑えきれない「人間性」という、二つの巨大な力の間で、出口の見えない迷路を彷徨っていた。


 彼女が澪の手を握る力は、他者を救おうとする最後の優しさか、それとも組織を裏切る最初で最大の恐怖か。

 その区別すら、もはや理沙自身にも判別がつかなくなっていた。




 理沙は、ある日、静寂が支配する部屋で、一枚の色褪せた写真を取り出した。


 それは、幼い頃の澪と、屈託のない笑顔を浮かべた父親が写っている、二度と戻らない過去の幸福の断片だった。


 澪の虚ろな視線が、その写真の紙焼きの失われた温かさに縫い止められる。

 凍りついた彼女の指先が微かに震え、理沙は心の固い扉がほんのわずかだが軋みながら開いたのを感じた。


「澪さん。

 あなたは、 お父さんを心から愛していますか?」


 理沙の問いかけは優しく、まるで魂に語りかけるささやきのようだった。

 澪は乾いた喉で、小さく、しかし全身の力で頷いた。


 理沙は写真をそっと閉じ、静かに語りかける。


「だったら、その気持ちを決して手放さないで。

 その重い罪悪感は、 あなたが愛する人を今も守りたいという、 消えない 強い誓いの裏返しです」


 彼女は澪の冷たい手を握り、静かに力を込めた。


「あなたは、決して一人ではありません。

 私も、 そして 、 あなたのお父さんの深い愛も、ずっとあなたのそばにあります」


 理沙の言葉は、まるで何重にも重ねられた暖かい毛布のように、澪の心を包み込んだ。


 張り詰めていた心が、ぷつりと音を立てて切れた。

 澪は、堰を切ったように声もなく泣き崩れる。

 その涙は、悲しみの氷を溶かす熱い水となり、彼女の背中を優しく抱きしめる理沙の肩に深く染み込んでいった。


 窓の外では、雪が音もなく降り積もっていた。

 二人の間に流れる時間は、暗闇の中の小さな聖域のように温かかった。



 理沙の献身的なケアによって、澪の心は、凍結から少しずつ解放されていった。


 彼女は、父親を傷つけてしまったという事実を、逃げるのではなく、生き残った者の魂に負った代償として受け入れ始めた。

 そして、いつか必ず、自らの罪と向き合い、父親に謝罪し、許しを請う――その強い希求こそが、 彼女をこの世に繋ぎ止める 生きるための灯火となった。


 しかし、澪は知る由もなかった。


 部屋の隅、天井との境界線に獲物を狙う目のように巧妙に隠された小さな監視カメラが、彼女たちの聖域のすべてを冷酷に記録していることを。


 そして、その映像を、黒崎が遠く離れた場所の巨大なモニター越しに見つめていることを。


 液晶画面に映る、泣き崩れる澪と、優しく抱擁する理沙の姿。


 黒崎は、その温かい光景を氷のように冷酷な眼差しで見つめながら、口元に薄く、不気味な笑みを浮かべた。


 それは、同情でも、満足でもない。人間が絶望の底から這い上がり、 希望という名の 「新しい鎖」 に自ら繋がれていく様子を、 一歩引いた場所から眺める支配者の 極上の 愉悦だった。


 この再生は、長い道のりの始まりだった。

 しかし、澪はもう独りではない。

 理沙という理解者が、彼女の心を支えている。

 そして、その心の奥底では、父親への深い愛が、絶望の闇の中でも、決して消えない炎として燃え続けていた。




 エリカが、倉庫街の隠れ家の金属製の階段を上り切った瞬間、部屋の空気が氷点下まで張り詰めた。


 蓮は、テーブルに広げられた地図から顔を上げ、エリカを見据える。

 数日前、彼女が告げた父親の正体と、その冷酷な闇。

 蓮の表情は、まだその衝撃から立ち直れておらず、嵐の前の海のような静かな怒りと、隠しきれない深い悲しみが、氷の刃となってエリカに向けられた。


 その間に割って入ったのは、悠斗だった。


「エリカ!

 よく来てくれた。

 君の協力が 今こそ 必要だ」


 悠斗は驚きつつもすぐに状況を把握し、壁となるようにエリカを庇う。

 その行動に、蓮は一瞬、険しい表情を見せたが、やがて静かに頷いた。


 二人の間に過去の裏切りの影がわだかまっているのは明らかだったが、今は共通の巨大な敵を前に、私情を挟むことは死を意味した。




 蓮は、緊張を解くように小さく息を吐いた。


「エリカ、その前に少し待ってくれ。

 彩花と二人で、資材の調達とルートの確認を済ませてくる。

 悠斗、その間にエリカに施設の状況を伝えておいてくれ」


 蓮と彩花が倉庫の外へ出た瞬間、張り詰めていた空気は、より個人的で、密度の高い静寂へと変わった。


 エリカがソファに座るのを待って、悠斗は初めて、蓮ではない自分の、深く沈んだ感情を瞳に宿らせた。



 悠斗は、静かに、そして誰もいない部屋の隅々まで確認するように周囲を見渡してから、口を開いた。


「エリカ。

 君が、亡くなった兄、 隆二 の最後の時間、彼の 『普通の人生』 の瞬間を、たった一人で見ていたことを、知っている」


 エリカの体が、びくりと震えた。

 兄隆二の名前は、蓮との間でさえ、長らくタブーだった。

 その最も個人的な秘密を、今、蓮の影であるはずのこの男が口にした。


 悠斗の瞳は、いつも蓮として見せる優しさではなく、すべてを諦めたような冷たい透明感を湛えていた。

 その視線は、観測者として兄の死の映像を何千回と再生した者の、悲壮なまでの理解を含んでいた。


「君は、蓮のために、父の側にいるという地獄の道を選んだ。

 そして、私自身が、その蓮の『影』として、君の傍に立つことしかできない。

 君の苦しみを、誰よりも近くで観測しながら、救いの手を差し伸べる『権利』すら、本物である蓮に譲るために、持っていない」


 悠斗の声は、静かで感情を排していたが、それは自身の魂を削り、生きた証を否定するような苦痛を物語っていた。


「だが、君が蓮の隣に立ち、君の純粋さが蓮を闇から引き上げている。

 だから俺は、影として、君の 『贖罪の観測者』 であり続ける。

 君が愛する人が、最後まで光の存在でいられるように、この命を懸けて、 君の愛そのもの、そして兄の最後の願い を守る」


 悠斗の愛は、蓮とエリカの未来という名のパズルを完成させるため、永遠に報われないという形で、最も重要なピースとなった。

 エリカは、涙を流すことさえできず、ただ悠斗を見つめていた。

 この男の瞳に宿る愛が、自己犠牲の極致であり、蓮のそれに劣らない、深く、そして永遠に影に留まる純粋なものであることを悟る。


 悠斗は、悲しい笑みを浮かべ、再び蓮の表情に戻る。


「さあ、話は済んだ。

 施設の状況を話そう。

 蓮たちが戻る前に」



 エリカは深く息を吸い込み、室内へ差し込む西日の中で経緯を話し始めた。


 横顔は陰影に覆われ、恐怖に震えながら黒崎の書斎に忍び込み、自身の魂と引き換えに危険な情報を抜き取った彼女の悲壮な覚悟を物語っていた。

 愛する父と、蓮たち仲間、その間で引き裂かれながらも、彼女は決死の覚悟で行動していたのだ。




「まず、みんなに伝えたいことがある」


 エリカは、一度、言葉を区切ってから、重い事実を告げるようにゆっくりと口を開いた。


「黒崎の意識が…… 完全に 戻ったの」


 その言葉を聞いた蓮の表情は、一瞬にして複雑に歪んだ。

 驚き、そして一秒遅れて浮かんだのは、本能的な肉親への安堵だった。

 彼の声はかすかに震える。


「本当か……?

 父さんは……」


「ええ。

 まだ会話は完全じゃないけど、少しずつ応答ができるように回復しているわ」


「よかった……」


 蓮は胸を撫で下ろしたが、次の瞬間、その安堵はすぐに絶対的な支配者の再来という冷たい恐怖に塗り替えられた。



「それと、澪は……?」


 蓮が次に口にしたのは、世界の危機でも、黒崎の動向でもなく、ただ一人の妹の安否だった。

 その優しい声が、エリカの心に深く響く。

 この極限状態にあっても、真っ先に家族を気遣う蓮こそが、闇を打ち破る真の光だと、彼女は確信した。


 エリカは強い意志を込めた眼差しで、まっすぐ蓮を見つめた。


「澪さんも、落ち着いているわ。

 心の傷は深いけど、前を向き始めている。

 そして、風見さんも、 あの完璧な リハビリ施設を…… 自力で 脱出したわ」


 蓮の目には、熱いものがこみ上げてきた。

 それは、妹の無事と、仲間たちの生存を知った生への喜びの涙だ。

 だが、それ以上に、冷酷な父親と、自分を犠牲にする仲間たちの間で板挟みになっている現状への激しい憤りが、彼の心を満たしていた。


「ありがとう、エリカ」


 蓮は、心からの感謝を込めて言った。

 その声は、もはや感傷ではない。全てを受け入れた決意に満ちていた。


「君が命懸けで持ち帰った情報、 決して 無駄にはしない。

 ……これからは、僕たちが父さんを 正しく 止める」


 エリカは無言で蓮の手を握りしめた。

 蓮の指先から伝わるのは、優しさではなく、試練を共に乗り越える強い意志だ。


「蓮。

 あなたならきっと、お父さんを 呪縛から 救い出し、この闇を終わらせることができる。

 私たちも、 命を懸けて、 あなたを支えるから」


 苦難を共にし、最も辛い真実を共有した二人。彼らの間に生まれた絆は、血縁や友情を超えた、共通の「使命」に裏打ちされた、運命的な盟約の証だった。



 エリカは深く息を吸い込み、悲しみと、しかし鋼のような揺るぎない覚悟を秘めた目で仲間たちを見渡した。


 事務所の隅で灯る裸電球が、彼女の横顔を悲劇的に照らし出す。


「実は、彩花さんの能力について、新たな、そして この世界の運命を分かつ 決定的な情報がある」


 その言葉に、蓮、悠斗、そして彩花自身の視線が、一斉にエリカに集中した。

 彩花は不安に息を詰まらせる。

 自分が特別な存在であるという漠然とした予感はあったが、それが自分の運命を神の領域へ導くのか、それとも奈落へ落とすのか、恐怖していた。


「先日、黒崎の書斎に忍び込んだ際、 命懸けで これを発見したの」


 エリカは、バッグから古びて異様な存在感を放つファイルを取り出し、テーブルの上に滑らせた。

 ファイルに挟まれていたのは、遺伝子配列の図や、理解不能な数式、そして『Project Gゴッド』と走り書きされた秘密文書だった。

 その紙面から発せられる、狂気の野望の臭いが、部屋の空気を窒息するほど重くした。



「この報告書によると、彩花さんは、単なる遺伝子操作ではない。

『神の因子ディオース・ファクター』と呼ばれる特殊な遺伝子断片を組み込まれていることが判明した」


 エリカは続けた。


「これにより、彩花さんは、常人を遥かに凌駕する身体能力、知的能力だけでなく、世界を書き換える力につながる、まだ解明されていない未知の能力を秘めている可能性がある」


 彩花は、耳の奥で遠い轟音を聞いた気がした。

 自分が、神の因子を持つ存在――その事実は、あまりに非現実的で、驚愕を通り越して己の存在そのものを否定される絶望に近い感覚だった。


「神の因子だって……?

 そんな荒唐無稽なSF、 本当に父さんが関わっているというのか!」


 蓮がテーブルを叩き、半信半疑といった表情で尋ねた。


 エリカは目を伏せず、絶望的なまでの確信をもって答える。


「信じるしかないわ。

 黒崎は、この因子を使って、人類を進化させ、 自らが 『新世界の神』 として君臨する新たな世界を創造しようと目論んでいる。

 報告書には、 支配者の冷たい狂気 が詰まっていた」


 事務所内の空気が一気に凍りついた。

 心臓が、嫌な予感と共にドクドクと鳴り響く。


 エリカは、さらに言葉を続けた。


「しかし、神の因子は、まだ不安定で、制御が非常に難しい。

 もし、暴走すれば……彩花さんの命に関わる、致命的な危険性があるの」


 エリカは、静かに報告書に手を置いた。

 それは、彩花の命と世界の運命を乗せた、逃れられない重すぎる判決書だった。



 彩花は、自分の身体に宿る力が、世界を救う鍵となるかもしれないという運命と、その力が自分自身を破壊するかもしれないという危険性の、二つの重さを同時に感じた。


 しかし、彼女の瞳に宿っていたのは、もはや恐怖ではない。


「私は……自分の力が、 どんなに危険でも 、 誰かのために役立つなら、それでいい。

 たとえ、それが危険な道だとしても、 もう、 逃げない」


 彩花は、震える声をねじ伏せ、己の運命を受け入れる強い決意を込めて言い切った。


 その言葉を聞いた蓮は、心臓を鷲掴みにされたような衝撃を覚えた。

 愛する彩花を危険な戦いに巻き込みたくない。

 だが、その崇高な決意を尊重しなければならない。

 蓮は、目の前の現実と、未来への誓いを重ね合わせ、心の中で固く誓った。


「絶対に、彩花を守り抜き、この野望を 私自身の手で 終わらせる!」


 悠斗は、一言も発さず静かに頷いた。

 その冷静沈着な表情の下で、エリカが背負う犠牲と、彩花が直面する危険に対する深い共感が燃えていた。

 エリカへの秘めた想いは、言葉にならない疼きとなって胸に残りながらも、それは悠斗の頭脳を冷徹な戦略へと駆動させる燃料となった。


 四人は、互いの心に秘めた決意を、静かな炎のような眼差しで確認し合った。


 彼らは、運命に抗う試練の四人として、それぞれの役割を背負い、再び立ち上がることを誓ったのだった。





 薄暗い隠れ家の中、蝋燭の炎が揺らめき、壁に歪んだ影を映し出していた。

 窓の外では雪が静かに降り積もり、その白い帳が世界の喧騒を遮断しているようだった。


 エリカは、緊張した面持ちで口を開いた。


「あのね、プロメテウスについて少し調べてみたの。

 黒崎が作り上げた 『意志を持つ究極の兵器』 よ」


 彼女の言葉は、静かな水面に鉛の塊を投げ込んだように、隠れ家の空気を震わせた。


「驚異的な身体能力と、徹底的な戦闘訓練。彼らはただの護衛じゃない。

 基本的には黒崎の命令に従うように感情を設計されているけれど、ある程度の自律性も持っている。

 まるで……進化の道筋をねじ曲げられた、自我を持った怪物みたいで、ちょっと怖いよね…」


 彩花は不安げに顔を曇らせ、悠斗は腕組みをして冷静にデータ処理する表情で考え込む。


 蓮は、重苦しい沈黙を破るように、ゆっくりと口を開いた。


「黒崎の真意が知りたい。

  彩花を……本当に 『神の因子』 を持つ ただの道具としか思っていないのか 。

 もし、違うのなら、その裏には、 人道を捨ててまで隠す 何か深い理由があるはずだ」


 彼の声は、静かながらも倫理的な憤りと強い決意を感じさせた。


 エリカは、蓮の言葉に深く頷いた。


「ええ、黒崎の描く 『新世界の創造』 の裏には、一体何が隠されているのか…。

 彼は、誰かの『計画』を実行しているだけ なのかもしれない」


「もしかしたら、私たちが戦うべき相手は、黒崎だけじゃないのかもしれない。

  彼の背後には、 クロノスを真に支配する、 もっと巨大で、不可視な『最高意思ハイ・ウィル』 が潜んでいる可能性もあるわ」


 エリカの言葉は、まるで底知れぬ深淵を覗き込むような、ミスターXの影を感じさせる不吉な響きを含んでいた。

 それは、これから彼らが直面するであろう試練のスケールが、世界規模の支配構造に関わることを暗示しているかのようだった。



 彩花は、深い決意と共に自分の能力を受け入れ始めていた。

 彼女は、自分の中に秘められたマグマのような力を感じ取り、それを制御し、成長させるための覚悟を固めた。

 能力の副作用や精神的な葛藤もあるかもしれないが、それでも前に進むことを選んだ。


 しかし、彩花の決意は、次第に内側から溶解するように揺らぎ始めていた。


 暗闇の中で聞いた声、それは彼女の心の奥底に潜む、力の源泉たる闇の声だった。


「お前は怪物だ」


「お前は世界を滅ぼす」


「誰も愛してくれない。

 蓮すらもお前の力を恐れている 」


 囁きは、まるで毒蛇のように彩花の心を締め付け、肉体の奥底から彼女の決意を蝕んでいく。

 彼女は、その声に抗おうとするが、その内なる敵は日に日に強さを増していく。


 自分は本当に世界を救えるのか、それとも、この力に飲み込まれ、怪物となってしまうのか。


 彩花は、孤独と恐怖の中で、必死に自分自身という戦場で戦っていた。



「まずは、これからどう動くかを決めよう。

 黒崎の計画を阻止するには、 僕たち全員の 、 そして何よりも情報 の力が必要だ」


 蓮の言葉に全員が頷いた。


 エリカが、テーブルの上に広げられたクロノスの巨大な施設図を指差した。


「ここがクロノスの研究施設。

 地上部だけでも厳重な警備が敷かれているけれど、中核となる地下深くへ潜り込むルートと方法を見つけないといけない」


「潜り込むって言っても、どうやって?

 物理的な突破は非現実的だ」


 悠斗が、戦略家としての冷静な視点から疑問を口にした。


 エリカは一瞬口ごもり、視線を落とし、そして再び悠斗を見つめた。


「私が情報を集めている間に、ある協力者と接触しました。

 彼らは 、 私たちが内部へ侵入するための 『鍵』 として働いてくれるはずです」


 エリカの言葉に、一瞬の希望が広がったが、すぐに警戒心に変わった。


 蓮が問いかけた。


「協力者って、一体誰なんだ?

 リスクはどれくらいだ 」


 エリカは小さく笑みを浮かべたが、その笑顔には過去の陰りがあった。


「それは、黒崎の 最高機密部門にいた 元部下たち。

 彼らもまた、黒崎の 非道な最終計画 に気づき、 命懸けで 反旗を翻す決意をしているの」


 彩花は考え込んだ。


「でも、彼らに信頼を置いていいのかしら?

 黒崎の部下だったなら、 彼らが裏切る可能性もあるわ」


 蓮が力強く言った。


「リスクは常にある。

 だが、 何もしなければ黒崎の計画は止まらない。

 それに、タイムリミットも迫ってる。

 僕たちは、 そのリスクを背負ってでも 、 彼らを信じる価値はあると思う」


 エリカは、蓮の言葉に頷きながらも、内心では激しい葛藤に苛まれていた。


 黒崎への復讐心は、今も彼女の心を焼けるような炎として燃やし続けている。

 裏切り者として彼を破滅させたいという衝動が、彼女の心を支配しようとしていた。


 しかし、蓮や彩花への責任感、そして何より、父を売ったかつての自分自身を乗り越えたいという強い贖罪の念が、彼女を突き動かしていた。


 蓮の、私情を排した静かな断言は、エリカの心に深く、重く響いた。

 彼は、父親の真実を知り、深く傷つきながらも、それでもなお、倫理と愛のために世界を救うために立ち上がろうとしていた。


 その強い意志と純粋な優しさに触れ、エリカは再び自分の心に問いかけた。


⦅黒崎の元部下たち…本当に彼らを信じていいのか?

 もし、彼らが黒崎が仕掛けた最悪の罠だったら…蓮や彩花さんが危険にさらされるかもしれない。

 だが、蓮の言う通り、このまま何もしないわけにはいかない。

 私は、もう二度と大切な人を失いたくない。

  この一歩は、復讐のためではない。

 私自身の贖罪のために。

  必ず、彼らを救い出す ⦆



 エリカは続けた。

 その眼差しは、不安を拭い去り、司令官としての明確な光を宿していた。


「私たちが、この闇を打ち破るためにやるべきことは、 三つの試練 です」


 彼女は、一つ一つ指を折って宣言した。


「まず、第一の試練。

 彩花さんの『神の因子』 の能力を最大限に引き出し、 暴走を許さない 制御方法を見つけること」


「次に、第二の試練。

  黒崎の牙城 である研究施設に潜入し、 彼の計画の全貌 を示す 決定的な証拠 を掴むこと」


「そして最後に、第三の試練。

  集めたすべての証拠と共に、 彼の計画を公にし、クロノスを 社会的に 崩壊させることです」


 蓮が尋ねると、エリカは資料を見せながら、緻密に練られた計画を説明し始めた。


「まず、彩花さんの訓練を強化する。

 私たちが手に入れたデータを基に、彼女の能力を安全に、かつ迅速に開花させるためのトレーニングプログラムを用意したわ」



 彩花は決意を新たにし、深呼吸をして答えた。


「やります。

 私の力が、 この世界を救うために 少しでも役に立つなら」


 蓮が彩花の肩に手を置いた。

 その手は力強く、恐怖を振り払うようだった。


「一緒に頑張ろう、彩花。

 君は決して独りじゃない。

 僕たちみんなで、 君の命を懸けて 支えるから」


 悠斗は、手元の端末でクロノスの情報を高速で更新し、時計を見て言った。


「時間は限られている。

 残された時間は、 我々が想像するよりも短いだろう。

  今夜から、 具体的な行動 を始めよう」


 彼の声は、いつも通り冷静だったが、その瞳には、仲間たちへの絶対的な信頼と、作戦成功への知的な確信が宿っていた。


 悠斗は、地図を見つめ、黒崎の研究施設への最も安全で確実な侵入経路、緊急時の撤退ルート、そして彩花の訓練計画など、詳細な戦略のシミュレーションを立て始めた。

 彼の頭脳は、すでにチームの命綱としてフル回転していた。



 四人は、互いの心に秘めた決意を、沈黙の中で確かめ合った。


 それは、絶望的な状況に立ち向かう、消えそうもない希望の光だった。


 彼らは、それぞれの痛みと過去を乗り越え、未来を切り開くために、命のすべてを懸けて共に戦うことを決意したのだ。


 ここから、世界と運命をかけた、彼らの戦いの導火線が、静かに火を点けられた。




 その夜、事務所はまるで秘密基地のように活気を帯び、異様な緊張感が漂っていた。


 悠斗は部屋の一角に設置されたコンピュータでクロノスコーポレーションの内部情報を冷徹に収集し始め、蓮は武器や装備を丁寧に点検し、万全を超える準備を整えていた。


 エリカは、彩花の能力を最大限に引き出すため、緻密なデータに基づいたトレーニングプログラムを設計。

 彩花と蓮はお互いに言葉をかけ合いながら、汗を流して訓練に励んでいった。


 しかし、彩花の心は晴れることなく、黒い霧のような深い影を落としていた。

 トレーニングを重ねるたびに、彼女の能力は確実に成長を遂げていく。

 だが、それと同時に心の奥底から湧き上がる闇の衝動も増していくのを、彩花自身が肉体的な熱として感じ取っていた。


「こんな力なんて、いらない…」


 彩花は震えながらつぶやき、その言葉とともに涙を流す。

 自分が持つ力の底知れない恐ろしさに、心が押しつぶされそうになっていた。


 蓮はそんな彼女を優しく抱き寄せ、そっと耳元でささやいた。


「一人じゃない。

 僕がいるから、 その力に 負けるな」



 だが、ある日のトレーニング中、突然彩花の意識は異様な冷たさに包まれた。


 気づけば、彼女は濃密な闇が支配する、見知らぬ空間に立っていた。

 周囲は深い暗闇が支配し、ただ不気味な静寂が漂っている。


 その時、闇の中から甘美で、しかし絶対的な支配力を持つ声が響いてきた。


「お前は、闇に堕ちる運命だ… お前の力は、 この世界を救うものではない 」


 その声は、まるで彩花の心の奥底から絞り出されているように感じられた。


 彩花は恐怖に足を震わせながらも、声の主を必死に探し求めたが、その姿を見つけることはできなかった。


 この異様な体験は、彩花の心に深い傷を残した。

 彼女は自分の能力が本当に世界を救うことができるのか、それとも逆に、自分自身が闇に飲まれ、世界を破滅へと導いてしまうのかという不安に駆られ始める。


 心の闇は少しずつ彼女を侵食し、次第に彩花は闇人の甘美な、しかし論理的なささやきに傾倒していった。


 そしてついに、「力を制御するため」という偽りの大義を抱き、闇人の計画に協力するという致命的な決断を下してしまう。



 一方で、エリカはそんな彩花や蓮たちをサポートしながらも、心の中で最後の葛藤を抱えていた。


 黒崎の元部下たちを信じていいのか。

 彼らの情報が、実は、蓮たちを嵌めるための罠である可能性はないのか…。


 しかし、今は迷っている暇などなかった。

 彼らが今夜、クロノスへの潜入を開始するからだ。


 エリカは決意を固め、悠斗の背後で、蓮たちと共にクロノスに立ち向かう覚悟を決めた。


 この一歩が、復讐か贖罪かを決める。


 彼女は、自らの役割を果たすため、すべてを懸けて全力を尽くすことを誓ったのだった。


 —運命の決行前夜。

 光と闇、そして裏切りの導火線が、静かに燃え始めていた。





 黒崎の真の目的は、世界征服などという陳腐で矮小な野望ではなかった。


 彼のすべての行動は、ただ一つ、最愛の妻エミを死の淵から蘇らせるためにあった。


 太陽のような光だった彼女を失った悲しみが、彼を人道や倫理といった一切の犠牲を厭わない男へと変貌させたのだ。

 彩花の持つ「神の因子ディオース・ファクター」の力こそが、その禁断の唯一の手段となった。


 「神の因子」──それは、人類の進化や科学の奇跡などという大それたものではなく、黒崎にとってはこの世に残された最後の希望であり、愛そのものが引き裂かれた痛みに対する、個人的で、切実な復讐の象徴だった。


「これしかない…」


 黒崎は一人、闇に向かってつぶやく。

 その声には、悲しみと狂気が混ざり合っていた。


「これで、エミを取り戻せるなら、どんな 禁忌 だって犯す」



 若き日の黒崎は、エミと出会い、その存在に心を奪われた。

 彼女の笑顔は太陽のように彼を照らし、生きる喜びそのものだった。


 だが、残酷な運命は予期せぬ雷のようにその愛を奪い去っていった。

 エミは、不治の病に侵され、日に日にその輝きを失い、闇に沈んでいったのだ。


 黒崎は、世界中の名医や最新の治療法を探し求め、莫大な財産とクロノスのすべてを投じた。

 それでも、彼の手の中からエミの命は砂のようにすり抜け、彼の努力はすべて無駄に終わった。


 エミが息を引き取ったその日、世界は音を立てて崩壊し、黒崎の心は彼女と共に死んだ。


 それからというもの、彼は生きる意味を見失った。

 しかし、彼の狂気を呼び覚ます一つの可能性が彼を闇から引き戻した。


 それが、「神の因子」だった。


 どんな神の禁忌に触れようとも、彼はエミを蘇らせるため、この絶対的な力を手に入れることを誓った。


「エミ…もうすぐだ。

 君をもう一度、 温かい生命と共に この腕に抱くために…」


 黒崎の決意は揺るぎなく、彼の瞳には過去の幸福としての妻の笑顔が浮かんでいた。

 愛という名の途方もない執念が、彼を破滅という名の目的地へと突き動かしていた。



 絶望の淵に立たされた時、私(黒崎)は「神の因子」の存在を知った。

 それは、人間の可能性を無限に広げ、あらゆる病を克服する力を持つという。

 救済の光が、暗闇に閉ざされた私の心に差し込んだ。


 私は、迷わず、そして強迫的にその研究に没頭した。

 エミを救うため、そして、二度と愛を失わない世界を築くために。


 しかし、研究は困難を極めた。

「神の因子」は、あまりにも強力で、制御不能なエネルギーだった。

 多くの被験者が、その力の代償として命を落とした。


 それでも、私は諦めなかった。

 エミの最後の笑顔だけが、私を突き動かした。


 そしてついに、私は「神の因子」を安定させる方法を発見した。

 それは、人間の遺伝子に直接組み込むという、神をも冒涜する禁断の技術だった。


 私は、ためらいをねじ伏せ、その技術を自らに試した。

 結果は、成功だった。

 私の体は、驚異的な力で満たされ、病は完治した。


 私は、この力を使い、エミを救おうとした。


 しかし、運命の悪意は残酷だった 。

 時すでに遅し。


 エミは、私の腕の中で、静かに、そして永遠に息を引き取った。



 私は、絶望のあまり、全てを投げ出そうとした。


 愛するエミを失った喪失感は、私の心を奈落の底へと突き落とした。

 彼女のいない世界に、一体何の色彩があるというのか。


 しかし、エミの最後の言葉が、崩壊しかけた私を再び立ち上がらせた。


「あなたの研究は、きっと多くの人を救うわ。

 だから、諦めないで」


 彼女の優しい声は、まるで最後の理性のように私の耳に響いた。


 私は、エミの遺志という名の重荷を継ぎ、「神の因子」の研究を続けることを決意した。

 しかし、それは同時に、彼女を救えなかった自分への 永遠の罰でもあった。


 私は、自らを責め続け、その苦しみから逃れるために、狂ったように研究にのめり込んでいった。


 そして、いつしか、エミを蘇らせるという歪んだ執念が、私の心から純粋な愛の形を奪い、支配するようになった。


 そして今、私、黒崎剛一郎は、「人類を進化させる」という壮大な計画を推し進めている。

 それは、エミへの愛と、彼女を失った悲しみから生まれた、この世で最も悲しく、そして危険な歪んだ理想なのかもしれない。


 しかし、私は、この計画が、人類にとって、そして、私自身にとって、唯一の救済の道だと信じている。

 たとえ、それが、多くの人々から非難され、憎まれる道だとしても。


「私は、私の道を進む。

 エミを蘇らせ、愛という名の世界を取り戻すために 」



 黒崎は、書斎の窓から見える冷たく輝く満月を見つめていた。

 窓には、若き日の彼と妻、エミの色褪せた写真が飾られている。

 失われた、幸せだったあの頃。


 しかし、エミが不治の病に侵されてから、全てが変わってしまった。


 黒崎の心は、愛するエミへの狂おしいほどの想いと、「新世界の支配者」という野望の間で激しく揺れ動いていた。


 愛する者を失った悲しみは、彼を狂気の淵へと突き落とし、そして、その悲しみを愛を装って利用した兄の囁きは、彼をさらに深い闇へと誘い込んだ。


 エミを蘇らせる。

 その一心で、彼は非情な決断を繰り返してきた。

 しかし、心の奥底では、自らの行いへの拭い去れない罪悪感と、エミへの純粋な愛情が、重い鉄球のようにせめぎ合っていた。


 エミを蘇らせるという目的のためには、手段を選ばない。

 しかし、そのために多くの犠牲を強いることに、彼は耐えがたい苦痛を抱いていた。


「エミ、私は必ず君を救ってみせる。

 たとえ、 この世界が私を地獄に突き落とそうとも 、 君だけは 」


 黒崎は、写真に向かって呟いた。

 その瞳には、愛と狂気が混ざり合った、歪んだ決意が宿っていた。



 しかし、黒崎は究極の皮肉を知らなかった。


 彼の歪んだ理想を焚き付け、クロノスのすべてを裏で操っていたのは、他でもない彼の実兄、ミスターXだったのだ。


 ミスターX、すなわち 一護いちご は、弟の 純粋な悲しみ を 世界を奪うための毒 として利用し、己の 「最高意思ハイ・ウィル」 の下に世界を従わせようと企んでいた。


 彼は、奥野博士に「神の因子」の研究を依頼し、計画の核として彩花を誕生させた。

 そして、黒崎にエミを蘇らせるには人類を超越した強大な力が必要だと吹き込み、彼を愛という名の檻へ誘い込んだのだ。


 黒崎は、ミスターXに対して、断ち切れない複雑な感情を抱いていた。

 兄として尊敬し、慕う気持ちの一方で、彼の冷酷さや、人間の心を一切持たない非情さに恐怖を感じ、時に激しい憎悪を抱くこともあった。


 しかし、エミを蘇らせるという絶対的な目的のために、彼は兄の支配に従わざるを得なかった。

 その魂を引き裂かれるような葛藤が、彼の心をさらに深い闇へと引きずり込んでいくのだった。



 黒崎は、時計の針が刻む音を、まるで命のカウントダウンのように聞きながら、焦燥感を募らせていた。


 エミの体は、クロノスの施設で時間が凍結された棺に冷凍保存されている。

 だが、彼女を蘇らせるには、彩花の「神の因子」の力が不可欠だ。

 そして、その力を最大限に引き出すためには、僅かながらも絶対に必要な時間が必要だった。


 黒崎は、失敗という選択肢を許さない焦燥感から、一刻も早く計画を実行に移したい衝動を抑えきれずにいた。



「剛一郎、大丈夫か?」


 絶対的な静寂の中に、冷え切った空気が部屋の隅々まで漂い、背後から聞こえる声がまるで冷気そのもののように黒崎を包み込んだ。その声は聞き慣れたものであったが、どこか異様に感情を削ぎ落とした響きを持っていた。


 振り返ると、そこには、闇に染まった不気味な、支配的な笑みを浮かべる男が立っていた。


「一護…」


 黒崎は、その男の名をかすかに呟いた。

 まるで、その名を口にすることさえも、自分の運命を確定させるように、躊躇われた。



「心配するな。 私の計画は 全て予定通りだ」


 一護の声は、甘く耳に溶け込むようでありながら、その底に潜む絶対的な冷酷な意図を感じさせた。

 その声のトーンには、抵抗を許さない暗示的な重みがあった。


「もうすぐだ。

 私たちは 、 愛するエミ、そして美樹を、 この病の呪いから 永遠に解放することができる」


 一瞬、剛一郎の顔が激しい苦痛に歪んだ。

 エミへの愛と、兄の言葉に含まれた犠牲の予感に、彼のこぶしは無意識に握りしめられ、手のひらに汗がにじんでいた。

 だが、その苦しみの中で彼は、自らに言い聞かせるように、使命に対する覚悟を深めていく。


「だが…」


 一護は目を細め、声のトーンを氷のように一段低くして続けた。

 その口元には、どこか不気味さを感じさせる表面上の優しさがあり、言葉の裏側に冷酷な要求が潜んでいた。


「そのためには、 『神の因子』 を持つあの娘の力が不可欠だ。


 彼女を手に入れるために、 剛一郎。 私たちは 『人類の進化』という大義 のために、 どんな犠牲も払う覚悟 があるのだろうな?」



 薄暗い部屋に足音が響き渡り、床の冷たさが二人の間に漂う致命的な緊張感をさらに高めた。

 剛一郎の胸に抑えきれない不安が押し寄せる。

 空気が一層冷たく感じられる中で、彼は兄の支配に向けた視線を強めた。


「ええ、 もちろん です」


 剛一郎の声は短く、だがその中には愛という名の狂気に凝縮された強い決意が込められていた。

 愛する者を取り戻すためなら、魂の尊厳という どんな対価 でも支払う覚悟だった。


「剛一郎の望むものは、全て手に入る。

 なぜなら、剛一郎にはその力がある…それはもう、 揺るぎない 、 私と神に定められた 事実だから」


 一護は、勝利を確信した薄笑いを浮かべ、剛一郎の肩にそっと手を置いた。

 その冷たさは、まるで運命そのものの重みであり、剛一郎の体に不可避の寒気を走らせた。


 それでも、彼はエミへの誓いによって決して後戻りしないという決意を固く抱いていた。


「では、進めましょうか。

 世界という名の舞台で、 私たちの 『愛と支配』 の目的を果たす時です」





 冷雨つめたいあめがしとしとと降りしきる、石造りの陰鬱な夜の教会。


 絶望の淵に沈んでいたセバスチャンは、震える手で銃を握りしめ、その冷たい銃口を自らのこめかみに押し当てていた。


「もう、誰も殺したくない…… これ以上、 機械プログラム に戻りたくない」


 血塗られた過去、機械的に奪ってきた無数の命。

 そして、あの夜、 崩壊した殺戮のプログラム が、 彼の中に刻みつけた 「人間」としての意識 。

 償うことなどできない罪の意識が、彼を奈落の底へと突き落としていた。



 その時、教会の重い木製の扉がゆっくりと開いた。


 暗闇の中から現れた男の穏やかで、深く響く声が、凍てついた空気を震わせる。


「お前には、まだ生きる価値がある。

 その罪を、 新たな使命で 償う機会を与える」


 黒崎剛一郎。

 彼の言葉は、荒んだセバスチャンの心に、一筋の救済の光を灯した。


 男の瞳には、憐れみや偽善などではなく、孤独を理解する本物の温かさが宿っていた。


 セバスチャンは、その手に縋るようにして、黒崎に絶対の忠誠を誓った。

 過去の罪を背負いながら、人間として新たな人生を歩むチャンスを与えてくれた彼への恩義は、計り知れないものだった。


 しかし今、 その恩義と、 風見への友情 が、 彼の心を引き裂こうとしていた 。

  風見を犠牲にするのか、それとも再び裏切り者の烙印を押されるのか……。



 セバスチャンの脳裏には、幼い頃の惨劇(血まみれの家族、銃声)がフラッシュバックする。

 復讐に燃える日々、標的の命を奪うたびに深まる心の空虚。


 そして、彼の運命を変えたあの雨の夜。


 激しい銃撃戦の中、彼に埋め込まれた「殺戮プログラム」が、敵の奇襲によって一瞬で破壊された。


 プログラムが消滅した瞬間、 彼の視界はクリアになり、 奪ってきた命の重みが 初めて現実として胸にのしかかった。


 彼は、初めて自分の人間性を強制的に認められたような、耐え難いほどの罪悪感に襲われた。


「もう、誰も殺したくない……」


 そう思った瞬間、彼は兵器ではなくなり、 初めて「死にたい」と願った。


 そんな崩壊寸前の彼を救い出したのは、黒崎だった。


 しかし、その救いは同時に、「恩義」という名の新たな鎖でもあった。

 黒崎への恩義と、自らの罪を人として償いたいという願い。


 その二つが、今、彼の心の臓を激しく揺さぶっていた。



「風見!」


 セバスチャンは雷鳴のような叫びを上げ、プロメテウスの堅固な包囲の中に単騎で飛び込んだ。


「貴様、何を 血迷った !」


 プロメテウスたちを束ねる鬼塚が、驚愕と激怒の声を上げた。

 セバスチャンの真意が掴めない鬼塚に向け、セバスチャンは冷徹な殺意を込めて言い放った。


「これは俺の獲物だ。

 手を出すな 」


 セバスチャンは、死を覚悟した冷たい目で鬼塚を睨みつけた。

 鬼塚は、その視線に一瞬、戦慄せんりつしてひるんだ。

 セバスチャンは、黒崎の右腕として、その戦闘能力は組織全体に恐怖として知れ渡っている。

 鬼塚は、最悪の衝突を避けようと、一歩後退った。


「貴様、 黒崎様への 裏切り者め!」


 鬼塚の怒号が響き渡り、プロメテウスたちが一斉に、感情なくセバスチャンへと襲いかかる。



 しかし、セバスチャンは、その世界では知らぬ者がないほどの伝説的な凄腕の殺し屋だった。


 彼の動きは、まるで鎖から解き放たれた猛獣が獲物を狩るように素早く、無駄なく、そして正確だった。

 プロメテウスたちは、強化人間という硬い肉体を持つとはいえ、セバスチャンの洗練され尽くした技と、数十年の経験には遠く及ばない。


 閃光のような一瞬のうちに、複数のプロメテウスたちがセバスチャンの手によって静かに倒れ伏す。


「貴様ら 機械人形 如きに、私を止められると思うな!」


 セバスチャンの魂からの咆哮が、夜の静寂を切り裂いた。


 その光景を見て、風見は頭の理解が追いつかないほどの驚きを隠せない。


「セバスチャン……どうして?」


 彼は、セバスチャンの命を懸けた行動の意味を理解できなかった。


 しかし、次の瞬間、彼はセバスチャンの悲しい真意を悟った。

 風見の脳裏に、セバスチャンが時折見せる、孤独な影を宿した表情、そして、自分を見る 優しい眼差しが蘇る。

 彼は、セバスチャンがただの冷酷な道具ではないことを、心のどこかで感じていたのだ。



「風見、逃げろ!

 奴らは、お前を 確実に 殺す気だ!」


 セバスチャンは、風見に向かって叫んだ。

 その声は、過去の自分を殺す、彼の心の叫びのようだった。


 風見は、一瞬の戸惑いを振り払い、彼の命を背負い、走り出した。


「風見、逃がすか!」


 鬼塚が叫び、プロメテウスの一人、アレックスに命令を下す。


「アレックス、 絶対に 奴を追え!」


 アレックスは、他のプロメテウスたちとは明らかに異なる、暗いオーラを放っていた。

 彼の瞳は、まるで獲物を狙う鷹のように鋭く、その体からは、異様なエネルギーが感じられた。


 彼は、ただ命令に従うだけの存在ではなく、自らの意思で思考し、判断することができた。

 そして、彼には、他のプロメテウスたちにはない、特別な能力が備わっていた。

 それは、相手の感情を、痛みとして読み取る力。


 アレックスは、セバスチャンの心の奥底に渦巻く激しい葛藤と、自己犠牲の決意を感じ取り、一瞬だけその鋼鉄の足を止めた。


 しかし、すぐに任務へと意識を切り替え、鋼鉄の体で風見を追いかける。

 そのスピードは、人間のそれを遥かに凌駕していた。

 風見は、必死に逃げるが、冷徹な追跡者アレックスとの距離は徐々に縮まっていく。



 暗く湿った森の中を、風見は死に物狂いで疾走する。


 心臓が破裂しそうなほど激しく鼓動し、肺は鉛のように重く、酸素を渇望している。

 背後から聞こえるアレックスの足音は、まるで冷徹な運命が的確に獲物を追い詰めているかのようで、風見の胸に凍えるような恐怖が広がっていく。


 それは感情を持ちながらも、任務という鋼の鎖に徹する存在の、静かで、逃れようのない確実な追跡だった。


 しかし、風見は歯を食いしばり、決して諦めない。

 彼は、セバスチャンが命を懸けた想いを無駄にはできない。

 仲間を、そして、この世界を守るために、彼は生き延びなければならない。


「もう、 限界 か……」


 風見は、全身の力が抜けかけ、諦めかけた。


 その絶望の刹那、彼の背後から、乾いた、しかし決定的な銃声が響いた。


 鋼鉄の追跡者、アレックスが、一瞬の衝撃と共にその場に崩れ落ちた。



 振り返ると、そこには、冷たい銃口を構えたセバスチャンの姿があった。


「セバスチャン…?」


 風見は、信じられない思いと、裏切られた者への罪悪感で彼を見つめた。


 セバスチャンは、静かに風見に近づき、重い決意を込めて彼の肩に手を置いた。


「行け、風見。

 これが、 私の 最初で最後の 償いだ。

 そして、二度と この闇 に戻ってくるな」


 彼の声は、優しく、しかし有無を言わせぬ力強さがあった。


 風見は、セバスチャンの痛みに満ちた言葉に深く頷き、彼の恩義という名のバトンを受け取り、再び走り出した。


 彼は、セバスチャンの自己犠牲を胸に、必ずこの任務を完遂することを誓った。


 同時に、彼の中で何かが音を立てて変わり始めた。

 それは、セバスチャンの命を懸けた行動によって生まれた、絶望を打ち破る新たな決意だった。


 彼はもう、ただの逃亡者ではない。

 クロノスの闇を倒し、 この世界の未来 を守るために戦う 戦士 なのだ。



 そして、セバスチャンは、一人、血に濡れた地面の上でプロメテウスたちとの戦いに身を投じた。


 彼の瞳には、もう黒崎への恩義や、過去への迷いはなかった。


 ただ、風見を守り抜くという 贖罪の意志が、そこに炎のように宿っていた。

 それは、彼が長年探し求めていた、人間としての真の償いの道だった。


 セバスチャンは、冷酷な笑みを浮かべた。

 彼の動きは、まるで牙を剥いた獲物を狩る獣のように獰猛で、容赦なかった。


 プロメテウスたちは、冷酷な表情かんばせでセバスチャンに襲いかかる。



 しかし、その中には、一瞬だけ人としての感情が揺らぐ者もいた。


 アレックスは、倒れる間際、セバスチャンを見つめ、なぜ命を捨ててまで、という強い問いを訴えるような視線を向けていた。


 それは、彼らがただの戦闘機械ではなく、抑圧された感情を持つ存在であることを示唆していた。


「なぜ…… 自由 を」


 アレックスの唇がわずかに動き、その疑問の言葉は、かすかな吐息となって冷たい夜の闇に消えていった。


 セバスチャンは、プロメテウスたちを相手に一歩も引かず、 ただ風見を逃がす壁 として立ち続けた。

 彼の動きは、まるで流れる水のようにしなやかで、それでいて、岩をも砕くような力強さを秘めていた。


 プロメテウスたちは次々と倒れていくが、セバスチャンもまた、その代償として彼らの反撃を受け、徐々に深い傷を負っていく。



 鬼塚は、セバスチャンの予想外の強靭さに驚きを隠せない。

 しかし、同時に、裏切り者への激しい怒りが、彼の理性を焼き尽くしていた。


「セバスチャン、 貴様の 偽善 だけは許さん!」


 鬼塚は、怒りの形相でセバスチャンに襲いかかり、激しい、命を懸けた一騎打ちが始まった。

 二人の間には、火花と血しぶきが散り、地面には深い爪痕が刻まれていく。


 セバスチャンは息を荒くしながら、周囲を囲む冷酷な敵の数に目をやった。

 彼の全身は、数えきれないほどの戦いで傷つき、すでに疲労は極限に達していたが、その目だけは戦士としての誇りを失っていない。


 刃を握りしめ、彼は残された最後の力を振り絞り、宿命に立ち向かうように立ち上がった。


 だが、彼に立ち向かったのは、ただの敵ではなかった。

 鬼塚――圧倒的な力と、計算し尽くされた冷酷な決断力を持つ男だった。


 鬼塚がじっとセバスチャンを見据えるその目には、勝利を確信した、一点の曇りもない冷たい光が宿っていた。


 セバスチャンの一撃が鬼塚に向けて放たれた最後の瞬間、世界がスローモーションに変わる。

 鬼塚は微動だにせず、その攻撃を紙一重で、侮蔑するようにかわした。


 まるで、すべてを見透かしていたかのように。



 セバスチャンの動きが一瞬、虚しく止まった。


 その致命的な刹那、鬼塚の刃が鋭く、残酷な光を反射し、命を刈り取る弧を描いてセバスチャンの胸を深く貫いた。


「くっ……」


 セバスチャンは、信じられないという表情で自らの胸を見下ろす。

 深紅の血が、彼の白いシャツを美しく、悲しく染め上げていく。


 彼の脳裏には、温かい光のように過去の記憶が駆け巡った。

 幼い家族の笑顔、救いの言葉をくれた黒崎の温かい言葉、そして、未来へ走り去る風見の真っ直ぐな瞳。


「これで終わりだ、裏切り者!」


 鬼塚の冷酷な言葉が響く中、セバスチャンはかすかに微笑んだ。


 ――彼は、 命を投げ出すことで、 ようやく、 人として 彼の魂を蝕んでいた 罪の鎖 を断ち切ったのだ。





 鬼塚の刃に貫かれたセバスチャンの体は、まるで糸の切れた操り人形のように、抗うことのない無力さで一瞬で全ての力を失った。


 膝が崩れ落ち、彼は冷たい石畳の上に体を預ける。

 深紅の血が激しい雨水に溶け込み、彼の足元から絶望の色のようにゆっくりと広がっていく。

 それは、まるで彼の生命の熱が、この無情な夜の雨の中に溶け出して消えていくかのようだった。


 激しく降りしきる雨は、容赦なくセバスチャンの傷口を叩きつけ、焼けるような絶え間ない痛みが彼の意識を朦朧とさせる。


 視界の隅で、プロメテウスたちが歓喜と勝利の咆哮を上げるのが、遠くかすかに聞こえた。


「もう…… ここまでが、 私の 道 か…」


 セバスチャンは、かすれた声で呟いた。

 彼の体は、まるで燃え尽きた蝋燭のように、今にも消え入りそうだった。


 しかし、その瞳の奥には、決して消えない微かな光が宿っていた。

 それは、風見への想い、そして、彼に託した未来への希望だった。


「風見…お前は、 必ず……」


 その言葉は、風に流され、激しい雨音にかき消されていった。

 誰にも届くことはなかったが、彼の魂は確かに、遠くの仲間に響いた。



 冷たい風が吹き抜け、雨が地面を叩きつけていた。

 セバスチャンが倒れた場所には、鉄のような血の臭いが立ち込め、夜の静けさをさらに不吉なものへと変えていた。


 鬼塚は、勝ち誇った、冷酷な笑みを浮かべ、彼が倒れる姿を見下ろした。


 だが、彼はすぐに違和感を感じ取った。

 自分の刃が確かにセバスチャンを貫いたはずだ。

 それなのに、彼の瞳にはまだ、死を拒絶するかのような、決して消えない何かが宿っていた。


「何がそんなに 裏切り者 のお前を動かしているんだ…… 恩義か、 それとも 偽りの友情 か」


 鬼塚は吐き捨てるように呟いたが、セバスチャンは何も答えなかった。

 彼は、 最期の瞬間まで、 自らが選んだ 贖罪の理由 を、 敵に明かすことはなかった。



 しかし、彼の想いは、遠く走る風見へと 確かに、魂として 伝わっていた。


 風見は、遠くの銃声と、一瞬の動きでセバスチャンの倒れる姿を視界の端で捉え、全身から力が抜けるような衝撃でその場に立ち尽くした。


 彼の心は、煮えたぎる怒りと、友の死への悲しみ、そして、深い、深く重い感謝の気持ちで満たされていた。


「セバスチャン… お前を、 無駄にはしない 」


 彼は、その名を呟き、血が滲むほど拳を握りしめた。

 そして、セバスチャンの命の重みを背負い、再び走り出した。


 彼の背中には、セバスチャンの魂と、自らの揺るぎない決意が、重い鉄塊のようにのしかかっていた。


 風見は、もう二度と、大切な仲間を失わない。

 そして、必ず、この世界を クロノスの闇 から解放する。


 彼の瞳には、セバスチャンの自己犠牲によって生み出された、揺るぎない復讐と使命の炎が燃え始めていた。

 彼はもう、ただの逃亡者ではない。託された未来を掴む、 唯一の戦士 なのだ。



 一方、鬼塚はセバスチャンの亡骸を見つめ、憎悪に満ちた瞳で立ち尽くしていた。


 黒崎の右腕であったセバスチャンの死によって、クロノスの最重要計画は明確に狂い始めていた。

 プロメテウスのメンバーが次々と倒れていく中で、鬼塚の瞳には煮えたぎる怒りが燃え盛っていた。


「貴様の くだらない 犠牲は無駄だ。

 風見は 必ず 俺たちの手に落ちるだろう……」


 彼は静かにそう呟き、冷徹に次の動きを考え始めた。

 クロノスの命令を遂行するためには、彩花の「神の因子」の器である風見をどうあっても捕らえなければならない。

 しかし、そのためには、セバスチャンのような計算外の存在を二度と軽視してはならないという苛立ちが心に残った。



 そして、鬼塚が風見を追う一方で、異質な感情を持つアレックスは、倒れたセバスチャンのもとに留まっていた。


 セバスチャンはまだ微かに息があり、 死と隣り合わせの荒い呼吸を繰り返している。

 アレックスは、その場に膝をつき、自らの任務と、読み取った感情との間で迷いを抱えながらも、彼の応急処置を始めた。


「……助けてくれるのか?

 裏切り者 の私を」


 セバスチャンが掠れた、疑念を込めた声で問いかける。


 アレックスは答えず、機械的な冷静さを保ちながら手当てを続けた。

 止血用の布で傷口を強く圧迫し、持っていた医療キットでセバスチャンの僅かな命をつなぎ止める。


「なんで、私なんかを…… お前は、鬼塚の命令に従う 機械 ではないのか」


 セバスチャンは弱々しくも根源的な疑問を口にした。


 アレックスは一瞬、虚空へ目を伏せ、静かに答えた。


「 お前が 貫いた決意 は、殺すべき相手ではない と、俺の プログラム が言っている」



 セバスチャンはその言葉に驚き、かすかな希望を感じたが、言い返す力はなく、ただ静かに息を整えるしかなかった。


「風見は、お前が 命を懸けて 守りたかった相手なんだろう?」


 アレックスは続ける。


「俺の任務は、 追跡 だ。

 お前の個人的な感情には関係ないが、鬼塚は違う。

 あいつは 風見を 、『サンプル』ではなく『始末』するつもりだ」


 セバスチャンの瞳に一瞬、強烈な焦りが浮かぶ。


「…… 先に行け。

 止めてくれ、 頼む ……」


 アレックスは小さく頷き、セバスチャンの胸元を確認しながら処置を終えた。


「お前が生きるかどうかは運次第だが、少なくとも今は死なない。

 お前の 『償い』 はまだ終わっていない 」


 そう言い残し、アレックスは立ち上がり、夜の闇の中へ、鬼塚の後を追って去っていった。


 夜が深まる中、風見は託された命の重みと、新たな決意を胸に立ち上がる。

 彼にはセバスチャンの最後の想いがあり、そして、クロノスとの決戦に向けて進むしか道はなかった。

 その先には、自らが背負う宿命と、世界の真実が待ち受けていた。




 一方、隠れ家では、彩花、蓮、悠斗、そしてエリカが、張り詰めた緊張感漂う空気に包まれていた。


 彩花が命がけで持ち帰った証拠は、黒崎の悪事を暴くための最後の重要な鍵となるはずだった。

 しかし、悠斗がそのデータを緻密に分析するうちに、戦慄すべき不穏な事実に気づいた。


「これは…… 完璧な 偽造だ」


 部屋の静寂が瞬時に氷のように凍りついたようだった。

 蛍光灯の明かりがわずかに揺れ、悠斗の冷徹な言葉が反響し、重苦しい沈黙が部屋を支配した。

 そのたった一言に、三人は言葉を失い、絶望的な視線を悠斗に向けた。


 彩花は、自分が黒崎の冷酷な罠にはめられたことを悟り、顔面蒼白になった。

 彼女の手は激しく震え、胸の鼓動が激しくなり、呼吸すら乱れていく。


「まさか……私が…… みんなを危険に 」


 彼女は激しい自責の念に駆られ、膝から崩れ落ちた。

 声には哀れな響きが滲んでいたが、それでもどこか力強く、裏切られた自分自身に問いかけているかのようだった。


 蓮は、そんな彩花を優しく、しかし焦燥を隠し抱きしめ、彼女の背中をさすった。



「大丈夫だ、彩花。

 まだ終わりじゃない。

 きっと他に方法がある」


 蓮の声は柔らかくも力強かったが、エリカの表情は極限まで険しかった。

 彼女の目は冷たく鋭く、蓮の言葉の裏にある現実の重さを、心の中で否定できなかった。


 黒崎の狡猾さと悪意に怒りを覚えながらも、同時に最悪の事態を想定していた。


「黒崎は、私たち 全員 をおびき出すために、わざと彩花さんに偽の証拠を掴ませたんだわ。

 そして、今、この瞬間 、私たちの居場所を特定しているはずよ 」



 その言葉が冷たく部屋に響いた瞬間、彩花のペンダントが不気味な、しかし強烈な光を放ち始めた。

 部屋の温度がさらに低下し、冷たいエネルギーが彼女の周りにまとわりついた。


 それは、彼女の中の「神の因子ディオース・ファクター」が 危機を察知し、共鳴している証だった。

 彩花は、ペンダントの光に導かれるように、全てを焼き尽くす力を解放しようとする激しい衝動に駆られた。


 しかし、同時に、心の奥底から湧き上がる闇の囁きもまた、彼女を甘く惑わせていた。


「この力を使え。

 全てを破壊し、復讐も、愛する者たちの 自由も、思いのままに 手に入れられる 」


 彩花の心は、蓮への愛という名の光と、復讐という名の闇の狭間で激しく揺れ動いていた。

 黒崎の罠にはめられたこと、そして、愛する蓮たちが今まさに危険にさらされている現実に、彼女の心は深く傷つき、絶望の淵へと突き落とされていた。


 その心の隙間に、闇の力が静かに忍び込んでいく。

 彩花は、必死に、震えるほどの意志で抵抗しようとするが、闇の囁きは彼女の弱った心に容赦なく襲いかかる。


 彼女は、まるで深い絶望の霧の中に迷い込んだように、自分の進むべき、正しい道を見失っていた。



「彩花さん、落ち着いて。

 今、 あなたの力は 、『破壊』と『救済』の境界にある 」


 エリカは、彩花の激しく震える肩に手を置き、真剣で、覚悟を促す眼差しで彼女を見つめた。


 彩花は、深く息を吸い込み、力の奔流を抑えるように目を閉じた。

 彼女の中で、破壊衝動としての闇と、蓮への愛としての光が激しくぶつかり合う。


 そして、一瞬の静寂の後、彼女は宿命を受け入れる決断を下した。


「私は、この力でみんなを守る。

 たとえ、それが 私の全て、私の存在そのもの を犠牲にすることになっても 」


 彩花の瞳から、闇を打ち払う強い光が溢れ出した。

 それは、希望の光であり、同時に、彼女自身の運命を大きく変える、 神聖な誓いの光でもあった。



 その時、極度の緊張に静まり返った事務所に、冷たい雨音を切り裂く、聞き慣れた、しかし以前より重みを増した足音が響いた。


「みんな、久しぶりだな」


 その力強い、低い声に、四人は驚きのあまり言葉を失い、硬直した。


 ゆっくりと扉が開き、そこに立っていたのは、まさかの 風見だった。


 彼の顔には、もうリハビリ中の弱々しい様子はなく、幾多の試練を乗り越えたような精悍さが戻っていた。

 鍛え上げられた身体は、クロノスと対峙する決意を示すかのように黒いスーツに包まれ、セバスチャンの想いを宿した鋭い眼光は、まるで獲物を狙う、覚悟を決めた獣のようだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ